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コンチェルト。アゲイン  作者: 煮込みハンバーグ
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2【戻れない世界】

  【戻れない世界】


 ベッドの上で、足や腕を持ち上げられたり曲げられたりする所から、俺のリハビリは始まった。

 最初は筋肉が軋むような感覚があったが、次第に痛みを感じず動かせるようになった。

 リハビリを始めてから一週間も経たずに自力で、ゆっくりだが起き上がることが出来るようになった。

「どうぞ」

「先輩、こんばんは!」

「よう駿河。今日も時間ピッタリだな」

 ノックをして病室に制服姿の駿河が入ってきた。時計に目を向けると、今は十九時になったばかり。うちの高校の部活が活動出来る時間は授業が終わってから、夏期は十九時まで、冬期は十八時半までになっている。まだ三月上旬である今は冬期になっているから、十八時半に部活が終わったはずだ。

「選手の人達の中には居残り練習をしている人も居ますけど、マネージャーは後片付けさえ終わればすぐに帰れますから」

「そうか、でも疲れるだろ毎日練習が終わってからここに来るの」

 聖雪が俺が眠っている間も、駿河が見舞いに来てくれていたとは聞いていたが、俺が意識を取り戻してからも駿河は毎日病院に来てくれる。

 平日の練習終わりや、休日の練習前や練習終わりに必ず顔を出してくれる。途中、顧問の先生と佐原が顔を出してくれて、相変わらずガハハっと笑う顧問の先生に暑苦しい激励を受け、佐原には「早く戻ってこい」とも言われた。

 正直、まだ一人で歩く事も出来ない状態では、部活どころか学校に通う事もままならない。でも、かなり程度の酷い運動不足という扱いだから、そんなに途方も無い時間は掛からないらしい。上手く行けば、四月の頭には退院出来る。そう中年医師が笑顔で言っていた。

「先輩、体の方は?」

「自力で起き上がるのは出来るようになった。ただ、車椅子に自力で座るのと車椅子を自力で漕ぐのはまだ無理だな。腕の筋力が足らな過ぎる」

「じゃあ、色々と不便ですね」

「そうだな、外の空気を吸いに行くのも一苦労だし。トイレに行くのも大変だよ」

「じゃ、じゃあ! 私がお手伝いします!」

「…………えっ?」

「…………あっ! いえっ! お、お手伝いするのは外の空気を吸われる時ですッ!」

「だっ、だよな。一瞬何を言い出したのかと思った」

 耳まで真っ赤にした駿河は、俯いた状態で少し顔を上げ、チラリと視線を向ける。

「その……トイレのお手伝いは看護師の方がされるんですか?」

 恐る恐る俺の顔色を窺いながら、駿河はそう尋ねる。まあ、男のトイレについてなんてかなり聞きにくい話題だ。駿河の反応も仕方が無いだろう。

「ん? 大抵は母さん父さんに頼んでるが、二人共居ない時は看護師の人に頼んでるな。向こうも気を使ってくれて男の人が来てくれるよ」

「男性、そうですよね! やっぱり女性ではないですよね!」

 俺が答えた瞬間、さっきまでの恐る恐るという表情から一変し、パッと花が咲いたように明るい笑顔を浮かべる。

「何で嬉しそうなんだよ」

「いえ、何でもありませんよ」

 ニッコリ笑みを浮かべた駿河は、スポーツバッグからチョコレート菓子の箱を取り出す。

「お菓子は食べても大丈夫なんですよね?」

「ああ、食べ過ぎるのはよくないだろうけど、食事制限は何も無い」

「良かったら、どうぞ」

「おう、サンキュー。体は動かしてないんだが腹は減るんだよな~」

 ゆっくりとチョコレート菓子の箱に手を伸ばすと、スッと箱が駿河の手によって遠退く。

「何? これは新手の拷問か何かなのか?」

「いえ、辛いなら私が食べさせてあげようかと?」

「大丈夫だ、食べさせてもらうのは俺のプライドが許さん。それにこういう事もリハビリになるからな」

 慎重にチョコレート菓子を指先で摘み上げ、口に運んで中に放り込む。口に甘みと苦味が共存したチョコレートの味が広がる。

「よく出来ました」

「駿河は俺の母さんか何かかよ」

 ニッコリ笑ってからかう駿河にせめてもの抵抗をしていると、駿河の手がヒョイっと伸びてきて、俺の口に二個目のチョコレート菓子が放り込まれる。

「一人で出来たご褒美です」

「何か餌付けされてる公園の鳩の気分だな」

 外はもう薄暗くなっている。

「なあ、駿河」

「なんですか?」

「練習終わりに見舞いに来ると外真っ暗だから、無理して来なくて――」

「いえ、毎日来ます」

「んな事言わないで、真っ暗な外に後輩を送り出す俺の気持ちも考えてくれよ。本当なら送ってやりたい所なんだが、今この状態じゃ無理だし、何かあってからじゃ遅いし」

「ここには私が来たいから来てるんです。父にも母にもお見舞いで遅くなる事は伝えてありますし、許可もちゃんと貰ってます。それに、父と帰るタイミングが重なったら、途中で合流して父の車で帰っています。だから、先輩は何も心配しないでください」

 凜とした態度でそう言い切った駿河に、俺は何も言葉を返せなかった。きっと何を言っても無駄なのだろうという事が、駿河の目を見て分かったから。

「そろそろ面会時間も終わりだな」

「はい、そろそろ帰らないと病院の方々の迷惑になっちゃいますね」

 椅子から立ち上がった駿河を目で追っていると、駿河がまた椅子に座る。

「どうした?」

「先輩、毎日来るのは迷惑ですか?」

「えっ、いや、迷惑ってわけではないけど」

「じゃあ、明日からも毎日来ます! おやすみなさい!」

「お、おう、おやすみ」

 スッと悲しそうや表情になったと思ったら、パッと明るい表情になる。前から表情が豊かな奴だとは思っていたが、こうも表情の切り替えが早いとは思わなかった。

「さて、何もすること無いし寝るか」

 室内の照明を落としてベッドに背中をつける。

 ここ最近で、大体は俺の今置かれている状況は理解出来た。この一週間、俺の見舞いに来たのは家族、駿河、顧問の先生と佐原だ。他には誰も来ていない。

 クラスメイトはもちろん担任教師も、サッカー部のチームメイトも、そして音瀬も……。

 どうやら、俺は過ぎ去った時間に置いていかれたらしい。もはや、俺は過去の人間とされたのだ。それは正直、応えた。

 彼ら彼女らにとって俺の存在は興味を傾ける程でもなかったのだ。実際そうだ、俺一人が欠けたからと言って、世界が回らなくなるわけではない。俺が社会的に担っていたポジションは、誰にでも出来るものだからだ。

 ただ、跡野家の長男という俺のポジションは俺以外には出来ない。だから、家族は俺を過去の人間としなかった。駿河や顧問の先生、それに佐原に関しては、あの三人が常人より優しい性格だからという理由だ。

 正直、きっと俺は世の中に戻っても社会的なポジションは無いだろう。俺と同い年の奴らは大学受験等が控えている。だから尚更、俺への興味が薄れていったのだろう。……いや、それも大分楽観的な憶測だ。実際は、受験が無くても俺の事は忘れてしまっていたのかも知れない。

 意識を失う前は、それなりに上手くやっていたつもりだった。チームメイトからも全員に嫌われているわけではないと思っていた。音瀬とも、酷く嫌われるような関わり方をしたとも思えない。まあ、好かれるような事も出来なかったが。

「やめた、寝よ寝よ」

 目を閉じて考えを振り払う。

 その夜、俺は人生で初めて羊を数えた。


 寒さが残る三月中旬。俺は歩行器を使った歩行訓練に入っていた。

 正直、リハビリは大変だ。めんどくさくて休みたいなんて思う日もある。しかし、父さん母さん、聖雪がそれを許さない。更にそんな三人に輪をかけて厳しい鬼教官が居る。

「先輩! 頑張ってください!」

「ちょっ、駿河、体を休める事も大切だと思うんだが……」

「何を言ってるんですか! そんな事じゃ、新学期に間に合いませんよ!」

 春休みに入っても部活の練習や練習試合はあるが、普通に学校に行っているよりも時間に余裕があるらしい。そのせいか、駿河が顔を出す時間が増え、それが歩行訓練の時間と重なると、これまたかなりめんどくさい事になる。

「先生、これ以上の訓練は危険だと駿河に言ってください」

「いや、まだ大丈夫だよ」

「……先生も駿河の味方か」

 腕は歩行訓練以外でも動かす事が増えて、元通りとはいかないまでも大分動かせるようにはなった。しかし、足の方は歩かなければ動かす機会はない。それでも、初めて歩行訓練をした時と比べればかなり回復はしている。

「おー今日も頑張ってるねー」

「こん、にち、わッ!」

 脳天気な笑顔でこっちに手を振る爺さんに、必死にリハビリをしながら応える。

「香織ちゃんも毎日毎日ご苦労さん。優一ちゃんにはもったいない彼女だ」

「ち、違います! わ、私は跡野先輩のただの後輩です!」

「そうかいそうかい、通い妻の方だったかな?」

「佐藤さん! それも違いますよ!」

 ポワポワした笑顔で言う爺さんに、駿河は必死に否定をする。この光景を見るのは何度目だろう。

「駿河~、そろそろ慣れろって言ってるだろ? 佐藤の爺さんはそうやって反応する駿河を楽しんでるだけなんだから。反応するだけ無駄だ、受け流せ」

「そ、そんな事言ったって! 先輩は、私の事を彼女とか、そ、その……妻とか言われても何も思わないんですか?」

「だから、反応すると爺さんが面白いだけなんだって。反応したら負け、反応するだけ無駄」

「…………先輩」

「ん? えっ? 駿河?」

 決められた位置まで行って戻ってくるという歩行訓練コースの旅を終えて戻って来た俺は、ギッと俺を睨み付ける駿河に出会った。明らかに怒っているのが見て取れる。

「端まで」

「は?」

「部屋の端まで行って戻ってきて下さい」

「いやいや、今戻ってきた所なんだけど? てか、部屋の端までって普通のコースの倍以上なんだけど……」

 助けを求めるためにチラリと先生の方に目を向けると、アハハっと爽やかな笑顔を向けていた。そして、両肩をすくめてしまう。どうやら、助けてはくれないらしい。

「なんでこうなるんだよ……」

「フンッ!」

 勢い良くそっぽを向いた駿河に背を向け、俺は渋々部屋の端に向かって歩き出した。


 歩行訓練を終えて椅子に腰掛けて背中を壁に付ける。ただ歩くだけだが、それでも今の俺にはかなりハードな運動だ。

「先輩、お疲れ様です」

 隣に駿河が座り、スポーツドリンクのペットボトルの蓋を開けて差し出す。

「サンキュー」

 腕の力は大分回復してきたが、歩行訓練で体を支えるのにかなり腕の力を使った。だからペットボトルの蓋を開けてくれたのはかなり助かる。

「結構歩けるようになりましたね」

「歩かされてるの間違いだ」

「聞こえませーん」

「ったく、ちょっとは俺の身を考えてくれよ」

「甘やかしたら先輩はリハビリをサボるって聖雪ちゃんが言ってましたよ?」

「聖雪め、余計な事を言いやがって」

 ペットボトルを傾けてスポーツドリンクを喉に流す。甘いが僅かに塩っ気を感じる独特な味。でも部活で飲み慣れた味だ。

「跡野くん、明日から歩行器を外してみようか? 歩行器無しで、手摺りを使って歩く訓練に変えよう」

 目の前に立った先生がニッコリ笑って言う。俺はそれに正直げんなりした。やっと歩行器でそれなりにあるけるようになったと思ったら、更に条件が厳しくなっていく。

「先輩! 良かったですね!」

 駿河は身を乗り出して喜んでくれている。まあ、リハビリの内容が変わるという事は順調に回復しているという事なのだから、喜ばしい事ではあるのかもしれない。

「シャワーはいつも通り御両親が来られてからだね。私は別の患者さんの所を見て回ってくるけど、無理せずゆっくり休んでから病室に戻るんだよ」

「はい、ありがとうございます」

 中年の医師が去って行って、俺はまたスポーツドリンクを飲む。体が重い、これはしばらく休まないと動けそうにない。

 駿河は、毎日見舞いに来てくれて歩行訓練にも付き合っているせいか、家族並みに俺の状態を理解している。訓練後には車椅子で病室に帰ることも知っている。時々、病室まで連れて行ってもらうこともある。俺は申し訳ないし情けないと思うが、駿河は気にせず手伝ってくれる。

 毎日部活もあるのに、とは思うが助かっている部分が多いから、何となく甘えてしまっている。だが、スパルタ式のリハビリだけはどうにかしてもらいたい。

「跡野」

「ん? おう、佐原か。どうした、今日は午前練習だったんだろ?」

「ああ、ちょっと話があってな」

 私服姿の佐原が爽やかな笑顔を浮かべて俺に右手を挙げた。そんな佐原を見て、駿河は慌てて立ち上がり頭を下げる。

「佐原キャプテン、こんにちは」

「ああ、駿河もご苦労さま」

「い、いえ、私は自分が好きで来てるので!」

「俺も、駿河くらい顔を出せればいいんだが、もう夏の大会まで三ヶ月を切ったからな」

「そうか、佐原にとっては、夏の大会は次で最後になるんだな」

「ああ、みんな目指すはベスト四なんて言ってるが、俺は絶対に優勝するつもりだ。俺は優勝して、お前を全国に連れて行く」

「バカ野郎、それは男じゃなくて女に言うセリフだ。男の佐原から言われても寒気しかないぞ」

「それもそうだな」

 笑う佐原はスッと笑顔を消し、俺の目を見つめる。

「人が少ない所とかあるか?」

「じゃあ、病室に戻ろう。そこなら俺達の関係者しか入ってこないしな」

 ゆっくり立ち上がろうとした俺に、佐原が手を貸そうとした。でも、それよりも早く駿河が俺を支えて車椅子に座らせてくれる。

「駿河は随分慣れてるな」

「よくやってもらってるからな。申し訳ないとは思うが」

「いえ、これくらい何の問題もありませんよ! マネージャーも結構体力使う仕事ありますし」

「そういう申し訳ないもあるんだが、まあいいか」

 駿河が車椅子を押してくれて、隣に佐原が並ぶ。

「跡野、新学期には戻ってこれそうか?」

「不本意ながら、戻ってしまうかもな」

「そうか。サッカーは、まだ無理か」

「この通り、まだ支えがなかったら自立して歩けないしな」

 病室に着いて中に入ると、俺は車椅子に座ったままで、駿河が二脚の椅子を出した。その片方に駿河は腰掛けたが、佐原は立ったまま俺の方を見ている。

「あ、私、席を外しますね」

「いや、大丈夫だ」

 腰を浮かせて立ち上がろうとした駿河を、佐原が振り返って制する。そして、また俺に顔を向けた。

「で? 話とやらはなんだ?」

「えっ? 佐原キャプテン?」

 俺が尋ねた瞬間、佐原は床に膝と両手を付いて頭を下げた。

「跡野、済まない」

「……佐原、いきなり土下座されても反応に困るんだが。駿河も呆然としてるぞ」

「まず先に謝っておきたかった。これは俺の自己満足だ」

「そうか、んじゃあ、とりあえず座って事情を説明してもらおうか」

「ああ」

 佐原はゆっくり立ち上がり、駿河が用意した椅子に腰掛ける。そして、椅子に座った佐原はまた俺に頭を下げた。

「だーかーらー、頭を下げられても、全く事情が分かんない俺にどうしろってんだよ」

「すまん」

「んで?」

「俺は、跡野に対して最低な事をした。それを許されるとは思っていないが、謝らせてほしい」

 佐原は両膝の上で両手の拳を握り締め、フルフルと震わせている。

「俺は跡野が事故に遭って病院に運ばれて、しばらくしても意識が戻らない。それを知らされた後に、一度駿河と揉めた。駿河はもちろん覚えているよな?」

「…………」

 駿河は答えない。ただ、俯いて黙り込んだ様子を見れば、覚えているのは一目瞭然だ。

「チームメイトが事故に遭い意識不明。それは部内をかなり動揺させた。特に、跡野と関わりの深かったBチームのメンバーやマネージャー陣は」

 うちの高校のサッカー部はそこまで大所帯ではないが、選手を大きくAチームとBチームに分けている。まあ、分かりやすく言えばAチームが一軍でBチームが二軍だ。もちろん、下手くそだった俺はBチームだった。

「実際、マネージャーの中にお前の事故を聞いて倒れ、体調を崩した者も居た。それは音瀬だ」

「まあ、音瀬は結構気の弱い性格だから精神的な動揺は強かったかもな。申し訳ない」

「何故、俺に謝る」

「佐原の彼女なんだろ? 彼女を倒れさせて彼氏心配させたんだから謝るのは普通だろ?」

「そうか、知っていたのか。だが、俺が侑李と付き合ったのはそれよりも後だ」

「あ、すまん、話を逸らさせたな。それで、俺の事故で部内が動揺した事と佐原が謝る理由は何なんだ?」

 俺の問いに、佐原は唇を噛む。しかし、ドスッと右手の拳を腿に打ち付けて口を開いた。

「初めは、数日も経てばきっと目を覚ます。そう俺はみんなを励ました。俺もすぐにお前が目を覚ますと思っていた。でも一週間、二週間、そして一ヶ月経ってもお前が目を覚ます事はなかった。時間が経つにつれて部内の動揺は広がり強さを増していった。そして俺は、顧問の先生には知らせず部員だけを集めた会議を開いた。そこで言ったんだ。”跡野の事は忘れよう”と」

「なるほどね。確かにそりゃあ、酷い話だ」

「本当に、済まないと思ってる」

「でも、それをやらなかったらチームが崩壊してたかも知れないんだろ? そう佐原は判断したわけだ。だったら仕方ないんじゃないか?」

「跡野?」

「俺が事故に遭ったのが五月の頭くらいだっけ? そっから一ヶ月って言ったらもう夏の予選が始まる頃だ。その時点で早急に事態を収拾させる必要がある。だったらなりふり構ってる余裕なんてないだろ」

 佐原は、いつだって全体を見渡す視野の持ち主だ。全体の動きを見て、乱れや綻びを見付けたらそこに手を伸ばしていく。そんな佐原が全体を見て下した結論なら何も言う気は無い。それに、もう既に過ぎ去ってしまった過去の話だ。ここで俺が腹を立てても何も生まれないし何も無くならない。

「それをみんなが受け入れたのなら、それが正解だったって事だろう? 現に、今は上手くいってるんだからその時に佐原が判断した事は間違ってなかったって事だ」

「いや、俺の提案にたった一人だけ反対した奴が居るんだ。それが、駿河だよ」

「駿河と揉めたって話が、ここで出てくるわけか」

「駿河は、俺が跡野を忘れようと提案したら、今まで見た事も聞いたこともない表情と声で俺を怒鳴りつけたよ。そのせいか、しばらく俺と駿河はギクシャクしていた」

 どんな様子だったのかは想像も付かないが、自分より遥かにガタイのいい男の先輩に食ってかかるとは、怖いもの知らずにも程がある。佐原が女子に手を上げるようなクソ野郎じゃなかったから良かったものの、下手をしたらケガをしたなんて話じゃ済まなくなったかもしれない。

「駿河」

「だ、だって、先輩の事を忘れようっていきなり言われて、納得出来るわけないじゃないですか」

「その駿河の気持ちは嬉しいけど、相手が温厚な佐原じゃなかったらどうするつもりだ。あんまり怖いもの知らずにはなるな。多少の臆病さは身を守るためには必要だぞ」

「はい……すみませんでした」

 久しぶりに駿河を言い含められて満足し視線を戻すと、佐原が視線を床に向ける。

「なんだよ、まだ何かあるのか」

「あ、ああ……今のはチームメイトとして、キャプテンとしての謝罪だ」

「次はなんだよ、今度は地球人として謝るつもりか? あいにくだが、俺はそこまでスケールの大きな人間じゃないぞ」

「男として、謝りたいんだ」

 その声は、さっきよりも遥かに重く暗い声だった。どうやら、本題はこっちの方だったらしい。

「俺は侑李が好きだ」

「良かったな、今はお前の彼女じゃないか」

「でも、侑李はお前の事が好きだったんだ」

「えっ…………」

 俺に、軽口を叩く余裕はなかった。思わず、言葉を詰まらせて沈黙を作ってしまう。動揺して次の明るい言葉が出ない、思い付かない。

 音瀬が俺の事を好きだった? こんな状況で佐原が冗談を言うはずが無い。だったら、それは事実なのだろう。

「俺は侑李が入部してきた頃から侑李の事が気になっていた。だから些細な事でも話し掛ける機会を作った。正直、マネージャーを手伝うBチームのお前らが羨ましかったよ。それで、とある日の練習後に侑李から初めて話し掛けられた。俺は舞い上がった。でも、話の内容は、お前に彼女が居るのか、それだった」

 俺は頭の中で、音瀬にチームメイトの誰かに彼女が居るのか尋ねられる場面を想像した。……吐きそうだ、苦しくて寒気が走って、世界の終わりを見たような絶望を感じる。きっと、佐原は同じような感情を抱いただろう。

「それから、時々侑李からお前について色々聞かれたり、お前と二人きりで買い出しに行けるようにしてやったりした。内心はそんな事、したくはなかったがな。そんな日が続いたある日、お前が事故に遭い、そして侑李は学校を休むようになった。それから、俺は練習が終わった後に毎日侑李の家を訪ねた。元気を出して欲しいと思った。それで、俺はやっと侑李に会えて話が出来た時、侑李に告白した」

「そうか、それで音瀬が告白を受けたんだから、俺に謝る理由なんて何も――」

「お前が侑李の事を好きな事も、俺は気付いていた」

「えっ、マジで?」

「ああ、多分、部内でお互いに好き同士だと気付いていなかったのは、侑李とお前の二人だけだっただろう」

 チラリと駿河に視線を向けるがこちらからは俯いていて表情が見えない。が、佐原の話が本当なら駿河も気付いていたという事だ。それは、物凄く恥ずかしい。

「俺は互いに好き同士だと知りながら、自分の気持ちを優先した。そして、お前が居ないのをいい事に、侑李を奪い去った。本当に男として恥ずかしい事をした。それを謝りたかった」

「…………謝られてもな~、結局俺も音瀬に告白しなかったわけだし、それに音瀬って雰囲気だけで人を好きになったりしないだろ。毎日音瀬の事を心配してた佐原の良さを知ったから、佐原の告白を受けたんだろ。だったらそれでいいじゃないか」

 内心、今にも泣き出しそうだ。時間を巻き戻せるなら巻き戻したいと思う。でも、それでも過ぎ去ってしまった事なのだ。今更どうしようも出来ない。

「侑李は、お前が目を覚ましたと聞いて動揺している。一度は諦めた相手だからな、気持ちは分からなくもない」

「じゃあ、ちゃんと支えてやれよ。彼氏だろ?」

 俺の言葉に、佐原は目を見開き、駿河は俯いた顔を上げ、驚いた表情を浮かべている。

「自分で自分を恥ずかしいと思うような事をしてまで叶えた恋の相手だろ? だったら限界まで貫き通せよ。最後の最後まで全力で愛せよ。元々好きだった奴がまた現れたからってなんだ。んなの関係ないだろ。今音瀬が好きなのは誰だよ? 音瀬の彼氏は誰だよ? お前だろ、佐原」

「跡野、済まない」

「ダァー、もう何度俺に謝る気だよ! もう話は終わりだ。お前の気持ちも分かったし、俺の言いたいことも言った。それで終わりだ」

「ありがとう」

 話も終わり、佐原は帰って行った。それを見送って、俺は窓の外を見る。

「駿河、申し訳ないけど今日の所は帰ってもらっていいか?」

「……でも」

「済まない、頼む」

「はい、分かりました。では、また明日」

「ああ」

 駿河の方には顔を向けず、窓の外に視線を向ける。後ろから、扉の閉まる音が聞こえた瞬間、俺は握り締めた右手の拳をベッドに振り下ろした。

 ベッドのスプリングが軋み、軽い金属音を立てる。柔らかいベッドを叩いたせいか、右手には痛みも感じない。

「くっそ……マジでか」

 悔しさが込み上げる。苦しさが押し寄せる。寂しさにまとわりつかれる。消失感に押し潰される。

「くそ……くそ……」

 何度も何度も右手の拳をベッドに振り下ろした。その度に、窓の外に見える穏やかな日常が、淡く滲んでいった。

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