3【区切り】
【区切り】
まだ三月下旬だというのに、既に桜の花びらは散り、若葉の影も見えるまでになっていた。そんな春の日、俺はおぼつかない足取りで病院の正面玄関の前に立っていた。
「あのー、もうちょっと厳かには出来なかったんですか?」
「跡野くんの退院祝いだからね。盛大にやろうって決めたんだよ」
「本人の意向は聞かずにですか?」
「こういうのはサプライズだからね。退院おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
担当医の先生とガッチリ握手を交わす。これからもリハビリで通院すれば会うことにはなるが、一つの区切りである事は確かだ。
「跡野さん、本当におめでとう」
「ありがとうございます。入院中はお世話になりました」
看護師さんから花束を受け取り頭を下げる。その花束を、隣に居た母さんが受け取った。
「本当にお世話になりました」
「本当にありがとうございました」
父さんと母さんがそう言って、みんなに頭を下げる。
「優一ちゃん」
「なんですか? 佐藤の爺さん」
「病院来る時は香織ちゃんと――」
「爺さんも看護師さんに隠れて甘い物食べすぎちゃダメですよ」
「あ、こら!」
火種を放り投げ、俺は病院に背を向けて車に向かって歩く。
「あ、あの、私も一緒に居て良かったんでしょうか?」
「大丈夫大丈夫! 香織ちゃんはお見舞い皆勤賞だからね! それに退院祝いが家族だけって言うのも寂しいし」
隣を歩いている駿河が不安そうに俺を見る。その俺を挟んだ反対側から聖雪が相変わらずの明るい調子で答える。
「聖雪、まず駿河の迷惑ってのを考えてから声掛けろよ。駿河だって用事とかあるんだし」
「私は何も用事はないんですけど、やっぱりご家族だけでゆっくりした方が良かったのではないかと思って」
「うちは香織ちゃん居た方がいいよ! ね? お母さん!」
「そうね、香織ちゃんにはいつも良くしてもらってるし、いつかお礼がしたいと思っていたから」
ここで一家の大黒柱である父さんと、祝われる本人の俺に確認がないところが、跡野家の男女間のパワーバランスを如実に表している。
「お祝いと言っても、少し手の込んだ料理を作るだけなのだけれど」
母さんが照れ笑いを浮かべて右手で口元を隠す。母さんのその笑顔に安心したのか、駿河もニッコリと笑顔を返した。
「優一」
「ん? どうした父さん」
前を歩いていた父さんが、車のトランクに荷物を入れて振り返ると、俺に右手を差し出してきた。
「本当によく頑張った」
「……なんか、照れ臭いな」
駐車場は病院の玄関から離れていて、もうここには先生達の視線は届かない。それでも、なんだか照れ臭かった。
俺は右手を伸ばして父さんの手を握ると、グッと前に引き寄せられて抱き締められた。父さんに抱擁されるなんて、もう俺が中学生になってから無くなった。いや、小学校の低学年でもほぼほぼ無くなっていたかも知れない。だからか、握手よりも火が出るほど恥ずかしかった。でも、熱い体の中に温かさも感じた。
「本当に、よく頑張った。本当に、帰ってきてくれてありがとう」
「おう、ただいま」
気付くと母さんは鼻を啜り涙を流していた。聖雪は涙こそ流していないものの、顔を歪ませてぎこちなく笑っていた。駿河は、父さんに気を遣ったのか背を向けていた。
「よし、帰ろう。今日は優一の退院祝いだ」
「とりあえず、肉食って体力を付けないといけないな」
車に乗り込み、後部座席の端に座ると、隣に駿河が座り俺の方を見詰めた。
「どうした駿河」
「いえ、先輩、本当におめでとうございます」
「ありがとう。やっと病院食から抜け出せるよ」
「好きな物が食べられるようになったからと言っても、不摂生な食生活はダメですからね。まだ病み上がりなんですから」
「病み上がりって、俺は過度な運動不足なだけだったんだが……」
「それでも体調を崩しているのは変わりありません! だから絶対に無理もしないでくださいね!」
ギッと睨み付けられ、困って駿河の向こう側に座る聖雪に視線を向けるが、聖雪はニヤニヤ笑って助けてくれそうにない。
そうしているうちに車が走り出し、窓の外の景色が流れ始める。その時、やっと俺の時間が再び動き出した。ような気がした。
退院祝いと言っても、外食ではない。最初は外食でパーッとやる、みたいな話だったらしい。でも俺が、家でゆっくり飯を食べたいという要望を出したら、母さんが少し手の込んだ料理を作るという事に落ち着いた。
落ち着かない病院に入院してリハビリで疲れ、やっと退院したと思ったら不自由な体で外食をする。そんないかにも疲労のピークに達しそうな事はしたくなかった。
久しぶりに見る我が家は全く変わってなかった。といっても、家を空けた約十一ヶ月のうちの十ヶ月は寝ていたのだから、俺の主観的には一ヶ月の不在だ。しかし、家以外はけっこう変化があった。帰ってくる途中に車の窓から見た風景は、俺の記憶にあるものとはガラリと変わっていた。
駅舎は綺麗に新しくなり、やけにコンビニの数が増えていた。それに、お洒落な喫茶店なんかが出来ていて、あとは道路の白線が新しくなっていた。そんな変化を見て、やっぱり俺は長い間この街を見ていなかったんだと思い知った。
「お兄ちゃん、この日のためにお兄ちゃん専用の座椅子を買ったんだよ!」
見慣れた玄関から中に入り、見慣れた廊下を歩いてダイニングに入ると、聖雪が誇らしげにテーブルの脇に置かれた座椅子を指差す。しかし、その座椅子は黒猫を模した可愛らしさ溢れるものだった。
「香織ちゃんと一緒に選んだんだよ! 可愛くない?」
やっぱり実に誇らしげな我が妹から、隣に立つ駿河に視線を向ける。俺と視線がぶつかった駿河は、慌てながら両手を振る。
「あ、あの、私はもう少し落ち着いたデザインの方がいいんじゃないかな、とは聖雪ちゃんに言ったんです! でも、聖雪ちゃんがきっと跡野先輩に似合うからあの座椅子にしたいと言われて。やはり跡野先輩の事をよく知ってるのは聖雪ちゃんですし……」
「そうか、じゃあ今回の事は不問にしておこう」
駿河の言い分に不自然な点は無いし、聖雪との買い物で自分のセンスを押し通すなんて事を、駿河は出来ないだろうというのは予想出来た。だから、この問題の責任は悲しいが我が妹にある。
「おいこら聖雪! どういう思考結果になったらこの座椅子が俺にピッタリなんだよ」
「え~可愛いじゃん!」
「俺に可愛さは必要ないだろ!」
「それに、お兄ちゃんが使わない時は私が使いたいし」
「それだな! 主にその理由で選らんだんだろ」
舌をペロッと出して逃げる聖雪を追おうと思ったが、追い付けなのは分かりきっているので右手を伸ばした所で踏みとどまった。
「優一、晩ご飯まで時間あるからリハビリも兼ねて散歩でもしてきたら?」
「え~、今帰ってきたばかりなんだけど……」
母さんに笑顔で散歩を勧められたが、帰ってきたばっかりで正直外に出るのはめんどくさい。ここで座椅子に座ってダラダラと過ごす方が疲労も溜まらないし体に良いはずだ。
「先輩、今日はリハビリもしてませんし一緒に行きましょう!」
駿河が杖を両手に持ってニッコリと笑う。いや、俺は疲れてるんだけど?
「私はお母さんの手伝いがあるから、香織ちゃんお兄ちゃんをお願い!」
台所から聖雪の声が聞こえ、どうやら聖雪も俺の体調を気遣う気はなさそうだ。そして、視線の端に居る父さんは俺を見て深く一度頷いた。いやいや、なんだよその頷きは……。
「さあ、行きましょう!」
玄関に歩いて行ってしまった駿河に「めんどくさいから行かない」とはもう言い出せず、仕方なく玄関に向かう。
靴を履いて玄関の外に出ると、駿河が俺に杖を渡してくれる。俺が使っている杖は普通のT字の杖とはちょっと違う物を使っている。腕に固定する輪っかが付いている特殊な杖で、専門用語ではロフストランドクラッチまたは前腕部支持型杖とも言うらしい。普通の杖よりも体を安定しやすく、俺はこれを左手に付けて歩いている。
俺は利き足が右足で、リハビリでも回復が早かったのが利き足の右足だった。だから回復の遅い左足の負担を減らすために左手で杖を使っている。でも、左手も完全に回復している訳では無く、握力も不充分だから、この特殊な杖が必要なのだ。
「今日は退院日ですし、短めにしましょうか」
「おう、サンキュー」
なんで駿河にリハビリの裁量に関してお礼を言っているのかよく分からなかったが、いつものスパルタモードでない分少し安心した。
歩き出して、この辺には大きな変化がない事に安心した。まあ、住宅街にそんな劇的な変化はあまり起こるものではないが。
「四月から学校に行けそうですね」
「そうだな~また二年かと思うと憂鬱だけどな」
「……やっぱり、年下と同学年というのは抵抗ありますか?」
「そりゃな、それに事情があるにしても留年は留年だからな。どうしたって、周りはあまりいい目はしないだろうし」
「大丈夫ですよ! 私や聖雪ちゃんも居ますし!」
「同じクラスになるかどうかも分からないし、それにそれが一番心配なんだ」
「心配というのは?」
「聖雪だよ。肩身の狭い思いをさせちゃいそうだからさ」
兄が留年している。それは聖雪にとってはマイナスだ。聖雪自身の評価や人間性には全く関係ない。でも、その関係ないことをあげつらう奴は必ず居る。それが極めて少数の人間だとしても、聖雪に学校という空間を生きにくくさせてしまう事が心配だった。
「聖雪は結構あんな感じではあるけど気にする奴だからさ。俺は結構割り切るっていうか耳を塞ぐ事も出来るけど、それが出来ない聖雪に嫌な思いをさせたくはないんだ。それは駿河に対してもそうだ。駿河にも俺と関わってる事で嫌な思いをさせるとしたら――」
「先輩の事を悪く言う人が居るなら、私はその人とは関わりません」
「関わりませんって」
「先輩は何も悪くないんです! だから、先輩は堂々としていればいいんです! それに最初は変な感じだとしても、先輩の人柄に触れたらきっとみんな先輩の良さに気付いてくれます」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、少しでも嫌な事があったらちゃんと言えよ」
杖を使って一歩ずつ慎重に歩く俺に合わせて、駿河もゆっくりと歩く。見慣れた公園の遊具や見慣れた用水路の上に架かる橋、それらを眺めているとなんだかホッとした。
「明日からは、毎日会えなくなっちゃうんですね」
「ん?」
「いえ、もう退院出来たから、お見舞いに行く事もありませんし、そうしたら先輩と会う機会が減ってしまうと思って」
「まあ、毎日来る方が異常だからな」
「い、異常って酷くないですか!?」
「だから良く分からんけど変に気に病むなよ。入院してる時は、駿河が毎日来てくれて本当に助かったからさ。退院した後くらいは、俺に割いてくれてた時間をもっと自分に使ってくれ。それに、練習後に疲れたまま来られたり、夜遅くなったりしてたのは心配だったんだ」
「私は、自分が行きたいから毎日先輩に会いに――」
「そうだとしても、やっぱり後輩の事は心配するのは先輩としては仕方ないんだよ。まあ心配される駿河からしたら余計なお世話かもしれないけどな」
「そんな! 余計なお世話だなんて! で、でも後輩ですか……」
「まあ、四月からは後輩じゃないけどな」
「そうですね。四月からは同級生ですよ」
「とりあえず、よろしく頼む」
「はい! 私に任せておいてください!」
駿河は隣で体を前にかがめて、下から見上げるようにニッコリ笑った。まあ、色々と問題は山積みだしやらないといけない事も沢山あるが、とりあえずは味方が全く居ないわけではない。だったら、置いて行かれた世界も少しは楽しく住めるかもしれない。
その後、家に帰ると既に夕食が出来ていて、みんなで食卓を囲んで他愛もない話をした。俺が寝ている間に大きなショッピングセンターが出来たらしく、今度はそこに行ってみようと聖雪が張り切っていた。
「じゃあ、先輩、失礼します」
「おう、気を付けて帰れよ」
日が沈んで夜遅くなってしまったため、父さんの運転する車で駿河を送る事になった。聖雪は一緒に付いていくが、俺は家で大人しくしている事にした。
「今日はごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「ありがとう。香織ちゃんならいつでも歓迎よ」
「ありがとうございます。また、お邪魔させてもらいます」
母さんは駿河に嬉しそうに手を振る。多分、二人目の娘でも出来た気分なのだろう。
「じゃあ、行ってくるね~」
聖雪がそう言うと、駿河は頭を下げて聖雪と一緒に玄関から外に出て行った。それを俺は見送って後ろに方向転換する。
「お風呂はもう少しで溜まるわよ」
「ああ、ちょっと風呂入る前に電話してくる」
手すりに掴まってゆっくり階段を上り、見慣れた自分の部屋に入る。そして、机に置かれたスマートフォンを手に取って、手に馴染んだそれを久しぶりに操作した。俺がいつ戻ってきても良いように、契約は続けてくれていたらしい。正直無駄遣いをしたな、とは思ったが、それでも嬉しかった。
電話帳に登録された番号を呼び出し、電話を掛ける。呼び出し音が数回鳴って、電話に呼び出した相手が出た。
「お久しぶりです。跡野です。はい、心配掛けてすみません。それで、挨拶も兼ねて明日お伺いしたいのですが、大丈夫でしょうか?」
俺には、沢山やらなければいけない事がある。それを少しずつ、消化していかなくてはいけない。
次の日、杖で体を支えながら俺は通り慣れた道を歩いていた。この道は毎日朝夕に使っていたのだが、やっぱり道すがらに見える風景には変化がある。こんな場所にコンビニなんて建ってたっけ? あれ? 確かここって歩道じゃ無かったはずだけど? そんな事を思いながらゆっくり足を進めていると、見慣れた白い建物が見えてきた。
「うわ~久しぶりに見たな、学校」
実に一ヶ月ぶりに見る学校。俺の主観からしたら十ヶ月だとは思えないのだから仕方がない。その学校の校門を潜り、変わらない学校の正面玄関を見詰めてフッと息を吐いた。耳にはグラウンドや体育館で練習をしているだろう部活動生の声が聞こえる。きっと佐原達サッカー部の練習しているのだろう。
俺は、ゆっくりと玄関に近付き、右手でガラスの扉を押し開ける。こんなにこの扉は重かっただろうか。そもそも、ここまで来るのにこんなに苦労しただろうか。やっぱり、俺は体力がまだまだ戻っていないからだろうか。
来客用のスリッパを引っ掛けて、杖を使いながら職員室を目指す。春休み期間中と言っても先生達は普通に仕事があるようで、職員室が見えてくると磨りガラスから室内の明かりが微かに漏れ出ていた。
「失礼します」
扉をノックしてゆっくりと引き開ける。すると、視界に数名の先生が入る。何人かは見覚えがあるが、何人か見覚えのない人も居る。新学期から赴任してくる新任の先生だろうか?
「跡野! もう退院したのか?」
俺を見た先生のうち、一年の時に担任だった男性の先生が駆け寄ってくる。化学教師らしく白衣をいつも着ていて、生徒の間では博士先生なんて呼ばれていた。
「お久しぶりです」
「ああ、学校に戻ってこられてよかったな!」
「あと二年、またお世話になります」
「何か困ったことがあったらいつでも言ってくれ」
手を振って先生は去って行き、俺は目的の、というか約束をしていた先生の元まで歩いて行く。
「跡野、大丈夫か?」
「全然ダメですね。ここまで歩いてくるのもしんどかったですよ」
髭が濃い大柄な男性教師。サッカー部の顧問であり国語教師でもあり、グリズリーでもある人だ。何度対面してもこの威圧感には慣れない。
「そうか、まだまだ復帰は遠そうだな。しかし、プレーは出来なくても顔くらいは出してやれ。部の奴らも心配している」
「それについて、少しお話があります」
「まあ、とりあえずこの椅子に座れ。杖を突いた奴が目の前に立たれると座ってる俺が居心地が悪い」
「ありがとうございます」
先生が用意してくれた椅子に腰掛けて、杖を脇に置く。杖が固定し易くなっていると言っても、ここまで来るのに負担が掛かり左手が微妙に痺れてしまった。
「それで、話というのは?」
「退部させてください」
「理由は?」
先生は表情を変えず静かに聞き返す。それがまた何とも威圧感たっぷりだった。
「まずは体力的な問題ですね。俺は退院はしましたが、まだ筋力も不十分です。仮に筋力が戻って来たとしても、今度は持久力を戻さないといけません。それは病院のリハビリ等でやると思いますが、部活との両立はしんどいので」
「それで、体力的な問題以外は?」
「少し前から思っていたんです。俺は部活に合う人間じゃないと」
その言葉を聞いて、先生は一瞬瞳を閉じてフッと息を吐いた。俺の言葉を予想していたのだろうか? まあそれは俺には分からない事だが。
「俺はサッカーに対して楽しみは求めていますが、勝ちを求めていません。だから勝ちに執着していない。だから勝ちを得るための努力をしていなかった。それで、俺は部内に摩擦を起こしてしまいました」
「……済まないな。実は、それを知ったのはお前が意識を失った後だった。お前一人に悩ませていた事を本当に申し訳ないと思っている」
「誰かがそう言ったんですか?」
「いや、佐原が大会直前に部員を集めたらしくてな。それを後から聞いて俺の方でも部員を一人ずつ呼んで、部員全員の部に対する意見を聞いたんだ。そこで、何名かの部員から聞いた」
「そうですか」
「あいつらもまだ子どもで好き放題言いたい放題だったぞ」
「俺も、勝ちを目指さない奴は要らない。選手がマネージャーの真似事をしてると不愉快だ。そう言われたことがありますからね」
「あいつ等、跡野に直接言ってたのか」
視界の下に見える、岩のような先生の拳がグッと握り締められるのが見える。この先生は何かと熱い先生だからそういう反応をするのだろう。
「いや、でも仕方ないですよ。同じ意見の人間ばかりではないですし、それにそもそも俺にそう言った奴らの言い分は当然ですし」
「確かにチームには決定力のある奴、パスの精度が高い奴、ドリブルの上手い奴、そんなプレイヤーとして必要な奴が居るのは当たり前だ。でも、俺はそれ以上にフィールド外の視野が広い奴はもっと必要だと思う。フィールドに置かれているボトルが少ない。昼飯の弁当の発注数が足りない。そういう事を真っ先に気付いたのはいつだってお前だ。それに、救急器具やスポーツドリンクの元が切れかかっていたら気付いて、買い出しの許可を取りに来たのもいつだってお前だった。まあ、お前が二年になると、後ろに駿河が付いて回ってたがな」
先生は過去を振り替えて懐かしむ様に言った。そういえばそんな事もあった。
まだマネージャーがうちの部に存在しなかった時、今マネージャーが行っている仕事は一年の仕事だった。しかし、一年でもレギュラーやベンチ入りする奴も出てきて、Bチームに居る一年は減った。
普通、部活に入っている奴はみんなレギュラーになって試合に出たい奴らばかりだから、Bチームの奴らも必死にレギュラーをもぎ取ろうと頑張っていた。その中で、たった一人だけ俺がレギュラーに興味がなかったから、だから他の事に目を向けられただけに過ぎない。みんなが練習に必死になって忘れている仕事や見落としている事を、のほほんとしていた俺がフォローしただけの事だ。それを、先生が過大評価しているのだ。
「駿河もお前の背中を追い掛けてただけあってよくやってる。だが、それでもお前には遠く及ばんな。お前が抜けてから、かなりチームは混乱した。まあ、その理由がお前が抜けた事だと分かってるのは佐原とマネージャー陣くらいだろう。お前が難なくこなしてきた仕事は、本来ならマネージャー含めた部員全員が分担してやる事だった。だがそれをお前一人にやらせてしまっていたのは、それもこれも他の部員にやらせていなかった事と、何も言わずにこなしてしまうお前に甘えていた俺の責任だ。お前が抜けてから、選手にローテーションを組ませてマネージャーの仕事を手伝わせている。レギュラーもベンチもベンチ外も、全て平等にだ」
「そうですか、それはマネージャー達も助かってると思います。それに何でも自分でやってしまっていたのは自分にも落ち度があります」
「いや、お前は一人で十分過ぎるほどにやってくれていた。実際、お前が居なくなった直後はトラブルが絶えなかった。駿河は必死にお前の穴を一人で埋めようとした。だが、やはり埋めきれずにほころびが出ていた。そういう事もあって、二度と誰か一人に仕事を任せたりしないようにしたんだ。それに、そのおかげで良いこともあった。特にレギュラーでいつもベンチ外に落としたことのない奴なんだが、マネージャーの仕事がこんなに大変だったなんて知らなかった。そう言ってた」
「まあ、結構大変ですからね」
ボールやゴール等は選手で準備をするが、給水用のスポーツドリンク用意はもちろん、ミニゲームで使用したビブスの洗濯、部員の負傷時に使用する医薬品の常備携帯管理、顧問の先生から言い渡される雑務、これには細かい買い出しや部費の収集も含まれる。試合の時になればセンターライン付近の両サイドライン脇と自陣ゴールポスト脇に給水用のボトルを管理、そしてスコアの記録もマネージャーの役割だ。それを今までやったことがない奴がやれば、それは大変だろう。
「それとな、そいつに嬉しそうな顔で駿河が言ってたよ。”跡野先輩はこれを全部、私たちよりも高いレベルで、しかも一人でこなしちゃうんですよ”ってな。駿河はお前にかなり心酔しているな」
ガハハッと笑いながら言う先生に、俺は苦笑いを返す。
「なんだが、なんともコメントしにくいですね。その話に関しては」
そこまで駿河に評価してもらっているとは思っていなかった。俺は自分が出来る事をやっていただけだったのだ。それを褒められるというのは嬉しいものだが、なんだか照れ臭い。
「部員全員の確執が無くなったとは言えない。だが、お前が知っている部とは大きく変わっている。お前の事を良く思っていなかった奴の中に給水用のドリンクを作らせたときにな、味が薄いと選手から不満が爆発した事があった。実際、そいつは箱の説明書通りに書かれている通りに作った。自分は悪くないと言って譲らなかった」
「夏場に作ったドリンクですね、それ」
「ハハハッ、やっぱりお前は凄いよ。その話を聞いただけで気付くんだからな。そうだその通りだ」
「夏場は冷えたドリンクを出すために氷を大量に入れますからね。その氷が溶け始めるとドリンクが薄くなります。それに、夏場は濃い目じゃないと味が薄く感じるみたいですし」
「そうだ、それを知らなかったからそいつは選手から批難を一点に浴びた。こんなマズイやつを飲めるかってな」
それを聞いて、俺は疑問に思った。やり慣れていないレギュラーを含めた選手陣なら分からないだろう。でも、選手と一緒に作業したであろうマネージャー陣は知っていたはずだ。少なくとも、確実に駿河は知っている。俺がそう教えたのだから。
「でも、マネージャーはそれ知ってるはずですよね? マネージャーと一緒にやらなかったんですか?」
「それがな、マネージャーの仕事なんて楽勝だ。みたいな事も笑いながら言ってたらしく、それがマネージャー陣のかんに障ったらしい。それで、そいつがドリンクを作るのを黙って見ていて、わざと失敗させたらしいんだ」
「う、うわ~、恐っ!」
「女は怒らせると怖いからな。散々選手陣から批難を浴びてる時に、マネージャー陣からマネージャーの仕事は簡単なんだろうという追い打ちを受け、更には駿河から“貴方のバカにしていた跡野先輩は完璧に一人でこなしてみせました”と止めを刺していたぞ」
「あのバカ」
佐原に噛み付いた件でも怒ったが、この件でも怒っておかなくてはいけないようだ。怖いもの知らずにも程がありすぎる。
「さて、お前がどれだけ部にとって必要な存在かは説明したが、気は変わったか?」
「いえ、退部しますよ」
「まったく、お前も一度こうと決めたら堅い奴だな」
「確かに俺の事を評価してもらっていてそれで必要だと言ってもらえるのは嬉しいです。でも、それは選手としてではなくマネージャーとしてです。今の部は少しずつ変わっているようですし、みんなで仕事を分担するようになってマネージャーだけに負担を背負わせてはいない。それに今は部は円滑に運営がなされているんですよね? それなら、俺は必要ないはずです」
「いや、お前は必要だ」
「先生、部活は練習試合みたいに長い活動日には一日以上外に居る事になります。炎天下でも強い寒波が来ても、雷が鳴らなければ大抵の大雨でも中止にはなりません。公式戦なら尚更です。俺は、ここに来るまでかなり体力を消耗しました。正直、椅子を勧めてもらって助かりました。立ちっぱなしはかなりキツイので」
「体力的に厳しいという事か」
「はい、最初にも言いましたがそうです。遠征先で俺だけがキツイからといって日陰で座り込んでいるわけにはいきません。そんな奴は連れて行っても邪魔です。それになにより、何も出来ないのにその場に居ないといけない俺は精神的にキツイですからね」
「……そうか、そこまで言うなら仕方がない、か」
「勝手な事を言ってすみません」
「いや、確かにお前自身の立場を考えれば肩身の狭い思いをするのは分かる。ただ、俺だけでは決められん。部員にちゃんと了解を得てくれ」
先生の出した条件は真っ当なものだ。確かに一緒に活動していた仲間に何も言わずに部を去ることは出来ない。理解はされないだろうが話は俺の口からする必要がある。
「そろそろ練習を終わらせないといけない。日も高くなってきたしな」
そう言って先生が立ち上がり、俺も杖を突いて立ち上がる。少し椅子に座って休んだせいか、かなり楽になった。
俺は元来た道を戻って玄関まで歩いて行き、靴を履いてグラウンドを目指す。
「そういえば、この道をしょっちゅう走ったな~」
遠征に行く前、何故かマネージャー陣の準備物をダブルチェックする係りになってしまっていた俺は、マネージャーが用意した備品をチェックしていた。その時に大抵一個か二個の忘れ等があって、それを部室に取りに戻る時にこの道を走ったものだ。そして、その度に隣を走る駿河が、すみません、すみません、っと何度も謝っていた。
グラウンドが見えてきたときには、既に先生が部員を集めてなにやら話をしていた。集まって整列する選手達から少し離れた位置にマネージャー陣が整列し、選手同様視線の先に先生を見ている。
「よし、最後にあいつが話があるそうだ。跡野!」
良く響く太い声で名前を呼ばれ、怒られている訳ではないのに背筋に緊張が走る。
「跡野先輩!」
「駿河! 列を乱すなっ!」
真っ先に駿河が俺の姿を視界に映して駆け寄ろうとする。そうする前に、俺は目一杯の怒鳴り声を上げた。それを聞いた駿河は踏み出そうとした足を引っ込めて列に戻る。
「まったく、列を乱せっていつ俺が教えたよ」
「す、すみません」
「まあ、俺は別に怒りに来たわけじゃ無いからな。あんまり気にするな」
「おい、自分で怒っておいて気にするなわないだろう」
先生のごもっともな突っ込みに整列する選手陣から笑いが起こる。まったく、存在するだけで緊張感を作れる上に喋れば雰囲気を和やかに出来るなんて、どんなグリズリーだよ。
「さて、さっきも言ったが話がある。跡野」
「はい」
先生の隣に立ち、一度選手陣とマネージャー陣を見渡す。佐原と目が合い、マネージャー陣に目を向けたとき、音瀬が目を逸らした。それを見て、軽く笑うしかない。
「俺、辞めるから」
静かなグラウンドに選手やマネージャーに聞こえる声で発した。その言葉を聞いたみんなは固まる。
「先輩、辞めるって部活を辞めるって事ですか?」
「そうだ駿河、それ以外にないだろう」
「ちょ、ちょっと待って下さい。部活に復帰するんじゃ……」
「いや~無理だな。体が保たない。ここまで来るのもかなりしんどかった。この状態でマネージャーとしても練習に参加するのは無理だ」
「焦らなくても、体の調子が戻ってからでも――」
「良い機会だったんだ。前々から部活には合わない人間だったからな」
何かと食い下がってくる駿河の質問に答えていると、目の前に三人の部員が出てきた。
「すまなかった」
「「すまなかった」」
その選手のうちの一人が頭を下げてそう言うと、それに続いて他の二人も同じく頭を下げた。俺をあまり良く思っていなかった奴らだ。
「跡野のやっていたことがどんなに大変な事だったか知らなかった。跡野が平然とやっていた事のおかげで俺達がどんなに助かっていたかも知らなかった。知らなかったとしてもやっていい事、言っていい事じゃなかった。そのせいで部を辞めるなら――」
「あのな、あの程度で部活を辞めるんだったら、言われた時すぐに俺は部活を辞めてたぞ」
「じゃあ、なんで」
「さっきも言ったけど体力的に厳しいんだ。お前等が汗掻いて息を上げて走り回ってるのに俺が座ってボーッとしてるわけにもいかないだろうが」
「俺達はそれでも――」
「俺は嫌なんだ」
それを言うと、それ以上言葉を続けようとはしなかった。その代わりに、俺は横からTシャツの胸ぐらを掴まれて右に引っ張られる。
「キャプテン!」
マネージャーから悲鳴に近い声が上がる。俺は顔は向けられなかったが、左手の手の平を向けて制する。視線は、目の前で胸ぐらを掴んでいる佐原に向けたまま。
「よう、佐原」
「ふざけるな」
「ふざけてはないんだけどな」
「ふざけてるだろうが! ここまで部を大きく変えた功労者が何も得ずに去るなんて認められるか!」
「功労者って誰の事だよ」
「お前に決まってるだろうが!」
怒られてるのか褒められているのか良く分からんが、とりあえず佐原が冷静ではないのは分かる。
「俺はお前に最低な事をした。その償いにはならないが、せめてお前を国立に連れて行こうと決めていたんだ。俺だけじゃない! 部のみんなで話した!」
「そりゃあ、初耳だな」
「それなのに、お前は部を辞めるのか!」
「まさか、俺が居ない間も動いていたのに、俺が戻ってきた途端に俺が居ないと回らないなんて言わないよな? 十ヶ月でそんな部にしかなってないなんて言わないよな?」
「それは……この部は変わった。部の雰囲気だけじゃない。前よりも選手のレベルも上がっている。本気で国立を狙える部になった」
「なら、俺抜きでもいけるだろ。ベンチ外の補欠にもなれない俺が居ないと成り立たない弱小じゃないんだろ? とりあえず夏の県大会で優勝して、俺の前に優勝旗突き立てて言って見せろよ。俺達はお前抜きで優勝してやったぞって。それくらいやって見せろ」
自分でも何を言っているのか分からない。最初は諭すつもりだった。でも、思いの外、佐原が本気でぶつかってくるものだから冷静さを失っていた。
「俺を忘れるって決めたんだろうが! 一度俺を切り捨てるって覚悟したんだろうが! だったらその覚悟曲げんなよ! 切り捨てられた俺に手を差し伸べたつもりか! それで自分で自分を許すつもりかッ!! お前はチームのキャプテンだろうが! トップがぶれるな! 迷うな! お前が迷ったら後ろを付いてくる奴らが安心して付いて来れないだろうが!」
俺が話し始める前にみんなを見渡したとき、佐原と駿河を除いた全員が、俺に戸惑いの表情を向けていた。そりゃあ、部の全員で俺を忘れると決めて今日までやってきたのだ。そして、既に過去に置いてきた人間が目の前に現れた。それを戸惑うなと言う方が酷な話だ。そんな状態で、部に俺を忘れることを提案した張本人である佐原がぶれたら、佐原が部を纏めるために決断した意味がなくなってしまう。
「…………すまない」
俺の胸ぐらから手を離した。離した手はダラリと垂れ下がり、顔は地面に向けている。
「ったく、いきなり掴み掛かりやがって。一応俺杖ないとまともに立てないんだけど」
ゆっくり屈んで杖を拾い上げて左手に付ける。
「佐原、お前はいい奴だよ。だけど、優柔不断にはなるなよ。キャプテンがコロコロ考え変えてたら従う方は大変だぞ」
「俺達が優勝旗を持ってきたら全国大会には……」
「行くか、バスに何時間も揺られるとか苦行過ぎる」
「クッ、お前、そこは行くって言うところだろう、普通は」
俺の答えに佐原は笑って言う。しかし、俺は正直に答えただけで面白い事を言った覚えはないから、若干不愉快だ。
「県大会の優勝旗の次は、全国大会の優勝旗突き立てに来いよ」
「さ、流石に全国は無理だろ」
選手の中での一番のお調子者からその声が上がって、ドッと選手が湧いた。ちゃんとムードメーカーも機能しているようだ。
「たく、こっちが悩んでたのに跡野の方はでかい口叩きやがって! 頭にきた!」
「おう、こうなったらせめて県大会優勝して優勝旗を突き立ててやろうぜ!」
「よっしゃ! こうなったら居残り練習を――」
「バカ野郎! 過度な練習は逆効果だ!!」
顧問の先生の怒鳴り声が響いて選手達の雰囲気が引き締まる。それを見て、俺は心底思った。
いいチームになったな、と。
「香織!」
ボーッと選手達を見ていると、マネージャーの一人が叫ぶ声が聞こえ、その声の方向を見ると走り去って行く駿河の後ろ姿が見えた。どうやら、駿河だけはまだ納得してくれていないらしい。
「跡野、追い掛けろよ」
後ろから佐原にそう促される。しかし、俺は右手で自分を指差して言う。
「この足じゃ追いつけないんだけど」
「お前が居る頃から凹んだ駿河の対応はお前の仕事だっただろうが」
「いや、もう変わりは居るだろう。マネージャー陣に」
「バカ野郎、駿河が凹むのはお前が入院したとき以来、十一ヶ月ぶりなんだよ。あの時は先生が一時間説得してやっと帰ったんだ」
先生に視線を向けると困った表情を浮かべている。どうやらその時は相当苦労したらしい。それに、原因を作ったのは俺だし、俺がどうにかするのが筋なのだろう。しかし、凹んだときの駿河はかなり手強いのは俺も散々思い知っている。
「あ~とりあえず、退部するから、よろしく」
俺はそれだけ言って、駿河が走り去った方向にトボトボと歩き出した。
学校のグラウンド脇には部室棟というものがある。部室棟は運動部の用具を仕舞っておくための倉庫としての役割が大きい。その部室棟の裏に回り、一番奥に行ったところに使われなくなった机や椅子等を置いてる物置場ある。俺はそこに歩いて行き、放置された椅子の上で膝を抱えて座る駿河を見付けた。
「まだここで凹んでたのかよ。前と全然変わってないな」
「……なんで、辞めちゃうんですか」
「さっき一応説明したつもりだけど? もう一回説明するのか? 駿河は一度言えば大丈夫だろう?」
「私じゃ、未熟です」
「じゃあ、マネージャー陣に手伝ってもらえ。それに、今は選手も手伝ってくれるんだろう」
「先輩が居ないと出来ません」
「だったら、俺が入院してる間はどうしてたんだよ」
「先輩よりも出来ていない状態でなんとか回してました」
「回ってたらないいじゃないか」
「先輩が居ないとダメなんです」
全く話が前に進む気配がない。しかし、こういう押し問答は前から経験済みだから、若干の諦めはある。
俺は近くにあった椅子に座って、背もたれに寄りかかり息を吐いた。
「駿河には俺がやらかしたとんでもない失敗について話したっけ?」
「あの、夏場にドリンクに入れる氷のせいでドリンクを薄くしてしまったという失敗ですか?」
「いや、俺な、一年の時に遠征で行った高校のグラウンドに備品一式忘れた事があったんだ」
「えっ!? そ、それどうしたんですか?」
「その日のうちに父さんに頼んで取りに行った。そんで次の日、先生に怒鳴り散らされた。もう命を取られるかと思うくらい怖かったよ」
「先輩がそんなミスをしてたなんて知りませんでした」
「言えるかよ、恥ずかしい」
「でも、なんでそれを私に」
「俺は完璧超人じゃない」
駿河は何故か俺を凄い凄いと褒めて慕ってくれる。でも、実際は俺はそんな完璧超人ではない。普通の人間なのだ。
「俺が褒められる事のほとんどが一度失敗した経験から改善した事だ。備品のダブルチェックも置き忘れた経験から始めたし、夏場のドリンクの濃度もそうだ。それに、弁当の注文数の確認も一度一個少なく注文してしまって自分の昼飯を抜いた経験があるからだ。全部失敗したから出来るようになった。失敗を教訓にするのは誰でもやることだろう?」
「で、でも、先輩はそれでも私達よりも早く正確に作業をされて、そんな先輩は部に必要です」
「駿河、立つのもやっとの奴がボトルをこまめに変えられると思うか?」
「えっ?」
「立つのもやっとの奴が、備品の漏れがあったときに走れるか? 重たいドリンクキーパーを持てると思うか? 選手が怪我したときに迅速に対応出来るか?」
駿河は俺の問いに答えない。俯いて押し黙る。
「俺は、駿河がせっかく褒めてくれた俺の良いところも満足にこなせないんだ。もしかしたら、佐原とかは居るだけでいいとか言い出すかもしれないけど、それって心底惨めだろ?」
「惨めだなんて……先輩は、マネージャーを雑用係か部の目の保養としか思ってなかった人達とは違って、いつでもマネージャーの事を考えてくれました。Bチームの練習試合が終わった後に、すぐAチームのドリンク作りを手伝いに来てくれたのは先輩でした」
「それも、今の俺には出来ないんだ。ホントは、ガッカリさせたくなかったから言いたくはなかったんだけどな。もちろんリハビリすれば元通りにはなるかもしれない。でもそれまで俺はみんなに甘えるのは嫌なんだ」
「……先輩、本当に辞めちゃうんですね」
「ああ、でも応援くらいには行くぞ。まあ全国までは行かんけど」
それから、俺も駿河も言葉を発せずしばらくそれぞれの視線の先にあるものをジッと見詰めていた。どれくらい時間が経っただろうが、俺は再び口を開いた。
「私も――」
「駿河は辞めるなよ」
偶然にも、俺は駿河の言葉を遮る様に言葉を発した。でも、それはかなり絶妙なタイミングだった。
「先輩の居ない部活なんて……」
「なんだよ。俺、別に転校するわけじゃないんだけど」
「でも、私は先輩がいつか戻ってくるのを待ってたんです。一緒にまた部活が出来るのを信じてたんです」
「それは、申し訳ない事をしたな。でも、別に部活を辞めても学校でも会うし、それこそうちに遊びに来ればいつでも会えるだろう」
「それは、そうですけど」
「それに、駿河が俺を頼りにしてくれてたみたいに、今度は駿河が部に頼られてる」
「そんな、私は全然……」
「先生が、駿河はよくやってるって言ってたぞ。マネージャーで名前が挙がったのは駿河だけだ」
あの先生は直接褒める事は良くある。それと同じだけ怒鳴り散らすことも多いが……。でも、少なくとも先生が当事者以外の名前を挙げて褒めるのは初めて聞いた。顧問の先生がそれだけ高く評価しているんだ、部員にその頑張りが伝わっていないはずがない。俺が居た頃の部だったらまだしも、今はマネージャーの仕事をみんなが理解している状況だ。それなら、駿河がどんなに頑張っていて、駿河がどれだけチームに必要な存在なのかはみんな理解しているだろう。だから、駿河を辞めさせるわけにはいかない。
「駿河、お前が居ないと絶対にチームが崩れる。それくらいお前は重要なポジションにもう居るんだ。その責任は持て」
「……先輩だって」
「俺はもう居ても居なくても大丈夫だからな。あれだ、勇退ってやつだ。俺の代わりは任せた」
「荷が重すぎます、先輩の代わりなんて」
「俺の荷物は軽いぞ~なんてったて背負ってるのはチームの雑用業務だからな。キャプテン不在なんて事態よりもダメージは遥かに少ない。それにな、もう全部一人でやらなくてよくなったんだ。だから、みんなで協力してみんなで楽しめばいいんだ」
俺の時は、必死に、それこそボールを蹴りたい思いを我慢して雑用をやっていた事もあった。でも、今はみんな平等になっている。マネージャーだからとか選手だからとかいう区別もなく、チーム全体としてやっている。だから、俺の時みたいに、部活を楽しむ余裕がないわけではない。
「先輩が居なくなっても、先輩はずっと私の先輩です」
俺の方を向いた駿河は目に涙をいっぱい浮かべて声を震わせながらそう言う。俺はその駿河に困り笑顔を向けた。
「だから、俺、別に居なくなるわけじゃないんだけど」
俺の言葉を聞いた駿河は、泣きながら笑うという器用な事をしてみせて「すみません」とニッコリ笑いながら言った。