18【昇華】
【昇華】
家に帰ると、聖雪が泣きついてきた。母さんは涙を流し、廊下に崩れ落ちた。父さんは聖雪を俺から乱暴に引き離すと、俺を玄関の外に蹴飛ばした。
「こんな時間まで、みんなに心配掛けてなにをやっていたんだ!」
父さんの怒りも当然だ。ろくな連絡も寄越さず、練習終わりの昼過ぎから今の今まで外をふらついていたのだから。
「お父さん、もうそれくらいにして、香織ちゃんも居るんだし」
「フンッ」
父さんは家の中に入っていってしまう。そして寝室の扉が激しく閉じられる音がここまで聞こえた。
「優一さん、優一さんのお母さんにお願いして今日は泊めてもらう事にしたから。もちろん、聖雪ちゃんの部屋に寝かせてもらうから。でも、優一さんが寝るまで側に居させて。それで、優一さんが起きる時も側に居させて。お願い」
香織に体を支えられ俺は立ち上がる。そして、香織の手を優しく退けて、母さんと聖雪に頭を下げた。
「心配掛けて、ごめんなさい」
「お兄ちゃんのバカ! アホ! ……おかえり」
「……優一、ちゃんと帰って来て良かったわ。さっ、お風呂に入ってご飯を食べなさい」
「ありがとう」
重い体を引き摺って風呂場に入る。体に付いた泥を流すために、レバーを下ろしてシャワーを出す。
「イッツ!」
冷え切った体にお湯がかかった瞬間、熱湯を被ったような痺れが全身に走る。しかし、お湯の温度に体が慣れてくると、段々と心地良くなってきた。
「くっそ!」
樹脂製の壁に右手の拳を振る。パシッという軽い音が響き、手に痛みはほとんど感じない。
俺は、最低だ。
長津紙と香織が、長津紙が香織に無理矢理キスをしている所を見て、俺は動揺した。そして、香織はもう俺を嫌い、俺に見切りを付けて長津紙を選んだと思った。
俺は、香織の事を信じてやれなかった。真っ先に味方してやらないといけないはず俺が、最後の最後まで信じてやらないといけないはずの俺が、誰よりも真っ先に、誰よりも最後まで、香織を信じてやれなかった。
二ノ宮は仕方ないと言っていた。でも、仕方ないなんて事はあり得ない。俺は香織の彼氏なんだ。彼氏が彼女の事を信じてやらないで誰が信じる? 彼氏が彼女の味方をしないで誰が味方する?
「ごめん、香織」
「なんで優一さんが謝るの?」
浴室と脱衣所を隔てる、薄い扉の向こう側から、香織が言う。
「……俺は、香織を信じてやれなかった。俺は、真っ先に香織が俺を嫌いになったって頭に浮かんだんだ」
「……私もね、優一さんの事、最近疑ったんだ」
香織は少し寂しそうな声で言った。
「バレー部の一年生に野田さんって居るでしょ? その子が優一さんにアピールしてるの見て凄く焦った」
「アピールって、別に野田さんにはそんな――」
「女の子なら分かるの。それに、優一さんはそういうのには鈍感だし。実際、二ノ宮先輩はすぐ気付いてた。それで、あの日の帰り、すぐにあの子には気を付けなさいって言われたの」
あの日の二ノ宮の呼び出しはそういう事だったのか。でもそれなら……。
「それなら、俺にもそう言えば良かったじゃないか」
「だって、それじゃ悔しいもん」
拗ねた香織の声が聞こえる。
「私より可愛い子が優一さんにアピールしてくるけど、絶対にその子の事を選ばないでね。なんて、言えるわけ無いじゃん」
「そうじゃなくても、他に言い方があるだろ」
「ダメ。どんな言い方をしても変わらない。そんなの、野田さんに負けたのと同じ」
そうだ、俺だって長津紙に対して何も言わなかった。言えなかった。それと香織も同じだったんだ。
「だから、負けないようにお出掛けしない日でも、スカート穿いて女の子らしくしようって思ったの。そしたら、優一と野田さんがアドレスを交換してて、それで優一さんを取られるって思ったの。そう思ったら、もう自制心が効かなくなって」
あの日の、妙に積極的だったのはそういう理由があったのか。
「それにね、友達から、男の人は初めて、その……そういう事をした後は相手への興味が薄くなっちゃうって聞いてて。それもあって、物凄く焦った。それで、ほんの一瞬、疑っちゃったの。優一さん、私に興味なくなっちゃったんだって」
「そんな事ない、俺は――」
「花火大会の日から、ずっとキス以上はしてくれなかった」
「それは香織の事を考えて!」
「分かってる。知ってる。優一さんがそんな優しくて素敵な人だって事は、私が一番信じてる。でもね、色んな不安が積み重なって、知ってる事、分かってる事、信じてる事が不安に負けちゃった。優一さんも私と同じだったんだよね? 私が不安にさせちゃったから、不安に負けちゃった」
シャワーのレバーを戻して、お湯で濡れた目元を手首で拭う。
「私、どうしたら不安に負けないかなって考えたの。でもね、どうしても不安にはなっちゃうと思う。だって、優一さんすごくカッコいいしモテるから」
「モテるのは香織の方だろ。俺が知ってるだけで何人男に好かれてると思ってんだ」
神崎、生駒先輩、長津紙、それに顔も名前も知らん二年。短い間に四人もの男に好かれてる。
「優一さんが知らないだけだよ。いっぱい、優一さんの事をカッコいいって言う人は居るの。優一さんと付き合ってから、沢山羨ましいって言われたもん。だから、そんなモテモテな優一さんと付き合ってたら不安にならないなんて無理」
香織はそこで言葉を切り、コツンと扉をノックする。俺はそれに同じ様にノックして応える。
「だから、不安になったらちゃんと言うようにしよう。自分の中に隠さないで、お互いにちゃんと言うようにしよう」
「ああ、そうだな。ちゃんと話すようにしよう」
「……優一さん、野田さんが優一さんにアピールするのが、優一さんを取られそうで不安です」
「大丈夫、俺は香織以外選ばないよ」
「優一さんが、キス以上なかなか進めてくれないのが不安です」
「そ、それはタイミングとか雰囲気とか色々あってだな」
香織がクスクスと笑うのが聞こえる。俺は息をスッと吸い込み、扉の向こう側に話し掛ける。
「長津紙が香織と仲良さそうにしてるのを見ると不安だ」
「もう二度とあんな人と会わないから安心して」
「香織が色んな男にモテるのが不安だ」
「みんな優一さんより全然カッコよくないし、優しくないし、頼りない。優一さん以外と付き合うなんてあり得ないから安心して。私の一番は、絶対に優一さんだけ」
そう言った香織が、扉の向こう側からもう一度ノックする。
「じゃあ、私は聖雪ちゃんとお話してるから、ゆっくり入って来て」
「ありがとう」
香織が歩き去って行くのが聞こえて俺は湯船に浸かる。全身を包み込むお湯のせいか、妙に安心感があった。
風呂から上がり、飯を食べて部屋に行くと、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「優一さん? まだ、起きてる?」
「ああ、起きてる」
そう返事すると、香織が部屋の中に入ってきた。
風呂上がりで上気した肌に湿った髪。ゆったりとしたTシャツに太ももがチラリと見える短パン。目には良いが理性には毒な格好だ。
「隣、座るね?」
「ああ」
香織の友達は、一回経験すると興味が薄れるなんて言っているようだが、あれは嘘だ。いや、モニターが俺しかいないから信ぴょう性はないかもしれないが、少なくとも俺は香織から興味を失えない。
「大会の出発前夜なのに、みんなに迷惑掛けたな」
「試合は明後日からだから大丈夫だよ。それに二ノ宮先輩が三年生の先輩達にしか声を掛けなかったし、きっと先輩達は言いふらしたりしないよ」
二ノ宮が佐原達に連絡して、俺を探すように頼んでくれたらしい。
「それでも、迷惑を掛けた」
「佐原キャプテンに会った時に、お願いしますって頼んだら、キャプテンが言ってたよ。跡野には何度も世話になったからって。三年は、特にみんなそう思ってるって。流石、私の彼氏だね」
「……帰ってきたら、みんなにちゃんと謝らないと」
会話が途切れ、自然に手が重なる。視線をぶつけると、引き合う様に唇が触れた。
動物的な本能や欲望じゃない。もっと落ち着いた、理性的な感情。香織が側に居る事、俺をまだ好きで居てくれる事への嬉しさ、安堵。
もう二人を繋いでいる糸が切れて仕舞わない様に、キスで紡ぐ。ゆっくり丁寧に、舌先を絡めて紡ぐキスにいやらしさは感じなかった。
側に居てくれる事の幸福。俺だけを見てくれている幸福。俺を求めてくれる幸福。
「優一さんのお父さんとお母さん、聖雪ちゃんには悪いけど。今日、二人っきりだったら良かったのに……」
「仕方ないだろ、今日はここまでだ」
そう言って香織の両肩を掴んで引き離す。
これ以上近付いていたら理性が飛ぶ。今日は聖雪だけじゃない。父さん母さんも居る。それに、いくら妹の聖雪と友達だからと言っても、彼氏の家に泊まることを許してくれた香織の両親に申し訳ない。
「明日から合宿だね」
「そうだな」
「合宿中も、ちゃんと約束、守ろうね」
手を振って部屋から出て行った香織を見送り、俺は右手で頭を掻いてベッドに倒れ込んだ。
「どうにか二人きりになれるといいんだけどな」
合宿一日目、女子マネージャー陣は寝泊まりする柔道場のロッカーに荷物を仕舞って、男子は空き教室にマットを敷いて雑魚寝をする事になっている。しかしそこで問題が発生した。
「跡野くん、すまん。部員が増えたせいでスペースが足りない」
合宿マネージャー。まあ平たく言えば合宿全般の雑用係になった俺は、サッカー側の合宿監督者になっている、二年の父親と向かい合って椅子に腰掛けていた。
「一年が馬鹿みたいに増えましたからね……。俺も予測はして先生に多めに教室確保しといてもらったんですけど、足りないとは……」
「どうする? 寝る時だけ自宅に帰すか?」
「いや、寝泊まりするのは部員間の親睦を深めるのに大切です。一年が入って来て大分経ったとはいえ、まだ壁はあります。この合宿はその壁を取り除けるチャンスですし、どうにかしたいですね。ちょっと教室もう一部屋使えるように頼んできます」
「私も一緒に――」
「いえ、合宿監督者は部員の練習を見といて下さい。お願いすれば嫌とは言われないでしょうし」
「すまんな」
基本、合宿中は全て自分達でやるのがルールだ。だから起きたトラブルも自己解決するしかない。
合宿一日目は順調に滑り出した。と言っても、練習メニューは日頃の練習を基本としているからあまり変わらない。ただ、顧問の先生や怖い三年が居ない分、伸び伸びとやれているようだ。
「跡野先輩」
「野田さんか。どうした? バレー部の方も練習あるんだろ?」
「あの、メールはしてくれなくてもお話はしてくれますか?」
「別に野田さんが嫌いでメールしたくないってわけじゃないからね? ただ、俺には一番大切にしたい香織が居るから、他の女の子とメールとか極端に親しいって周りから思われるような事はしたくないかな」
香織が言っていた事が本当なら、野田さんは俺にアピールしているらしい。つまり、俺の事を好きだと思ってくれているらしい。
正直、好かれるのは嬉しい。でも、俺には香織が居るし、野田さんのその気持ちがもし本当にあったとしても、応えられないし応える気もない。だから否定しておくしかない。
「ありがとうございます。何かお手伝い出来る事があれば何でも言ってください!」
「ありがとう。でも今の所は大丈夫だから、野田さんは練習頑張って」
「はい」
走って行く野田さんを見送り、職員室の前に立つ。
「とりあえず、あと一部屋確保出来れば」
午後から始まった合宿一日目も、日が沈む前に練習が終わった。
「あの……晩飯も俺の仕事なんですけど……」
「ダメダメ、見ていられないのよ」
「そういう性分なんだから、跡野くんは気にしないで」
俺の仕事に一切口を出すことが無かった母親達が、急に俺の仕事をかっさらっていった。それは、晩飯の準備を始めたからだ。
俺は日頃、料理なんてやらない。だから、毎日料理を作っている母親達からすれば、俺の仕事ぶりは危なっかしく見えたのだろう。
「料理は私達に任せておきなさい」
「すみません。では、俺は別の仕事をやらせてもらいます」
俺は近くに居た父親達の所に行き、予めお願いしていた事を改めて確認する。そうしているうちに、部員が来て母親達が用意している晩飯の匂いを嗅いで声を上げる。
「今日はカレーか!」
「腹減った~」
「汗掻いたままで飯食う気か。さっさとシャワーを浴びて来い。ちゃんと仲良く使えよ。あっ、間違っても女子用のシャワー室は使うな。来年から合宿させてもらえなくなるぞ」
ダラダラと歩く選手達に指示をする。練習で疲れているのは分かるが、シャキシャキ動いてもらわないと人数が多いだけに時間が足りない。
次にマネージャーに指示しようとしていると、わるーい笑みを浮かべた二年が俺の方に歩いてきた。
「跡野さんには悪いですが、駿河も女子マネの一人です。平等に俺達の目の保養になってもらいますよ」
こいつらは、俺に堂々と女子マネのシャワーを覗きます。と、俺に宣言しているのだ。正直、俺も男だから、その気持ちは分かり過ぎるほど分かってしまう。だが、世の中にはモラルという言葉がある。モラルは大事だ。
「去年は先生が居て無理でしたが、今年はノーガードです」
「そうか、好きにすればいい。ただ、俺は誰も居ないシャワー室を覗いて何が楽しいか分からんけどな」
「だ、誰も居ない!? それ、どういう事っすか!」
「おーい、女子マネ、ちょっと来てくれ」
俺はその二年をわざと無視して女子マネージャー達を呼び付ける。
「みんなお疲れ」
「「「お疲れ様です」」」
「早速だけど、女子マネージャーには保護者の引率で銭湯に行ってもらう。学校の備え付けのシャワー室じゃ落ち着かないだろうし」
「なっ! せ、銭湯だって!?」
驚いて声を上げた二年に、女子マネージャーの冷たい視線が集中する。まあ、当たり前の反応だろうな。
「ちなみに、女子バレー部も別の所だが銭湯に行くそうだ。うちの部員が全員風呂に入り終えるまでには帰って来る予定だから、みんなで飯は食えるぞ」
「くそー、みんなー! 跡野さんが裏切ったぞー!」
そう叫びながら駆け出していく二年を見て、俺はため息を吐いた。
「裏切ったって、いつ俺が仲間になったんだよ。まあ気持ちが分からないわけ――覗きはいけないことだ」
一瞬同意してしまいそうになり、冷たい視線を感じて慌てて軌道修正をする。
「あの、優一さんまだ仕事が残って――」
「まあ、とりあえずマネージャー陣でゆっくりして来てくれ。ちょっと遠めだから急いで行かないと飯に間に合わないぞ」
香織の言葉を遮り背中を押して追い立てる。早く行ってもらわないと、無駄に時間を使うだけだ。
マネージャー達が保護者の車に乗り込むのを見送り、部員達が「一人五分な!」「五分は短過ぎる! せめて五分三十秒!」なんていうアホなやり取りをしながらワイワイやってるのを確認して、俺はグラウンドに歩いていった。
「いつ見ても綺麗に汚すよな。あいつら」
綺麗に汚すなんて意味の分からない表現だが、それしか言いようがない。
「とりあえず、キーパーとコップだな~」
いつも練習終わりにやっている作業を始める。ただ、今日はいつまで経っても賑やかな声は小さくはならない。
全ての片付けを終えた頃には全員がシャワーを終え、中庭に並べたテーブルの前に座りワイワイと楽しそうに話している。丁度、マネージャー達も帰ってきたようで、女子の賑やかな話し声も聞こえて来た。
「私達もお邪魔してすみません」
女子バレー部の部員達が来て、バレー部で塊を作って空いているテーブルにつく。
「やべー、女子と一緒に飯を食うだけなのに、テンション上がるわー」
「アドレスゲットのチャンスだぜ」
盛り上がる男子に、彼女持ちの余裕からか心の中で頑張れよと声を掛ける。
「優一さん、なんで仕事残してくれてないの?」
「俺が仕事を残す人間に見えるか?」
頬を膨らませた香織が隣に立つ。近くにシャンプーの匂いが漂い落ち着かない。
「仕事を残してくれなかった事に色々言いたいことはあるけど、マネージャーに気を遣って銭湯の手配をしてくれてるなんて全然知らなかった。ありがとう」
「俺以外に香織の裸を見られるなんて嫌だからな」
こういうイベント事の時に、羽を伸ばし過ぎて勘違いする奴が居るのは織り込み済みだ。そういう奴から香織を守るためなら、多少恨まれても何の問題もない。それに、そもそも覗きは犯罪だし。
「さて、飯食うか」
適当に空いた席に座ると、隣に香織が座る。
「マネージャーの所に居なくていいのか?」
「みんなに、彼氏とラブラブして来なさいって言われたから」
「全く、人をからかって何が楽しいのか……」
「でも、言われなくても、優一さんの隣に来たよ?」
俺が何か応える前に、今回の合宿でリーダーの立場に立った二年が乾杯の音頭をとる。乾杯と言ってもジュースやお茶しか並べていない。父親達は缶ビールを空けているようだが。
紙の丼に盛られたご飯の上にカレーがかけられていて、ただのカレーなのに合宿で食べるとなんだかいつもより美味しく感じる。
「跡野先輩。ジュース、お注ぎします」
「えっ? あ、ああ、ありがとう」
いつの間にか隣に来ていた野田さんが、俺の紙コップにオレンジジュースを注ぐ。
「合宿って楽しいですね。バレー部のみんなもはしゃいじゃって」
「まあ、みんなで一緒に寝泊まりってだけでも、テンション上がるからなー」
「跡野先輩には凄く感謝してます。うちにも銭湯の手配してくれたの跡野先輩なんですよね?」
「ん、まあ、男が集まると邪な考えを持った奴は必ず湧いて出るからな。それでバレー部に迷惑掛けるわけにもいけないし」
「私……跡野先輩になら見――」
「優一さん、あーん」
急に首を百八十度反対側に向けられたと思ったら、視線の先には満面の笑みを浮かべる香織が居た。自分のスプーンですくったカレーに手を添え、俺の口に運ぼうとする。
「香織、大丈夫、俺は子供じゃ――ハムッ」
「おお! 跡野さんと駿河先輩ラブラブ!」
一年のマネージャーが大きな声で言うと、周りから次々と冷やかす声が上がる。あーんされたのは嬉しいが、その代償にかなり恥ずかしい。
「美味しい?」
「美味い」
「じゃあ、もう一口」
「大丈夫だ。自分で食べろ自分で」
更にあーんをしようとする香織をたしなめてジュースを手に取ろうとすると。今度は俺の紙コップをかっさらい、香織は一気に飲み干してしまう。
「ごめん優一さん、間違って飲んじゃった。はい、代わりに私の分をどうぞ」
ニコニコ笑う香織は視線を俺の向こう側に向け、自分の紙コップを差し出す。まあ、多分というか明らかに、野田さんの事を意識しての事なのは間違いない。
野田さんも、俺は結構明確に香織以外を見ていないと言ったつもりだったが、まだ諦めてはくれないみたいだ。神崎に好かれる香織の気持ちを少しだけ分かった気がする。
しばらく部員発信でゲームが始まったり、賑やかしが一発芸をやったりやらされたりして賑やかな食事会になった。
後片付けも済んで、全員が寝る準備をするために校舎の中に入っていく。それを見届けて、俺は荷物を持って体育館の方に向かって歩いた。
シャワーを浴びて出てくると、柱にもたれ掛かる香織が見えた。
「やっぱりシャワー、浴びてなかったんだ」
「うげっ、もしかして汗臭かったか?」
「ううん、全然」
「じゃあなんで?」
「練習で疲れてる部員を差し置いて、俺がシャワー浴びれるわけないだろ? 私の彼氏ならそう言って、最後まで入らないかなー、と思って」
ニッコリ笑う香織が近付いてきて、俺の首に手を回す。
「ここなら誰も居ないよ? ンッ……」
香織の腰を片手で引き寄せ、キスをする。一日一回ずつの、約束のキス。
「野田さん、諦めてないみたい」
「なんとなく、神崎に好かれる香織の気持ちが分かったよ」
「迷惑?」
「正直」
「私も嫌だな」
「にしても、意識し過ぎだろ、香織は」
「だって、あんなに積極的なアピールを見せられたら、対抗心が燃えないわけないじゃん。優一さん、デレデレしてたし」
「してないんだけど? あーでも、香織のあーんにはデレデレしたな」
「バカ」
香織が顔を近付けてキスをする。香織のキスはいつも、俺のキスよりも長い。俺が始めにキスをする事が多いから、それより長くしようとしてくれているのかもしれない。
唇が離れると、香織は、えへへと笑う。
「やっぱり、学校でキスするとドキドキするね」
「ああ、かなりヤバイな」
「キャッ」
香織を壁際に追い込んで、短パンから伸びた足に手を触れる。
「優一さん、ここじゃダメだからね?」
「流石に俺もそこまで節操無しじゃない。でも、少しだけ、いつもより香織を近くに感じたい」
「……ありがと、嬉しい」
香織をギュッと抱き締める。俺はしばらく香織を抱き締め続けた。香織も俺の背中に手を回し、俺が手を解くまで抱き締め返してくれた。
夏のインターハイ全国大会一回戦。それをテレビ観戦した俺達は、悔しさに息を漏らした。結果は四対一の大敗。相手が全国大会常連かつ優勝候補の筆頭校だったとしても悔しさは和らがなかった。救いなのは、神崎が個人技で持ち込んで奪った一点があったくらいだろう。たが、チームとしては完全に負けていた。
「悔しいね」
テレビ中継が終わった後、香織がそう漏らした。
「ああ、でも、みんなも同じだ」
座っている選手達は皆、何も映っていないテレビの画面を睨み付ける。そして、リーダーの二年が立ち上がり、選手達を見渡す。
「練習だ! 絶対、絶対に冬の国立でリベンジするぞ」
「「「おお!」」」
全員がグラウンドへ向かって駆けて行くのを見送りながら呟く。
「佐原、良いチームになったな」
俺が記憶しているサッカー部の合宿はこんな感じではなかった。
先輩達に怯える後輩。後輩に仕事を押し付けて踏ん反り返る先輩。明らかな壁が、踏み越えることの出来ない、許されない境界線があった。でも、今のチームにそれはない。
一丸となっている。そんなありふれた言葉で表すのは勿体無いくらい。みんなが同じ所を同じ場所に立って、一緒に目指している。
きっとこれなら、冬の国立も夢じゃない。