17【蚕食】
【蚕食】
彼の名前は長津紙蓮二。何か物凄く強そう、そんな感想しか浮かばなかった。
「よろしく、俺の事は適当に呼んでくれ」
「ああ俺の方も適当でいいよ。長津紙」
普通なら敬称を付けるべきだろう。初対面なんだし。でも、相手が適当でいいと言うのだから怒りはしないだろう。
互いに香織から紹介されて挨拶を交わす。長津紙は香織の幼馴染みだったらしい。だったらしいというのは、小三の頃に長津紙が転校して以来会っていないから、という理由がある。
「ホント、ネットでカオちゃんが可愛いって評判になってるの見てさ。動画見たら、マジ可愛くなってんの。びっくりしたよ」
「レンくんは相変わらずだね」
「そうか? ちょっとは男らしくなったと思ったんだけどな。昔は女の子と間違えられてたし」
まあ、これだけ整った顔で幼かったら、女の子に間違えられるような顔だった可能性はかなり高い。今も、男らしい顔というよりどっちかと言うと中性的な顔だし。
「それにしても、あのカオちゃんに彼氏ねー。優一、カオちゃんの何処が良かったの?」
「優しくて真面目で可愛いところかな」
コーラを飲んでポテトフライをつまむ長津紙に笑顔を作って答える。
「レンくん、さっきから気になってたんだけど、優一さんは私より一つ年上なんだからね?」
「でも同学年でしょ? それに、そんな小さい事気にしないよね?」
「ああ、一つ年上だからって先輩風吹かせる気は全くないから安心してくれ」
「だってさ、それよりカオちゃんの家、全然変わってないな」
楽しそうに話す二人から少し距離をとって窓際に座り、ボーッと窓の外を眺める。今この時、二人と俺の間には硬い鉄格子が下りている。
こっちから向こうは見えている。声を発せば必ず届きもする。でも、絶対に立ち入れないのだ。二人の話す思い出話の何一つにも、俺は何も口を挟むことは出来ない。
二人が共に過ごした時間を、俺だけが過ごしていないのだから……。
「俺、明日暇なんだけどさ、カオちゃん街案内してよ。久しぶりに帰ってきたから何がなんだか分かんなくてさ」
「明日はちょっと――」
「久しぶりに帰ってきたんだから、幼馴染みと遊ぶのもいいかもしれないぞ。丁度、明日は午前練習だから午後は空いてるだろうし。あっ……俺、そろそろ帰るわ。あんまり遅くなると親も心配するし。二人は積もる話もあるだろうし」
「あっ、優一さん」
俺は伝票を手にとって、会計を済ませてすぐに出る。そしてしばらく歩いてから、貰ったレシートを握り潰した。
何なんだ、この感覚は。悔しい、苦しい、惨め、そんな物の他に酷い嫉妬が湧き上がって来る。
俺が香織と出会ったのは、香織がサッカー部のマネージャーとして入ってきてから。だから、それ以前の事は知らなくて当然だ。でも、長津紙と香織の楽しそうな顔を見ていると、悔しくて堪らなかった。
俺は無難に返答出来ていただろうか。長津紙に悔しがっていた事がバレなかっただろうか。俺はちゃんと笑えていただろうか。香織に俺が嫉妬していた事が悟られなかっただろうか。
「何が、久しぶりに幼馴染みと遊ぶのもいいかもしれないぞ、だ……」
幼馴染みだろうがなんだろうが、相手は男だ。しかも美少年ときている。いいわけない、行かせたくはない。でも、そんな事も寛容に受け止められない人間だと思われたくはなかった。長津紙に、そして何より香織に。
明日は、久しぶりに香織と何処かに行こうと思っていた。それを香織から言ってくれて嬉しかったし、楽しみだった。それを変なプライドでふいにしてしまったんだ。でも、後悔しても遅い。
「くっそ」
誰も居ない夜道で、俺はただそうやって、地面に悪態をつくしかなかった。
練習がやっと終わり後片付けも終えて一息つくと、慌てた様子で一年のマネージャーがこちらに掛けてきた。しかし、用事は俺の隣に居る香織だったらしい。
「す、駿河先輩! 物凄い美少年が駿河先輩を探してます!」
「美少年?」
近くに居た二ノ宮が首を傾げて言う。しかし、俺はその美少年に思い当たる人物が居た。
「カオちゃん、おつかれー」
「レンくん!? 何で学校に!?」
「いやー、もうそろそろ終わることだって、おばさんが言ってたから迎えに来た」
校内に堂々と入って来ている長津紙に香織が慌てた様子で駆け寄る。
「部外者は勝手に校内に入っちゃダメなんだよ」
「そうなの? じゃあ校門の所で待ってるから」
そう言って香織に手を振って長津紙が去っていく。その直後、周囲にいたマネージャー達が香織を取り囲んだ。
「駿河先輩、さっきのイケメン、誰ですか?」
「香織、紹介して!」
「幼馴染みで、今は帰省してるみたい」
困り顔で答える香織の隣をすり抜け、俺は洗い終わったコップのカゴをか抱える。
「後片付けは終わらせとくから香織は行けよ。長津紙の事、待たせちゃ悪いだろ」
「優一さん、帰りは……」
「せっかく迎えに来てくれた長津紙どうする気だよ。気にせずさっさと帰る」
それだけ言って振り返らずに歩き出す。
コップをいつもより時間を掛けて綺麗に仕舞う。全て仕舞い終える頃には校内は静かになり、もう他の部員達は帰ったようだ。
『これから毎日、一日一回ずつお互いにキスをします。これは決定事項です』
顔を真っ赤にして、ニッコリ笑いながら言う香織の顔が頭に浮かんだ。でも、それは今日で途切れる。もう、今日は香織と会う機会はない。
畜生、畜生畜生畜生畜生、チクショウッ!!
近かった香織との距離が、昨日から一気に開いた。その開いた距離を追いすがる自信はない。俺が知らない時間を埋めるなんて、出来るわけがない。
「ったく、コップ片付けるのにどんだけ時間掛けてんのよ」
校門に、二ノ宮が立っていた。心底不機嫌そうな顔で。
「二ノ宮、何でお前、居るんだよ」
「とりあえず行くわよ。明日からインターハイなんだからさっさとしなさい」
「行くって、何処に」
俺が尋ねると、二ノ宮は大きくため息を吐いて俺を指差した。
「そこのアホの話を聞いてやるって言ってんのよ」
「くだらな」
いつものファミレスのいつもの席。そこで俺が昨日あった事や今日の事。もちろん、変なプライドで強がった昨日と今日の事を、俺の内心と共に話した。それを聞き終えた二ノ宮の感想が、『くだらな』だった。
「それにしても良かったわね。彼女が香織で」
「良かったって……」
「私なら、とっくに振ってるわよ。それでイケメン幼馴染みに乗り換えてるわ」
「なっ!」
「普通、デートの約束を先にしてたのに、幼馴染みと遊んでこいなんて言われたら、この人、私とのデートどうでもいいんだ。って思うに決まってるでしょうが。それを、気を遣ってくれてるって変換出来るのは、香織くらいね」
ぐうの音も出なかった。二ノ宮の言うとおりだ。
「それにちょーっと顔が良い幼馴染みが出てきたからって、何を日和ってんのよ。幼馴染みは元彼じゃないんだから堂々としてればいいのよ。そんなんじゃ、ほんとに香織の事取られるわよ」
「それは嫌だ!」
思わず立ち上がってしまう。そして、直ぐにドサッと腰を落として俯く。
「全く、あんたはなんで女の事になると激変するのよ。いつもの頼りがいのあるあんたはどこに行ったのよ」
「そんな事言ったって……」
「あんた、香織に嫌われたくないからって気を遣い過ぎてんのよ。そりゃ、付き合いの長い幼馴染みの方があんたより香織の事を知ってるかもしれない。でも、香織が好きなのは幼馴染みじゃなくてあんたでしょうが。それ、信じてやんないと香織が可哀想じゃない」
「すまん」
「私に謝っても仕方ないっての」
コーラを飲み干した二ノ宮はフッと笑って俺を見た。
「羨ましいくらい青春してるわね、あんた」
「茶化すな」
「はいはい、ごめんごめん。ちゃんと明日には香織に謝んのよ」
「分かった」
店を出て、二ノ宮が「このままあんたを返したら、電柱に二、三本くらいぶつかって帰りそうだからついて行く」と言われ、女子に送られる男子という惨めな状況に陥った。
道中、二ノ宮は面白可笑しく話をしてくれて、少し気分を持ち直す事が出来た。
「んでさ、飛び上がってビビってんの。その時にそいつの事はないわーって思ったわ。そんで――ッ!?」
「どうした二ノ宮?」
急に立ち止まって真正面を見る二ノ宮の視線を辿って、俺は正面に顔を向けた。
「跡野ダメッ!」
そこはいつも午後練習の帰りに使っている道だ。そして丁度、ここから数十歩歩いた先には街灯と街灯の間にある薄暗い場所がある。その場所には電柱があり、いつもその電柱の影で、俺と香織は一日一回ずつのキスをしていた。
『これから毎日、一日一回ずつお互いにキスをします。これは決定事項です』
その言葉が頭に響く。そして、視線の先には……。
「かお、り……」
電柱の下で長津紙とキスをする香織が居た。
「跡野ッ!」
俺は、振り返って全力で走った。いや、全力で目の前の現実から逃避した。
嘘だ、嘘だ、ウソだウソだウソだウソだウソだウソだ、うそだ……。
すれ違う人達に顔を見られない様に、顔を下に向ける。絶対に、今の俺は人に見せられない顔をしている。
川に架かる橋の中程まで走った時、ついに体力が切れて足が止まった。片手を手摺りに突いて、崩れ落ちそうな体を支える。
『私なら、とっくに振ってるわよ。それでイケメン幼馴染みに乗り換えてるわ』
二ノ宮の言葉が頭の中に反響し、胸にムカムカとした吐き気が持ち上がってくる。
ヤバい、泣きそう。
一気に重くなった体を前へ進める。必死に進めようとする。
俺がしっかりしていなかったからだ。もっとしっかり香織の手を掴んでいなかったから、香織を長津紙に連れて行かれた。もう、手の届かない場所に連れて行かれた。
まるで、足枷をされて重りを付けられたみたいに、体が言うことを聞かない。
どうしようもない消失感が襲う。でも、全部俺が間違えたせいだ。
辛い、苦しい、今すぐにでも泣き出してしまいたい。でも、もっと遠くへ、もっと人気のないところへ行かないと、泣き出せない。
やっとの思いで橋を渡り切り、河川敷の土手を歩く。僅かに曲線を描いて伸びる舗装された道は途方もなく果てしない。
この道をどこまで歩けば人のいない場所に辿り着けるだろう。どこまで歩けば俺は泣いてもいいのだろう。
『優一さんって、寝てる時、可愛いね』『初めて、手、繋いだね』『優一さん、やっと、キスしてくれた』『やった! 優一さん、部活に復帰するんだ!』『…………電話、切りたくないなー』『優一さんの側に居たかったの』『優一さん、好き』『優一さんに可愛いって言ってほしかったから』『イヤじゃないよ、優一さん。イヤって言っちゃうけど、嫌じゃないから……だから』
『これから毎日、一日一回ずつお互いにキスをします。これは決定事項です』
足がもつれて体が河川敷の下に向かって傾く。そして、草の生えた斜面を無様に転げ落ちた。一番下まで転げ落ちると、全身、砂塗れになった。
「クソッ、くそ……」
右手の拳を握り締め、土の地面に叩き付ける。ドスンという鈍い音と共に右手に小さな痛みが走る。もう一度、もう一度、もう一度、そうやって何度も拳を地面に打ち付ける。その度に小さな痛みが走る。でも、それでも、胸を引き裂かれそうな激痛は消えない。
土の地面に、ポツリポツリと何かが落ちて滲むのが見える。しかし、次第にその視界は少しずつ歪んでいった。そして気が付けば、その滲みを隠すように、でも俺を責め立てるように篠突く雨が俺を打っていた。
川に架かる橋の下。橋脚に背中をつけて冷たいコンクリートの上に座り込む。
『今日は少し遅くなる。飯はいい』
そう聖雪にメールをした後から、ずっとスマートフォンは震え続けている。でも、電話を受ける気もメールを確認する気も起きない。今は誰にも構ってほしくなかった。一人にしてほしかった。
どうして俺は時間を巻き戻せないんだろう。どうして俺は過去に行けないんだろう。今時間を戻せたら、過去に行けたら、絶対に間違えないのに……。
そんなくだらない事を考えてしまう。考えたって意味がないのに。考えたって、もうどうにもならないのに、そんな……そんな事しか思い浮かばない。
両膝を抱えて、膝の間に顔を突っ込む。そして、また泣いた。声を殺すなんて出来るわけがなくて、声を出してむせび泣く。
いつしか涙は涸れ、空から容赦なく落ちていた雨も枯れた。そして、それはいつしか光りを失い、真っ暗な闇に姿を変える。雨が降った上に日が落ちた橋の下は寒い。それに雨でずぶ濡れになったせいで余計に寒い。でも、一番寒かったのは置き場のない、やり場の見付からない感情で溢れる心だった。
「いま……なんじだ……」
スポーツバッグに手を伸ばしてスマートフォンで時間を確認する。時間は、十九時半。流石にこんな時間まで連絡を寄越さなかったら、警察に通報でもされかねない。
ほとんど画面を見ずに聖雪の番号に電話を掛ける。もう、メールを打つのも辛い。
『お兄ちゃん!? 今どこに居るの!?』
「聖雪、まだ帰れないけど、警察とかには連絡するなよ」
『ちょっと、お兄ちゃん! みんな――』
電話を切って、またスポーツバックにスマートフォンを放り投げる。これで、もうしばらくここでこうしていられる。
……俺は、失恋したんだ。頭に、現実が突き立てられる。そして、その現実を見て、涸れていた涙が溢れ出た。
音瀬と佐原が付き合ってると知った時も、こんなに悲しかったのだろうか。いや、もう少し軽かった。
音瀬との間には、途方もない時間の差があった。十ヶ月も経てば、どうしようもない事だと諦めがつく。でも、長津紙が現れたのは昨日だ。たとえ、香織とあいつの間に十ヶ月よりも長い、途方もない時があったとしても、簡単に諦める事なんて出来ない。
でもいつか、音瀬の時のように、この悲しさも忘れられる時が来るのだろうか。いつか、香織の事を……。
「忘れられるわけないだろうがッ!」
自分に怒りが込み上げ、コンクリートに拳を打ち付ける。……痛い。
忘れるわけないだろう。忘れられるわけないだろう。こんなに悲しいのに、こんなに好きなのに、なのにいつか忘れられるなんてあり得ない。
「忘れられるわけ……」
「忘れないで……」
雨が降り気温が落ちた夜。涙で滲む視界はただ真っ暗で何も映っていない。寒くて凍えそうで悲しくて寂しかった俺を、温かさが包んだ。
「優一さん……やっと、やっと見付けた」
「かおり……」
聞き間違えるはずのない声。もう遠くへ行ってしまったと思っていた声。届かなくなってしまったと思った声。それが、こんなに近く大きく強く聞こえる。
「ごめんね。こんなに泥だらけにしちゃった。こんなに冷たくさせちゃった。こんなに、辛い思いさせちゃった……。ごめんね……ごめんね……」
涙が拭き取られ、視界にハンカチを手にした香織が映る。香織は頬に涙を伝わせて俺の顔を真っ直ぐ見ていた。
「跡野!」
二ノ宮の声が聞こえる。視界の奥からこっちに向かって走ってくる二ノ宮の姿が見える。
「佐原? 跡野見付かった。みんなに連絡しといて。場所? ごめん、ちょっと今、それ言えない。バカ、跡野の男としてのプライドと気持ち考えなさいよ。こんな時に部員がわらわら来たら跡野が可哀想でしょうがッ! そんなんだから侑李に振られるのよ。じゃあね」
スマートフォンの青白い光りが二ノ宮の手元で消え、香織の隣に二ノ宮がしゃがみ込む。
「バカ……心配させんじゃないわよ」
二ノ宮は服の袖で目元を拭いながら言う。二ノ宮、泣いてる?
「香織、元を正せば跡野にも原因はあるけど、今回ばっかりはあんたに非があるわ」
「はい。……優一さん、ごめんね。私が無防備だったせいで、あんな事になって。私、レンくんに無理矢理キスされたの。その場面を二ノ宮先輩と優一さんが見て」
「でも、あれは私でも勘違いするわ。跡野は余計、動揺したと思う。跡野には結構きついこと言っちゃった後だったし。私だったら跡野の事振って幼馴染みに乗り換えてるって……。ごめん、言い過ぎた」
音は聞こえる。でも話は入ってこない。一体、何がどうなってるんだ?
「あんたが走っていった後、香織、思いっ切りあのイケメンの顔ビンタしたのよ。そんで、今まで見たことないくらいブチギレてた。あんたにも見せたかったわ。もう二度と現れるなとまで言ってたわ」
二ノ宮の作った軽い口調が聞こえる。ごめん、気を遣わせてるんだな。
「私、帰る時、レンくんに今日の案内は出来ない、彼氏と用事があるからって断ったの。優一さんは気を遣ってくれて、最初に約束してたのを黙ってくれた事も説明したんだけど、それでもレンくんは譲らなくて、そしたら……いきなりキスされた」
右手がギュッと握られる。この柔らかさ、香織の手だ。
「レンくんにキスされて気持ち悪かった……。すぐに持ってたスポーツドリンクでうがいしたけどまだ気持ち悪いの……。しかもそれを優一さんに見られて凄く嫌だった。私は優一さんだけのものなのに。優一さん以外の男の人に触れてほしくなかった。今もずっと気持ち悪いままなの。だから、ごめん。ちょっとだけ、私のワガママ聞いて」
唇に温かいものが触れる。毎日感じていた温かさ、柔らかさ。香織の、唇の感触と温度。
「私、居るんだけど……」
そう言って、二ノ宮が背を向ける。そんな二ノ宮に構わず、香織は唇を重ねたまま俺の頭や頬、肩に腕、胸に足に、俺の体を確かめるように手を滑らせていく。
「ありがと。これでやっと、優一さんのキスで、気持ち悪いの消せた」
「……香織」
俺は離れた香織のシャツを引っ張り引き寄せる。そして、またキスした。
「全く、二人だけの世界に入っちゃって、やだやだ」
二ノ宮が居ることなんて気にしない。今やらなかったら、約束が果たせない。
『これから毎日、一日一回ずつお互いにキスをします。これは決定事項です』
もう、叶えられないと思っていた約束。その約束を俺は、まだ続けられる。