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コンチェルト。アゲイン  作者: 煮込みハンバーグ
22/51

22【遮二無二】

  【遮二無二】


 新生徒会長の近藤さんこと近藤奏恵こんどうかなえは、整理整頓が出来ない人だというのが分かった。

 眞島と野田さん、そして俺の三人でひたすら片付けをやって、生徒会室はかなり綺麗になった。しかし、その間に近藤さんが使っていた事務机が散らかっていたのだ。

 だが、当の本人はそんな事は全く気にせず、俺に書類を差し出した。

「大きな案件としては体育祭の準備があります。それと、近々には来週から風紀委員会主導のいじめ撲滅週間が始まります。その実施前に全校集会を行う事になりました。金曜日です」

「また、急な話だな。内容は、いじめに関する事だな」

 いじめ撲滅週間実施前に生徒のいじめに対する認識を知っておきたいのか。それともいじめ撲滅週間実施前に生徒にいじめについて考えさせるためか。もしくは、そのどちらもか。

「それで、風紀委員会側から私達に討論会の否定側になってほしいそうです。ちなみに賛成側は風紀委員会が――」

「あ、あの!」

 近藤さんの話を聞いていた野田さんが、右手を挙げてそう言う。近藤さんは視線を野田さんに向けて首を傾げた。

「野田さん、何かしら?」

「あの……討論会ってどんな感じでやるんでしょうか」

「賛成側と否定側に分かれて行うみたいね。賛成側否定側以外に、討論の結果を判断する判定役も居るわ。今回は、風紀委員会担当の先生が討論会の進行役で、その他の先生方の何名かが判定役をしてくださるそうよ。あとは観客として全校生徒も居るわね」

「それで、議題は何でしょうか?」

「いじめを無くすことが出来るか、だそうよ」

「……それは少し期間が短い割に、こっちに不利な議題ですね」

 眞島は眼鏡のブリッジを人差し指で持ち上げながら表情を曇らせる。

「今回は、価値議論……いえ、いじめを無くすことが出来るか出来ないかの議論ですから、事実議論になりますかね。価値議論も事実議論も討論の議題としては難しいとされるものですし、議題の内容も否定側はかなり難しいですね」

 いじめを無くすことが出来るか。それを否定側から発言するとなると、俺達は『いじめを無くすことが出来ない』を主として『いじめを無くそうとして新たに問題が発生する』とういうような事を提示して議論していかなくてはいけない。

 それに、単にこちらの主張をし辛いというだけではない。

 そもそも、いじめはあってはいけない事だ。それはほとんどの人が持っている共通の認識であり、みんなが無くそうと努力している社会問題だ。だから『いじめを無くすことが出来ない』という主張は、そもそも判定側や観客側から見ても良い印象はない。

「まあ、要するにデモンストレーションの盛り上げ役になれって事だな。盛大に悪役を演じて綺麗に負ければいいんじゃないか?」

 そもそも、全校集会の目的はいじめについての理解や興味の向上だろう。だから、討論の勝敗自体にさしたる問題はない。俺達は悪者を演じて負ければいい。

「いいえ、跡野さん。私達は勝ちに行きます」

「そうですね。やるからには勝ちたいです。それに、あえて否定側を生徒会にやらせるというのも、思うところはありますし」

 まあ確かに、準備期間が少ない上に難しい議題で、明らかに心証の悪い立場の否定側を振ってくるのはどうかと思う。そういうのは普通、自分達が請け負うものだろう。

「風紀委員長は生徒会が嫌いですから、仕方がありません」

「なんか揉めた事でもあるのか?」

 ハアっと息を吐いた近藤さんの言葉にそう尋ねる。すると、近藤さんは真顔で答えた。

「正確には貴方の事が嫌いなんですよ? 跡野さん」

「はあ? 俺、風紀委員長と揉めた事もなければ面識さえないんだぞ。なんで俺が嫌われてるんだよ」

「それは、現風紀委員長が駿河香織さんに告白して振られたからです」

「…………完全に私怨じゃないか! しかも俺全然悪くないし」

「痴情のもつれ、という意味では揉めてますね」

 眞島がそう言うのを聞いて、近藤さんは俺に視線を向ける。

「私は、ああいう女々しい男が嫌いなんです。しかも、こんな陰湿なやり方をしてくるなんて男らしくない」

 近藤さんは完全にやる気で、眞島も乗り気、野田さんはまだこの議題で勝ちに行くことのめんどくささを理解していないようで、黙って話を聞いている。

 どうやら、金曜日までは忙しくなりそうだ。


「野田さんも生徒会に居るの、ちょっと不安……」

「大丈夫だ。普通に生徒会の仕事をしてるだけだし」

「でも、心配……」

 生徒会は案の定、下校時間ギリギリまであり、部活終わりの香織と良いタイミングで合流出来た。そして、生徒会であった事を話し始めた時、役員に居る事が気になったらしい。

 昼間、初めて生徒会執行部の面々か顔を合わせた後にも、野田さんが書記になった事は話した。その時にも同じような反応をしたが、それがまた再熱したらしい。

「会長と会計が妙にやる気出しちゃって、絶対に勝つんだって意気込んでてさ。それで資料作りを始めて……ああ、疲れた」

「優一さん、お疲れ様」

 香織がそう言ってくれてキュッと手を握り返す。

「香織にお疲れって言ってもらったから疲れ取れた」

「良かった」

 今日も、いつもの暗闇に入り、電柱の下に立つ。そこで、一日一回ずつのキスをする。

「優一さん? 何かあった?」

「えっ?」

 俺からのキスを終えた後、香織が下からそう尋ねる。

「なんか、今日のキス、ちょっとやらしかったから」

「えっ? いや、そんなつもりはなかったんだけど、ごめん!」

「ううん、嫌じゃないんだけど、そういうキスする時って、優一さん何かあった時だし……」

 香織の指摘に戸惑う。でも、思い当たる事はあった。

「香織、今の風紀委員長って誰か知ってるか?」

「うん、前に言った、告白を断った人だよ。あっ……もしかして、何か言われたりした?」

「いや、さっき話した討論の相手がその風紀委員会らしくて。それで、会長の近藤さんが、不利な立場にされたのは風紀委員長が俺の事を嫌いだからって聞いてさ。それで、その理由が香織に振られたからじゃないかって。まあ、近藤さんの意見で、実際は全くそんな事ないかも――」

「最低」

 スッと背中に冷たさを感じる。そんな鋭い声だった。

「優一さんは全然悪くないのに。関係ない優一さんにそんな陰湿な事するなんて、本当に有り得ない」

「いや、だから、本人がそう言ったわけじゃないから。近藤さんのただの邪推かもしれないし」

 言って失敗した。香織に変な心配をまたさせてしまっただけだった。

「それで? どうして優一さんのキスがそれで変わったの?」

「いや……香織は俺の彼女だ。絶対に渡さないぞって思ってたから、無意識にやってたかも」

 俺がそう言うと、香織は不機嫌な顔から表情を変え、顔を少し朱に染めてはにかんだ。

「もう……優一さん、可愛い」

 下から突き上げる香織のキスは、長く熱く、俺は頭が熱で焼けるかと思うくらい香織のキスに没頭した。そのキスを、香織の言葉を借りて表すなら、とてもやらしかった。


 次の日の放課後も生徒会室で、討論に関する資料を集める作業があった。

 その資料作りで最も重要なのが、想定問答集の作成。しかし、賛成意見が出しやすい議題だから、作成はかなりやりやすかった。でも意見が思い付きやすいという事は、それだけ多くの対抗策を考えないといけないという事にもなる。

「跡野先輩。想定問答集の方はどうですか?」

「ああ、かなり進んでる。ただ、数が多いからそこが大変だな」

「こっちは立論用の資料はほぼ出来上がっています。終わったら、そちらを手伝えるので、もう少し時間を下さい」

「ありがとう眞島、助かる」

 準備を進めるにあたり、二手に分かれて準備をする事になった。

 今回の討論会は自由討論だそうだが、賛成反対を明確にしている分、ディペートに似たような感じになりそうだ。

 ディペートでは、立論、尋問、反駁はんばくの三つの場面で展開される。今回は自由討論であるから、ディペートのように、明確にそれぞれの場面が区切られていない。だが、今回もその三つの場面で展開されるのは間違いない。

 立論は、それぞれの立場の意見を主張する場面。

 尋問は立論の後に対して質問をして、立論に対して不明な点を明らかにしておく場面。だが、この尋問では、後の反駁で指摘するための不備を誘い出す質問をするのも大切だ。

 そして最後の反駁だが、相手の立論に対する矛盾を指摘する。ここが討論の見せ場と言ってもいいかもしれない。

 近藤さんと眞島がやっている資料作りは、主に立論のためにある。自分達の意見が正しいと根拠付けれる資料を提示するのは効果的だ。それに、資料を作る事で自分達の意見に含まれる不備を見付ける事も出来る。

 この資料作りの途中で、致命的な不備が見付かる場合もあるから、自分達の武器を強くするためには重要な作業だ。

 そして、俺と野田さんがやっている想定問答集作成。これは、尋問と反駁で重要になってくる。

 想定問答集なんて小難しい言葉だが、要するに相手が聞いてきそうな事、言いそうな事を予め考えて、それに対するこちら側の意見をまとめればいいのだ。

 まとめればいいのだが……。

「いじめ防止対策推進法が成立され、いじめに対する対策が法律として明文化されました。これはいじめに対する抑止力として働き、いじめを無くすことが出来ます」

「そ、そうですね!」

「はい、負け。野田さん、認めたらダメだって」

「でも、法律で決まってるんだったら、みんな守るようになると思います」

 野田さんは素直な性格なのか、基本相手の意見を聞いて賛同してしまう。相手の意見の矛盾を探す、いわゆるあら捜しのような事は苦手なようだ。

「野田さん、いじめ防止対策推進法では、いじめに対する防止策や啓発活動の進め方についての指針は明記されてはいるけど、いじめた側への罰則は明記されてないのよ。罰金刑も懲役も明記されてない。そういう、明確な罰として裁くには、暴行罪や侮辱罪の立証が必要なのよ」

 近藤さんが積み上げられた資料の向こう側から、顔を見せずに答える。片付けは出来ないが、自分の作業をしながらもこっちの話を聞いて意見を出せるというのを考えれば、基本的なスペックは高いという事が分かる。

「それに、侮辱罪の方は親告罪だ。親告罪ってのは、例えば悪口を言われた人が警察に、いつどんな状況でどんな事を言われたか、それを説明しないといけない。もし野田さんがいじめられて、自分のいじめられた時の事を思い出して他の人に説明なんて出来る?」

「ちょっと、辛いし、自分がいじめられたなんて恥ずかしくて、言えないですね」

「アンケートの実施や聞き取り調査で見付けられるのは一握り。そして最も深刻に悩んでるのは、アンケートや聞き取りで見付けられない、自分から自分がいじめられている事を言えない人達だ。それを考えると、いじめ防止対策推進法でいじめを完全に無くすことは出来ると思う?」

「うーん、なんか近藤先輩と跡野先輩の話を聞くと無くならないと思います」

「よし、じゃあもし同じ事を賛成側から聞かれたら、この答え方にしよう」

 ノートパソコンに質問に対する回答を合わせてまとめ、チラリと時計を見る。もうすぐ、下校時間だ。

「こんな時間に誰でしょう?」

 丁度、俺が時計を見た時、生徒会室の扉がノックされる。その音を聞いて、眞島が扉の前に行きゆっくりと開く。

「優一さん」

 扉の先には小さく手を振る香織が居た。

「おお、香――」

「跡野、ちゃんと仕事やってる?」

「げっ、二ノ宮」

「人の顔見てげって何よ、げって」

 後ろにひょこっと顔を出した二ノ宮が、俺と俺の隣に座る野田さんを見て、俺に鋭い視線を向ける。

「跡野、あんた浮気してないでしょうね」

「してねーよ」

 おそらく、もう下校時間だから迎えに来たのだろう。二ノ宮は、冷やかしだろうか。

「今日はここまでね。みんなお疲れ様」

「「お疲れ様でした」」

「お疲れ、さて帰るかー」

「あの、跡野先輩!」

「ん?」

「一緒に頑張りましょうね!」

「そうだな、みんなで風紀委員に一泡吹かせよう」

 声を掛けてきた野田さんにそう言って、外で待つ香織達に合流する。

「全く、あの一年が生徒会に成るんだったら、サッカー部全員他の奴に入れさせたのに」

 あまり野田さんの事をよく思っていない二ノ宮は、露骨に野田さんへの嫌悪を晒す。

「私、引き際知らない奴って嫌いなのよね。男も女も」

「はいはい、そこまでにして帰るぞ」

 体が重い。体を動かすマネージャーの雑用は慣れているが、生徒会の雑用はどっちかと言うと、頭を使う方が多い。その慣れない雑用内容もあって疲労感はあった。

「優一さん、疲れてるけど大丈夫?」

「あー、慣れない事すると疲れるな。慣れるまで大変そうだ」

 心配そうに顔を覗き込んでくる香織の手をとって、少し引っ張って引き寄せる。

 香織が隣を歩いてくれるだけでホッとする。香織の手を触れていると体の疲労が幸福へ変換されて疲れが消えていく。

「二ノ宮」

 そんな聞き慣れない声が聞こえ、香織の手がスッと離れる。そして香織は、俺を見て小さな声で「ごめん」と謝った。

「あら、都宇部とうべじゃない。どうしたのよ、こんな所で」

「二ノ宮が二年と校舎に入るのが見えてさ。なんかあったのかと思って」

「あー、後輩の彼氏が浮気してないか見に行ってたのよ」

 二ノ宮が話している都宇部と呼ばれた男子は、多分三年だろう。部活終わりのラフな格好で、身長が高く爽やかさがある。

「そっちのは、ああ、例の」

 なんだか『例の』という言葉に引っかかりがある。

「佐原が認める伝説のサッカー部員」

「伝説のサッカー部員?」

 都宇部の発した言葉に眉をひそめる。

「ああ、都宇部は佐原と同じクラスなのよ。んで、跡野が辞めたってのを散々愚痴られたんだって。その時にあまりにも跡野を佐原が褒めるから、いつの間にか伝説のサッカー部員みたいになってたわね。まあ、あんだけ溶け込んでみんなと上手くやってれば、普通そのまま続けると思うわよね」

「それに二ノ宮が唯一信頼出来る男だって言ってたし」

「ちょっ! なんで言うのよ!」

 抗議する二ノ宮を見て都宇部は笑ってはぐらかす。そして、俺と香織を見た後に二ノ宮に視線を戻した。

「二ノ宮、一緒に帰らないか? 後ろの二人も迷惑してるぞ、多分」

「まあ、私が居ても構わず手を繋ぐラブラブカップルの邪魔をするのは野暮よね。分かったわ、さっき余計な事言った件について話があるし。んじゃ、そういう事だから」

 二ノ宮はひらひらと手を振って、都宇部と一緒に歩いていく。

「香織はあの三年知ってる?」

「うん、話したことはないけど、バスケ部の人だよ」

「付き合うかな?」

「うーん、でも雰囲気は良さそうだったよね」

 そんな話をして歩き出そうとすると、香織が俺の手をとって指を絡める。

「さっきはごめんね」

「いや、そりゃあ他人の目は気になるからな」

「杏璃にね、大好きなのはいいけど、ちょっとは人目を考えなさいって怒られちゃって」

「まあ、三代達からしたら、あの時は気マズかっただろうしな」

 八月末の俺が最後にサッカー部の練習に出た日。香織は学校で俺にキスをした。それを同じマネージャーで同級生の三代と吉田に目撃されたのだ。しかも、香織にキスされた後の俺と目が合ってしまったのだから、それはそれは気マズかっただろう。

 俺も気マズかった。だが、まあ香織の彼氏としては嬉しかったし、プラスマイナスでプラスだったから何も言わない。

 しかし、三代や俺よりも香織が一番気マズかったのは間違いない。

「今日ね、美久みくちゃんが優一さんの名前間違って呼んじゃって、寂しそうだった」

 美久と言うのは、サッカー部一年マネージャーの金木美久かねきみくの事だろう。そういえば俺が雑用係をやっている頃は、分からない事やトラブルがあったら、よく泣きそうな顔して俺の所に来てた。なんだか、一年の頃の香織みたいだった。

「その頃は多分、俺はパソコンの画面とにらめっこしてたな」

「私もね、部活中に優一さんの事探しちゃうんだ。それで、そうだ優一さんはサッカー部辞めたんだって思って、すごく寂しい」

「嬉しいけど……」

「分かってる。体力が落ちて、思うように体が動かないんだよね?」

 やっぱり、香織は分かっていたらしい。香織の言った通り、俺は俺が意識するよりもずっと動き出しが遅いし、根本的に持久力という意味での体力がない。

 入院する前は技術はともかく、練習を毎日していた。その練習で身につけたものが、十ヶ月という期間を経て、リセットどころかマイナスになった。

 でも、マイナスにはなったが、普通の生活を送る分には問題ない。だけど、前の俺とは比べ物にならないくらい作業のスピードは遅いし、体と頭のギャップが酷すぎて違和感を常に持ちながら作業するしかなかった。

「十分、速かったよ?」

「ありがとう。でも、違和感の中で仕事するのも大変なんだ」

「うん、だから優一さんが辞めちゃったのは残念だけど、優一さんが辛い思いをするなら仕方ないよね」

 きっとみんなは出来る範囲で良いと言ってくれるだろう。でもそれじゃダメなのだ。

「優一さんって、みんなには適当にやってるように見せて辛さとか隠しちゃうけど、凄く真面目過ぎるから。そこも大好きだけど」

「呆れられてるのか褒められてるのか、よく分からないぞ」

「生徒会の仕事も頑張り過ぎないでね?」

「分かった。香織も無理して頑張り過ぎるなよ。香織が熱中症で倒れた時、本当に焦ったんだからな」

 そう言うと、香織は嬉しそうにはにかむ。

「優一さんごめんね。心配させちゃった優一さんに悪いとは思うんだけど、その日の事を思い出すと、すごく嬉しくなるの」

「香織……」

「い、いけない事をしてたってのは分かってるし反省もしてる! だから今後は同じ事にならないように気を付ける! でも、すごく嬉しかったから……だって、優一さんが私の事助けてくれた日だし、優一さんと両想いになれた日だから」

 確かに、香織が倒れなかったら、俺は香織への気持ちに気付かなかったかもしれない。気付くのがもっと遅かったかもしれない。もしそうだとしたら、俺が香織への気持ちに気付かない間に、他の誰かを香織が好きに――。

「優一さん、何考えてるの?」

「何も」

「何も考えてない人は、ここにシワなんて寄せません」

 自分の眉間を指差して言う香織に、俺は観念してボソリと呟く。

「あの事がなかったら、今頃、香織が他の奴と付き合ってたんじゃないか。そう考えたら、背中がゾッと――」

「そんなの有り得ないから大丈夫だよ」

 俺の手を香織の手が強く握り返してくる。

「優一さんに振られてたら、分かんないけどね」

「えっ!?」

「ふふっ、今焦った」

 香織が笑う。

「じゃあ、俺が香織を振るわけないから大丈夫だな。……ちょっ、香織!?」

 強がって明るい口調で言うと、香織が急に走り出す。俺は繋がれた手をいきなり前に引かれ、慌てながら香織を追い掛ける。

 いつものあの場所に駆け込んで立ち止まった香織は、俺の方を向いて息を上げながらニッコリ笑った。

「いつもより時間があるから長く出来るね」

 そして、俺達は今日も約束を果たす。いつもよりも、大分長い約束のキスを。


 金曜日。全校集会の段取り等を確認していると、体育館を走る足音が聞こえた。

「跡野さん!」

「金木?」

 サッカー部の一年マネージャー金木美久が俺の名前を呼んで走ってくる。

「お久しぶりです!」

「そうだな、八月末から会ってなかったし、久しぶりだな」

「なんで部活に顔出してくれないんですか?」

「いや、生徒会の仕事が忙しくてさ……」

「大変なんですか?」

 俺がここ数日の大変さを金木に話していると、後ろから男子生徒会三人が歩いてくる。

 なんか特徴らしい特徴がない奴らだ。しかし、三人のうちに一人だけ前に出て歩いている。どうやら、あの四人のリーダー的存在らしい。

「初めまして、風紀委員会副委員長の矢鳥やとりです」

「ああ、生徒会副会長の跡野だ」

「ちょっと、矢鳥くん。会長の私を差し置いて跡野さんに挨拶だなんて、随分仲が良いのね?」

 後ろから近藤さんが歩み出て、矢鳥に睨みを向ける。

「うちの委員長が失礼な事をして申し訳ない」

 突然、頭を下げた矢鳥に合わせて、他の二人も頭を下げる。

「急に討論会の相手を頼んだ上に、否定側をしてもらって。本来ならこちらが否定側をやるべきだ。それにそもそも打診するのが遅い。本当に申し訳ない」

「まあ、非があることは認めるのね」

「認めるも何も明らかだし、それは風紀委員全員の認識だ。委員長の尾山おやま以外の……」

 矢鳥はそこで大きなため息を吐く。

「跡野さん、風紀委員長の尾山先輩って、駿河先輩に告白して彼氏が居るからって振られたらしいんです。で、跡野さんが生徒会に当選したのを聞いて、今回の討論会を……」

 何故か、金木まで申し訳そうな顔を向けてくる。

「その……恨みとかではないんですけど、跡野優一が駿河香織に相応しい男か俺が確かめる! って言い出しちゃって……。みんなで止めたんですけど、変なスイッチが入っちゃったみたいで……」

 モテる彼女を持つと大変だ。しかし、それだけ香織が魅力的という事だから嬉しくもある。

「で? 当の本人の委員長は何処に居るの?」

 近藤さんが尋ねると矢鳥が後ろを振り返る。その視線の先には、こちらをキッと睨んでいる男子生徒が居た。どうやらあれが風紀委員長らしい。その風紀委員長はかなりガタイが良く、何かのスポーツをしているというのは分かる。

「委員長、生徒会の皆さんに挨拶しないと、協力してもらうんですし」

 矢鳥が声を掛けると、委員長はゆっくりとこちらに歩いてきて、近藤さんの前に立った。

「風紀委員会委員長の尾山おやまだ。今回は胸をお借りする。よろしく頼む」

「ええ、何か私怨を感じる討論会だけど、それに関して言う事はあるかしら?」

「言葉は必要無い。俺は己の業で語る」

「…………」

 俺は少し尾山から距離を取り、金木に耳打ちする。

「なあ、金木。お前の所の委員長、変だな」

「は、はい、委員長はお爺さんの代から柔道一家らしくて、いつもあんな感じです」

「なるほど、だからあんなにガッチリした体なのか」

 体の大きさもそうだが、体に纏っている威圧的な雰囲気も武道をやっていると聞けばしっくりくる。しかし、業で語るって討論会なのに乱闘でも起こす気かよ……。

「君が、跡野殿か」

「ど、殿? まあ、跡野は俺だけど」

「なんだ! そのヘラヘラとした態度はッ!!」

「す、すみません!」

「男が軽々しく謝るなッ!」

「じゃあどうしろって言うんだよ!」

 いきなり怒鳴られてビックリして謝ったら、また怒られた。なんなんだ、このやりにくい奴は……。

「腕も足も腰も細い。そんな体で駿河さんが守れるとは思えんな。彼女は可憐な女性だ、それでいて魅力的でもある。その魅力故に不届き者からも等しく好意を集めてしまう。君がそんな輩から彼女を本当に守れる男か。彼女に相応しい男かどうか確かめさせてもらう」

 完全に今から柔道で勝負を申し込まれそうな流れだが、こんな感じでも一応討論会前の打ち合わせの場だ。

「討論は冷静に行こうぜ。私情を挟むのは良くない。それに、今回の討論会で全校生徒にもっといじめについて考えてもらわないといけないからな」

「それは俺も同じだ。この世からいじめなっていう愚かな行いを根絶やしにしてやる」

 なにか口調や態度はガチガチでゴツゴツだが、人としては良い奴みたいだ。思い込みが激しいという面もあるだろうが。

 その後は打ち合わせといっても全体的な流れを確認しただけで、すぐに全校生徒が体育館に集まってクラス毎に決まった場所へ整列し腰を下ろしていく。その様子を見ながら、俺はステージ脇でボーッと天井のライトを見詰める。

「跡野先輩、き、緊張しないんですか?」

「緊張か、あんまりしないな」

 野田さんがチラっと見える全校生徒を見てブルッと体を震わせる。

「私、人前で発言するのは得意じゃないから……」

「バレーは沢山の人が見てても出来るんじゃ?」

「バレーの時は集中してるから……」

「じゃあ、討論会も討論に集中すればいいと思うよ。別にたった一人で居るわけじゃないし、近藤さんも眞島も俺も居る。それにそんな肩肘張らなくていい。他の二人はやるなら勝つって言ってるけど、一番重要なのはそれじゃないからな」

「みんなに、いじめについて考えてもらうという事ですよね」

「そう、それがちゃんと分かってれば大丈夫だ。俺達はみんながいじめについて真剣に考えてくれるためのきっかけになれればいいんだ。たとえ負けたって。いや、そのためだったら敢えて負ける事も必要だ」

「あえて負けるって、考えたこともなかったです」

 俺の言葉を聞いて野田さんがクスクスと笑う。

「まあ、普通スポーツをしてる人には思いも付かないだろうな。みんな勝つために練習して毎日努力してるんだ。そんな勝つために頑張ってる人達に、敢えて負けるって考える人は居ないだろうな」

「跡野先輩は、負けてもいいって思ってますか?」

「討論には負けてもいいって思ってるよ。でも、ただ」

「ただ?」

「風紀委員長には負けられないな」

 尾山は良い奴ではある。でも仮にも香織に相応しくないとケチを付けられたのだ。それを黙って見逃す訳にはいかない。俺に勝敗に関するプライドはないが、香織の彼氏としてのプライドはある。

「委員長に負けたら、俺を選んでくれた香織が間違ってたって事になるだろ? 私情は挟まない。でも、討論で尾山に香織が正しいって証明する」

「そう、ですか……」

『では、生徒会役員執行部と風紀委員会による討論会を開始します。議題は、いじめを無くすことが出来るか、です』

 マイクを通してスピーカーから響く近藤さんの声を聞いて、俺はステージの中央に向かって歩み出した。


「では、まず肯定側の風紀委員会から立論をお願いします」

「はい」

 司会役の先生の言葉を聞いて、尾山が立ち上がる。そして、全校生徒を見詰め良く通る低い声がマイクを通して響いた。

「我々、風紀委員会はいじめを無くすことが出来ると断言する。その根拠として様々なものを提示していくが、根本的なものは、この場に居る生徒達が持っているであろう共通認識が根拠だ。いじめは悪である、その認識を持っている限り、人は悪を滅ぼすために知恵を絞り行動をしていく。実際、その努力によっていじめ防止対策推進法が施行された。その努力を積み重ねていけばいじめを無くす事は出来ると断言する」

 力強い口調で言われるだけで説得力を感じる。しかし、ここで「おお、そうだね! いじめは無くなるよ」と俺達が認めてしまったら、討論会は成り立たない。

「次に、否定側の生徒会から立論をお願いします」

 その言葉を聞いた近藤さんは凜と立ち上がる。手にはファイルに綴じた原稿を持ってる。なんだか、その立ち姿だけで出来る生徒会長という雰囲気を感じる。片付けは出来ないが。

「私達、生徒会はいじめを完全に無くす事は出来ないと考えます。ですが、前提としていじめはあってはならないもの、悪であるという認識は賛成側の風紀委員と共通しています」

 短く言葉を切った近藤さんは腰を下ろす。そして、それを見届けた司会の先生はマイクを手に取る。

「では、議論に入りましょう。肯定側、否定側は自由に挙手をして下さい。私が指名した人のみ発言を許可します」

「はい」

 俺はすぐに手を上げた。

「否定側、跡野さん」

 指名され、近藤さんからマイクを受け取り立ち上がる。視線を自分のクラスの、香織に向ける。そこには神に祈りを捧げるように両手を組んだ香織が見えた。まったく、たかが討論会であんなに応援してくれるなんて、これはかっこ悪いところは見せられないな。

「否定側、生徒会副会長の跡野です。まず始めに、肯定側の風紀委員会の皆さんに問いたい。皆さんは、一つ残らず完全にいじめがなくなる。そう考えているという事で間違いないでしょうか?」

「肯定側、風紀委員長の尾山さんが代表で応えて下さい」

「はい、否定側の跡野殿が言ったように、我々は一つ残らずいじめは無くなると確信している」

「ありがとうございます。肯定側の主張を確認しておきたかったので、ハッキリと名言して頂いてありがとうございます」

「では、他に発言がある人は居ますか?」

「はい」

「風紀委員会、須々木さん」

 指名された女子生徒が手になにやら資料を持って俺達の方を見る。

「肯定側、須々木です。まず、いじめに関する定義を明らかにしておこうと思います。文部科学省が発表しているいじめの定義は“『いじめ』とは、『当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの』とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。”となっています。つまり、一定の人間関係、ここでは生徒教師を含む学校関係者から、暴力や暴言等により精神的に傷付けられたと本人が感じれば、それはいじめであるという事です」

 いじめに関しては、昔からいじめられた側の気持ちを最重視して対処されてきた。だから、いじめられたと感じればそれはいじめである。それは、みんなが共通して持っている考えただろう。

「さて、いじめの定義について明らかにした所で、いじめの関する推移について、この資料をみてください」

 ステージに下げられたスクリーンに、プロジェクターで投影されたパソコンの画面が映る。その画面に折れ線グラフが表示された。

「これは、昭和六〇年から平成二五年までに、いじめとして認知されたものの推移グラフです。平成六年から平成一七年までは六万件から四万件へ緩やかに減少しています。しかし、平成一八年には十三万件にのぼり、それからは緩やかに減少しているものの、二四年から二五年では八万件から二十万強まで一気に跳ね上がっています」

 調べている時に同じグラフを見た。そして、風紀委員が指摘したいじめの認知件数が跳ね上がっている二点。それはとても重要な年だ。

「これは、単にいじめが増加したというネガティブな資料ではありません。いじめの発生を認知できる環境が整い、多くのいじめを見付ける事が出来るようになったという事です。これを見て頂ければ、いじめを無くすために努力が報われて、いじめを無くす事が出来ているという事が証明できます」

 意見を言い終えて風紀委員が座った瞬間、眞島が手を上げる。その眞島を司会の先生が指名し、眞島はスクリーンに映し出されたグラフに目を向ける。

「否定側、生徒会会計眞島です。この資料は私達も討論会に関する資料作りで拝見しました。確かに、平成十八年と二四年から二五年の認知件数増加は、いじめが増えたというよりも、いじめを多く見付ける事が出来たからだと思います。どの二つの年にも社会的に大きく報道されたいじめに関する事件がありました。それで社会がいじめに関する関心を強めたからだと思います。しかし、問題はその二点の間の期間にあります。平成一八年から年々減少しています。そして、もう一度いじめが社会問題として明るみに出たときに、跳ね上がっている。これは、いじめが年々減ったという事ではなく、いじめに関する社会の関心が薄まった事によるものだと私達は考えます」

 このグラフを見たときに、俺と眞島は同じ事を考えた。年々緩やかに減少しているのは、いじめに対する態度が厳格化して減ったわけじゃない。それは二五年にもう一度いじめの数が跳ね上がって、二〇万を超えている時点で明らかだ。だから『世間がいじめに対する関心をなくしてしまった』から減少したのだと考えた。

「肯定側はいじめを無くす努力をしていればいじめは無くなると仰いました。しかし、この資料を見れば、時間が経てば人は興味関心を失い、再び同じ事が起こってから興味関心を持つという事が明らかです。これでは、いじめを無くすというのは難しいのではないでしょうか?」

 眞島の意見を聞いた尾山が挙手し、マイクをとって立ち上がる。

「確かに、減少している点は社会がいじめに対する関心を落としてしまった事にあると我々も考える。しかし、平成二五年からはいじめ防止対策推進法に始まり、文部科学省でのいじめに関する協議会、いじめ問題子供サミットの開催。行政以外にも地方公共団体で国のいじめ防止対策推進法を主体とした条例の制定。学校単位でも、カウンセラーの派遣や我が校のようにいじめ撲滅週間等を設け、いじめを断固として許さないという態度や動きは全国に広まっている。それに、いじめから警察が扱う事件となったもので逮捕者が出ている。それは社会的ないじめが『悪である』というものを再認識させ、いじめに対する抑止力になっている」

「否定側、近藤さん」

「はい。肯定側は、いじめに関する対策が広まり、実際に逮捕者が出たからいじめに関する抑止力になっていると仰いました。しかし、ここにいじめに関する資料で『いじめられた側の相談相手』と『いじめを目撃した時の反応』についてのアンケート結果の纏めがあります」

 予め用意していた資料をスクリーンに表示させる。近藤さんは視線を野田さんに送り、野田さんはゆっくり頷いて立ち上がる。

「まず、左手の棒グラフをご覧下さい。これはいじめを受けた人が誰に相談したかを表しています」

 野田さんは用意された原稿を見て緊張で強ばった声でたどたどしく説明を続ける。

「複数回答可のアンケートなので、割合の合計は一〇〇ではありませんが、最も多いのが担任の先生が約七〇パーセント、次に多いのは両親や保護者が約三〇パーセントです。ここで注目してもらいたい点が二点あります。まずはスクールカウンセラーへの相談ですが、約四パーセント。このスクールカウンセラーは、肯定側が提示したいじめを無くす対策の一つです。そのいじめを無くす対策は、全体をみれば四パーセントの効果しかありません。更に、その四パーセントよりも多く深刻なもので『誰にも相談していない』が一〇パーセントを超えています」

 体育館がざわつく。想定問答集として用意したものの一つだ。肯定側が現実に行われている対策や施行されている法律を持ち出してくるのは予想出来ていた。だから、その法律では効果があまりないという証拠をぶつければ、相手の主張を叩くことが出来る。

「次に、右側の棒グラフをご覧下さい。これはいじめを見た人がどう対応したか、それを小学五、六年生、中学生、高校生の三つのカテゴリーで分けてアンケートを行った結果です。そのカテゴリーで最も多いのが小学校五、六年生で『先生に知らせる』の約四〇パーセント。中学生と高校生は同じで『友達に相談する』です。数値はそれぞれ約四〇パーセントと約四五パーセントです。そして、このグラフで注目してほしい点は、どの年代でも一五パーセントから二五パーセントの割合を占める『別に何もしない』です。そして、悲しい事ですが、どの年代でも最も低いのが『止めに入る』が二〇パーセントを切っています。これは肯定側の主張したいじめが無くなるという根拠と相違しているのではないでしょうか?」

 そう言い終えた野田さんがホッとして腰を下ろした。その瞬間に矢鳥が挙手して立ち上がる。

「あなたはいじめを見たらどうしますか?」

「えっ?」

 完全に意表を突かれた野田さんは固まる。この返答は想定していない。アンケートの通りにやるか、それは野田さんがいじめを見た時にどうするか問われているのだ。

「否定側、野田さん」

「わ、私は……先生や友達に相談します」

「そうですか。ではいじめ解決の重要な第一歩になりますね。せっかくですから、全校生徒のみなさんにも聞いてみましょう。全校生徒のみなさんで野田さんと同じように先生や友人に相談するという方は拍手をお願いします」

 矢鳥の言葉の直後、沢山の拍手が鳴る。

「では、次に、止めるように言うという方は、どれくらいいらっしゃるでしょうか?」

 その質問にも疎らだが拍手はなる。だが、この流れでこのまま問いが終わるなんてあり得ない。絶対に、だめ押しを打ってくる。

「では最後に、別になにもしないという方はいらっしゃるでしょうか?」

 その問いに拍手は鳴らない。当たり前だ、鳴るわけがない。

 ここでその質問に拍手するという事は、自分をいじめという悪を見て見ぬ振りする人間だと周りに公言するようなものだ。そんな事、普通の神経をしていれば出来るわけがない。

「その書面としての資料はどうか分かりませんが、少なくともこの学校ではいじめを見て見ぬ振りする方は居ないようです。この結果は全国にも時間は掛かりますが広がっていくのではないでしょうか? そうすれば、いずれいじめは完全に無くす事が出来ます」

 上手い。肯定側という優位性を踏まえても、上手く生徒を議論に巻き込んで、主目的である、生徒達にいじめについて関心を持たせるという事と、俺達が提示した根拠を否定する根拠を、新たな根拠を示して否定された。

「ど、どうしよう……」

 隣で野田さんが俯いてそう呟く。野田さんは決められた役割を果たした。なんの問題も無い。でも、自分が上手く発言できなかったから、ひっくり返された。そう感じているのかもしれない。

 そんな野田さんの横顔を見た瞬間、俺は部室棟の裏で泣きべそを掻いて座る、香織の顔が頭に浮かんだ。香織も失敗して怒られた時はこんな顔をして座っていた。それを見たら、このまま何もしないなんて選択が出来るわけがない。

「否定側、跡野さん」

「肯定側が生徒に問うという手段を使われたので、私達もやらせてもらってもいいでしょうか?」

「えっ?」「ちょ、跡野さん!?」「跡野先輩!?」

 野田さん、近藤さん、眞島が揃って俺を見る。三人とも細かな表情は違えど、何を考えているのかという顔だ。

 俺達は資料や想定問答集を作って準備をしてきた。でも、それは議論を深める手助けをするものであって、議論をするものではない。議論をするのは俺達人間だ。だから、全て想定通りに進むわけがない。

 ここから先は、アドリブで行くしかない。

「この中で、いじめを見たことがある人は拍手をお願いします」

 俺の言葉に、沢山の拍手が鳴る。そして、俺は声のトーンを落とした。

「その中で、実際に先生や友達に言えた人は拍手をしてください。見たらそうする、という事ではなく、実際にそうする事が出来た方だけお願いします」

 沢山鳴っていた拍手が途切れて、静寂が包み込む。気持ちの良い静寂ではない。

「では、もう一問。いじめを見た時、いじめを止めるために何か出来たと思う方は拍手をお願いします」

 俺がそう言ってからしばらく待っても、拍手は鳴らない。そして、俺は最後の質問に向けて話し出す。

「いじめはあってはいけないものです。ですが、あってはいけないものであると同時に、体験したくないものです。文部科学省が行ったアンケートで、過去六年間にいじめに遭った事がないと応えた人は、一割しか居なかったそうです。それは、こちらで用意した資料にあります」

 眞島が慌ててそのアンケート結果をスクリーンに表示させる。そのスクリーンに映ったアンケート結果から全校生徒に視線を移す。

「少なくとも、九割の方はいじめを受けた経験があります。もちろん、私もあります。いじめを受けている時は信頼できる人も居なくて、すごく心細く辛いものです。そして、いじめの対象というものは、些細な事で移り変わります。周りより身長が低いから、周りより少しふくよかだから、自分より勉強が出来るから、自分より異性に人気があるから。そして……いじめを止めようとしたから」

 俺がそう言った時に、更に体育館の空気が重くなる。

「誰でも経験したり見たりした事があるはずです。いじめを止めさせようと行動した人が、今度はいじめを受けるところを。それを何度も何度も見ているから、みんな自然と学習する。何もしないという事が、いじめに遭わない一番の方法だと。みんな、自分が悲しい思いをするのは嫌です。だから、自己防衛のために何もしないを選びます。そうすれば、自分だけはいじめられないから」

 言っていて吐き気がする。恐ろしく醜悪な言葉だ。俺は、今、人は自分のために他人を犠牲にする醜い生き物だと公言しているのだ。そんなの言いたいわけがない。

「確かに、いじめは悪だという認識はみんな持っています。ですが、考えの違う人間が集まれば人間関係の好き嫌いは発生します。それがエスカレートしていじめに変わる。それは私達高校生だけの社会ではなく、大人達の社会でも同じです。セクシャルハラスメントやパワーハラスメントと呼ばれるものは、全ていじめです。その途切れることのない悪循環は、人が人として生きていく中で、人格という人間固有の尊いものを持っている限り、消し去る問題ではないと私は考えます」

 尾山が少し慌てて挙手して俺の意見に意見をぶつけてくる。

「確かに完全に無くす事は出来ないかもしれない。だが、個人の努力で減らしていく事は可能のはずだ」

 俺はホッと一息を吐いて、挙手してマイクを握った。

「私は、最初の質問で肯定側に問いました『皆さんは、一つ残らず完全にいじめがなくなる。そう考えているという事で間違いないでしょうか?』と、そしたら肯定側の代表である風紀委員長は、力強い言葉で応えてくれました『我々は一つ残らずいじめは無くなると確信している』と」

「むっ……むうぅ……」

 尾山はそんなくぐもった呻き声を上げて押し黙る。そして、その声を聞き終えてから、俺は最後の質問を全校生徒に投げた。

「みなさんは、いじめは完全に無くなると思いますか?」

 その質問に、一切の音はその場から発せられることはなかった。


「なんで私達、負けちゃったんですかね……」

「いや、先生達が勝たせるわけないだろう。どうやって上に活動報告するんだよ。議論した結果、いじめは無くならないと結論が出ました。って言うわけにもいかないだろう」

 放課後、生徒会室で山のように積まれているアンケートの集計をやりながら、机に突っ伏した野田さんにそう言う。

 討論会の結果は判定役全員が肯定側の勝ちと判断した。だが、判定を出した先生達も苦い表情をしていたのが印象的だった。もはや、あの体育館の雰囲気は勝ち負けというよりも、不完全燃焼かつ何とも後味の悪いというような雰囲気だった。

「それにしても、跡野先輩があんなに議論が上手い人だと思いませんでしたよ」

「眞島くん、跡野さんのあれは議論が上手いではなく、人が悪いというのよ」

 集計が終わったアンケート用紙を段ボール箱に放り込みながら、近藤さんが俺に冷たい視線を向ける。

「勝負に勝って試合に負けた、というところね。それにしても、あの状況でひっくり返すとは思わなかった」

「俺はただ矢鳥の質問を、聞き方を変えて、もう一度聞いただけなんだけどな」

「それが上手いって言うんですよ」「それが人が悪いと言うのよ」

 眞島と近藤さんがため息を吐いてそう言う。なんだろう、せっかく頑張ったのに酷い扱いだ。

「生徒会副会長の発言は、生徒の代表として前に立つ人の意見とは思えません。あんな冷徹な人が副会長をしていて大丈夫なのか。アンケートのその他の意見欄は跡野先輩で大人気ですね」

「嫌味を言うな」

 眞島が笑いながら俺にアンケートを見せる。そんなの、こっちでもアンケート集計してるんだから分かってるっての。

 眞島の言うとおり、アンケートにあるその他の意見を書く欄では、感想という体での俺への酷評が書かれている。まあ、悪役をやった身としては喜ぶべきかもしれない。

「こんな人が駿河香織さんの彼氏だと思うと嫌気が差します。今すぐ別れて下さい。駿河さんが可哀想。マジ、あんな可愛い子と付き合ってるとか羨ましい」

「なんだよ、最後の方、全く関係ない感想じゃないか」

 近藤さんが抑揚のない声で読み上げた感想に眉をひそめる。

「でも、こっちには跡野先輩に好意的な意見もありますよ。沢山の人の前で、人の言えない正論を言っていて格好良かった。副会長の言っていた事は事実だし、あの意見のおかげで深くいじめについて考える事が出来た。ほら! いっぱいありますよ!」

 野田さんがそうやって笑顔に見せて、ニコッとはにかむ。

「凄く格好良かったです。跡野先輩の事を悪く書いてる人も居ますけど、私は跡野先輩がヒーローみたいに見えました。凄く、格好良かったです!」

「近藤さん、眞島も、なんでそんな目を俺に向けるんだよ」

 何となくジトッとした視線を二人から向けられ、その嫌な視線に抗議をする。そして、深くため息を吐いて、俺はアンケートの集計に戻った。

 アンケート集計は風紀委員会と生徒会で分担する事になっていて、こっちは終わった結果を風紀委員会宛てにメールで送信するだけでいい。そして、今はそのメールを近藤さんが送信するところだ。

「メールを送信したわ。これで確認のメールが来れば、終わりね」

「あ~、終わった~」

「跡野さん、この中で一番の年長者なんだから、しっかりしてもらわないと困るのだけれど?」

「そうは言っても、ここ数日、討論会の準備と体育大会の準備で疲れたからな。少しゆっくりさせてくれ」

「「えっ?」」

 眞島と野田さんが同時に、その驚きの声を上げる。

「私と跡野さんで前年度の議事録から大まかな作業だけ洗い出して、ロードマップを作っていたの」

 近藤さんがパソコンの画面に表示させたそれを二人に見せる。

「俺は議事録とか資料を引っ張り出してきただけだぞ。作って纏めたのは近藤さんだ」

「ありがとうございます。私は資料作りで手一杯だったのに、どこにそんな余裕が……」

「そうね、違いを挙げるとすれば、年齢かしら?」

 近藤さんはニッコリと笑い、答えにならない答えを口にした。


 風紀委員会からの確認と今回の討論会のお礼が書かれたメールを受け取り、いつもより早かったが解散になった。近藤さんは少し残ると言い、会長が残るなら私も残りますと眞島が残り、野田さんはバレー部に顔を出したいと部活に行った。そして、俺はもうこれ以上パソコンの画面を見たくないから帰る事を選んだ。それに、今日は一秒でも惜しい。

 靴に履き替えグラウンドに歩いて行くと、部活動生の元気の良い声が響く。そして、見慣れたサッカー部の練習風景が見えてくる。

「跡野さん!!」

「げっ、バレるの早いな……」

 しばらくボケッと見ておこうと思っていたのに、金木に見付かって、サッカー部全員に視線を向けられる。

「おお! 悪役のご登場じゃないの」

「二ノ宮、なんだよ悪役って」

「だってそうじゃない。あそこまで見事な悪役ってなかなか居ないんじゃないの? あんたの事知らない奴から見たら、完全に意地の悪い腹黒副会長でしょ」

「という事は、二ノ宮達にはそうは見えなかったって事か?」

「当たり前よ。責任かぶる時と同じ顔してたから、嫌でも分かるわ。私、あの重い空気の中で笑い我慢するの大変だったんだから」

 マネージャー陣の所に行くと、二ノ宮にニヤニヤされながらそう言われる。まあ、終わったのだから悪者なのかどうかはどうでもいい。

「でも、あれ、絶対跡野さん達が勝ちでしたよね?」

「金木、風紀委員なのにそんな事言って良いのかよ」

「私、跡野さん達応援してましたし!」

「跡野、全校集会終わった後にうちのクラス、珍しくいじめについて真面目に語り合ったりしちゃってたわ」

 加藤がそう言って、俺に呆れた顔を向ける。

「最初は、なんか意地の悪い副会長に対する悪口だったんだけどね。でも、あの副会長の言うとおりだ。私達はいじめを見ても何も出来なかった。そう言う子達が出てきて、いつの間にかクラスを上げてのいじめに関する議論が始まってて。担任の先生が目を丸くしてたわよ」

「私のクラスも、全校集会が終わってからいじめについて、みんなで自発的に話し合いをしました。跡野先輩の意見が影響していたのは確かです」

 宮村もそう言う。まあ、俺の方も主目的達成に貢献できたようでなによりだ。生徒の多数から嫌われた甲斐があったという事だろう。

 練習が終わるまで座って待っていたら、当然の如く二ノ宮に後片付けを手伝わされた。だが、それもこれも早く帰るためだ。それなら生徒会で疲れた後だとしても、雑用を手伝うなんて何の事はない。

 そして、香織と一緒に学校を出た。

「優一さん、凄かったね」

「ごめんな、かっこ悪いところ見せちゃって」

「ううん! 凄く格好良かった! 風紀委員会優勢だった体育館の雰囲気をひっくり返しちゃって! しかも、そのおかげでみんな真剣にいじめについて考えてたし、だから凄く格好良かったよ!」

「そっか、香織にそう言ってもらえたなら良かった」

「なんか、私が困った時に助けに来てくれる優一さんの顔だったから……見惚れちゃった」

 手を体の前で組んだ香織は、俺の方を向いて頬を赤く染めながらニッコリ笑う。香織に褒められただけで、いや香織に褒められたからこの数日頑張ってよかったと思える。きっと今の俺は、香織に褒められたら何だって出来るような、そんな事さえ考えてしまう。

 付き合い初めの頃は、手を繋ぐ事にもおっかなびっくりだった。キスなんか、あの時の勢いが無ければ、相当踏み出すまでに時間が掛かっていたと思う。繊細なガラス細工を扱うように、それだけ慎重になってしまうのだ。香織を傷付けたくない、香織に嫌われたくない。そんな思いが、俺を尻込みさせる。

 初めて、香織と心と体を交わらせた時は、本当に怖かった。でも、今はどれも自然に出来る。それだけ、俺と香織の積み重ねてきた経験や想いが増えたからだ。

 俺は、ずっと香織を好きでいられる。いつまで香織を見ていても飽きない。視線が合うと優しく微笑んだり照れて困ったように笑ったりする。長い黒髪はいつ見ても綺麗だし、整った愛嬌のある顔はついつい視線を奪われてしまう。女の子らしい体付きの体も、意識するだけで胸が高鳴り体が熱くなる。こんな魅力的な人が俺の彼女だという事を認識すると、少しだけ本当に現実なのか不安になる。でも、その後に香織の笑顔を見て、体が宙に浮くようなフワフワとした幸福に全身が包まれる。

 香織は、魅力は容姿だけではない。真面目で人懐っこい性格は誰からでも愛される。そして、言動や立ち振る舞いは、同年代の女子と比べても数段大人に見える。もちろん年相応の可愛らしい一面も持っている。でも、香織からは大人の気品を感じる。

 本当に、香織は現実離れしている。本当に、こんな魅力的で完璧な女性が居るのか、そう疑いたくなる。実は香織が妖精の女王ティターニアであると言われても、やっぱりか、そんな風に納得してしまいそうだ。

 でも、そんな香織が俺の彼女なのだ。

「優一さん」

「ん?」

「いつもは、家が近付くにつれて寂しいなって思うんだけど、今日はまだ一緒に居られると思うと嬉しいね」

「そうだな。でも、本当に大丈夫なのか? なんか、両親の居ない間に上がり込むのって気が引けるんだけど……」

「でも、私はちょっとドキドキするし嬉しいかな」

「嬉しい?」

「うん、だって秘密の恋って、なんかロマンチックじゃない?」

 確かに、物語の中ではよく恋仲である事を隠す必要がある、という設定はある。そういうものは大抵純愛物が多い。

「でも、全部秘密にすると辛いかもな」

「えっ?」

「だって、もし俺と香織が付き合ってるって事を秘密にしないといけなかったら、絶対今より香織が他の男に告白される機会が増えるし。俺は正直、心臓に悪くて嫌だな」

「そんな事言ったら、私だって優一さんと付き合ってる事秘密にしないといけなかったら、絶対女の子が優一さんにアピールしてきて不安になっちゃうよ」

「俺はモテないって」

「はい、嘘! 今日、優一さんが野田さん助けた時、野田さん隣で優一さんの事キラキラした目で見てたよ。あの後、クラスの子に言われたんだから。あの書記の子、絶対優一さんのこと好きだよって」

「助けたって……別に俺はなにもしてないぞ」

 多分、香織の言う助けたというのは、討論会で野田さんが発言した後に矢島のとった一手で雰囲気を変えられた時の事だろう。その後に俺の発言で雰囲気をまたガラリと変えた。でもあれは、別に自分達に賛同させるように仕向けた訳ではない。

「セリアさんが言ってたよ。あれは優一さんが私達に向けた問題提起だって。私達に議題を投げかけて、その議題に本当の意味で考えさせようとしたんだって。凄いよね、セリアさん。私は優一さんの彼女なのに、言われてから気が付いた。ちょっと悔しいな」

「セリアはいつも底抜けに明るくして、傍目からだとちょっとバカっぽく見えるけど、俺と同い年だしそもそも頭はかなり良いからな。で? せっかく俺が香織にも問題提起したのに、香織はなに考えてたんだ?」

「えっ? どうしよう、優一さん格好良すぎるって思ってた」

「お、おう……ありがとう」

 ふざけて返したら素直な可愛い答えが返って来てたじろぐ。まったく、反則だろうそれは。

「香織が言った野田さんを助けたってやつな。自分の発言の後に雰囲気ひっくり返されて落ち込む野田さんの姿がさ、香織とダブったんだよ。俺や先生、先輩に怒られてしょぼくれてる香織の姿とさ。だから、なんとかしてやりたくなった」

「でも、結果は野田さんが優一さんの事、もっと好きになったし。まあ、優一さんカッコイイから仕方ないけど」

 さっきから俺達は、なんて会話をしているのだ。他人が聞いたら嫌味や空き缶の一つや二つくらい投げたくなる会話じゃないか。でも、そんな歯の浮くようなやりとりが楽しくて幸せだ。

 いつもの場所で立ち止まる。そして、香織は目を瞑った。

 ゆっくり香織の髪を掻き上げ、唇を触れさせる。柔らかく温かい香織の唇。

「んっ……」

 唇の隙間から漏れる香織の吐息は色っぽい。キスを続ければ続けるほど、香織の頬は上気して赤く染まる。その変化が自分のせいである事が堪らない。

「優一さん、お疲れ様。本当に頑張ったね」

 唇を離した香織が照れ笑いを浮かべながらそう言う。そして、香織から唇が重ねられる。それからすぐに、舌が触れ合った。

 追い求めるように絡む想いに没頭する。頭が沸騰しそうなくらい熱くなる。握った手には香織の指が絡み、二人の想いが激しく絡み合う度に香織が体をビクつかせる。

「じゃあ、いこっか」

 香織が体を離してすぐに歩き出す。香織にしては大胆なキスだった。もしかしたら、俺への頑張ったご褒美としてあんなキスをしてくれたのかもしれない。

 いつもは入って行くのを見届ける玄関前に、今日の俺は立っている。いつもは明かりの灯っている玄関の向こう側も、磨りガラス越しに明かりは漏れてこない。今日は、家に誰も居ないのだ。

「どうぞ」

「おじゃまします」

 香織が玄関の鍵を開けて、俺を招き入れる。そして、香織は俺が入ると内鍵を閉めた。

「優一さん、私の部屋に案内するから少し待ってて。ちょっと、その……シャワー、浴びたいから」

「そ、そっか。分かった」

 香織が二階に上がる階段を上りながら、恥ずかしそうに言う。それを聞いて俺も恥ずかしくなって焦りながら返すしかなかった。

 初めて入った香織の部屋は、白を基調とした家具で統一された部屋だった。部屋の脇に置かれているベッドも木製ではあるが白いベッドだ。敷かれている布団は優しい色使いの、シンプルなもの。ラックも白く綺麗にせいりされていて、勉強に使っているであろう白のワーキングデスクは天板がガラス製のようでライトの光りを反射して部屋をパッと明るくしている。床にはフワフワの絨毯が敷かれ、床の冷たさは全く感じない。

「あ、あんまりジロジロ見られると、その……恥ずかしいかな」

「ご、ごめん。お洒落で綺麗な部屋だな」

「ありがとう。あ、飲み物取ってくるね!」

「あ、気を遣わなくていいからっ! って行っちゃったか」

 とりあえず、ふかふかの絨毯の上にゆっくり腰を下ろす。ああ、落ち着かない。

 何処を見てもいけない気がして、目の置き所に困る。とりあえず、スマートフォンを取り出して暇つぶしを……いや、彼女の家に来てスマホをいじるなんてもったいない。覚悟を決めて――。

「優一さん、アイスティーでいい?」

「ご、ごめんなさい!」

「えっ?」

 意を決して顔を上げようとした瞬間に香織の声が聞こえ、ついそう謝ってしまう。ハッとして香織の方を見ると、香織がクスクスと笑って俺の方を見ていた。

「優一さん、緊張し過ぎだよ」

「そう言われてもな」

 香織が隣に座って、ジーッと俺の顔を見詰める。結構近い距離から見詰められて、少し顔を遠ざけようとすると、襟を引っ張られて防がれる。

「ンンッ――」

 突然奪われた唇。そしてすぐ離された香織の唇を名残惜しく目で追う。

「これで、ちょっとは待てる?」

「あ、ああ」

 ニッコリ笑って着替えを手に部屋を出た香織を見送り、俺はダラリと手を絨毯の上に落とした。

 これじゃあ、どっちが年上か分からない。

 …………あれ? さっき香織は『ちょっとは待てる?』と聞かなかったか? という事は、香織は俺が何かを待っていると思ったという事だ。俺は女の子の部屋で、どう振る舞って良いか分からず落ち着かなかった。そのそわそわしている様子を、香織は何かを待ちきれずにそわそわしていると思ったのだ。

「……マ、マズイ」

 香織は勘違いしている。いや、あながち勘違いだとも言い切れないのだが、半分くらい勘違いしている。

 香織が、今日家に誘ってくれた経緯は、二ノ宮達から進展状況確認をされ、それで一ヶ月前からキスしかしていないと話し、それに予想外の反応をされた事がきっかけだ。そして、その話の流れからすると、今日は香織の両親が居ないから、その……一ヶ月ぶりにそういう事をするという流れになるはずだ。いや、俺はそうしたい。そうしたいし、香織もそれを踏まえた上で誘ってくれたのだから、なんの問題もないだろう。

 だがしかし、香織にがっついている男だと思われたくない。

 いや、実際がっついているかがっついていないかと聞かれれば、それはがっつきたくもなる。だってそうだろう? あんなに魅力的な彼女が居て毎日一回ずつキスを交わして、それ以上が一ヶ月前なんて蛇の生殺し以外のなにものでもない。

 だけど、さっきそわそわしていたのは、そういうそわそわではない。

 今更「さっきそわそわしてたのは、別にそういう意味ではなくてだな……」なんて言い出すのもおかしい話だ。だったらどうすればいい? いっそ今日は……いや、それはない。こんなチャンス滅多にあるわけじゃない。それに、香織が自分から誘ってくれた勇気を踏みにじる方があってはならないことだ。

「優一さん、聞いてる?」

「うえっ!?」

「さっきから、ずっと下を向いたまま考え込んでて、私が声を掛けても全然気付いてくれなかったから」

 頬を膨らませる香織は、風呂上がりの上気した肌に少し湿った長い髪を後ろに流している。そして、薄手のTシャツに下は短パンとラフな格好で、肌の露出も多い。

「そういえば、秋は色んなイベントがいっぱいあるね。体育祭に文化祭、それに修学旅行も」

「修学旅行は、秋って言うより冬だけどな」

「そうだね。絶対、優一さんと一緒に回るんだ!」

「当たり前だろ。行動班に香織が居なかったらグレる」

「文化祭も楽しみだなー」

「去年は何やったんだ?」

「私は、みんなでクレープ屋さんをやったよ。男子に女子はメイド服だって言われたけど、女子全員で反対して普通のエプロンにしたの」

「うわー、香織のメイド服姿か~。見てみたいな」

「優一さんが見たいなら、今年は着てもいいよ?」

 俺は、香織と学校行事について話しながら、思っていた。本来なら、俺は香織とこんな話しで盛り上がる事は出来なかったのだ。

 俺は、学年は同じでも香織より一つ年上だ。事故で、休学した事による留年がなければ、同じ体育祭と文化祭は経験できても、一緒に体育祭と文化祭は楽しめなかった。修学旅行なんて、一緒に行くなんてまずあり得なかった。でも、今はそのこれからあるイベントについて楽しく話しを出来ている。

 事故に遭って良かったなんて言えない。でも、事故のおかげでこうやって香織と一緒に同じ時間を過ごせるというのは、間違いではない。

「優一さんと一緒に体育祭と文化祭と、修学旅行も出来るなんて夢みたい。優一さんが事故に遭ったのは辛くて悲しかったけど。その辛くて悲しかった分、私に嬉しいことがいっぱい返って来た」

「俺も、同じ事考えてたよ。本当なら、こうやって一緒に同じ場所に立って同じものを見る事は出来なかったのにな。俺は三年で香織は二年で、修学旅行なんて俺は見送るだけで精一杯だった」

「楽しみだね」

「ああ、楽しみだな」

 香織が俺の手に自分の手を重ねる。

「……優一さん」

「香織、好きだ」

 絨毯に座りながら、香織の肩を抱いて唇を重ねる。周りの視線なんて気にしなくて良い、開放的なキス。しかし、香織はすぐに唇を離して、ニッコリと笑う。

「床の上じゃ痛いし、ベッドの上に座ろっか。……キャッ」

 立ち上がった香織を後ろから抱き締める。ヤバイ、体が熱い、頭が熱い、理性がどこか遠くへ遠ざかって行く。

 ベッドの上に座って、すぐに俺から唇を重ねた。触れる唇、絡む舌、絡ませる左手、柔らかい胸に触れさせる右手。全ての感覚が過敏になる。

「んっ……優一さんっ……」

 香織の、甘い吐息混じりの声が聞こえる。右手を香織の太ももに添えて、スッと撫でると香織の体がビクンと跳ね上がった。

 これ以上、我慢なんて出来なかった。

 香織の着ていたTシャツを捲り上げ、見える白い下着にまどろっこしさを感じる。しかし、前の時は外さなかったから外し方が分からない。

「優一さん、ちょっと起き上がってもいい?」

 目の前で香織がクスクスと笑っている。香織の上から体を退けると、スッと上体を起こした香織が後ろに手を回してスッと下着が外れる。

「すまん……」

「ううん、逆に手慣れてたら、その方が嫌だから」

 胸元を腕で隠したベッドの上から立ち上がり、近くにあった机の引き出しを開けて、中から何かを取り出す。そして、ベッドの上に戻って来た香織は、俺の前に手に持ったそれを差し出した。

「せ、せっかく二ノ宮先輩に貰ったから……あっ」

 視線を逸らした香織の両肩を押して、ベッドに二人して倒れ込む。ベッドから漂う香りは、いつもキスする時に漂ってくる香織の甘い香りだった。

 ベッドの上で、俺は香織を求めた。もっと近くに居てほしいと、布一枚さえも遮る事が許せなくて、俺は服を脱ぎ捨て脱がせた。

 今までで一番ピッタリと重ねた香織の肌は熱かった。一ヶ月ぶりに直接触れた香織は、荒い息遣いの中に甘い声を混じらせ、段々とその割合が多くなっていく。

 そして、二人が交わった時、俺はもう、なにも考えられなかった。

 必死に、香織の事が好きだと、香織に好きで居てほしいと、香織の側に居たいと、香織のずっと側に居させてほしいと、ただその俺の一方的な想いをぶつけた。

「ゆう……ちさん、ゆういち、さんっ……」

「香織、香織っ! 好きだっ!」

 込み上げる想いを全部吐き出す瞬間、今まで以上に強く香織を抱き締めた。そして香織も、痛いくらい俺の体を抱き締めた。


 体の力が抜けてぐったりと寝転がっていると、香織が俺の腕の中に入ってきて、キュッと体にしがみついた。

「優一さん、どうしよう」

「どうした!?」

「幸せ過ぎて不安になってきちゃった」

 何か香織にやってしまったのかと焦って聞き返せば、香織は顔を綻ばせてそう言う。俺は、その香織の表情を見て安心して起こし掛けた体をベッドの上に下ろす。

「ごめんね、我慢させちゃって」

「えっ?」

「だって、今日は激しかったから」

「ご、ごめん」

「ううん、怒ってるわけじゃなくて、やっぱり男の子だから辛かったのかなって」

「確かに、こんな可愛い彼女が居るのにそういう事が出来なかったのは、辛いというか寂しい気持ちはあった。でも、俺はただそれだけのために香織と付き合っているわけじゃない。香織と一緒に居れると幸せだし、毎日香織とキス出来てるだけでも十分過ぎるくらいだ。でも時々、本当に時々だけど堪らなくなる時がある」

「一日置きにキスが変わるもんね。優一さんの時々って一日置きなんだ」

 香織がクスクス笑って俺にジーッと視線を向けてくる。そりゃあ、こんな可愛い彼女と毎日キスをしてて、頻繁に堪らなくならなかったら、もうそいつは人間じゃない。

「でも、こんな機会次いつあるか分からないね」

「まあ、お互い完全に二人っきりになるのは難しいからな」

 家族が全員家を空けているという機会は、どっちもほぼない。今日みたいな状況は本当に稀なのだ。だから、こうして香織と抱き合えるのも次はいつになるか分からない。

「これって、使用期限が決まってるんだよね?」

「ああ、そうだな」

 口を開けた箱を手に取って香織が言う。その香織の顔は尋常じゃないくらい真っ赤だ。そんなに恥ずかしいならマジマジと見なければいいのに……。

「二ノ宮先輩がちゃんと使ってって言ってた」

「二ノ宮も人をからかうのが好きだからな」

「このままだと、余ってダメにしちゃうよね?」

「まあ、仕方ないんじゃないか。別に二ノ宮も怒りは――」

 香織が一瞬俺の唇を塞ぎ、唇を離した途端に上目遣いで俺を見上げる。

「優一さんが討論会頑張ったご褒美まだあげてない」

「いや、いいって。別に香織のためになにか出来たわけじゃ――」

「だから、いいよ?」

 一瞬時が止まった。そして、頭から湯気が噴き出すのかというくらい真っ赤に全身を染めた香織を、俺は抱き寄せた。

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