26【破鏡不照】
【破鏡不照】
「なんで俺が悪役なんだよ」
クラスメイトから渡された映画の台本を見て、最初に、脚本担当の女子へ突っ込んだのはそこだった。
一日で仕上げて来たという台本には、素晴らしいとしか言いようがない。だが、内容と配役に突っ込みを入れたくなった。
「内容が女の子同士の恋愛ってのも詳しく聞きたいが、なんで更に輪をかけて俺が悪役なんだよ」
「これは女の子同士という他人から認められない恋愛に苦しむ二人の女の子が主人公の、純愛がテーマのお話なんです」
「はあ……」
まあなんとなくそれっぽい話だ。
「北欧から来た美少女セリアに恋をした日本の女子高生、香織。香織はセリアへの思いを悩み苦しむ。でも、セリアも自分へ同じ思いを抱いている事に気付く。だけど、香織には怖い彼氏が居て……」
「はいストップ。怖い彼氏って誰だよ、怖い彼氏って」
「留年した不良彼氏の優一ですが?」
「誰が不良彼氏だ!」
結構長い付き合いになったクラスメイト達は、少しずつ俺への壁を削り、今ではこんな冗談を言われる仲にまでなった。それは喜んで良いことだが、流石にこれはあんまりだ。
「あくまでも、物語、創作ですから!」
「はぁ……」
「これは百合という確立されたジャンルなんですよ?」
「百合だか薔薇だか知らんが――」
「跡野さん! 薔薇に興味がお有りで?」
「意味の分からん所に食い付くな! 話が進まん……」
テンションの高い脚本担当者に頭を抱えていると、クラスメイト全員から「諦めろ」という視線が向けられる。まあ、幸いなのはセリフも少ないし出番もほとんど無いようなものだから、生徒会の仕事との両立は出来そうな所、くらいだ。
「分かった。やればいいんだろ、やれば……」
台本を睨み付けて、最後の抵抗で不満を漏らしてみたが、効果はなかった。
「……ど、どうしよう」
「……デス」
しかし、一番困惑しているのは、ヒロイン一とヒロイン二を演じる事になっている香織とセリアだろう。なんせ、同性愛という設定だし。
「セリアさん、よろしくお願いします」
「カオリ、よろしくお願いしマス、デス」
まあ、二人には頑張れとしか言いようがない。
「じゃあ、俺は生徒会あるから頑張れよ、二人共」
「優一さん、いってらっしゃい」
「いってらっしゃいデース!」
控え目に手を振る香織と、ブンブンと元気よく手を振るセリアに見送られ教室を出る。
生徒会室まで歩く途中、どのクラスも文化祭に向けて熱の入った話し合いをしているようで、放課後なのに賑やかだ。
「お疲れー…………あれ?」
生徒会室に辿り着いて扉を開けて中に入ると、近藤さん、眞島、野田さんの他に見慣れない生徒がいた。
ちょこんと椅子に座り、両膝の上に手を置いてフルフルと震える男子の制服を着たショートカットの女子……いや、男子の制服着てる女子ってなんだ。
「跡野さん、彼は昨日話していた佐伯文くんよ」
「ああ、君が!」
これは確かに、女子が女の子扱いしたくなる理由が分かる気がする。香織は弟みたいな感じと言っていたが、多分、大抵の女子は妹だと思っているんだろう。それほど、可愛い顔をしていた。
「さえちゃん、生徒会副会長の跡野先輩だよ。すごく優しくて良い先輩だから安心して」
「は、初めまして、さささ、佐伯文ですっ!」
「跡野優一だ。そんなに緊張せずに楽にしてくれ」
俺は近くにあった椅子に腰掛け、何の話が始まるのか見届ける事にした。
「あなたが、跡野先輩……」
「ん?」
「い、いえ!」
バッと顔を逸らした佐伯は、近藤さんの方を向いて姿勢を正す。
「怖い先輩は気にせず話を進めましょう」
「誰が怖い先輩だ」
近藤さんは、俺の突っ込みに視線を一瞬向けただけで無視した。
「個人の出し物としてのピアノ演奏で間違いないかしら?」
「はい」
「差し支えなければ教えて欲しいのだけれど、演奏する曲は何かしら?」
多分、近藤さんが佐伯の事を知っていた所を考えれば、近藤さんは単純に興味があるのだろう。全国二位の天才ピアニストがどんな曲を演奏するのかを。
佐伯は近藤さんの質問に、消え入りそうな声で口にした。
「シューマン、リストの献呈、君に捧ぐ。を……」
「シューマン、リストか」「あの曲を」
眞島と近藤さんが驚きの声を上げる。それについて行けない俺と野田さんは首を傾げた。それを見た眞島が眼鏡をクイッと持ち上げて口を開く。
「シューマンという作曲家が、花嫁のクララという女性に結婚前夜に贈ったとされる曲を、リストという人がピアノ曲に編曲したものです。かなり有名な曲ですよ」
「それにかなり難しい曲よね。佐伯くんにとってはそこまで難易度が高いとは思わないけど」
「いえ、僕も練習中で、全然……」
結局、誰が作って誰が編曲したかと難しい曲である事しか分からなかった。まあ、俺が聴く機会なんてなさそうな曲だし、ピンとも来なくて当たり前だが。
「でも、どうしてヒューマン、リストの献呈なのかしら。ピアノ曲に馴染みのない人には、もっと聴き覚えのありそうな曲の方が良いかと思うのだけれど」
「えっと……あの……その曲を聴いてもらいたい人が居て……」
「ほう」「なるほどね」
眞島はまた驚いた表情をしたが、近藤さんはニッコリと笑みを今度は浮かべた。そして、完全に置いてけぼりの俺と野田さんはまた首を傾げた。
「何だか、二人だけ分かってて、疎外感を受けるんだが」
「さっき眞島くんが言っていたけど、ヒューマンの献呈は花嫁に贈られた曲。だから愛をテーマにした曲なの。それを聴かせたい人が居る。そこまで聞けば、よほど鈍くなければ分かるでしょう?」
「ピアノで告白なんてロマンチック!」
野田さんが両手を合わせて黄色い声を上げる。なるほど、佐伯は今回の文化祭を利用して、好きな女子にピアノで告白するつもりなのだ。確かにロマンチックな告白だ。それに奏者が全国二位の天才なのだから、大抵の女子はコロッといきそうだ。
「ありがとう。運営側としてはなんの問題もないわ。演奏時間等が決まったらまたこちらから、お知らせするわ。わざわざありがとう」
「い、いえ、こちらこそありがとうございます!」
「頑張ってね」
「はい! 失礼しました」
佐伯は深々と頭を下げ、そして小走りで去っていった。
「私もピアノで告白とかされてみたいですー」
「やっぱり、音楽家ってロマンチストが多いのかしら?」
何だか生徒会室の雰囲気が甘酸っぱくなる。その雰囲気に耐えきれず、俺はあまり持ち出したくない話題を持ち出さなければいけなかった。
「で、うちの出し物はどうするんだよ」
「そうね、何かいい曲はあるかしら? 私は、キミを探して、がいいと思うわ」
「いいですね! カッコイイし、絶対に跡野先輩に似合います」
近藤さんの言った曲は、人気男性アイドルグループの曲で、ちょっと前に放送されていたドラマの主題歌になっていた曲だ。ピアノ曲の有名な曲は分からないが、その有名な曲は知っている。
「知ってる曲だけど、あれを俺が歌うのか……」
アイドルのようなイケメン達が歌うからいいのであって、俺が歌ってもコレジャナイ感しか無いに決まっている。しかし、知らない曲を歌わされるよりも少しはマシなのかもしれない。
「なあ、眞島も歌ってくれ――」
「一人で歌いましょうね。跡野先輩?」
眞島への助けを野田さんに止められ、助けを求めた眞島は俺に笑顔を返していた。あの野郎、助ける気はサラサラないな……。
「合間を見て練習を始めましょう。さて、次はクラス出し物についてね」
近藤さんはバンドの話を切り、集まったクラス出し物について話し始めた。俺はついさっき会った、気弱な天才ピアニストの事を思い出していた。
香織の言う通り、何だかたどたどしい。しかし、一生懸命好きな人のために何かをしようという気持ちは男らしく思えた。
俺は素直に、佐伯の恋が上手く行けばいいと思った。
文化祭のクラス出し物が出揃い、本格的にどのクラスも準備を始めていた。当初、問題になっていた会計だったが、先生の一喝で問題の生徒は大人しくなったようで、眞島は実に伸び伸びと会計をしている。
会計に代わりの人間を立てる案も検討されたが、本人がみっともないと断固拒否したらしい。まあ、わがまま言って実行委員会を降ろされた。なんて、そりゃあ恥だろう。
かなり不安だった文化祭実行委員会も、最初にトラブルが幾つか発生はしたが、その他には大した問題は起こっていない。書記も、三年の生徒がいい人だという事もあって、俺への批判も無い。
「あと、残っている問題とすれば、個人の出し物が少ない事かしらね」
近藤さんが、議題が消化された中に新たな議題を放り込む。確かに近藤さんの言う通り、前年度と比べると極端に少ない。しかし、その理由は分かっている。
佐伯のピアノ演奏だ。
何処から漏れたかは分からんが、全国二位の天才ピアニストが、好きな人のためにピアノ演奏で告白する。なんて噂が生徒内で広まっている。そのせいで、みんな尻込みしているのだ。
全国二位の実力者の演奏である上に、ピアノ演奏での告白。そのインパクトはでか過ぎる。そんな出し物をされたら、この手の出し物に積極的な目立ちたがり屋達は敬遠してしまう。明らかに、自分達より目立つし注目されるからだ。自分達が引き立て役にもならないと分かっているステージに、出たがる猛者はそうそう居ない。
「何か、いい案はないかしら?」
生徒会でも、良い出し物をした人には何か表彰状でも上げましよう。という案が野田さんから出たが、高校生が表彰状を求めて参加するというのはまず有り得ない。と、却下された。その野田さんの意見から、副賞の用意も検討した。だが、限られた予算の中では、参加者が増えるような副賞の用意も難しいという結論が出た。
しかし、このまま参加者が少ない状況を放置する訳にはいかない。せめて、前年度と同程度の参加者は確保したいところだ。
「生徒会でも色々と検討はしてみました。ですが副賞の用意は、予算の都合上厳しい」
「各クラスに協力してもらって、模擬店の割引券等を発行させてもらうのはどうですか?」
二年の実行委員から意見が出る。
「個人の出し物は文化祭閉会式の直前に行われます。その頃には、もう模擬店を出しているクラスはないですね」
俺がそう言うと、少し表情を暗くしてその二年は俯く。
「まあ、あんなの出されたら、みんなやりたいとは思わないよな……」
「全国二位の天才ピアニストがピアノで告白。だもんなー、俺だって嫌だわ」
呟かれる言葉は、終始ネガティブなものばかり。このままでは良い意見は出そうにもない。
「時間も時間だし、今日の所は終わりにしましょう」
近藤さんがそこで会議の終了を提案する。まあ、妥当な判断だろう。この状況に陥ったら、ただ無駄な沈黙が流れるだけだ。
実行委員会のメンバーが帰っていく中、俺は個人の出し物に参加申請をしている生徒と、その出し物の一覧を眺める。
「ピアノ演奏、マジック、コントライブ、それに一人演劇……。近藤さん、これ部門を分けて募集したらどうだ?」
「部門を分けて?」
「そう、例えばピアノは音楽部門、マジックは一芸部門、コントライブと演劇は演技部門みたいな感じで。それで部門別に順位を付けるんだ。それなら、佐伯と競合しない他の部門に参加する人が出てくるかもしれない。まあ、それで佐伯のピアノ演奏ってインパクトは消せないが、同じ括りで評価されないってだけでも参加のハードルは下がると思うんだが」
「確かに、跡野さんの言うとおりかもしれないわね。明日の会議で検討してみましょう。でも、もう少し早く思い付いてくれたら、さっきの会議で検討できたのだけれど」
「すまんな、間が悪くて」
「でも、少しは問題解決に光りが見えてきたわね。ありがとう跡野さん」
「まあ、仕事だしな」
会議室には、生徒会の四人と書記と実行委員長の六人しか残って居ない。でも、明日でもまだまだ間に合う。だからわざわざ呼び戻して話し合う事でもないだろう。
「思いの外、順調に進んでいるわね」
「ああ、ちょっとトラブルはまだ残ってるけどな」
「場所取り問題ね。中庭への模擬店出店申請が山ほど来てるわ」
「まあ、公平に抽選で決めるしかないだろうな。それで文句が出たら、俺は知らん」
背伸びをして背もたれに寄り掛かる。すると、静かな会議室にピアノの音色が聞こえてくる。学校の喧騒の隙間から漏れ聞こえる程度だが、素人の俺でも綺麗な音だと思う音色だった。
「佐伯くんの練習音かしら。もう、練習の時点で完璧ね」
「ですね、練習も必要無いんじゃないですか?」
音楽に詳しい近藤さんと眞島が、ピアノの音に耳を澄ませてそう言う。今の時点で完璧という事は、練習したらどんなことになるのか想像も付かない。
俺は、音楽に全く詳しくない。だから、音楽を聴くと「良い曲だな」「上手いな」くらいの平凡な感想しか思い付かないし、理解する事は出来ない。でも、その道に詳しい人には、それよりも一歩先の『表現力』というのも分かるらしい。
俺のような凡人では気付きようもない、音の強弱や演奏の緩急等で、演奏者の特色が出てくるらしい。ただ楽譜をなぞる事さえも出来ない俺には、やっぱり分かりようのない域の話だが。
「それで、さえちゃんは誰に告白するんですかね?」
三年が議事録を書くのをフォローするのにも慣れたのか、野田さんがニコニコ笑いながらそんな話しを振ってくる。なんとも女子らしい話題のチョイスだ。
「そういうのは、二年の俺達よりも同じ一年の野田さんと眞島の方が詳しいんじゃ無いのか?」
「いや~でも、さえちゃんと時々話しますけど、誰と話しても緊張してるから、誰が好きなのかって良く分からなくて」
確かに、佐伯のあの感じでは、人見知りで緊張しているのか、好きな人と話して緊張しているかの判断は難しい。
「眞島は佐伯と話したりしないのか?」
「いえ、僕は全く話さないですね。クラスが別というのもありますが、佐伯くんの周りには大抵、女子が集まっていますから」
「なるほど、モテるんだな~佐伯」
「まあ、少しモテるの意味は違うかもしれませんが」
眞島の言わんとすることは分かる。多分、異性としてモテているというよりも、マスコットとしてモテているという事だろう。
「結構みんなが、誰に告白するの? ってさえちゃんに聞くんですけど、笑って誤魔化されるばかりで。今度また聞いてみようかな~」
「本人が言いたくないんだったら、興味本位で詮索しないようにな。佐伯の性格だと、ピアノ演奏の件が広まってるだけでも気にしてそうだし」
「跡野先輩はやっぱり優しいですね」
「全国二位になるくらいだから、メンタルが弱いって事はないだろうけど、トラウマにでもなったら可哀想だろう」
ふと時計を見れば、もう下校時間が差し迫っている。事が順調に進んでいるから良いが、この時間の進む早さは異常だ。この調子じゃ、油断してたらすぐに文化祭当日、なんて事になりかねない。
「さて、今日はもう終わりね。後片付けが済み次第帰りましょう」
後片付けが終わって生徒会室に戻ったときには、既に下校時間を過ぎてた。今が文化祭準備期間である事と、俺が生徒会の仕事で遅れたという理由があれば、そんなに怒られないとは思うが早く帰るにこしたことはない。それに、校門で香織を長く待たせるわけにもいかない。
「ねーねー、私、さえちゃんが誰に告白するか分かっちゃったかも」
消灯されて薄暗い廊下の先で、並んで歩く女子生徒二人の後ろ姿が見える。そして、静かな廊下だからか、それとも女子の話し声だからか、遥か後ろに居る俺の耳までその声が届いてきていた。
「え? 誰々? 私はバレー部の琴子ちゃんだと思ってたんだけど」
「違う違う、二年の駿河さん」
「え? 駿河さんって駿河香織さん?」
俺は急がしていた足を止めた。
「そうそう、ここ最近、さえちゃん第二音楽室で練習してるんだけど、そこに駿河さんいっつも居るの。しかも二人っきりでだよ~」
「え~でも、駿河さん彼氏居るじゃん。同じクラスの、一個上の人」
「もしかしたら、駿河さんさえちゃんに乗り換えるんじゃない? なんか駿河さんってしっかりしてるし、どっちかと言えば年上よりも年下の方が合ってるし。それにさえちゃんが絶対駿河さんの事を好きだと思うの」
遥か前で話している女子達も立ち止まってしまい、俺は彼女達から離れる事も出来なかった。それに、その話が女子の噂話だとしても、俺には無視する事は出来なかった。
「昨日、さえちゃんに好きな子って同い年? って聞いたら恥ずかしそうに年上です。って言ってたし、それに先輩はもちろん同い年の子にも名字にさん付けなのに、駿河さんだけ香織さんって呼んでたし」
「あー分かり易いー。なんか可愛いね」
彼女達の話は、それから全然関係の無い芸能人の話に変わった。そして、話しが変わった途端に歩みを再開して、廊下の先、その闇の中に消えていく。
いや、佐伯が香織を好きだとしても、香織が佐伯を好きだとは限らない。
『ここ最近、さえちゃん第二音楽室で練習してるんだけど、そこに駿河さんいっつも居るの。しかも二人っきりでだよ~』
いつも。二人きり。その単語が頭の中に黒い何かを落とす。俺は毎日香織と一緒に帰っていた。でもその前に、香織は、佐伯と会っていた?
「いや、噂だ。女子の噂話ってだけで、本当に佐伯と香織が二人っきりだって事は」
「いつも、二人で会ってますよ」
「ッ!?」
俯いて呟きながら歩いていた俺に、そんな声が聞こえた。その声が聞こえた正面に向かって顔を上げると、鞄を肩に掛けた佐伯が立っていた。でも、その佐伯は俺が知っている、俺が見た佐伯とは別人のようだった。
たどたどしさは皆無、それどころか胸を張って直立しているその立ち姿は自信に満ち溢れている。そして、緊張で詰まっていた声は、良く通る上に冷たい声に変わっていた。
「跡野先輩。香織さん、頂いちゃいますね」
「佐伯、お前、何言ってるか分かってるのか?」
その瞬間、俺は佐伯の認識を改めた。コイツは俺の敵だ。
「分かってますよ。跡野先輩から香織さん奪って、俺の物にするんです」
「なるほどな、そっちの時、いや本性表してる時は俺なのか」
ニヒルな笑みを浮かべる佐伯に、俺は声を一段低くする。
「言っておきますけど、何の取り柄も無いあなたに負ける気なんてしませんよ? こっちは一年で可愛いと評判の美少年。それに、全国クラスの天才ピアニスト。対するあなたは、留年したただの二年生。ほら、天と地どころか、比べるのも俺に失礼だ」
「自分で自分の事を天才って言うと、なんだか滑稽だな」
「事実ですからね」
口には出さないが、コイツが何故全国二位なのかが分かった気がする。それは、全国二位の実力を持っている理由ではなく、なんで全国一位になれなかったかだ。
いくら技術があっても、いくら表現力という個性があっても、佐伯のは灰汁が強すぎる。その灰汁をハングリーさやストイックさと捉えられる人には、佐伯の個性は受けるかもしれない。でも、その灰汁が明らかにピュアではなくインピュアだ。演奏から奏者の個性や人柄まで感じ取れるという感受性の高い審査員だったら、そのインピュアな佐伯を感じるだろう。だから、全国二位なのだ。
「もう、香織さんは俺に心酔してますよ。毎日俺が彼女のために弾いてるんですからね」
「そうか」
俺はもうコイツと話す事はない。そう思って歩き出して佐伯の隣を通り過ぎようとする。その瞬間、佐伯はフッと笑って口にした。
「文化祭の個人の出し物に跡野先輩も出るんですよね? そこで勝負しましょう。どっちが彼女に相応しいか。うわー俺って優しー。もう勝ち決まってるのに、元彼にチャンスあげるなんてー」
クククッと笑う佐伯の声を後ろに聞きながら、俺は右手の拳をグッと握った。
クソ野郎が。今すぐぶん殴ってやりたい。
あの人格の使い分けは完璧だ。おそらく、本性を俺に今見せたのも、ほぼ確信しているからだろう。香織が自分の事を好きだと。でも、俺は、信じるしかない。香織が俺の事を好きで居てくれるという事を。香織と過ごした今日までの積み重ねを。
校門で香織と落ち合って一緒に帰り始めた。
俺は、隣を歩く香織に視線は向けず意識だけ向ける。香織に確かめるしかない。大丈夫、ただ聞くだけだ。「香織が好きなのは俺だよな?」そう聞くだけでいい。それでそうだと言ってもらえればいいのだ。それだけで十分だ。
「そういえばね。今日、佐伯くんがピアノを弾いてくれたんだよ。あの、有名な曲、名前なんて言ったかな~」
足が止まる。
「優一さん?」
立ち止まった俺を、数歩先から振り返る香織が首を傾げる。その距離が、もの凄く遠く感じた。
「なんで、佐伯の話なんだ?」
バカ、俺は何を言ってるんだ。
「えっ? ……なんか、優一さん元気ないから。何か楽しい話をしようと思って」
「俺と居るより、佐伯の話してる方が楽しいのかよ」
俺が、その言葉を発してしまった。その瞬間に、確かに、香織との距離が離れるのを感じた。
「そんな事、私、言ってない」
香織の顔は険しい。俺を探るような、疑うような視線。
「毎日、あいつと二人っきりで居るんだってな。ピアノ引いてるカッコイイ佐伯と一緒に。密室の音楽室で」
「……何、その言い方」
もっと距離が開いた。もう、手を伸ばしても届かない、途方も無い距離に。
「否定しないのかよ。彼氏に黙って男と二人きりで会ってるって、どういう事か分かってるのか?」
「佐伯くんはただの友達だよ。それに女の子っぽ――」
違う。アイツは女の子っぽいなんて笑いたくなるくらい、反吐が出るくらい男の本性を持っている。それに、真正面からぶつかってくる神崎なんて可愛いと思えるくらい、陰湿な奴だ。
「友達? 女の子っぽい? 笑わせんな。あんなの明らかに香織の事が好きだって決まってるだろうが! 香織は狙われてんだよ。あいつは……あいつは他人の彼氏にちょっかい出すような――」
その一瞬だけ、俺と香織の物理的な距離は一番近かった。でも、左頬に痺れるような痛みを感じた瞬間、俺は香織から心の距離を突き放された。
香織の平手打ちが、俺の頬を打った。
「佐伯くんをそんな風に言うなんて、酷い。優一さんがそんな人だとは思わなかった! 佐伯くんは一生懸命頑張ってピアノを弾いてただけだよ! 私だって優一さんを待ってる間に聴かせてもらってただけ! なのになんでそんな言い方するの? 優一さん最低だよ!」
香織は後ろを振り返り走って行く。その後ろ姿を追い掛けようとした。でも、足が踏み出せなかった。
その日、俺達の毎日欠かさなかったあの約束が、初めて途切れた。
「あ……ぱい……との……い……跡野先輩!?」
「あっ、えっ? なんだっけ?」
「報告書、先生に提出してきました」
「あ、ああ、お疲れ」
「跡野先輩、それ、桁が一つ間違ってます」
「うわっ! す、すまん眞島!」
生徒会室の机に座って作業をしているうちにボーッとしていて、野田さんと眞島に心配した表情を向けられる。そして、正面に座っている近藤さんは、俺の顔を見て露骨にため息を吐いた。
「跡野さん、体調が悪いなら――」
「大丈夫だ」
「……跡野さん、そんな状態で仕事をされても邪魔なだけ。帰ってもらえるかしら?」
「近藤先輩! そんな言い方――」
「他の人の仕事を手伝うどころか仕事を増やしてる状況よ。そんな人、このまま居てもらっても邪魔なだけ」
「先輩! 跡野さんに今すぐ謝――」
「野田さん、近藤さんの言うとおりだ。迷惑掛けてすまない。今日は、お言葉に甘えさせてもらう。本当に申し訳ない」
鞄を手に取って生徒会室を出る。体が重い。
今日の朝、香織といつも待ち合わせている場所に、香織は来なかった。そして、学校でも香織は視線も合わせてくれなかった。完全に、避けられていた。
香織は、アイツの本性を知らない。だから香織からしたら、俺は何の罪も無い後輩を悪く言う奴に見えただろう。それに、香織の話に過剰に、的外れな反応を俺はした。それは完全に俺が悪い。
「謝らないと……」
それだけを、朝からずっと考えていた。謝って済むかどうかは分からない。でも、謝らなければ、もっと悪い状況に陥る。それは、嫌だった。
俺の足は校門ではなく、第二音楽室に向かっていた。
大丈夫。絶対に佐伯は居るが、香織だけを呼び出して別の所で謝ればいい。たとえアイツに見られたとしても恥なんて思わない。香織に完全に嫌われてしまうくらいなら、そんな恥、何度だって掻いたって良い。
階段を上り、アイツが奏でるピアノの音が近付いてくる。人気の少ない管理棟の三階に第二音楽室はある。第一音楽室は吹奏楽部の練習で使うためか、広めで幅広の段差が何段かある。でも、第二音楽室は壁が有孔ボードであるところは第一音楽室と同じだが、それ以外は普通の教室と変わらない。その第二音楽室には黒いグランドピアノが一台だけある。それで佐伯は練習をしているのだろう。
階段を上りきって第二音楽室に近付く途中、ピアノの演奏が止まる。そして、半開きになった第二音楽室の前に立つと、中の様子と中に居る二人の話し声が聞こえてきた。
「き、昨日、帰りに跡野先輩に会って怒られちゃいました」
「えっ?」
「俺の女に近付くなって……ちょっと、怖かったです……」
根も葉もない戯言だ。でも、それを証明出来る人間は俺か佐伯しか居ない。そして、香織はどっちを――。
「ごめんね、佐伯くんは何も悪くないのに……」
「香織さんが信じてくれたら、僕はそれで良いです」
香織はこちらに背を向けて、佐伯を抱き締め、佐伯の頭を優しく撫でていた。そして、佐伯は俺の姿を目に捉えて、笑った。
踵を返して出来るだけ音を立てないように、出来るだけ早くその場から離れる。
上ってきた階段までたどり着くと、急いでその階段を駆け下りた。
一番下まで下りたらすぐに靴箱まで走り、靴を急いで履き替えて校舎を飛び出す。
そして、息を切らしながら校門を飛び出して、俺は速度を緩めて歩き出した。
香織は俺に怒った。佐伯を庇うために怒った。佐伯を守るために怒った。そして、香織は、佐伯を抱き締め、佐伯に優しさを掛けた。
香織は、朝、俺を待たずに学校へ向かった。香織は、俺に視線を合わせてくれなくなった。
香織は、俺の目の前から居なくなった。
歩き出しながら、溢れ出てこようとするものを必死に堪える。堪えなければ、ここでしばらく動けなくなる。
……俺達は、もう、ダメかもしれない。




