23【疾風勁草】
【疾風勁草】
体育祭という行事を、俺は走ったり球を籠にいれたり、はたまた縄を引っ張り合う行事だと思っていた。だが、実際はそうじゃないかった。
「跡野先輩、どうしましょう……体育委員会に確認に行ったら、まだスローガンが決まってないって言われました……」
「何だって?」
「跡野先輩! 白組から横断幕やチーム看板製作用の予算が足りないとクレームが!」
「ああ、もう! わがままな奴らだな!」
テーブルの上に置かれた各チームの代表者が書かれた紙を引っ張り出し、白組の代表者を確認する。
「近藤さん、どっちか手伝ってくれ」
「ごめんなさい、それは無理だわ。先生からプログラムの一つを変更するように言われたの」
「順番を入れ替えるだけならなんとかならないのか?」
「競技が丸々一つ無くなったわ。来賓者競技を設けていたけど、去年の参加人数が芳しくなくて廃止にする事にしたらしいわ」
「今更廃止って、空いた穴どうするんだよ……」
「プログラムをいじってどうにかならないか、考えてみるわ」
「そういう事なら、仕方ないか……」
野田さんの方も眞島の方も、どっちもトラブルの元になった人と話さなければいけない。そして、どっちも三年が相手だから、一年の二人は強く言えないだろう。俺の精神安定上、どっちかは近藤さんに手伝って貰いたかったが、仕方がない。
「眞島はちょっと赤組の進捗状況を確認してきてくれ。野田さんは……」
「出来れば、こっちを手伝ってほしいわ。空いた穴を埋めるために競技を増やそうと思うのだけれど、各学年の競技数を纏めてほしいの。競技数に偏りがあると不満が出てしまうから」
「「分かりました!」」
眞島は生徒会室から駆けだし、野田さんは近藤さんから仮プログラムを受け取って早速競技数を纏め始める。その三人を見て、俺はフッと息を吐いて生徒会室を出た。
学校の中では、吹奏楽部がマーチングの練習をする音が聞こえる。その軽快な音楽の合間には、応援団の応援練習の声も聞こえる。普段の放課後より、少しだけ学校内が賑やかだ。
体育祭が近付いて、学校内は雰囲気がガラリと変わった。特に三年は目に見えてやる気に満ち溢れている。最後の体育祭、それに情熱を懸けたくなる気持ちも分かる。それに、やっぱり彼女が居れば格好いいところを見せたいと、見栄を張りたくなる気持ちも分かる。だが、今回は俺は体育祭でまともに競技をする事はない。
体育祭の準備はもちろん、当日もやる事が多くまともに競技に出る事は出来ない。まあ、今の俺がどんなに頑張っても、せいぜい一〇〇メートル走で六人中四位が良いところだろうから、チームへの貢献度は居ても居なくてもあまり変わらないだろう。
とりあえず、先に白組のトラブルをどうにかしないといけない。体育委員会のスローガンの方は、白組の対応をしている間に終わる可能性もある。
忙しいが充実もしている。それに、もう少し頑張れば、下校時間だ。
体育祭を明日に控えた日の早朝、連日の仕事疲れが残り、朝っぱらから半日過ごしたような疲れを感じる。
「優一さん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫。最初の方はちょっとしたトラブルが頻発してたけど、ここ最近はそういうのはないし」
「でも、最初の頃より疲れてるよ?」
「まあ、疲れが溜まってるのかもな。でも、体育祭が終わればとりあえず一段落するし大丈夫だ」
隣をある香織が心配そうにしている。その心配を打ち消そうと、俺は香織に大丈夫という言葉と一緒に笑顔を向けた。
「お? あれって二ノ宮と……都宇部か?」
俺達の十数メートル先に隣に並んで歩く男女が見えた。後ろ姿から女子は二ノ宮だとすぐ分かる。男子の方はしばらく見詰めてから都宇部だろうと思った。
「二ノ宮先輩と都宇部先輩、最近よく一緒に帰ってる。一緒に登校するのを見たのは初めてだけど」
「ああ、最近二ノ宮にからかわれないと思ったらそういう事か」
最近は、生徒会の仕事が立て込んで、生徒会の仕事を終える頃にはサッカー部はみんな帰宅していた。俺を待っていてくれる香織以外のサッカー部とは最近顔を合わせていない。
しっかし、二ノ宮もついに彼氏を作る気になったか。いや、運命の相手が見付かったのか。
都宇部の事はよく分からんが、会った感じ悪い奴ではなさそうだったし、何よりあの二ノ宮が選ぶのだから間違いはないだろう。男の俺より男の事が分かってるだろうし。
校舎に入って靴を履き替え、香織と一緒に教室に入ると、元気の良い挨拶が聞こえてきた。
「ユーイチ! カオリ! おはよーございマース!」
「おはよう、セリア。いつにも増して元気がいいな」
「おはよう。セリアさん」
右手をヒョイっと挙げて挨拶してくるセリアに苦笑いを浮かべていると、セリアは挙げていた右手を胸の前まで下ろし、グッと拳を握った。
「明日は天下分け目の戦いデス! ユーイチ! 直江状は書いたデスカ!?」
ニコニコしながら刀を抜く動作を真似るセリアを見詰めていると、視界の端にどんよりとした雰囲気を放つ一角が見えた。その中心には、机に突っ伏す男子の後ろ姿が見える。
「跡野さん、おはようございます。杉下の奴、今日の朝、二ノ宮先輩と都宇部先輩が一緒に登校するの見たらしくて、それで凹んでるみたいです」
「おはよう高嶺。まあ、好きな女の子が男と仲良さそうに歩いてたら凹むだろうな」
告白して振られたのだから、杉下も表面上では割り切った感じではあった。でもそんな簡単に諦められるものでもない。それは、好きであればあるほど、どうしようもない事なのだ。
それだけ、杉下が本気で二ノ宮の事を好きだったという事だ。
「とりあえず、俺、ちょっと声、掛けて来ます」
高嶺がそう言って杉下に駆け寄っていく。まあ、高嶺も居るし、もう少し時間が経てば杉下も前へ歩き出せる時が来るだろう。
その日は、午前は通常授業だったが、午後からは体育祭の準備に当てられる。そして、午後が始まった途端に問題が発生した。
「優一さん……明日、二人三脚に出られる?」
「二人三脚? ああ、ちょっと難しいかも。会長も俺も競技は出られないだろうからな」
「そっか……」
サッカー部を含む運動部は会場設営を手伝ってくれる事になっている。だから、香織もその手伝いに行くところなのだが、生徒会室に行く前の俺を呼び止めて、二人三脚に出られないか聞いてきた。
生徒会は、体育祭当日も生徒代表雑用係の異名に違わぬ量の雑用が待っている。その間に二人三脚に出るのは難しいだろう。
「二人三脚がどうかしたのか?」
「うん、私、優一さんが出られなかったら、他の男子と一緒になるかも」
「えっ? いや、女子に二回走ってもらえよ」
「うちの学校、二人三脚は男女じゃないといけないみたいで……」
「そ、そういえば……」
近藤さんも競技に出られない事について「汗臭い男子と体を密着させずに済んで、私は好都合だったわ」と言っていた。それにプログラムにも『”男女混合”二人三脚』と書かれていた気がする。
「私……優一さん以外とするの、嫌だな……」
傍から見れば、なんてわがまま人だ、だと映るかもしれない。でも、俺だって同じ気持ちだ。
香織が他の男とくっついているところなんて見たくない。
「……どうにかする」
「本当!?」
俺がそう答えると、香織はパッと表情を明るくする。
どうにかして余裕を作って二人三脚には出たい。香織が他の男と肩組んで走ってるのを遠くから指を咥えて見てるなんて出来るものか。
「じゃあ、また後でね」
「おう、怪我には気を付けてな」
「うん!」
香織と分かれて生徒会室に行き、ゆっくりと扉を開けると、なんだか騒がしい声が聞こえた。
「会長、どうしましょう」
「困ったわね」
「ここに来て、いきなりはちょっと……」
既に来ていた三人がパソコンの画面を見ていて、俺が中に入ると野田さんが駆け寄って来る。
「跡野先輩! どうしましょう!」
「どうしましょうって、一体何が――」
「当日にアナウンスを担当する予定だった生徒が喉を壊しちゃったの。今から代役を募ろうかと思うのだけれど……」
「居ないだろうな……」
競技内のアナウンス役は、事前に募集をかけても希望者が居らず、やっとやってくれる人を見付けたのだ。その人がダメになったのなら、今から探して次が見付かるとは思えない。
「先生に事情を話したら、生徒会から出すように言われたわ」
「生徒会から出すって、もう野田さんが出てるだろ」
そもそも、長時間のアナウンスをたった一人の生徒でこなせるわけはない。だから生徒会から野田さんを出して二人でやってもらう予定だった。
「眞島は……そういえば、眞島は……無理か」
「すみません。時々なら大丈夫ですが、常にあそこに詰めていないといけないと言うのは……」
眞島は実は吹奏楽部員で、吹奏楽部は要所要所のファンファーレ演奏や、午後の部開始前にはマーチングの演奏がある。だから、演奏準備等の関係もあって当日の仕事量は絞っている。その分、眞島は準備の仕事を人一倍頑張ってくれた。
「近藤さんは……」
「何を言っているの? 早々に私を除外したのは跡野さんじゃない。まあ、私も自分には不向きだと思っていたけど」
「そ、そうでした。すみません」
生徒会から一人アナウンス要員を出す事になった時、俺は女子の声の方が印象が良いからという理由で、野田さんを推した。そして同じ女子である近藤さんを推さなかったのかと言うと、声の印象が刺々しいからだ。
全校集会等の気を引き締めないといけない時には、近藤さんの声は合っている。でも、体育祭の応援はもう少し明るい声が必要だ。
「という事で、跡野さんね」
「俺が当日割り当てられてた仕事はどうするんだよ」
「先生方が全員で手分けしてくださるそうよ。緊急事態という事だし」
「そうは言われても俺も不向きだと……」
「跡野先輩とがいいです」
「一番負担が増える野田さんの希望は尊重するべきだわ」
確かに、この状況で一番大変なのは野田さんだ。野田さんの意見を尊重するという近藤さんの気持ちも分かる。
だが、うちの学校のグラウンドには、放送塔と呼ばれる、小さなコンクリート製の建物がある。体育祭の放送はその小さな建物からやるのだ。つまり、野田さんとあの狭い部屋で長時間過ごす事になる。
「分かった。だけど、一つだけ条件がある」
野田さんと二人であの狭い部屋に居ることになる。なんて香織が聞いたらどう思うだろう。でも、ただで帰るわけにはいかない。
「その条件とは?」
「二年の二人三脚に出させてくれ」
「……分かったわ。その間だけ私が代役をすれば良いのね」
香織が聞いたらどう反応するだろう。野田さんと一緒という事を心配するのか。それとも、一緒に二人三脚に出れるのを喜んでくれるのか……微妙だ。
「とにかく、これで何とかなりそうね。最後の最後にとんでもないトラブルが起きたけれど、今日は何もする事が無いわ。眞島くんも野田さんも、部活の方に戻って大丈夫よ。跡野さんは……プログラムをちゃんと読んでおいて。あと、これがアナウンス用の台本よ。台本と言っても競技の説明等を纏めた物だけれど」
「ありがとう」
近藤さんから紙の束を受け取り、視線を向けると俺の方をジーッと見て、チラリと野田さんに視線を向けたと思ったら、ハァっとため息を吐いた。
「跡野さんも大変ね」
「ん?」
「いいえ、こっちの話よ。では、解散」
近藤さんの解散号令で眞島と野田さんは部の方に戻って行く。そして残された俺は鞄に台本を仕舞う。
「野田さん、跡野さんの事が好きなのね」
「そうなのか?」
「跡野さんも気付いていると思ったけど? でも、明確に拒絶してないという事は、きっと告白をされてないから拒絶し辛いのでしょうね。跡野さんの性格上、二股なんて出来そうもないし」
椅子に座った近藤さんは俺を見て真顔でそう言う。なんでちょっと見ただけでそこまで分かるのか不思議だ。
「私、男の人が嫌いなのよ」
「いきなり何なんだよ」
「特に高校生なんて女子を性の対象にしか見てないでしょ?」
「それは偏見だと思うぞ」
「そうね、そうかもしれないわ。でも、学校内で女子生徒のスカート内を覗こうとしたり、胸の大きさで順位をつけたり、そんな男子ばかりだもの」
まあ確かに、近藤さんの話は概ね間違ってはいない。でも思春期なのだから、女子に興味を持つのは仕方のない事だ。それに興味がないと言う方がおかしい。
「でも最近は、男子にもそういう人ばかりではないかと分かったわ」
「そうか」
「眞島くんは真面目だし、一生懸命でたどたどしい所はあるけどいい子だわ。それに、跡野さんはやっぱり年上だからかしら、頼りになるし安心感があるわ。駿河さんが跡野さんと付き合っている理由が分かったかもしれないわ」
「そりゃあどうも」
真顔で言うものだから、素直に褒められているとして喜んで良いのか分からない。
「私、今のメンバーなら楽しく生徒会をやれると思う。きっと、今度の文化祭だって、今までで一番楽しい文化祭に出来ると思う。でも、それには一つ問題があるわ」
「問題?」
「跡野さんと野田さんよ。もし、跡野さんが明確に拒絶すれば、きっと野田さんは落ち込んで生徒会の雰囲気が悪くなると思うの。だから、断るなら雰囲気を壊さないように気を付けてくれるかしら」
これは釘を刺されているのだろうか? 遠回しに生徒会で変なトラブルを起こさないように言われているのかもしれない。
「ごめんなさい。跡野さんに無駄な時間を使わせてしまったわ」
「いや、近藤さんがどれだけこの生徒会を好きか分かって良かったよ」
「からかわないでくれるかしら?」
からかったつもりはないが、近藤さんはフンと顔を逸らして椅子を回して背を向ける。
「私はやる事があるから」
「了解。俺はクラスに戻る」
「さようなら」
「おう、また明日」
生徒会室を出て、うちのクラスと言うか、うちの組のテントが設置されるはずの所に行くと、既にテントの組み立ては終わっていた。そして、今まさに看板を設置しようと言う所だ。
「右デース! もう少し左デース! 少し右デース左デース。オー! ユーイチデース!」
「セリア、設置の誘導に集中しろよ。男子が困ってるぞ」
「オウ! ごめんなサーイ!」
特にやる事もなくボケッとしていると、遠くから聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえる。
「神崎! ちょっと来なさい!」
「あー、二ノ宮また神崎に怒ってるのか。今度はなんだ?」
「女子のお尻眺めてる暇あったら手を動かしなさい! 遊びでやってるんじゃないのよ!」
二ノ宮の容赦ない声に、周りの女子がクスクスと笑い声を上げる。そして周囲に居た女子マネージャー達は神崎にお尻を向けないように立つ。
「いくらサッカーが上手くても、与えられた仕事を適当にやる男なんかに、お尻見せる女子なんて居ないわよ! 分かったらさっさと手を動かす」
「チッ……」
「あ? あんた、今舌打ちしたでしょ」
「あーマズイ……」
明らかに穏やかな雰囲気ではなくなったサッカー部に近付いて歩くと、神崎の胸倉を掴んだ二ノ宮を、マネージャー達が引き離そうと近付く。しかし、下級生は全員二ノ宮の雰囲気に負けて後退っていた。
「二ノ宮、声がデカイぞ。向こうまで聞こえてた」
二ノ宮の肩に手を置いて落ち着かせようとすると、二ノ宮は神崎を睨んだまま怒りの収まらない声を出す。
「この生意気な一年に対する制裁なんだから聞こえるように言ったのよ。跡野もキレていいわ。こいつ香織のお尻を見てたんだから」
俺はその言葉を聞いて、二ノ宮の肩からヒョイっと手を退けて、両腕を組んで神崎を見詰める。俺と目が合った神崎は、舌打ちと共に視線を逸らす。
「あんたねー」
「神崎、今から香織に告白しろ」
「「はぁ?」」
俺が発した言葉に、二ノ宮と神崎が同時に同じ声を出す。二人共、何を言っているんだこいつは、といった表情だ。
「香織の事好きなんだろ? 彼氏としては心中穏やかじゃないが、目を瞑る」
「何言ってんだあんたは。こんな所で――」
「先生達は居ないぞ」
「他の生徒が居るだろうが!」
「そうか。香織、ちょっと来てくれ」
後からおずおずと香織が歩み出てきて俺の隣に並ぶ。そして、俺の方を向いて不安そうな顔を向けた。
「香織、後で文句は全部聞く。だからごめん」
「えっ? 優一さ――ンッ!?」
香織の言葉を聞く前に、俺は唇で香織の言葉を塞いだ。
「「うおおぉ!」」「「「キャーッ!」」」
周りから低い歓声と黄色い歓声が聞こえる。目の前に居る香織は顔を真っ赤にして俺の目を見ていた。
「本気で好きだったら、人前だって関係ない。彼女に纏わり付く悪い虫を遠ざける為なら、こんなの恥でも何でもない。この状況で告白さえも出来ないんだったら、神崎、お前は俺より香織の事を好きじゃないって認めるって事だよな?」
そのうち諦めるだろうと思って放置していたが、もう我慢の限界だ。ここらでケリを付けておかないと、もっとつけ上がる。
「出来ないならいいぞ?」
「駿河先輩から離れろ。邪魔だ」
「そうか。じゃあ俺は離れて見てるわ」
マネージャー達の隣に立つと、一緒について来た二ノ宮が俺の脇腹を小突く。
「あんたも大胆ね」
「茶化すな。俺だって怒ってるんだ。自分の彼女が他の男のいやらしい目に触れたんだからな」
「ごめん」
少し離れた所に居る香織と神崎は向かい合っている。神崎は両手の拳を握って、顔を香織に向けるように上げた。
「駿河先輩、俺は――」
「ごめんなさい。私、神崎くんの事嫌いだから」
周りが静まり返る。俺も予想外の展開で言葉に詰まる。まさか、告白をさせないとは思わなかった。
「サッカーは確かにすごく上手い。それは素直に凄いと思うし、神崎くんの長所だと思う。でも、ごめんなさい。私が神崎くんの長所で思い付くのは、それだけなの」
「駿河先輩……」
「後片付けも私が見てない所では適当にやってる。そういうの、私が知らないと思ってた? もちろん、選手とかマネージャーから聞くのもあるけど、あなたが片付けたものを見れば、すぐに分かるの。あっ、この汚れが残ってるのは神崎くんがやったんだなって、他の人のものと比べたら一目瞭然。神崎くんは部で一番サッカーが上手いかもしれない。でも、私にとったらあなたは部で一番信用出来ない人よ」
オブラートに包む気のない、辛辣な言葉。香織がこんな言葉を使うなんて意外だ。
「優一さんが夏の間だけサッカー部を手伝ってくれた時、神崎くんのやり残しをやってたのは全部優一さんだったの。マネージャーに気付かれる前に全部フォローしてくれてた」
「げっ! き、気付いてたのかよ……」
香織の言葉に思わずそう声を出すと、二ノ宮がまた俺の脇腹を小突く。
「言っとくけど、マネージャー全員知ってたから」
「何ッ!?」
俺がマネージャー達の方を見ると、あははっと笑っているのが見えた。絶対に人目に付かないように気を付けてたのに……。
「マネージャーの中ではね。神崎くんがやった仕事はもう一度チェックするようにしてるの。絶対に手を抜いてるところがあるから。でもね、優一さんが手伝い始めてから、神崎くんの仕事はやり残しがなくなったの。すぐに、優一さんがフォローしてるってみんな分かった」
どうやら、完全に神崎はマネージャー陣からの信頼を失っていたらしい。しかし、選手としてはピカイチだし、一年でレギュラーに選ばれて妬み等で精神的に大変な部分もある。だから、多少は仕方ないと思って俺もやっていた。しかし、それがマネージャー陣にバレていたとは思わなかった。
「きっと優一さんの事だから、神崎くんが一年生でレギュラーだから色々大変だろう。そうやってフォローしてくれてたんだと思う。私はそんな優しい優一さんの事が好き。そんな私が、大好きな人を怪我させた上に、大好きな彼氏に失礼な態度を取って、大好きな彼氏に迷惑を掛けてる人を好きになるわけない」
「俺は、始めて見た時から駿河先輩の事が――」
「ごめんなさい。どんなに言葉を重ねられても嫌なものは嫌。私、優一さん以外にそういう目で見られるの気持ち悪くて耐えられないの。だからやめてくれる?」
香織は右手の拳を握ってフルフルと震わせていた。足を踏み出そうとした俺は、隣に居た二ノ宮に黙って腕を掴まれる。二ノ宮に視線を向けると、二ノ宮は無言のまま首を横に振った。
「神崎くんは知らないかもしれないけど、優一さんはね私のせいで事故に遭ったの」
「それは違っ――イテッ」
声を発しようとした俺の腕に、二ノ宮の爪が食い込む。そして、二ノ宮は俺を睨み付けていた。「黙っていろ」と。
「私がボーッとしていたせいで信号を見落として、赤信号のまま横断歩道を渡ろうとした。それを優一さんが見付けて、トラックが来てるのに私を引っ張って、それで代わりに轢かれた。私は、優一さんがトラックに轢かれて交差点の真ん中まで飛ばされるのを見て、最初は何が起きたのか分からなかった。でも段々、目の前の現実が自分の中に流れ込んで来てた。私のせいで優一さんが轢かれた。私のせいで優一さんは怪我をした。そんなのがいっぱい、私の中に溢れてきたの」
香織のせいじゃない。香織は何も負い目に感じることはない。全部、俺が勝手にやった事だ。そう言いたかった。
「優一さんは事故の後、気を失ったまま目を覚まさなかった。私は毎日、優一さんに謝りに通った。許してもらえるなんて思ってなかったけど、それしか私に出来ることがなくて。全部、私の自己満足だったけれど。でも十ヶ月後、優一さんは目を覚ましてくれた。戻ってきてくれた。それを聞いて、本当に飛び上がるくらい嬉しかった。でも……それと同じくらい不安だった。優一さんに許してもらえるか分からなかったから。でもね、目を覚ました優一さんは、事故の事をあまり覚えてなかったの。それで私は、怖くて言い出せなかった。私のせいで優一さんの十ヶ月を奪ってしまった事を」
きっと、俺がどれだけ言葉を重ねても、香織の心に付けてしまった傷は消せない。それが、思い知らされる言葉だった。
「でも、それを知った優一はそれを自分のせいにしたの。優一さんはね、そういう人なの。自分が悪くなくても責任を被っちゃうの。それは優一さんのいい所でもあるし悪い所でもあるけど」
香織は握った拳から力を抜いた。
「私はね、優一さんの事がずっと好きだった。その優一さんが戻ってきてくれた事が嬉しかった。それで、優一さんから許してもらえて、私は優一さんに好きになってもらおう。いつか告白して両想いになりたい。そう思ったの。でも、あなたはそれを壊そうとした」
香織の言葉が酷く冷たく重い。神崎もそれを感じたのか、少し体を震わせる。
「あなたは、何の罪もない優一さんを逆恨みして突き飛ばした。突き飛ばされて倒れ込んだ優一さんの姿は、事故に遭った時の優一さんと重なった」
香織は自分の体を自分の腕で抱く。香織も体をフルフルと震わせていた。
「あなたの事を本当に許せないって思った。その時からあなたの事が嫌い。初めは私の事を慕ってくれる可愛い後輩だったけど、もうそんな風には絶対に見られない。だから私はあなたにどんな言葉を重ねられてもあなたの事は好きにならないし、あなたに告白されるのも嫌。だからそれ以上続けないで」
俺は、視線を地面に向けた。
俺がやれと言った手前、止めには入れない。だが、これ以上は見ていられない。きっと、この場にいる男子全員がそうだろう。
明確なる拒絶。露骨な嫌悪。剥き出しの憤怒。全て、好きな異性から向けられて耐えられるような感情じゃない。
「でもね、さっきも言ったけど神崎くんの、サッカーが上手い所はマネージャーは認めてるよ。神崎くんが出れば点が取れるって選手も信頼してる。だから、神崎くんの気持ちに私は応えられないけど、選手やマネージャーの信頼には応えてあげて」
「……はい」
もう、虫の息の神崎はそう言ってトボトボと歩いて行く。神崎が向かう先に居る選手達から、一斉に「どうフォローしろって言うんだ!」という非難の目が向けられる。俺はその視線を浴びて、「すまん」と、両手を合わせるしかなかった。
「という事で、野田さんと放送をするはめになってしまった。すまん」
「……ちょっと複雑」
香織の反応は俺の予想したものの中間のような反応だった。野田さんと放送をするのは嫌だが、それで二人三脚が出来るのは嬉しいというような感じだ。
「苦肉の策だったんだよ。ほぼ放送は決定事項みたいなものだったし、そこから二人三脚参加を引き出した事は褒めてくれても……」
「…………」
香織は押し黙る。それは、野田さんの事だけじゃない。みんなの前でキスした事も怒っているのだろう。
「あんな事して悪かった」
「あのキス、嬉しかった」
「えっ? それは褒めるの?」
内心、二人三脚の話の後、あのキスについて怒られるのではないかと思っていた。あんなに人が見てる前でしちゃったから恥を描かせたかと思った。
「恥ずかしかったけど、絶対に野田さんも見てたはずだし」
「あー、バレー部もそういえば設営やってたしな」
俺より先に部活に合流してたはずだから、野田さんも多分見ていただろう。
「嫌な事言わせて悪かった」
「ううん、私はすっきりした。神崎くんに直接思ってた事を言えたし」
「そうか。でも、香織……俺が作った展開だったけど、男としてはあれは流石にやり過ぎだと思う。言わせた俺が一番悪いのは分かってるけど……」
「軽蔑した?」
「いや全く。ただ、男からしたらあれは辛いなと」
「私だって人間だもん。嫌いな人くらい居るよ」
「そりゃあそうだろうけど」
それにしても辛辣だった。明日、神崎は学校に来れるだろうか?
「私、前々から嫌だったの。神崎くんのあの視線。神崎くんは気付いてないって思ってたかもしれないけど、そういう視線、結構露骨だから気付くの。優一さんにそういう目で見られるのは大歓迎だけど、他の男の人からは絶対に嫌。気持ち悪い」
喜んで良いのか分からないが、それだけ俺を好きだって思ってくれてるなら喜んで良いのだろう。
「神崎くんはもう大丈夫。あとは、これで野田さんも優一さんの事諦めてくれればいいんだけど……」
そう言って困ったような笑顔を向けた香織を、俺はブロック塀に背中から押し付けた。
「ちょっ、優一さん? まだいつもの所じゃ――」
「もう無理、我慢出来ない」
「んっ……あっ……ダメっ……こんな所で――」
唇を奪って、香織の制服の上から左手を胸に被せ、右手をスカートの上から香織のお尻に添える。
「神崎に渡すか。香織は全部、俺のだ」
身震いするぐらいの独占欲が湧き出る。神崎に見られたお尻も、もちろん神崎も見た胸も、他の誰かが見た香織の全ては、俺のものだ。誰にも渡さない。
「ゆ、優一さん……流石にここじゃ……」
消え入りそうな声で言う香織の体を抱き寄せる。
「ごめん。香織の体を、神崎や他の奴らに見られたと思ったら」
「そっか、ちょっと焦っちゃった。こんな所でするのかと思って……」
「流石の俺もそんな度胸はない。それに香織にそんな恥を掻かせるわけあるか」
「うん、でも……ちょっとだけ期待しちゃった」
「……香織、俺を踏み止まらせたいのか? それとも俺の理性を飛ばしたいのか?」
「ご、ごめんなさい」
体を離そうとしたら、香織に唇を奪われた。そして香織の右手の指先が鎖骨を撫で、左手は俺の指に絡む。
「優一さんは私の。だから、野田さんにも他の子にも、絶対に渡さない」
俺と香織は、それからしばらく、明るい街灯の下で、独占欲剥き出しのキスをした。
体育祭は熱い。いや暑い……。
開会式からずっと、この太陽の光で熱せられたコンクリートの塊の中に居る。窓を開けて風を通してはいるが、機械がイカれるのではないかと心配になるほどだ。
「跡野先輩、次は三年女子による借り物競走ですね」
「そうですね。この借り物競走は、お題の書かれた紙が入った箱まで走り、紙を引いて書かれたお題に合った物を持って来るという単純な競技ですが、書かれてる紙にはある共通点があるそうです」
「ある共通点ですか?」
「はい、それは男子に関係するものらしいです。同じクラスの男子。相手組の男子。サッカー部の男子のようなお題らしいです」
「なるほど、でも少し大変そうですね」
「はい、カッコイイ男子というお題で選ばれた男子は嬉しいでしょうが、かっこ悪い男子なんてお題では選ばれたくないですね」
無難なアナウンスをしてホッと一息を吐く。人前ではないにせよ、不特定多数の人に声を聞かれていると言うのは落ち着かない。
「さて、赤組の走者が箱に到着! 中から紙を取り出しました!」
野田さんの実況を聞きながら眺めていると、赤組の走者は二ノ宮だった。紙を開いて露骨に眉をひそめた二ノ宮は紙を握り締めて走り出す。
二ノ宮の走る方向はこちら側で、どうやらこの辺に居る男子がお題だったらしい。
「跡野! ちょっと出てきなさい!」
「えっ?」
「早く出てこい!」
急な呼び出しに慌てて飛び出すと、二ノ宮に腕を掴まれて走る。ゴールには女性の先生がマイクをもって立っている。その先生の前で立ち止まった二ノ宮は手に持っていた紙を差し出した。
紙を受け取った先生はマイクを片手に紙を見る。
「お題は頼りになる男子。どう見てもあなたの方が頼りになりそうだけど?」
その先生の言葉にドッと笑いが起こる。この借り物競走では、ゴールに立っている先生が、女子が連れてきた男子にケチを付けるのはお約束だ。それは、女子に何故その男子がお題に合うか説明させるためだ。
「彼はサッカー部の全員が頼りにしている男子です」
その二ノ宮の言葉に、主にサッカー部員の歓声が上がる。それを聞いて先生は事務的な回答をする。
「赤組クリア。次の走者スタート」
二ノ宮は俺の方を見て、ニヤッと笑う。
「あんたが近かったから、選んでやったわ。感謝しなさい」
「なんで感謝しないといけないんだよ」
二ノ宮はそれ以上言わずに自分の組に戻っていく。それを見届けて、俺は放送塔へ戻った。
『さあ、次の競技は、二年生による男女混合二人三脚です』
『この競技のポイントは、どれだけ二人の息を合わせられるか、ですね』
列に並びながら、スピーカーから聞こえる野田さんと近藤さんの声を聞く。なんだ、意外とやれるじゃないか。
「優一さん、頑張ろうね」
「おう、怪我しないようにほどほどにな」
隣に立つ香織がニッコリと笑う。
運動着姿の香織は、目のやり場に困る。短パンで綺麗な足は見えているし、胸の膨らみも制服の時よりも露骨に強調される。これを見ているのが俺だけじゃない事には腹立たしく思うが、仕方ないと割り切るしかない。
「優一さん、次だね」
列の先頭に立ちパイロンを折り返すセリアと高嶺が見えた。
高嶺め。嬉しそうな顔しやがって。
二人三脚のペアをどうするかになった時、セリアは迷わず高嶺を選んだ。理由は話しやすい男子という理由だったのだが、高嶺は心底嬉しそうに望みが繋がったと喜んでいた。
その、好きなセリアと折り返してきた高嶺は俺にたすきを渡す。
たすきを受け取った俺は、香織と一緒に足を踏み出す。
「「いっち、に! いっち、に!」」
予め決めておいた掛け声を言いながら走る。身長も体格も違う。だからそもそもの歩幅が全然違う。でも、全く走りにくさを感じなかった。もちろん、歩幅の狭い香織に合わせて踏み出す足の距離を狭めてはいる。でも、その狭める距離が自然と分かるのだ。
どの位の距離なら香織も走りやすい。どの位のスピードなら香織も走れる。それが意識せずとも分かった。
心地良かった。こんなに走るのが気持ちいいなんて知らなかった。そう思った瞬間、俺は。
二人の心臓の音がピッタリと重なった気がした。
体育祭の結果は、白組の勝ち。赤組の俺達は負けたが、赤組も白組もみんな楽しそうだった。
そして、何故か知らないが、サッカー部が体育祭終わりの打ち上げをするようで。俺も呼ばれてしまった。
俺はサッカー部じゃないからと断ったが、二ノ宮は強引だし香織は聞かないし、選手達からは来ないとただじゃ済まない、と脅されるわで。結局押し切られてしまった。
「二ノ宮、好きだ」
生徒会の仕事終わりにサッカー部の元へ向かっていた時だった。そんな言葉が聞こえて来たのは。
とっさに校舎の陰に隠れて背中を冷たい壁に付ける。全く、俺はどうしてこうも間が悪いのだろう。
「ごめん、都宇部とは付き合えない」
「そうか」
聞こえてくるのは二ノ宮と都宇部の声。そして、都宇部の告白を二ノ宮が断る話だった。
「二ノ宮、跡野には彼女が居るだろ。しかも人前でキスしてみせるくらい好きで、相手もあの一年の人気者を徹底的に叩き潰すくらい跡野の事を好きなんだぞ。二ノ宮に入り込む隙間なんて――」
「私は別に入り込もうなんて思っちゃいないわよ」
「じゃあ、どうして跡野の事を諦めないんだ?」
都宇部の言葉に、二ノ宮がハァっと息を漏らすのが聞こえた。
「割り切れるのと諦め切れるのとでは別問題よ。跡野が香織と付き合ってる事。お互い好き同士で誰も二人の間に入れない事は、分かってるわ。でも、だからって好きな奴をどうでも良いなんて思えない。ましてや、彼女が出来たからって嫌いになれるわけ無いでしょ」
今度は、都宇部のため息が聞こえる。
「借り物競走で、頼りになる男ってお題に迷わず跡野を選んだ時は、ダメだと思ったけど、やっぱりな。それに佐原にも言われてたんだ。一年の頃の二ノ宮ならまだしも、今の二ノ宮はどんな男にもなびかないと思うぞって。もし俺が跡野だったら……」
「もちろん喜んで付き合うわよ。でも、残念ながらそれはあり得ないわ」
二ノ宮の言葉をこれ以上聞くのは良くない。でも、この場から動けば、足音で気付かれる。
「全く、跡野が羨ましいよ。あんな可愛い彼女が居るのに、二ノ宮にまで好かれるなんて」
「言っておくけど。跡野は私が見てきた中で一番の男よ。あいつには誰も勝てないわ」
「じゃあ、これからも実らない片思いを続ける気か?」
「そうね、ちょっと前の私なら、適当な男でいっか、なんて思ってたかもしれないけど、今は無理ね。本気で人を好きになったら、どんな男にも興味無くなんのよ。不思議とね。だから、私が次に跡野以外の誰かを好きになる時が来るとしたら、跡野の事を本当の意味で諦め切れた時ね」
「そうか。時間をとらせてごめん」
「こちらこそ、気持ちに応えられなくてごめん」
どちらかが走り去る足音が聞こえる。俺は慎重に顔を出して出ても大丈夫か確認しようとすると、バッチリ二ノ宮と目が合った。
「あっ……」
とっさに影に引っ込んで隠れるが、もう何の意味もない事は分かってる。
「ホント、神崎の時といい、あんたって間が悪いわね」
「すまん」
校舎の陰に隠れる俺の前に二ノ宮が歩いて来て、呆れた顔で俺を見てくる。
「で? 何処から聞いてたの?」
「何の話だか」
「全部聞いてたのね」
「……ごめんなさい」
「良いわよ、別に知られても困る話じゃないし」
二ノ宮は俺の隣にもたれ掛かり、ニッと笑う。
「そういう事だから」
「そう言われても困る」
「でしょうね。私も跡野の立場だったら困るわ。でもね、こればっかりはどうしようもないの」
確かに人を好きな気持ちを諦めろ、忘れろなんて他人がどれだけ言ったって、どうする事も出来ない。それにそういうのを早く整理しないといけないと思っているのは、誰よりも自分自身なのだ。
「多分、跡野の彼女が香織じゃなかったら、本気で奪いに行ってたわ。でも、それでも無理だったでしょうね」
二ノ宮はフフッと女の子らしく笑う。
「私の好きな跡野は、他の女に揺れるような中途半端な気持ちで人と付き合わないし」
背中を校舎から離した二ノ宮は、俺の方を振り返り両腕を胸の前で組む。
「ほら、行くわよ。負けた腹いせに目一杯騒ぐんだから!」
歩き出す二ノ宮の背中を見詰めて、俺は何も声を掛けることは出来なかった。それでも俺は、足を踏み出さなければいけない。




