30【天姿国色国色天香花顔柳腰】
【天姿国色国色天香花顔柳腰】
「はぁ……」
「優一。あんた今、彼女に対して物凄く失礼な事してるって自覚ある?」
「えっ?」
「彼女との初デートの初っ端から、ため息吐くバカが何処に居んのよアホ」
「バカかアホかどっちかにしてくれ」
昨日、二ノ宮に言われたとおり、付き合っている振りをしている俺達は、初デートの振り、をしている。いや、もうこの振りはする必要があるのかもよく分からない。
「文化祭が終わっても、香織からは何もない」
「もしかしたら優一の事諦めたのかもね」
「えっ……」
「はーい、すぐにそういうの鵜呑みにしちゃうから、香織と揉めるのよ」
「うっ……すまん」
「私に謝ってどうすんのよ。でも、それは優一の性分だから仕方がないわ。今回はそれを許容出来ない心の狭さと、自分から素直に慣れない子供っぽさがあった香織が悪い」
「でも、本当に俺の事を諦めてたら……」
「その時は、私が責任とってあげるわ」
「そんな男らしさは要らん」
「ヒドッ!」
二ノ宮は俺の腕を抱いて手を繋ぐ曲その手は、指を組んでガッチリ握られた。
「何処かの不器用二人組の為に、学校で略奪愛した酷い三年を演じてる私に、少しはご褒美があっても良いとは思わない?」
「だけど、香織は……」
「はいはい、彼女とデートしてる時に他の女の名前を出さない」
そこで話を切られて、俺は二ノ宮に腕を惹かれて、街に引っ張り出された。
今日の予定は軽く買い物をして、それからカラオケに行くらしい。いや、昨日全校生徒の前で歌ったばかりなんだけど……。
「おっ! ちょっと冷やかしにここ入るわよ」
「冷やかしって、おい!」
二ノ宮が笑いながら入ったのは、メガネ屋。もちろん、俺も二ノ宮もメガネは掛けていない。
「おしゃれなメガネいっぱいあるわね」
「目が悪くないのにメガネ屋に入ってどうする気だよ」
「えー、優一知らないの? メガネはおしゃれでも掛けるのよ。伊達メガネってやつ」
適当にメガネのフレームを手に取って、二ノ宮はピンク色のメガネを掛けて鏡を見る。そして、俺にその顔を向けてニヤリと笑った。
「どーよ」
「あれ? 意外と似合うな」
「何よ意外とって」
不機嫌そうな顔になったが、ピンク色のメガネは可愛らしさがあり、ムカつくほど顔が整っている二ノ宮によく似合っていた。
俺は女性物のフレームの中で黒フレームのメガネを手に取る。これ、絶対に香織が掛けたら似合うな。
「ほれ、優一はこれ掛けてみ」
「なんだよ、俺はメガネは似合わないって」
「いいからいいから」
半ば無理矢理メガネを掛けさせられ、耳とこめかみに違和感を抱きながら、目の前の二ノ宮を見詰める。二ノ宮はメガネを掛けた俺をボーッと見詰め、何も言おうとしない。
「おい、掛けさせておいて無反応はヒドイだろ」
「ちょっ、優一そのまま!」
二ノ宮は少し慌てながら鞄を漁り、スマートフォンを取り出してから俺の腕を引っ張る。
「おい、何すんだよ」
「ハイ、チーズ!」
二ノ宮は俺の頬にピッタリと自分の頬を付けて顔を寄せ、手に持っていたスマートフォンで写真を撮った。
「あっ! こら!」
「やり!」
サッとスマートフォンを仕舞う二ノ宮はニヤニヤと笑う。
「後で送ってあげようか?」
「要らん」
「えー、せっかくのツーショットなのにー。じゃあ、これは私の宝物にしてやろう!」
「なんで上からなんだよ」
二ノ宮から離れ、掛けさせられたメガネを元の場所に置きに行きに行く。メガネを置いて振り返り、二ノ宮の方を見ると、スマートフォンの画面を見詰めてニヤニヤする二ノ宮が居た。
「何見てニヤニヤしてんだよ」
「バカッ! 見るな変態!」
「なっ! 変態はないだろ」
「さて、気を取り直して次行くわよー」
「俺が気を取り直すのを待てよ」
手を引かれながら、街へ戻る。
今日は平日なのに人通りが多い。カップルの姿もそこそこ見える。
「文化祭の打ち上げでさ。クラスの子に、二ノ宮って男見る目あるわ。跡野があんなにカッコいいなんて知らなかった。なんて言われて嬉しかった」
「文化祭のノリでちょっと興奮してたから、文化祭補正でよく見えたってだけだろ?」
「いや、それでもさ。自分が好きになった男が褒められるって嬉しいのよ。まあ、競争相手が増えるのは困るけどね」
「そんな事言ったら、二ノ――」
「江・梨・子!」
「……そ、そんな事を言ったら江梨子もファンが増えたんじゃないか? メイド服似合ってたし」
「見えそうだったでしょ?」
「なんで加藤の男と同じ感想なんだよ」
「いや、だってみんな裾ばっかり見てたし」
「俺はちゃんと全体を見てただろ」
「えっ? 全身を舐めるように?」
「見てねーよ!」
二ノ宮のメイド服姿は文句の付けようがない程、完璧だった。確かに”いつもの二ノ宮を知らなければ”あの姿かつ猫なで声で甘えられたりしたら、財布の紐がゆるくなるかもしれない。
あのメイド服をもし香織が着ていたら……。ヤバイ、想像しただけで理性が飛びそうだ。
「さて次は服ね」
「服か」
「安心して、下着じゃないから」
「おお、それは安心だ」
「あーでも、優一に下着を選んでもらうのもいいかも」
「良くないわ!」
二ノ宮は読み方のよく分からない名前の店に入り、陳列されている服を楽しそうに見て行く。
女物の服屋に入った事なんて、香織とのデートくらいだ。しかし、何度来ても気の置き場が見付からない。
香織はあまり露出の多い服は好まないし、スカートもスースーするのが恥ずかしくてあまり穿かないと言っていた。でも、俺と一緒に出掛ける時は「優一さんとのせっかくのデートだし。優一さん、スカート穿いてると嬉しいって言ってたから」そう言って、絶対にスカートを穿いてきてくれた。
「優一ってスカート好きなの?」
「えっ?」
「だって、ジーッと見てるから。……ムッツリ」
「なんだよ、最後のムッツリってのは」
「えっ? エロい事を考えてるのに隠してる奴の事だけど?」
「意味を聞いてるわけじゃねーよ」
俺が見ていたスカートを手に取り、じっくりと見定めた後に、二ノ宮はラックにそっと戻した。
「私の趣味じゃないわねー」
「二ノ宮はこっちじゃないか?」
「おっ! フレアのミニねー。悪くない悪くない」
俺が指差したスカートを見て、今度はニッコリ笑った二ノ宮がウンウンと頷く。
「ミニをチョイスするあたり、やっぱエロいわね」
「ちげーよ。単純に二ノ宮は足が細くて綺麗だから、その足が見えるほうが可愛いとと思ったからだ」
「そっか、優一ありがとね」
「なんだよ急に」
急にお礼を言った二ノ宮を警戒していると、俺の手を握って自分に引き寄せる。
「いきなりどうした?」
「………………」
「お、おい、何かあったのか?」
「ううん、じゃあ次行こう!」
一瞬暗い表情で黙っていた二ノ宮は、明るい表情になってまた俺の手を引く。
次に連れて来られたのはカラオケ。
俺は日頃カラオケなんて滅多に行かないから、来るのは久しぶりだ。
香織も歌が苦手だったから、自然と二人で行くところの選択肢にカラオケはなかった。
「優一にラブソングいっぱい歌ってもらお!」
「いや、俺そんなに沢山、歌なんて知らないぞ」
「いいのいいの、どうせ一緒に歌うんだし」
そう言って、二ノ宮はお構いなしに曲を入れていく。
二ノ宮はカラオケによく来るのか、歌が上手かった。しかも音程をカラオケの機能で自分の歌いやすい高さに合わせていて、そんな事が出来るなんて知らなかった俺は驚いて二ノ宮の事を見ていた。
「優一……」
「どうした?」
しばらくなんやかんや歌わされ、二ノ宮も沢山歌って疲れたのか、歌の予約を止めて二ノ宮が俯いた。
「あのさ……」
「なんだよ」
「チューしたい」
「はあ?」
「ダメ?」
「言っておくが、俺はダメだとしか言わないぞ。この前のは完全に不意打ちだったからしたけど――」
不意打ちでキスされた。しかも、ソファーの上に押し倒され、見動きが取れない。
経験が豊富だからか、舌を絡めるキスに、異様ないやらしさと色気がある。口の隙間から舌が絡む音が響き、体全体の熱が上がる。
「プハッ! ヤバイ……」
「二ノ宮! いい加減に――」
「ごめん、マジで理性飛びそうだった」
俺から体を離した二ノ宮は、フッと息を吐いて自分の唇に指で触れる。俺はソファーの上から体を起こして二ノ宮に視線を向けた。
「二ノ宮、付き合っている振りだろ?」
「そうよ。でも仕方ないじゃない。好きな人と付き合っている振りしてて、理性飛ばない方がおかしいし」
「言わんとすることは分かるが、色んな意味で認めづらいんだが……」
二ノ宮は俺の手を握ったままソファーに座って、真正面に顔を向けたまま、口を開いた。
「中学の頃、私、いじめられてたの」
俺は、話し始めた二ノ宮の言葉を遮らず、二ノ宮と同じ正面を見る。目の前には薄暗い壁しかなかった。
「中学一年の頃からかな。急に周りの男子が、私に告白してくる機会が増えたの。それこそ、学校で人気のあるイケメンも、そうじゃない奴らも」
俺が二ノ宮と出会ったのは高校に入ってからだ。だから二ノ宮の中学時代の話は知らない。でもいじめられていたという話は意外だった。
「いじめられてたなんて意外って顔してるわね。優一も討論会で言ってたけど、本当に些細な事よ。私が、妙に男からモテた事。ただそれだけ」
同性からの嫉妬、というやつだろう。
「いじめられてイラってしてた時に、私をいじめてる奴の好きな男が告白してきてさ。別に好きでもなかったけど、付き合った。そんで、適当に付き合って飽きたら振って。そんな事を繰り返してたら、いつの間にか男はみんな私に色目使ってて、女子は私に嫌われたら男に嫌われるって思ったのか、いじめられなくなった」
いじめが無くなったという話なのに、二ノ宮の表情は暗くなる。
「でも……気が付いたら私、独りぼっちだったの」
握る二ノ宮の手が震える。
「学校で話す人は居る。でもみんな、私に嫌われたくない男や私の事を怖がってる女子ばかりで、友達なんて一人も居なかった。だから、私はせめて男だけでも途切れさせないように。私を好きで居てくれる人くらいはって思った。でも……結局みんなヤりたいだけだったのよ。二ノ宮江梨子とじゃなくて、学校で人気の可愛い女子と」
二ノ宮の悲しさが、寂しさが伝わってきた。
それはもう、露骨な暴言暴力のある動的ないじめではなく。無視に近い静的ないじめだ。
その時、二ノ宮の周りに居た奴らは、二ノ宮江梨子という人間との間に一線を引いていた。そして、自分の損得に関わる時だけにしか、その線を越えようとはしなかった。でも、線を越えたと言っても、防護服に身を包み顔を隠して、信頼なんて皆無の態度で。
「だからさ、この前の討論会でいじめについてって聞いた時、正直震えが止まらなかったわ。あの時の事を思い出したから」
「でも、今はそんな事無いだろ?」
「ええ、全部、優一のおかげよ」
「俺は何もしてな――」
「優一には悪いけど、私に初めて出来た友達、優一だと勝手に思ってるから。優一がそう思ってなかったとしても、私はずっと勝手にそう思ってる」
二ノ宮はニッコリ笑って天井を見上げた。
「思い出すわ。男に頼まれたし、男にチヤホヤされるって思って行ったサッカー部で、私に仕事を教える男子が、私の顔見て色めかなかったのよ。それどころか、マネージャー辞めろなんて言い出すし」
「誰だよ、その酷い男子は」
「優一だ、バカ」
二ノ宮はクスクスと笑う。
「私見て全然色めかなかったのは本当にムカついたわ。こちとら色んな男がヤりたいって思う女なのよ? それなのにあんたって私に仕事を教える時も、絶対にご機嫌取りのために甘やかしたりしなかった。下手に手伝わずに、ミスしたら全力でフォローしてくれた。本当にヤバイミスして頭真っ白になって気が付いたら、ミスがチャラになってて、いつの間にか優一が全部の責任持ってってた」
正直言うと、二ノ宮が入って来た時に、可愛い子が入って来たと思わなかったかと言うと、そんな事はない。素直に可愛い子が来たなー。と、思った。でも、それ以上に、続くかなとも思った。
その時のキャプテンと付き合ってるのは部員の噂で聞いていたし、その時のサッカー部の現状を考えると、二ノ宮が続けるのは厳しいと思ったし、続けさせるべきじゃないとも思った。それほど、あの時のマネージャーの環境は良くなかった。
でも、二ノ宮が入った事で部員の態度は少し軟化して、二ノ宮が居る分、俺へのあたりも弱くなった。だから、今思えば、二ノ宮がサッカー部に来てくれた事は、良かったことだと思う。
「私さ、恥ずかしい話だけど、中学からずっと自分から人に話しかけた事なかったのよ。いじられてた事もあるし、男も女も私に擦り寄って来てる時は、鬱陶しいくらい周りから話し掛けてきたから。だから、私は挨拶すら自分からしたことなかったの。そんな私がさ、勇気振り絞って初めて挨拶したのが優一、あんたよ」
「えっ? 俺?」
「そうよ。めちゃくちゃ緊張した。その日の朝は鏡に何度も練習した。男が喜ぶ声と笑顔を作った、おはよう。これならイケると思った。それで、部活の時間になって優一の姿見た途端、どうしてかな? 何度も練習した顔も声も出なくて、無愛想な よっ、て挨拶しか出来なかった。でもさ、優一はその挨拶に、マネージャーの仕事で目を回しながら、二ノ宮おはようって言ってくれたの」
二ノ宮は、俺と繋いでない手を胸の前に置き、キュッと握って目を瞑る。
「凄く嬉しかった。本当に飛び上がりたいくらい。優一が私に笑顔を向けて挨拶してくれた! やった! そう思ったら気が付いたの。ああ、私、優一の事が好きなんだって」
テーブルの上に置かれたコーラを一口飲んで、二ノ宮はフゥーっと息を吐く。
「そこからが問題よ。今までどんな男でも自分のものにしてきたし、みんなが羨むイケメンから告白されまくってた私が、サッカー部の補欠の冴えない男子に、全く振り向いてもらえなかったの。ちょっと距離詰めてみたら、近くて仕事がやりにくいわ! って怒られるし、甘えた声出してみたら、耳がムズムズして気持ち悪いわって不評だし」
二ノ宮は頬を膨らませて、俺に顔を向ける。その顔は、真っ赤に染まっていた。
「私の知ってる恋の常識が何にも通じなかった。いや、私はそもそも、それまで本当の恋なんてしてなかったんだと思う。私は、初めて恋をしたのよ。優一に」
二ノ宮は、急に諦めたような表情をして、俺の胸に拳をコツンと当てる。
「私がこんなに好きなのに、後から入って来た同級生を好きになっちゃって、そしたら突然、十ヶ月も眠り続けて。そして、やっと戻って来たと思ったら、今度は後輩に取られた。でも、それでもさ、諦め付かないのよ」
二ノ宮はスッと立ち上がり、俺の手を掴んだまま、俺を見下ろす。
「さて、最後の目的地に行くわよ」
最後の目的地に行く。そう言われて連れ出されて何分経っただろうか?
辺りはまだ明るく、人通りも多い。その街中を二ノ宮は迷わず進んで行く。
人通りの多い大通りを歩いていると、二ノ宮はそこから細い路地に入っていく。昔からこの大通りを歩いているが、こんな道があるなんて知らなかった。
曲がりくねった坂道をスルスルと抜け、やっと広い空間に出たと思ったら、真正面には妙に派手な建物があった。そして、細かな装飾は違えど、同じような建物が、その通りには沢山あった。
「ちょっ、ここって」
休憩四五〇〇円。そんな看板が見えるここはいわゆるホテル街。大人の男女が訪れる場所だ。しかも、大抵は夜遅い時間に。だから、真っ昼間から、こんな場所に居る高校生の俺達は場違いだ。
「そう、ラブホ街」
「そうラブホ街、じゃねえよ! 冗談で変な場所に――」
「冗談じゃない!」
二ノ宮に真正面から抱き締められた。
「優一が目を覚ましてから、私は付き合ってた彼氏を振った。それで、今日まで誰とも付き合ってないし、誰にもこの体、触らせてない」
胸元の開いたシャツの襟元から、チラリと見える膨らみから視線を逸らす。
「ずっと優一としたかった。優一のものにしてほしかった。もう優一の事を考えて一人で慰めるのは辛いの。だから抱いて。私があんな女の事忘れさせてあげる」
二ノ宮はそこで、俺の後ろを見詰めフッと笑った。
「やっと出てきた」
二ノ宮がその言葉を言った直後、俺の左腕が後ろから誰かに掴まれて強く引っ張られる。振り返ると、そこには真っ赤に目を泣き腫らした香織が居た。
「いや……行かないで、行かないで優一さん……」
「かお――ゴフッ!」
俺が言葉を発する前に、二ノ宮が鳩尾に肘を叩き込んできた。この野郎、何しやがんだ、二ノ宮の奴。
「ちょっと、その手離しなさいよ」
「嫌です!」
「ふざけんじゃないわよ。彼氏とせっかく初エッチしようって時に、邪魔しといて嫌? 意味分かんないんだけど」
高圧的に香織を見下ろす二ノ宮は、俺の腕から乱暴に香織の手をはたき落とした。
「ああ……」
力なくそう声を漏らす香織は、俺の方に手を伸ばす。しかし、俺と香織間に二ノ宮は割って入った。
「今更、元カノのあんたが何の用よ。優一に酷い事しといて何? バンドでカッコいい姿見せられたから惜しくでもなったの?」
「ちが……」
「天才ピアニストの化けの皮が剥がれてガッカリして、元鞘に戻ろうとか思っちゃった? 言っておくけど、あんたが戻れる場所なんてもう何処にもないわよ」
「…………」
「今から優一と私は愛し合うの。一人の男しか知らないあんたと違って私は上手いわよ。だから、すぐに優一はあんたの事なんてどうでも――ッ」
「えっ?」
二ノ宮に手を上げようとした香織の手を掴み、俺は二ノ宮のおでこにデコピンをお見舞いする。
「イッタイわね! 何すんのよ優一!」
「バカがやり慣れない事するからだ。泣いてんじゃねえか」
「えっ? マジ?」
目からボロボロ涙を流す二ノ宮は自分の手で目元を拭う。そして、俺は香織に視線を向ける。
「香織、その手は二ノ宮に向けるものじゃない。二ノ宮は――ゴフッ! い、痛えぇ……」
また鳩尾に肘を叩き込んできた二ノ宮を見上げると、二ノ宮は俺を上から見下ろす。
「優一に喋らせるとまた責任持って行かれるから、あんたは少し黙ってなさい」
二ノ宮は目の前で困惑している香織に、一言言い放った。
「私と優一、付き合ってないから」
「……えっ?」
「香織に避けられて凹んでる優一を見てられなくてね。私が無理矢理優一を従わせて芝居してたの。目の前のバカタレが自分のやった事がどんなに酷い事か分からせるためにね」
「じゃあ、優一さんを二ノ宮先輩が好きなのは?」
「ああ、それはホント」
「えっ……」
希望が灯ったように見えた香織の顔が、また絶望の底に落とされる。
「でも、まだ私じゃ香織から優一は奪えそうにないわね。メガネ見て香織に似合うだろうなーって考えてたり、服屋で明らかに香織好みのスカート凝視してたり、後はデート始まって早々に香織と話せてないってため息吐いてたわ。もー最初から最後までムカつくくらい香織の事考えてやんの。この私がここまでやってんのによ? あり得ないわ」
ため息を吐いて俺に非難の目を向けてくる。いや、なんで俺が責られる感じになってるの!?
「今回は付き合ってる”振り”をしてたの。良かったわね、冗談で済んで。もし、私じゃなくて、あの書記の子とかだったら、本気で奪われてたわよ」
地面にへたり込んだ香織を立たせ、二ノ宮は香織の服に付いた砂や埃を叩いて落とす。
「誰の入れ知恵でやったか知らないけど、どうせ優一の事なんてろくに知らないやつでしょ? 優一の事ちゃんと知ってたら、そんなの優一を凹ませるだけで意味無いって分かるし」
「ごめんなさい……」
「もー、彼氏も彼女もなんで私に謝んのよ。どっちも謝る相手間違ってるっての」
二ノ宮は俺の方を見て、ニヤリと笑った。
「香織、朝からずっとついてきてたわよ」
「えっ!? 朝からって、カラオケの時もか?」
「多分、向かいのファミレスとかでずっと私達が出てくるの待ってたんじゃない? 心配なのは分かるけど、普通の男なら引くわよ。優一はニヤニヤして喜んでるけど」
「えっ? 喜ぶところじゃないのか?」
「うわっ! めちゃくちゃ腹立つ! あーもうやってらんない!」
二ノ宮は香織の肩に手を置いてニッコリ言う。
「次は無いからね。次、また同じような事したら、全力で奪い取るから。だから、ちゃんと優一の事掴んでなさいよ。あと優一」
「なんだ?」
「香織が来なかったら、本気であんた連れ込んで奪い取るつもりだったから。てか、あんたって妙にモテるんだから、ちょっとは気を付けなさいよね。あんまり人に優しくし過ぎるのもトラブルの元よ。んじゃ、私は帰るわー」
二ノ宮は手をヒラヒラ振って元来た道を歩いて行った。
「優一さん……ごめんなさい、私、どうかしてた……優一さんの事、無視するなんて」
「もういいって」
「良くない。ちょっとは離れた方が彼氏も焦って謝りに来るって、そう聞いて、その通りにしちゃった……。本当にごめんなさい。優一さんが待っててくれてたの知ってたのに、毎日毎日、待っててくれてたの知ってたのに……私……わたし……」
「だから、もういいって」
二ノ宮から、俺が香織に拒絶されて、香織の世界から弾き出された訳じゃない。そう聞いて、それだけで救われた。いつまで経っても、まともに話せない事は辛かった。仲直りが進まない事は、本当にもどかしかった。
でも、結果はこうして、香織は俺の側に居てくれる。
「優一さん、二ノ宮先輩とは本当に付き合ってないの?」
「ああ、付き合ってない」
「……優一さん、優一さんに酷い事して、こんな事言える立場じゃないのは分かってる。でも、もう一度私と――」
「それと、俺は香織と別れたつもりはない」
「えっ?」
「えって……もしかして、香織は別れたつもり、だったのか?」
「そんな事ない! 優一さんと別れたなんて思ってない!」
激しく頭を振って必死に否定する香織の頭に、俺はそっと手を置いた。久しぶりに香織に触れて、目尻が熱くなるのをグッと堪える。
「香織ごめん。不安になって、動揺して、また香織を傷付けた」
「ううん、私こそ、私の事を心配してくれたのに、酷い事言って酷い事して、本当にごめんなさい」
「香織、今から恥ずかしい事言うけど、笑うなよ」
「うん」
息を吸って、目を閉じる。そして意を決して目と口を開いた。
「文化祭のバンド演奏、香織の為に歌った。歌は失恋の曲だったけど、香織とまた一緒に居たい、香織の側に居させてほしい。そんな気持ちを込めて歌った」
「…………私、優一さんの歌を聴いて、凄くね、胸が苦しくなったの。それで……本当に都合の良い話だけど、最後の歌詞『ボクはキミを探して歩き出す』が、優一さんに待ってるって言われてるみたいに聴こえて。そうしたら、優一さんとの楽しい事がいっぱい溢れて来て……」
「そっか、良かった。香織に聴いてもらえて」
俺は香織の手をそっと握る。冷たくて、そして小刻みに震えていた。
「よし、じゃあ帰ろうか」
香織と仲直り出来てホッとした。今日はいつもよりぐっすり眠れそうな気がする。
一安心しながら歩きだそうとした時、香織と繋いだ手が後ろに引っ張られる。何事かと後ろを振り返ると、香織が立ち止まって俯いていた。
「香織、どうした? 早く帰ろう。久しぶりに家に来る……か?」
香織は空いた手を、手の平が見えるように俺に差し出す。その手の平の上には、四角く小さくて平べったい物が載っていた。
「さっき、二ノ宮先輩が……」
「あいつ……人にあげる物はそれしかないのかよ……」
「だから、ここ行きたい」
「えっ? はい?」
香織は後ろにある派手な建物を指差す。
いやいや、ここに行きたいって、香織はここがどんな所か知らないのか? でも、その手に持った物はこの建物とは無関係ではないし。
「ダメ?」
いや、ダメじゃない。いやいや、ホントはダメなんだけどダメじゃないと言うか、ダメにしたくない。
こんな可愛い彼女に、潤んだ瞳でダメかと聞かれてダメだと言える男が、この世に何人居るだろうか。俺は……そんな男にはなれない。
「本当に良いのか?」
「優一さんと行きたい」
「じゃあ、行こう」
俺は香織と手を繋いだまま。辺りを見渡してみる。
ここはそういうホテルが集まっている通りで、周辺にあるのは全てそういうホテルだ。だから、そういうホテルに行った事が無い俺は、何処に入れば良いのかよく分からない。
「優一さん、ここにしよう」
俺が迷っていると前に香織が手を引いて一番近い、香織が最初に指差したホテルの入り口から中に入る。
思っていたよりもずっと明るい雰囲気のフロントには、誰もいない。
「受付とか居ないんだな」
「う、うん……どうすればいいだろう」
正面には部屋の内装が書かれているパネルがあり、そのパネルには部屋の番号の他に、料金も一緒に書かれていた。
「部屋の種類で値段が変わるのか。休憩と宿泊とフリータイムの三種類があるけど」
「フリータイムの方がお得かな?」
「確かに今からだと、フリータイムの方が割安だけど」
「優一さん、この部屋がいい」
香織は一番上にある、いかにも広そうな部屋を指差す。
「私がお金は払うから」
「ダメだ、俺が出す」
「じゃあ。半分ずつにしよう」
「うーん」
「お願い、優一さんを傷付けた上に、お金出さないなんて……」
「わっ、分かった半分ずつにしよう、半分ずつに!」
涙を滲ませる香織を宥めて、隣にあった部屋番号のボタンを押す。するとレシートが出てきて、機械のアナウンスで、そのまま部屋に行って帰る際に料金を払うように指示された。
「なんか、緊張するな」
「うん、ドキドキするね」
廊下を歩いて目的の部屋に着くと、俺はドアノブを捻りドアを開く。
中に入って中の様子を確認しようとした。でも、その前に気が付いたら俺は壁に背中を付けていて、下から俺を壁に押し付けた香織が突き上げるように唇を重ねていた。
すぐに舌が絡み合う。久しぶりの、懐かしいキス。でも香織の様子は違った。
息継ぎする暇のない情熱的なキス。背筋にゾクゾクとした感覚が駆け巡る。ヤバイ、腰が砕けそうだ。
「ぷはぁ……はぁはぁ……」
「香織、激し――」
やっと唇を離したと思ったら、すぐにさっきのキスが再開される。俺は、なす術なく、香織のキスを受け入れた。
「優一さん、ごめんね……ごめんね……」
「香織……」
「私が言ったのに……毎日一日一回ずつキスしようって」
「大丈夫だ。今のキスで取り戻すどころか貯金も出来たし」
「ううん、足りない。まだ足りないよ……」
香織は、オレの両肩に置いていた手をストンと落とす。
「どうしたらいいんだろう……どうしたら優一さんに許してもらえるのか分からなくて……。どうしたら優一さんに――」
「香織、俺は怒ってなんてないぞ」
「優一さんは優しいから、怒ってないかもしれない。でも、絶対に、私は優一さんを傷付けた……」
「大丈夫だよ、香織。大丈夫だから」
「それじゃ、私は……」
「二ノ宮に散々からかわれただろ。あれはちょっとやり方がぶっ飛んでたけど、それでいいんじゃないのか?」
俺が二ノ宮の名前を出した途端、香織は俺の腰に手を回して、ヒシっと体を縮こませながら抱き寄せる。
「二ノ宮先輩に優一さんを取られちゃったかと思った」
「俺はその前に、香織が佐伯と付き合うだのって――」
「佐伯くんは……可愛い後輩だと思ってた……。でも、あんな人だったなんて」
「香織に、佐伯はあの本性を見せたのか?」
「ううん、でも優一さんに酷い事言うのを、生徒会長の近藤さんがスマートフォンで録音してて、それを私に聞かせてくれたの」
「えっ!? 近藤さんが?」
あの人、なんであの会話を録音してんだよ……。しかし、あの人の前では下手な事が言えなくなった。録音した音声をネタに脅されかねない。
「それを聞かせてくれたのは、個人の出し物が始まる前。うちのクラスの映画を見に来てくれて、それで見た後に」
「休憩時間にそんな事を……」
ずっと働き詰めだった近藤さんを半ば無理矢理休憩に行かせたのが、個人の出し物が始まる一時間前からだった。その一時間は休めと言い聞かせて放り出したが、まさかそんな事をしているとは思わなかった。
「近藤さんは、私は陰湿な男が大嫌いなの。って言ってた」
「そうか……」
もし、近藤さんがその録音した音声を、香織に聴かせていなかったら。もし、近藤さんがあの会話を録音していなかったら。俺達はどうなっていたんだろう。
「香織は、もしその録音を聴かなかったら、佐伯と……」
「確かに私は、頭に血が上ってどうかしてた。でも、佐伯くんは全然私のタイプじゃないから」
「そっか……良かった」
「私は、年上の優しくて頼りになるけど、不器用で優しいのに勘違いされやすい。でもものすごくカッコいい人。そんな人がタイプだから」
「そんな完璧超人居るかよ」
「居るよ、私の目の前に」
香織は手を繋ぎ、壁に背中を付けた俺の胸にコツンと額を押し当てた。
「さ、さて、とりあえず中の様子を見てみよう!」
入り口から部屋の奥に進むと、広い空間に大きなベッドがあり、壁も想像していたような派手さはない。
「とりあえず、風呂だな。香織、先に入る?」
「一緒に入る」
「そうか…………一緒に!?」
「ダメ?」
「いや、ダメじゃないけど! いやダメだろ!」
この自分だけのやり取り、さっきもやった気がする。
目の前で頬を膨らませた香織が、繋いだ手を少し持ち上げ、ジッとその繋いだ手に落とす。
「一緒に居ないと、二ノ宮先輩に優一さん取られる……」
「いや、流石の二ノ宮もここには来ないって」
「でも、不安なんだもん……」
二ノ宮が香織にしたかった事は上手く行っている。上手く行き過ぎてトラウマになるのではないかというくらいだ。
「二ノ宮先輩に怒鳴られた事が、全部凄く辛かった。だって、私なんかよりも優一さんの事が分かってて、本当に優一さんの事を信じ切ってた。それで、目の前で優一さんと二ノ宮先輩がキスするのを見て……」
香織は空いた手の甲で目元を強く擦る。
「私のやった事が全部間違いだって気付いた。でも、気付いた時には取り返しのつかない事になってて、どうしたら良いのか分からなかった。セリアさんが私に何があったのか聞いてくれた。でも、私はどうすればいいのか、何を伝えればいいのか分からなくて、何も言えなかった。でもクラスの子達が、優一さんが私を傷付けた。優一さんが私を捨てて二ノ宮先輩に乗り換えた。優一さんが悪いんだって言って、私が何も言わなかったせいで、優一さんをクラスの悪者にしちゃった。セリアさんとも喧嘩させちゃって……」
悪いのは俺なんだ。俺が不安にならなければ今回のトラブルは起きなかった。そう言った所で、香織は納得しないだろう。
「セリアさん、優一さんが一生懸命、新選組について勉強した事分かってて。優一さんが友達で良かったって毎日毎日嬉しそうに言ってたのに……私のせいで……」
「セリアに悪い事をしたのは俺だ。だから、俺がセリアにちゃんと謝る。許してもらえるかは分からないけど。でも、香織とも仲直り出来たんだ。セリアともきっと仲直り出来る。いや、絶対に仲直りする」
「私も一緒に謝りたい。セリアさんに嫌な思いさせてごめんなさいって」
「そうだな。香織、さっきから泣いてばかりだ。やっと香織とこうやって話しが出来るようになったんだ。俺は香織の笑顔が見たいんだけど」
分かってる。そんな簡単に笑えない事くらい。でも、これ以上、香織に自分を責める話をしてほしくなかった。
「笑えてる?」
香織は震えながら、泣きながら、必死に笑おうとする。また俺は失敗した。
「ごめん、やっぱ無理しなくていい。無理して笑う香織を見てるのは辛い」
「じゃあ、どうすればいい? どうすれば、優一さんの見たい私になれる?」
不安そうな顔をして、香織が首を傾げる。その香織を見て、俺はニッコリ笑った。
「もうなれてるよ。香織が香織で居てくれる事が、香織が俺の側に居てくれる事が、それが俺の見たい香織だ」
香織は神様が与えた完璧な可愛さを持っている。絶対に、この日本にも世界中の何処を探しても香織以上に可愛い女の子なんて居ない。
香織の前では、芍薬も牡丹も百合でさえも萎んでしまう。香織から香る魅惑の香りを嗅げば、それだけで幸せになれる。
花だけじゃない。香織の綺麗でしなやかなスタイルは、誰か見たってどんな男だって目にとめてしまう。完璧な女性だ。
でも俺は、そんな香織に目も心も奪われた男達にしたり顔で言える。
駿河香織は俺の彼女だと。




