37【底冷えするような後悔】
【底冷えするような後悔】
『跡野さん……助けて……』
「近藤さん! 今何処だ!?」
『京都駅……』
「そこで待ってろ!」
電話を繋いだまま走り出す。
京都駅はさっき行ったばかりだ。それに旅館からも近い。
全力で夜道を駆けながら、電話の向こう側に居る近藤さんに話し掛ける。
「近藤さん、今向かってる! 京都駅の何処に居るんだ!?」
『女子トイレ……』
「今駅に着いた! クソッ!」
京都駅に着いて構内図を見た途端に、俺は拳で構内図を叩いた。
京都駅は地下一階から地上三階まである。その広い構内の何処にあるトイレか分からない。
「近藤さん、何か目印になるものは無いか? 多過ぎて近藤さんの居るトイレが分からない」
『コンビニがあって……コインロッカーの前を通った……』
「コンビニ、コインロッカー……ここか!」
中に入って目的のトイレまで走る。走ってはいけないと理解しつつも、そんな事を言っていられる状況じゃない。
トイレの看板が見えて、俺は躊躇せず女子トイレに飛び込んだ。扉が閉まっている個室は一つしかない。俺はその個室の扉を激しくノックする。
「近藤さん!? 近藤さん!?」
個室の内鍵が開けられる音がして、俺はゆっくり扉を開ける。すると、蓋が閉じられた便座の上に腰掛ける近藤さんが居た。
ブレザーははだけてブラウスのボタンは中程まで開けられている。そして胸元のリボンは、近藤さんが自分の手で握っていた。
「近藤さん、なにがあった?」
「……電車で……触られた……」
「くそっ!」
個室の内壁を叩く。近藤さんは、電車で痴漢に遭ったのだ。黒髪で清楚系、香織と同じ痴漢に遭いやすい人物像だ。
「上も下も、下着の中に手が入って来て……」
「話すな! 思い出さなくていい!」
「気持ち悪い……私は……汚されたわ……汚い、嫌だ、気持ち悪い……」
「汚くない! 大丈夫だ!」
背中を擦ってそう言い聞かせると、近藤さんはワッと泣き出して俺の胸に顔を埋めた。
「跡野さんごめんなさい……せっかく、駿河さんと……」
「こんな時に気を遣うな!」
「ごめんなさい……」
「謝りもするな。近藤さんは悪くない! 悪いのは、近藤さんを傷付けたクソ野郎だ!」
近藤さんの背中を擦って、俺は近藤さんを立ち上がらせる。
両手で支える近藤さんの体は、ガタガタと酷く震えていた。
近藤さんを先生に預けて、部屋に戻って飯食って風呂は入った。でもどうやって部屋に戻って、どんな飯を食べたか、風呂で何の話をしたか全く覚えていない。気が付いたら、ロビーのソファに腰掛けていた。
「優一さん、ここに居たんだ」
「……香織」
香織が隣に座って俺の手を握る。
「女子は知ってるから大丈夫。一人じゃないよ」
「ごめん……」
手から伝わる温もりと、香織の優しい言葉で、涙を溜めていた関が崩れた。
「俺が気を付けるように言ってれば、こんな事にはならなかったんだ……」
俺が先生達に、いや、三代達に気を付けるように言っていれば、近藤さんはあんな目に遭わなくて済んだんだ。俺がもっと気を遣えていれば、近藤さんは辛い思いをしなくて済んだんだ。
「近藤さん、杏璃達とはぐれて一人で京都駅に向かう電車に乗ってる時、痴漢に遭ったみたい。だから、私達みたいに守ってくれる男子は居なかったよ」
「でも、俺が何か言ってれば、違ったかもしれない」
「確かに、聞いてたらみんな気を付けたかもしれない。でも、聞いてなかった知らなかった事は優一さんのせいじゃない。いくら優一さんでも他の班の女の子まで守れないよ。それに、それで優一さんが責任を感じたら、近藤さんがもっと辛くなる」
近藤さんは俺よりも責任感が強い。特に、自分に対する責任は相当だ。だから、多分香織の言う通りだろう。だけど、俺は痴漢に遭うかも知れないという可能性を感じていた。それを他の誰かに話していれば、みんなが気を付けたのは間違いないのだ。でも、俺は言わなかった。
「女の子を代表してお礼を言わせて。近藤さんを迎えに行ってくれてありがとう。それに、一人で我慢してくれてありがとう」
香織の優しい手が俺の背中を擦ってくれる。
「優一さんは男の先生じゃなくて女の先生に近藤さんを預けてくれた。それで、その先生以外の誰にも近藤さんが痴漢に遭った事は言ってない。男子の誰も知らないのは、そのおかげだよね? 痴漢に遭ったなんて噂が広まったら近藤さんが傷付くから、黙っててくれた。自分を責めるくらい追い込まれても言わなかった。ありがとう、優一さん」
「近藤さんは?」
「うん、やっぱりショックが大きいけど、少しは落ち着いたみたい。杏璃が言ってた」
「そうか……」
「優一さん……大丈夫?」
「ああ、大丈――」
「大丈夫じゃない。嘘吐いちゃダメ」
「大丈夫じゃない……近藤さんのあの姿を見たら、震えが止まらないんだ。近藤さんには悪いと思う。でも、俺は近藤さんを先生に預けた時、香織は痴漢に遭わなくて良かったって思ったんだ。痴漢されて傷付いてる女の子を見た後に……それが、そんな俺が……」
「女の子はみんな思ったよ。自分じゃなくて良かったって。それで、優一さんみたいに自分が嫌になった。女子全員が宴会場に集められて近藤さんの話を聞いた時、みんなホッとため息吐いて俯いたの。恥ずかしいけど、私もそうだった」
香織は俯く。そして、香織の体は小刻みに震えていた。
「知らない人に体を触られて、下着の中に手を入れるなんて想像しただけで気持ち悪い。普通の女の子はみんなそう。それに、彼氏が居る子はもっと嫌だよ。浮気してないのに、彼氏を裏切ったって思っちゃう。私だったら、もう二度と優一さんに顔を合わせられなくなっちゃうかもしれない」
香織がそんな目に遭っていたら、考えるだけで自分を責める。なんで、香織をちゃんと守ってやらなかったんだと。
「私は幸運だったの。こんな優しい彼氏に守ってもらったんだもん。優一さんは私をちゃんと守ってくれた。だから、そんなに自分を責めないで。ほら部屋に戻ろう。みんなでトランプしてるから」
香織に手を引かれ立ち上がると、目の前に三代と近藤さんが居た。
「近藤さんが跡野さんと香織に謝りたいって」
三代がそう言うと、近藤さんが香織に頭を下げた。
「駿河さん、ごめんなさい。せっかく跡野さんと楽しんでいたのに、私のせいで台無しにしてしまって」
「ううん、そんな事ないよ!」
「それに、駿河さんという彼女の居る跡野さんを頼ってしまった。本当にごめんなさい」
「気にしないで! 私の彼氏は頼りになる格好いい人だから。近藤さんが困った時に頼りたくなる気持ち分かるから」
「ありがとう、駿河さん」
今度は近藤さんが、香織の時よりも深々と俺に頭を下げる。
「跡野さん、ごめんなさい。私のせいで駿河さんとの時間を台無しにしてしまって」
「さっきも言ったけど、近藤さんは悪くない。今回の件に関して一切何にも謝る必要なんてない。近藤さんは被害者なんだ」
「いいえ、でも跡野さんや駿河さんに迷惑掛けた事は変わらないわ。少し落ち着いた今だから分かる」
「それでも、謝る必要はない。これ以上、今回の件を近藤さんに考えさせたくない」
俺がそう言い切ると、近藤さんが香織に笑い掛ける。
「駿河さん、貴女の彼氏は本当に素敵な人ね」
「うん、私の自慢の彼氏」
「跡野さん、跡野さんの言う通り今回の件はもうこれ以上考えないようにするわ。私自身、考えたくないから。これ以上二人の邪魔をしたくないから失礼する。本当に二人ともありがとう」
三代と近藤さんは奥に歩いて行き、俺は香織と繋いだ手を握る。
「今夜は優一さんと一緒に居たいな」
「俺だって香織と一緒に居たいよ」
「じゃあ――」
「でもダメだ。香織が大事だから、ちゃんと安心して寝れる場所で寝てほしい。男の居る部屋なんてもっての外だからな」
「うん、分かってる。優一さんと二人きりじゃないと、私もやだもん」
香織が歩き出して、階段下の薄暗いスペースに引っ張り込む。
「だからせめて、キスだけはいっぱいしよう?」
次の日、目が覚めると思っていた以上に眠れた。多分、寝る前に香織に話を聞いてもらったからだろう。でも、やっぱり……ぐっすりとはいかなかった。
まだ寝ている男子達の上を跨いで洗面所に向かう。
多分、寝る前に香織と会っていなかったら、俺は一睡も出来ていなかっただろう。それに、ずっと一人で抱え込んだままだった。
今日は修学旅行三日目。奈良観光と東京までの移動がある。
奈良観光は奈良公園というメジャースポット。その後に新幹線で東京に行くという事になる。まあ、東京に行くと言っても、そこから千葉までバスで移動するのだが。
「近藤さん、大丈夫かな……」
俺がこうやって考えていても、何一つ近藤さんに出来る事がないのは分かっている。でも、考えないというのは難しかった。
どんなに怖かっただろう、どんなに心細かっただろう。知らない土地で、一人きりで、そんな思いをしたのだ。香織の言う通り、近藤さんは別の班で、俺達と一緒に行動していなかった。だから、そんな近藤さんを俺が痴漢から守る事は出来なかった。でも、思うのだ。やっぱり痴漢に気を付けろと言っていれば、何か変わったんじゃ無いか、と……。
部屋を出て、すぐにあの中庭に行く。朝静かに居れる場所は多分あそこだ。
「ユーイチ、おはようございマス」
「あ、セリア」
そうだった。俺はこの中庭で昨日、セリアと会ったのだ。だからまたセリアが居るというのは考えられた事だった。
「ユーイチ、大好きデス!」
「セリア? いきなりどうしたんだ?」
「カオリにユーイチへアピールする事を許してもらいまシタ。だから、アピールデス!」
「そっか。でもごめんな、俺は香織の事が好きなんだ」
「オウ……残念デス……」
なんだろう、落ち込んでる所に告白されて断って、何一つポジティブな要素は無いのに少し心が軽くなった気がする。なんだろう、このセリアの無条件に人を温かく出来る雰囲気は。
「ユーイチ、局長さんの事は気にしてはダメデス」
「セリア……」
多分、香織から聞いたのかも知れない。俺が近藤さんの事で自分を責めていたと。
「ユーイチはとてもカッコイイデス! みんなが困ってるときには助けてくれマス! でも、ユーイチは一人しか居まセン。一人で同時に沢山の人を守る事は出来まセン」
セリアは優しく笑って俺の手を取る。
「痴漢から女子を守った男子はユーイチとタカミネだけデス」
「えっ!?」
「センセーのお話しを聞いた後、みんなで少しお話ししました。でも、その話で男子が女子を守ってくれたと言っていたのは、ワタシ達の班だけでシタ。それは少し寂しい事デス。でも、ワタシとカオリは嬉しかったデス。ワタシ達はとても幸運だったト。ワタシ達はとても良い男子と班になれたト」
握られた手から、セリアの手が震えているのが分かった。
「もし、ユーイチとタカミネと一緒ではなかったら、局長さんではなくワタシやカオリが痴漢に出遭っていたかもしれまセン。それは、とても怖いデス、嫌デス、気持ち悪いデス。ユーイチはこの修学旅行に参加している男子の中で、二人だけ女子を守ってくれた男子の一人デス。ワタシはユーイチに、その事に胸を張ってほしいデス」
もし、俺と高嶺が居なかったら、香織とセリアも被害に遭っていたかもしれない。怯えた顔でうずくまる香織とセリアの顔を想像しようとしただけで、拒否反応が出て思考が止まる。香織もセリアも、体を震わせて恐怖していた。そんな想像しただけでも恐ろしい目に二人を遭わせることがなかった。それは俺達の功績だと誇って良いのだろうか。現に近藤さんという被害者が出ているのに。
「ユーイチは優しいデス。とっても優しいデス。だから、ユーイチは悲しくなるのデスネ。悲しんでいる人の事を考えられる優しさを持っているカラ。ワタシは、そんなユーイチが大好きデス」
セリアが俺の頭をポンポンと叩いて、そしてクシャッと撫でた。
いつもは子どもっぽいセリアが、その時はとても大人っぽく見えた。でも、俺と同い年なんだから当たり前だ。
「ユーイチ、昨日はありがとうございまシタ。とても、とっても良い思い出が出来たデス。綺麗にライトアップされた竹林にトゲツキョウ。とても、とても、ワタシのダメな日本語では表現出来ない。ノー、英語でも、どれだけ言葉を使っても、あの嬉しさは表現出来ないデス。ワタシは、ユーイチの友達で良かったデス。そして、カオリが羨ましいデス!」
セリアは胸の前で両手を組んで瞳を閉じる。
「ライトアップされたトゲツキョウの上で、後ろから抱き締められて、綺麗なペンダントのサプライズプレゼント。とっても、とても羨ましいデス。ユーイチはロマンチスト、デスネ」
「かもしれないな。自分でもそうじゃないかって思うよ。思い付くことが全部くさいんだ。後から思い出したら恥ずかしくなって堪らないよ」
「その全てが、カオリのために用意されたものだとしても、ワタシもとっても嬉しかったデス」
「ん? 確かに昨日は香織の誕生日だったし、香織のためにペンダントも買って用意してたけど、俺はみんなであれを見たかったんだ。だから、自分のためだし、香織のためでもあったし、高嶺のためでもあった。もちろん、セリアのためでもあったんだけど?」
「…………ユーイチ、ペナルティーデス」
スッと顔を近付けたセリアが頬にチュッと軽いキスをする。そして、顔を離したセリアは真っ赤な顔でムッとした顔で睨む。
「ユーイチはwomanizerデス」
「え? うぉーま、なんだって?」
なんだか頬を膨らませて両腕を胸の前で組んでいたセリアは、ハッとした表情をして自分の唇に指で触れる。そして、心底申し訳なさそうな顔になり、アハハと笑った。
「やってしまったデス。カオリには内緒にしてくだサイ」
「じゃあ、さっきの英語はなんて言ったんだよ」
「それは秘密デス!」
「そうか、まあいっか」
さっきのセリアの英語を思い出そうとしても、あまりに流れるように発せられたせいで全く耳の中に残らなかった。そんな俺を見ていたセリアがクスクスと笑う。
「やっぱり、ユーイチは優しいデス」
旅館を出て、バスに乗り込んだ俺は、女子全員にニヤニヤとした顔で見られる。なんだか、とっても居心地が悪い。
「跡野さ~ん、香織とセリアから聞きましたよ~」
「何をだよ」
「嵐山の竹林と渡月橋の話」
「そうか、みんなで観光しただけだぞ」
「またまた~香織には誕生日プレゼントのサプライズもあったらしいじゃないですか。可愛いペンダントの」
全部話を知っているのに探るような聞き方。これは完全に俺をからかうという腹積もりだろう。だが、俺をからかうのはあの面倒な二ノ宮一人くらいで十分だ。
「香織には前々からプレゼントを渡そうとは思ってた。それに、セリアは初めての京都だったし、みんなで何か思い出に残るような所に行きたかった。だからライトアップされた竹林と渡月橋に行ったんだよ」
「もー、跡野さんって本当に香織の事好きですよねー」
「「「ねー」」」
ああ、めんどくさい。
俺は隣に座る香織にチラリと視線を向ける。香織は俺と目が合うとえへへっと笑い舌をペロッと出した。なんて可愛いんだ、これじゃあ何一つ責められないじゃないか。
「好きに決まってるだろ。香織は俺の彼女だぞ」
そう宣言しても女子達の質問は止まず、終始無難な受け答えをするしかなかった。
しばらくするとバスが広い駐車場の中で停車する。どうやら奈良公園に辿り着いたらしい。
「う~ん」
バスの外に出て伸びをして手を下ろすと、サッと香織が俺の手を握る。
「優一さん、奈良公園は鹿が居るんだよね?」
「鹿デスカ!?」
香織の言葉にセリアが目を輝かせて寄って来る。
「ああ、奈良公園には野生の鹿が居るんだ。まあ野生って言っても、ちゃんと保護されてるけど」
「何故、公園に鹿デスカ?」
「あ~、奈良公園の敷地の中に春日大社ってのがあって……。いや、この辺はガイドの人がちゃんと説明してくれるだろうから、その時に聞こうか。あまり先に言うのも面白くないし」
「そーデスネ! とっても楽しみデス!」
タタタっと駆けて行くセリアは、クラスの列の先頭へ消えていく。それを見送って歩き出すと、香織がギュッと俺の手を握る。
「優一さん、楽しもうね」
「ああ、奈良公園の鹿には苦い思い出があるからな」
「苦い思い出?」
「ああ、それも鹿に会った時に話すよ」
歩いて行く列に付いていくと、すぐに鹿が数頭見えてきた。そして、その奥で法被の様なものを着た男性がホルンを手に立っていた。そして、その男性がホルンを吹くと、その音に引き寄せられて鹿が沢山男性に寄って来る。
「凄い! 鹿がいっぱい!」
「鹿寄せって言うらしいな。でも、そんなに頻繁にやるものじゃないって聞いたけど」
「じゃあ、私達はラッキーだったんだね! あっ! 鹿せんべいが売ってる! あれ、鹿にあげてもいいんだよね?」
「ああ、でも買ったらすぐに隠しておけよ。じゃないと――」
「ノー! ダメデス! 鹿さん、落ち着いてくだサーイ!」
「ああなる」
俺が指差す先には、鹿に囲まれるセリアの姿があった。奈良公園の鹿は、鹿せんべいは自分達に人がくれるものだと理解している。そして、その鹿せんべいは鹿にとってはおやつみたいなもので、モタモタしていたら他の鹿達に食べられてしまう。だから、ああやって我先にと鹿せんべいを食べようと寄って来るのだ。
「ノー! 全部持って行ってはダメデス! アアッ……」
鹿せんべいは一束十枚で一五〇円。その一束をセリアは一頭の鹿に根こそぎ持って行かれた。中学の時に俺が遭った苦い思い出というのはあれだ。ちょっと油断した隙に、鹿に全ての鹿せんべいを持って行かれたのだ。だから、すぐに隠さないと盗られてしまう。セリアみたいに鹿せんべいを見せびらかして鹿の群れに突撃するなんて、それこそ盗ってくれと言っている様なものだ。
「すみません、鹿せんべいを三つください」
「はい、どうぞ」
鹿せんべいを販売しているおばあさんに代金を支払い、鹿せんべいを三束受け取る。
「ほら、香織」
「あ、ありがとう優一さん」
「もうここで止めてる紙を切って、一枚だけ片手に持っておいたほうが良いぞ」
「うん」
香織に鹿せんべいを渡して、セリアに近付く。セリアに群がっていた鹿は、既に別のターゲットに突撃している。
「セリア、大丈夫か?」
「オウ……ワイルド、デシタ……」
放心状態というか、若干涙目のセリアに手を貸して立ち上がらせ、鹿せんべいを差し出す。
「ほら、今度は全部盗られるなよ」
「オオ! ユーイチ、ありがとーございマス!」
鹿せんべいを受け取り、セリアは一枚だけ手に持って、近くに居た鹿に差し出す。鹿はセリアの手から鹿せんべいをムシャムシャと食べ始める。
「カワイイ、デス」
つぶらな瞳でセリアを見返す鹿に、セリアは再び鹿せんべいを差し出す。そして、その鹿せんべいをまた美味しそうにムシャムシャと食べ始める。そんな無邪気な鹿に、セリアはほっこりと微笑んでいた。
「ゆ、優一さん、助けて~」
「あ、香織!」
群れてはいないものの、三頭の鹿に囲まれた香織が両手を持ち上げて、身をくねらせ鹿を避けている。そのうちの一頭が香織のスカートの中に頭を突っ込もうとしている。
「おい、鹿。俺でも出来ない羨ましいことさせてたまるか!」
香織の手を引っ張り鹿の輪から助け出すと、すかさず鹿せんべいを差し出す。鹿達は三頭で取り合いするように頭をぶつけ始める。
「喧嘩はダメデスヨ! カオリはそっちの子に上げてくだサイ。ワタシはこっちの子に上げるデス!」
「うん」
セリアが一頭に鹿せんべいを上げ、香織は残ったもう一頭に鹿せんべいを与える。
「優一さん」
「ん?」
「この子が私のスカートを捲ろうとしたとき、羨ましいって言ってた?」
「いや、言ってないぞ」
「言ってたでしょ?」
「言っておりません」
「絶対言ってた」
「空耳じゃ無いのか?」
「優一さんならいいよ?」
「えっ!?」
思わず聞き返すと、香織はクスクスと笑う。香織め、男の純情を弄んだな。
「でも、二人きりの時にしようね」
多分俺をからかったんだろうが、顔が真っ赤だからなんだか自分もそれなりにダメージを受けているようだ。それにしても香織が無事で良かった。たとえ鹿だとしても、何処の馬の骨ともしれない男……鹿の骨ともしれない雄に香織の下着を見られるなんて許せるわけが無い。俺だって滅多に見れないのに。
鹿との交流を終えた俺達は、ガイドの人の案内に従って敷地内の見物を始める。
「オオ! 大きな門デス!」
「あれは南大門だな。日本最大の山門……まあ、神社の正門だ。両脇には金剛力士像がある」
「おお、あれが大仏様デスカ?」
近付いて見えてきた金剛力士像を指差してセリアが首を傾げる。
「いや、あれは大仏じゃないぞ。あれは正門を守る門番みたいなものだ」
「オオ! Guards Divisionデスネ!」
「セリア、すまん。日本語で頼む」
「オウ、申し訳ないデス。日本語では近衛師団と言いマスネ」
「まあ、王様を守るって意味では同じだから合ってるな」
南大門を抜けてしばらく歩くと、広くて長い石畳のを進んだ先に、ドンと佇む建物が見えた。
東大寺の大仏殿。奈良の大仏として知られる東大寺盧舎那仏像がある場所だ。かなり遠くからなのに、既にその大きさがかなり巨大なのが分かる。それも、中に収められている大仏を囲う必要があるのだから、納得せざるを得ないスケールだ。
大仏殿に近付き中に入ると、セリアはガチガチに固まって大仏を見上げた。
「ユーイチ、少し怖いデス……」
「セリアさん、大丈夫?」
香織がセリアの肩を抱き顔を覗き込む。セリアは本当に感受性が鋭い人間なんだと思う。
「この大仏を作ろうって言ったのが、聖武天皇だ。その聖武天皇が大仏を作ろうとしたきっかけは、流行病で次々に身内が死んだり、作物の不作が続いたり、そして大地震が起きたりした。それで、そんな不幸を押し退けるために大仏を作って自分達も徳を、恵みを得ようとしたのがきっかけだ。だから、奈良の大仏は聖武天皇の恐怖によって作られたものだって言う人も居る。それを考えると、大仏を見て怖いって思う反応は、あながち間違いではない反応だな」
俺は、その大仏を見上げながら、頭の中で思う。
俺も、きっとこれを作った聖武天皇と同じかもしれない。本当に、恵みに頼りたくなる。自分が無力過ぎてそれしか思い付かない。必死に考えても解決策が見付からない、どうにも出来ない恐怖。後ろにも退けない先だって真っ暗な道、その道をたった一人歩かされているような。そんな気分だ。
「私が居るよ」
「えっ?」
突然、隣に居る香織がそう言った。俺ではなく、大仏の顔を見上げて。
「一人じゃ無いよ。私が居る、私が側に居るから。一緒に考えて一緒に悩んで一緒に一歩ずつ進んでいこう」
香織と目が合う。言葉が出ない。あれ? 俺、口に出してたのか?
「俺、何も言ってないよな?」
大分間が空いてやっと出たその言葉を聞いて、香織はニッコリと笑う。
「何も言ってないよ。でもね、私が感じたの。優一さんはきっとこう思ってるんだろうなって」
香織は手を強く握り返す。
「少しは、私も優一さんの彼女らしくなれたかな?」
ふわっと包み込まれるような温かさを感じる。凄く穏やかな気分だ。
目を開けると、俺は新幹線の座席の上で寝ていたようだ。
奈良公園を出てからバスに乗って大阪に戻り、それから新幹線で東京に向かったところまでは覚えている。そこから気が付いたら今になっていた。
「優一さん、おはよう」
「あ、あれ? 香織?」
俺の隣はクラスメイトの男子だったはずだ。いつの間に入れ替わったんだろう。
「優一さん眠そうだったから、隣に居たいなーって思って」
香織がニコニコしながら俺の頭を撫でる。なんだか撫で方が優しい。
「ごめん、もしかして、寝てる間も?」
自分が香織の肩にもたれ掛かっている事に気付いて、慌てて体を起こす。そして、香織から離れた事を少し後悔した
「うん、なんだか可愛くって、つい」
「ついって、周りに人が居るけど?」
「大丈夫だよ。みんな私達が付き合ってるって知ってるし」
「そりゃそうだけど」
周囲がうちの高校の奴等だけだとしても、年下の彼女と添い寝して頭を撫でられる、という光景を見られていたのは恥ずかしい。
でも、嬉しい。温かくて穏やかな気持ちで眠れたのは香織が居たからだろう。昨日はあまりぐっすり眠れなかった。それはやっぱり色々と考える事が多かったからだったのは間違いない。だけど、香織に撫でられて寝ている間は悪い夢を見ることも無く眠る事が出来た。
「ありがとう香織」
「ううん、私は優一さんの寝顔が見られたし」
まだ完全に起きていない体を動かして、クラスメイトの流れに乗って駅から出る。ここからは東京都内をバスで移動して、最後の目的地である千葉に向かう。
千葉には、巨大なテーマパークがある。そのテーマパークは、ファンシーワールドという、世界的に人気のキャラクターが生活する世界を再現している。そのキャラクター達の生活する世界は、ファンタジーの世界で定番の魔法やドラゴン、それに中世ヨーロッパという感じの街並みがある。俺も聖雪がそのキャラクターが好きで、そのキャラクターのアニメを見たことがあるが、なんだか男よりも女の子が好きそうな世界だと思った。
世界を冒険する可愛らしい女の子が、旅の途中で沢山の仲間が出来、そしてやがて平和で豊かな国を治める王子様と出会って恋に落ちる。そんな世界だった。
「香織は、ファンタジーの世界とか憧れるのか?」
「あ、ファンシーワールドの話?」
「ああ、まあそうだな」
「憧れるよ。魔法は使ってみたいし、ファンシーワールドみたいにドキドキワクワクする冒険もしてみたい。それに綺麗なドレスを着て王子様と舞踏会って素敵だと思うし」
やっぱり女の子は憧れを持つみたいだ。
男の俺は、ファンシーワールドを馬鹿にしているとか、嫌いなんてわけじゃない。でも、やっぱり聖雪や香織みたいに憧れは感じない。
「優一さんは男の子だからあまり好きじゃないかもしれないね」
「いや、嫌いじゃないぞ。でも、聖雪は修学旅行前にどのアトラクションには絶対乗るとか、どのグッズは絶対に手に入れたい。そんな感じで凄くテンションが上がってたからさ。そういうのを客観的に見てたから、ちょっと冷静になり過ぎてるのかもしれないけど」
「ファンシーワールドに居る時だけは、現実から離れて空想の世界に、ファンシーワールドの中に入ってるって感じになるんだって。そう思えるように、園内も細かいところまでこだわって装飾されてるって聞くし。それにやっぱり、友達や彼氏と一緒だと、はしゃいじゃうのは仕方ないよ」
香織は両手を体の前に組んで、チラッと視線を向ける。少し頬が赤い。
なるほど、ファンシーワールドは現実を忘れられる場所で、その現実離れした世界に仲の良い友達や好きな恋人と一緒に居られるという事が、みんなを楽しみだという気持ちにさせるのか。
「なんだか、香織と一緒だと思ったら楽しみになってきた」
そもそも、香織と居ればどんな所だって面白いのだ。毎日生活している俺の部屋に居たって面白い。何度も歩いた街の大通りも面白い。だったら、今まで一度も行ったことがない場所なら面白くないわけがない。
初めて見る物を見て、笑ったり驚いたりする香織が見れるんだ。そう考えると、なんだかファンシーワールドへ行く事にテンションが上がっていた聖雪の気持ちも分かる気がする。
「私はずーっと、優一さんとファンシーワールドを歩くの楽しみだったんだけど」
「いや、俺だって香織と行くのは凄く楽しみだったぞ。でも、ファンシーワールドってなんだかキラキラしてるし、明らかに女の子向けだからさ。なんて言えばいいのかな、居づらいというかなんというか」
「確かに、元々大好きじゃなかったら、困っちゃうかもね」
香織が突然ププッと笑った。
「なんでいきなり笑ったんだよ」
「優一さんがファンシーワールドの真ん中で困ってる姿を想像したら、可愛いなって」
「いや、一人で放り出されたら絶対困るだろうな」
どこに行って良いのかも分からないし、まずそもそもの振る舞い方も分からない。ハイテンションではしゃぎまくるのもどうかと思うし、かといってファンシーワールドに来てまで斜に構えて「いや、俺はそこまでファンシーワールドに興味ないんで」みたいな態度を取るのも違う気がする。いや、絶対にそれは違う。
「大丈夫、ずっと私が一緒に居るから。それで、優一さんが困らないように、私がいっぱい優一さんを連れ回すの」
はにかんだ香織は、薄暗くなった空を見上げてポソリと呟く。
「楽しみだな~」
テーマパークのファンシーワールド周辺には、ファンシーワールド目的の観光客のために沢山のホテルが建っている。そして、そのホテルの多くがファンシーワールドのイメージに合わせて中世ヨーロッパのお城風の外観だったり、ヨーロッパ風の外観をイメージしたりして造られている。俺達も、そんなホテルの一つに今夜は泊まることになった。
ロイヤル調と言えばいいのだろうか。白を基調として金色の細かな装飾。それを基本としたドアや壁や床、天井。正にヨーロッパの王室という言葉が連想される内装。ソファーも実際はそこまで高価じゃないのかもしれないが、豪華そうに見えるように装飾されている。
このホテルでは、最大でもツインの部屋しかないので必然的に二人部屋になる。そして、俺の相方は部屋に来て早々に「ちょっと部活仲間の部屋に行ってきます! 今日は向こうで寝るので!」と出て行ってしまった。いや、ツインの部屋でどうやって複数人で寝るんだよ……。
部屋はそこまで広くはない。まあ、修学旅行で泊まるような部屋だから、そんなスイートルームの様な無駄に豪華で無駄に広い部屋なわけがない。
ベットは二つあり、その間にはこれもロイヤル調のサイドスタンドが置かれ、その上にはスタンドライトが置かれている。
窓の外に近付くと綺麗な夜景が見える。といっても、光りが沢山見えて綺麗というわけではなく、点々とした光りの落ち着いた夜景だ。
「もうそろそろ寝ないと、でも寝れないな……」
昼間、香織の隣でぐっすり眠ったせいで目が冴えている。それにホテルの外で、香織と一日一回ずつのキスをした事も、目が冴えている理由だ。
「ちょっとホテルの中、歩くか」
カードキーを持って部屋の外に出ると、ホテルの廊下は眩しいと思うくらい明るかった。
綺麗な模様の入った、フカフカの絨毯の上を歩き、とりあえず下へ下りるためにエレベーターのパネルを操作する。明日ファンシーワールドに行くのだから、もう大抵の人は寝ているだろう。いや、修学旅行のテンションで夜更かししてる人も少なからず居るかも知れない。
到着したエレベーターに乗って一階のロビーまで下りる。ロビーにはラウンジスペースがあり、その近くにはコンビニや自動販売機がある。そこで少し気晴らしをするのもいいかもしれない。
「ん? あれは……」
ロビーをラウンジスペースの方向へ進んでいると、ちょうどラウンジスペースに置かれたソファーに座る女子の姿が見えた。しかし、その女子の顔には見覚えが……というか、見間違える顔ではなかった。
「マジ? 俺達の部屋来なよ。だって、朝までここに居るんでしょ? 風邪引くって」
「そーそー、それに変な男に絡まれるかもしれないし」
女の子を両脇から挟んでそう言う名前も知らぬ男子。どっからどう見てもお前らが、その変な男にしか見えない。
「聖雪、こんな時間になにしてるんだ?」
「げっ!」「おわっ!」
この状況で実兄が登場するなんて予想もしていなかった男子二人は、露骨に驚いて俺を見上げる。
「お、お兄ちゃん!」
聖雪は俺の顔を見て立ち上がり、男子二人の間から抜け出してくる。上着こんな時期に上着も羽織っていないジャージの長ズボンにTシャツ一枚の格好。無防備にも程がある。無防備どころかアホのやることだ。
「あ、兄貴が来たらな大丈夫だよな」
「そ、そうだな。じゃあ、俺達はもう寝るわ」
そそくさと立ち去っていく男子二名を見送り、俺は両腕を組んで聖雪に視線を向けた。
「聖雪、お前、自分が女だって自覚あるのか?」
「あるよ! あるに決まってるじゃん!」
「じゃあ、なんでそんな格好で、こんな時間に、こんな所に女一人で居るんだよ」
「……部屋にカードキー忘れたまま出ちゃって」
聖雪がシュンとしてボソッと言った言葉に頭を抱える。全く、いつもはそこそこしっかりしているはずなのに、なんでこんな時に限ってそんなドジを踏むのか。
「スマホも部屋の中だし、フロントの人に言いに行こうとしたんだけど……その……」
「ったく……」
まあ、恥ずかしいという事以外にも、もしそんな事が聖雪のクラス担任の耳に入ったらマズイからだろう。聖雪のクラス担任は女子に厳しい女の先生として有名だ。制服の着こなしから日頃の行動まで、恐ろしいくらい厳しい。俺も金切り声で説教をするその先生の姿を何度も見たことがある。あの先生なら、ファンシーワールド見学禁止くらい平気でやりそうだ。
「で、どうするつもりだったんだ?」
「朝までここに居ようかなって」
「そんな事してると、さっきの奴らみたいな輩に絡まれるに決まってるだろ。自分の身と一時の楽しみを――」
そこまで言いかけて、俺は聖雪がどれだけファンシーワールドに行くのを楽しみにしていたかを思い出した。何日も前から下調べをして、事ある事に俺へファンシーワールドの話をして……。
「聖雪、俺の部屋に来いよ。相部屋の奴は部活仲間の所に行ってて俺しか居ない。さっきの奴らの所は論外だし、兄妹だから一晩くらい匿ってやるよ」
「いいの? その……香織ちゃんは?」
「香織? 香織なら今頃セリアと一緒に夢の中だろうな」
「じゃあ、お邪魔します……」
「とりあえず喉渇いただろ。俺も飲み物を買うから聖雪もついてこい」
「うん」
聖雪を連れてコンビニに入り飲み物を買う。聖雪は温かいココアにして、俺は冷たいお茶にした。
飲み物を買い終えるとエレベーターで自分の部屋に戻り、しっかり鍵が閉まっている事を確認してベッドにドサリと腰を下ろす。そして、お茶の入ったペットボトルの蓋を開けて一口お茶を飲む。
「お兄ちゃん、ありがと」
「どういたしまして。とりあえず座れよ」
「うん」
向かい側のベットに腰掛け、開けた缶ココアに口を付ける聖雪を見て、もう一口お茶を飲む。
「お兄ちゃん……大丈夫?」
「ん?」
「その、生徒会長の痴漢の事で悩んでるって聞いたから」
「まあ、完全に割り切れたってわけじゃないけど、少しは整理がついたかな」
「そっか。そういえば、お兄ちゃん、セリアさんにも告白されたんだね」
「断ったけどな」
あれだけ大々的に言われたのだから広まらないわけがない。
「香織ちゃんも、二ノ宮先輩もセリアさんも、それからあの書記の一年生も、なんでこんなのが好きなんだろ?」
部屋に入ることが出来なくなって困っていた所を、心優しく助けてやった兄貴に向かってこの言い草である。こんなのとはなんだ、こんなのとは。
「基本的に鈍感だし、すぐ落ち込むし、それに何でもかんでも自分だけで解決しようとするし、朝起きるの遅いし、意地悪だし」
「まあ、否定するつもりはない」
「お兄ちゃん……」
「ん?」
突然俯いた聖雪に、俺はそう聞き返す。
「本当によかった。お兄ちゃんが戻ってきてくれて」
聖雪が俺の事故のことを言っているのは分かっている。俺が気を失っていた十ヶ月間、俺は沢山の人に心配と迷惑を掛けた。妹の聖雪には相当心配させてしまった。
「お兄ちゃんが居ない間大変だったんだから。お母さんは凄く落ち込んでお父さんはお母さんが心配でお母さんに掛かりっぱなしだったし、香織ちゃんは責任感じて全然話せなくなっちゃうし。お見舞いに来てくれても、ずーっとお兄ちゃんの枕元でお兄ちゃんに謝ってた」
「そうか」
俺が気を失っている間の事は、俺は分からないし、俺は何も出来なかった。俺がすぐに目を覚まして香織を安心させてやれれば良かった。でも、俺にはそれが出来なかった。
「でもね、香織ちゃん凄く幸せだから、お兄ちゃんは何もしなくて良いと思うよ。しいて言うなら、ずっと香織ちゃんを好きで居て。それに、あんな可愛くて良い子が、お兄ちゃんの事を好きになってくれる事なんて二度とないんだし」
きっぱりとそう言い切る聖雪。確かに、香織みたいな見た目も可愛いし性格も優しい女の子が俺の事を好きになってくれる事は二度と無いだろう。でもだからというわけじゃなくて、香織を好きじゃなくなる、嫌いになるという未来が想像出来ない。
俺はどう転んでも香織の事が好きなんだ。だから、香織の後とか香織の次なんて考えられない。
「俺には香織以外居ないよ」
「それ聞いて安心した」
聖雪はベッドに寝転がってうつ伏せになり、足をバタバタと動かしたと思ったら、パタンと動きを止めた。それがもう寝るという事だと判断して、俺は部屋の明かりを消してベッドに寝転がる。少し聖雪と話したおかげか、適度な疲れで目蓋が少しずつ閉じていく。
ドスン。意識が落ちる寸前、ベッドがそう音を立てた後に軋む。
「勘違いしないでね。別にお兄ちゃんの事を恋愛対象に見てるわけじゃないから」
「はいはい、小学生に精神だけ戻ったのか?」
聖雪がベッドに入って来て、後ろから俺に抱き付く。聖雪が小学生の頃は、よく夜中に俺のベッドに入って来て「怖いから一緒に寝よー」とか「寂しいから一緒に寝よー」とか何とか言っていた。
「今度は何だ? 怪獣でも出てくるのか?」
「お兄ちゃんが居なくなっちゃわないように、掴んどく……」
聖雪の声が、体が、小さく震えていた。
「おかえりって、おはようって、もう言えなくなるなんて嫌だから。だから、ずっとお兄ちゃんの事を掴んでる。香織ちゃんだけじゃ掴めない時もあるから、その時は私が掴む」
「もう、大丈夫だ」
「ダメ、そういう所は信用出来ない」
「酷いな」
「それなりの事したんだから、我慢しなさい」
「へーへー、すみませんでしたねー」
聖雪、ごめんな。本当に心配させてしまったんだな。俺のせいで、悲しい思いをさせてすまなかった。ごめん。
そんな事を素直に言えれば良かった。でも、聖雪に改めてそういう事を言うのは、なんだか躊躇ってしまった。
「聖雪」
「何?」
「ありがとう」
俺にはそれしか言えなかったけど、多分きっと、聖雪には伝わったんじゃないかと思う。根拠はない。だけどなんとなくそう思うのだ。
多分、それは『兄妹だから』という言葉で、片付けても許されると思う。




