13【可惜夜】
【可惜夜】
教育実習生と二年生徒との取っ組み合い。それは思いの外、大事にはならなかった。しかし、先生が言っていたように、俺にも処分はある。
「跡野。お前、八月末までサッカー部の雑用やれ」
「は?」
「処分を言い渡されてるのに聞き返すアホがあるか」
「は、はい。でも幾つか聞いてもいいですか?」
「仕方がない、質問を許してやる」
椅子に座って背もたれに背中を付けた先生は、両腕を組んでドンッと構える。
「まず一つ目ですが、問題行動の処分は停学退学のどちらかでは?」
「それについてだが、職員会議での結論は、お前には全く非がないというものだ。お前の日頃の生活態度と、生駒の在学時代の態度と比べた結果だ。それはお前の日頃の行いが良かったという事だな」
「あ、ありがとうございます」
「しかし、問題が起きてしまっている以上、全く処分無しで済ますわけにもいかないからな。それで、お前の担任である俺が監督する意味を込めてのサッカー部雑用だ」
正直、停学とかではなかったから良かったとは思うし、学校内の全トイレ清掃と比べると気楽だとも思う。だがしかし、他にも理由があるはずだ。
「二つ目ですが、何故自由活動である部活の雑用係なんですか?」
「それはな、今うちが直面してる問題にある」
「問題、ですか?」
「ああ、お陰様でうちも県内では強豪校と呼ばれる程に成長した。そのせいもあって、サッカー部への入部希望者が増えた。実際、新一年生の新入部員は前の年の一・八倍に増えた」
「それはめちゃくちゃ増えましたね」
「だが、マネージャーの入部数が少なくてな」
「なるほど、人手不足という事ですね」
選手の数が激増したのにマネージャーの数がそれに見合う数に増えないのであれば、それはマネージャーの仕事量が増えてしまう。
「実際にもう、そのしわ寄せがマネージャーに出て来ていてな。部活の終了時間を過ぎても片付けが終わらんのだ。選手マネージャー問わず新入部員全員にマネージャーの仕事を教えながらやっている事もあって、作業のスピードが下がっているようだ」
「そこで、俺、ですか?」
「お前は雑用の技術はピカイチだからな」
全く褒められている気はしないが、実際に作業の遅れや活動時間の超過があるのなら、顧問としては早急に解決したい問題だろう。
「うちでもマネージャーの勧誘はやっている。だが、とりあえずマネージャー陣の負担を減らしたかった」
「まあ、それは顧問としては放置出来ませんよね」
「実は問題が起きる前にマネージャーの入部数が少ないと感じてから、跡野に頼もうとは前々から思っていた。だが、それには大きな問題があってな」
「大きな問題?」
「お前、普通に頼んでも首を縦には振らんだろう?」
「…………まあ、確かに、普通に頼まれても断ったと思います」
俺は、サッカー部に余計な首を突っ込んでトラブルを起こした事がある。だからサッカー部には関わらないと決めていた。その状況で頼まれても断っただろう。
「しかし、お前も鬼ではないだろうから、困っている事が分かってもらえれば手伝ってはもらえると踏んではいた。そこにこのトラブルだ。利用しない手はないだろう?」
ニヤリと先生は笑う。要するに、実際に問題が表面化して来て、本当に困っている状況では俺は断れないと考え、更にトラブルの処分という体を使えばいよいよもって俺は断れない。つまりは、先生は人が悪いという事だ。
「うちを助けると思って、手伝ってはくれんか?」
「…………まあ、本当に困っていて実際に問題が起きて、更に問題行動の処分としてと言われたら断れはしませんね」
「よし決まりだ。今日から頼む。とりあえず体育着には着替えろよ、制服だと汚れるからな」
「分かりました。八月末までお世話になります」
そんな話をしたのがついさっきで、俺は特に寄る所も無いし、まっすぐ教室に戻った。
「優一さん!」
「ユーイチ! ハラキリ、デスカ?」
俺の姿を見た香織とセリアが立ち上がる。先生が重々しい声で「跡野、処分の件で話がある」なんて言うものだから、きっと二人は俺に重い処分が下ったと思っているらしい。
「優一さん、トイレ清掃だったんだよね?」
「いや、八月末まで――」
「八月末まで、停学……」
「香織!」「カオリ!」
パタンと床にヘタリ込んだ香織を引っ張り上げて椅子に座らせる。
「香織、最後まで俺の話を聞け。停学じゃない」
「じゃあ、八月末までトイレ清掃?」
「それも違う」
「じゃあ……」
「八月末までサッカー部の雑用係だ」
「えっ……」
香織は両手で口元を覆い、目を見開いて俺を見る。
「ほ、本当に?」
「ああ、八月末まで、だけどな」
「やった! 優一さん、部活に復帰するんだ!」
「だから、八月末までだって何回言えば分かるんだよ」
舞い上がる香織の反応は可愛いし嬉しいが、セリアが首を傾げているのが気になる。
「ユーイチ、ハラキリはしないのデスカ?」
「いつの時代だよ」
「それは冗談デスガ、サッカー部の雑用は処分になるのですか?」
「うーん、俺は悪くないってみんな言ってくれてるみたいだけど、トラブルを起こしたのは間違いないから、とりあえず何か処分したっていう形が欲しいらしい。それで、丁度人手が足りなかったサッカー部の雑用係に任命されたって訳だ」
「なるほどー。でも、カオリが喜んでいるから良かったデス! カオリ、ユーイチが戻ってくるまで、ずっと教室の扉を心配そうに見てまシタ」
「復帰はいつから?」
もう香織の中では俺が復帰した事になっているようだ。しかし、何度も否定しても無駄だろうし放っておこう。
「今日から来いって言われたな。……香織、なんで俺を見てニヤニヤしてるんだよ」
「えへへ、何でもないよ?」
そうは言っても明らかにニヤニヤしているそれを見て、俺は香織に体の正面を向けて真っ直ぐ見詰める。
「香織、部活中はちゃんと切り替えろよ」
「わ、分かってるよ! ちゃんと仕事は頑張る!」
「よし、なら良し」
「帰りは一緒に帰ろうね」
「そうだな」
分かっているのか分かっていないのか、未だに香織は表情が緩んでいる。でも、香織と過ごせる時間が増えるのは、俺も嬉しかった。
「今日から八月末まで、サッカー部の雑用全般をやる跡野だ。二、三年の部員は知ってる奴も居るだろう。前と変わらず接してやれ。ただ、マネージャーではなく問題行動の処分として行われる事だ。遠慮なくなんでも放り投げろ。ただし敬意は持て」
「「「よろしくお願いします!!」」」
「拍手はいらん! 問題行動を起こしたアホだからな」
選手やマネージャーから拍手が鳴るが、先生の一言によってすぐに止む。
「それとそうだな、単に雑用をするだけじゃ面白くないだろう。跡野、お前はマネージャー内では一年と同じ立場になれ」
「一年と同じ立場に、ですか?」
「そうだ。なんでも率先してやるのはもちろん、部活中はマネージャーの先輩には敬語を使い敬意を払え。選手には別に普通で構わん」
一瞬、マネージャー陣から不適な笑い声が聞こえた気がした。
「俺からは以上。いつも通り佐原を中心に練習を始めろ」
「はい!」
とりあえず、俺の紹介を終えた先生は職員室に戻っていく。その後ろ姿を見ていると後ろから肩を軽く殴られる。
「跡野、お帰り」
「佐原か、先生も言ってたけど俺は八月末までの臨時だからな」
「それでも、お前が戻ってきたのは嬉しいよ」
「そうか、ありがとな」
佐原にお礼を言ってると、マネージャー陣から怒鳴り声が飛んできた。
「こら! そこの新人! ボケっとダラっとしてないで早く来なさい!」
声の主は二ノ宮で、俺の方をニタニタ笑いながら見ている。
「じゃあ、頑張れよ」
佐原は二ノ宮の表情を見てすぐに退散してしまう。まあ、関わらないのが吉だと思うだろうな。
「なんだよ、ちょっと話して――」
「先輩にその口の利き方はなんだ! 三回回ってワンと言え!」
マネージャーから笑い声が上がる。こいつら、完全に俺をからかって楽しむ気だ。
「二ノ宮先輩、よろしくお願いします」
「まあ、いいわ。お帰り、跡野」
「佐原にも言われましたが、自分は八月末までの期間限定です」
「それでも、また跡野と部活出来て嬉しいわよ。ね? 香織?」
「えっ? はっ、はい!」
急に話を振られた香織はドギマギして、若干裏返った返事をする。
「二ノ宮先輩、駿河先輩をからかうのは後にして、作業を始めませんか? ドリンクキーパー出てませんよ?」
「す、すみません!」
マネージャーの一年が体をビクッと跳ねさせながら駆け出していく。ああ、そう言えば香織も新人の頃、あんなだったけ。きっと俺も新人の頃はああやって毎日ドキドキしてたんだろうな。
「さて、とりあえずマネージャーの仕事は声出しもよ! おらー、アンタら! 気合い入れて走りなさいよー」
「頑張ってくださーい!」
「ファイトー!」
二ノ宮に続いて元気の良い声が響く。俺もランニングをしている選手に向かって声を張り上げる。
「ファイトォー!!」
仕事は、俺がやっていた時よりも確かに大変になっていた。作業の量が単純に増えただけだが、それがかなりの量だ。
「そろそろコップにドリンク注いでおこうか」
「「「はい」」」
ドリンクキーパーのノズルに付いたコックを捻りプラスティック製のコップにドリンクを注いでいく。しかし、まだ不慣れなのか、それとも俺が見ているせいか一年の手が震えている。それに他にも気になる事があった。
「ちょっといい?」
「えっ? はい」
ドリンクを注いでた一年の隣に立ち、俺はドリンクキーパーの蓋を少し開けた。
「あっ、ドリンクが出るのが早くなった」
「水道みたいにポンプで押してるわけじゃないから、キーパー内のドリンクが減ってくると、中の隙間が真空みたいになって出が悪くなるんだよ。だから、出が悪くなったら蓋を少し空かせてやればいい。これでも結構出るスピードが早くなるから、選手を待たせることもないし、何より自分達が焦らなくて済むだろ?」
「は、はい。跡野先輩ありがとうございます!」
「ダメよ、こいつは部活中は一年なんだから。まあ、跡野さんくらいにしておきなさい」
横から会話に入ってきた二ノ宮は、さり気なく右手で蓋を少し開けていた。
「二ノ宮先輩? どうですか? ドリンクの出は良くなりましたか?」
「あー、マジムカつくこいつ!」
「俺は確認しただけなんですが?」
一年がクスクス笑い、ハッとして口を真一文字に結ぶ。どうやら、恒例の二ノ宮先輩ちょっと怖いかも症候群が一年に蔓延しているようだ。
「大丈夫、二ノ宮はああ見えて優しい奴だから。慣れるまではちょっと怖いかもしれないけど、頑張ろうな」
「は、はい」
「ちょっと、一年に変な事教えてないでしょうね」
「いえいえ、とんでもない」
一年に小声で言った後、二ノ宮が俺ににじり寄って問い質してくる。それを両手のひらを向け、笑顔でかわす。
俺はニッコリ笑いながらふと思い出した。
「あ、二ノ宮先輩」
「何よ」
「用具の保管場所等の変更があるかもしれないので、部室の中を確認してもいいでしょうか?」
「ダメ」
間髪入れない否定だった。そのやけに早い否定に俺は違和感を抱いた。
「香織! 跡野を止めなさい」
「ゆ、優一さん、配置は今まで通り変わってませんよ?」
俺の腕を掴んで止める香織は、引き攣った笑いをしていて、明らかに何か隠している様子だ。
「駿河先輩、何もないなら別に確認するだけなので問題ないとは思いますが」
「ほ、ほら、もうすぐ給水だからマネージャーの仕事もあるし!」
「男からドリンクを貰うより、女子から貰った方が選手は喜ぶと思います。それに給水休憩後に作業をしても間に合うかと」
「そ、それは……あっ!」
香織が手の力を緩めた瞬間にダッシュしてサッカー部の部室に向かう。コンクリートの床の上を走り、俺はサッカー部と書かれたプレートが貼られた扉を開いた。
「アチャー」
後ろから追い掛けてきた二ノ宮が頭を抱えてそう声を漏らす。しかし、この場で一番アチャーと言いたいのは俺の方だった。
床にも棚の上にも砂が溜まり、中に保管されている用具のほぼ全てが乱雑に置かれている。辛うじて、置く場所は守られているようだが、整理整頓とは程遠い状態だった。
「最近、忙しくて用具の出し入れにも余裕がなくて、それに掃除も出来てなくて……」
「二ノ宮先輩、言い訳は見苦しいですね」
「め、面目ない……」
「駿河先輩」
「は、はひぃ!」
「ノートの一番初めのページ。一番上に書いてある事は覚えてますか?」
「…………効率的な仕事の基本は整理整頓、です」
「そうですね、これは整理整頓されているでしょうか?」
「いえ、されてません」
「音瀬先輩?」
「はい!」
「俺がいた時は、最低一日置きに整理整頓を行うようにしていたはずですが?」
「ご、ごめんなさい」
並んでコンクリートの床を見詰める二ノ宮、香織、音瀬を後ろから見ている一年や他のマネージャー陣が目をパチクリと瞬かせている。まあ、マネージャー歴の長い二ノ宮と音瀬。それに先生が褒める程に仕事が出来る様になった香織が、誰かに怒られて凹んでいるのを見るのが初めてなのかもしれない。
「ハァー……とりあえず、整理整頓をしておきます。先輩達は選手達の給水とその他の仕事をお願いします」
「「「……はい」」」
部室の掃除はかなり大変だった。まずは中に置かれている物を全て出して、床や棚の上を掃いて濡らした雑巾で拭かなくてはいけなかった。それが終わった後は細々とした作業が山のようにあった。
消耗品の在庫確認、ボールやパイロン、マーカーについた砂汚れ落とし等々……。
「記録用紙、切れてるじゃねえかよ……全く」
スターティングメンバー、試合結果、チャンスシチュエーションの記録等を行う用紙が数種類保管されているのだが、その全ての在庫が切れている。部費が潤沢な高校ならその都度スポーツショップで買い足すのだろうが、うちにはそんな余裕はない。
「ゆ、優一さん?」
「駿河先輩、どうしました?」
「えっと、手が空いたから手伝おうと思って」
俯いてから、顔色を窺うようにこちらをチラッと見る香織。くそぉー、めっちゃ可愛いじゃないか。
だが、俺は甘やかしたくなる気持ちを抑えてキッと香織に視線を向ける。
「駿河先輩、記録用紙の在庫がことごとく切れているのですが、これはどういう事でしょうか?」
「あっ! この前の試合で使い切ったのを、補充しようと思ってて……」
「それで、忘れてたわけですね」
「ごめんなさい……」
「まあ、とりあえずコピーしてこないと」
俺は、部室の一番奥に飾られた『一蹴入魂』と言うありきたりな部訓が収められた額縁を外し、裏側の止め具をずらして板を外す。そこには、全種類の記録用紙が一枚ずつ収められている。
「それ、優一さんが考えたんですよね」
「俺も一回やらかしたんで」
俺も一年の時に、忙し過ぎて用紙の補充を忘れ切らした事がある。コピーに使える最後の一枚も使い切ってしまい、先生と先輩から怒鳴り散らされて大変な目に遭った。その教訓から、例え同じ事が起こっても大丈夫なように、この額縁の中に予備を隠しておく事にしたのだ。
「あの、優一さん」
「はい? なんでしょうか、駿河先輩」
「……二人の時は、敬語……嫌だな。あと、駿河先輩ってのも嫌」
「分かった。じゃあ二人の時はタメ口で香織にしようか」
「うん、ありがと。コピー、私してくるね」
「サンキュー。あっ、この用紙だけ多めにコピーして来てくれ」
「うん、分かった」
香織が用紙を持って走って行くのを見届けて、大分綺麗になった部室を眺めてフッと息を吐く。
「さて、続きをやりますか」
何とか部室の整頓をミニゲームが始まる前に終わらせる事が出来、マネージャー陣の所へ戻る。
「サンキュー、跡野」
「いえ、雑用係ですし」
「あれ? 何よ、その大荷物」
二ノ宮は俺に礼を言った後、俺が持っている物を見詰めて眉を顰める。
「ちょっと新人教育もやろうかと」
ドサッとその場に荷物のいくつかを置き、大きな袋二つを持って佐原の元に歩いていく。
「佐原、悪いけどミニゲーム、これを着てやってくれないか?」
「ビブス? いつも着てやってるが? ん? 二組って事は両チームにビブスを着てほしいって事か。分かった」
「サンキュー」
佐原にビブスを渡してマネージャー陣の所に戻ると、今度は一年にバインダーをそれぞれ配る。
「あ、あの、跡野さん、これは?」
「それは試合のチャンスシチュエーションを記録する用紙だ」
一年に渡したバインダーにはペナルティエリアが書かれた記録用紙が挟んである。公式試合の記録委員は記号や数字だけを使って記録をするが、うちでは分かりやすさと書きやすさを重視して、図で記録をしている。しかし、記号や数字だけに比べて覚えやすいとは言っても、やはり慣れるまでには時間が掛かる。
「実際の試合でも使う用紙と全く同じ物を使って、ミニゲームのチャンスシチュエーション、得点シチュエーションを練習で記録しよう」
「なるほど、新人教育ってそういう事ね」
「二ノ宮先輩の時は、試合の時に隣で見せられるくらいでしたからね」
二ノ宮の時はマネージャー人員が俺しか居なかったからゆっくり教える余裕もなかった。でも、今は先輩マネージャーは一人じゃない。それに、残ってる仕事はミニゲーム中に俺がやってしまえばいい。なんせ雑用係だし、俺は。
「一年に三年が一人ずつ付いてマンツーマンで教えて下さい。一年は何でも今のうちに聞いておく事。試合の時に聞いてからじゃ遅いからな」
それぞれ一年に三年のマネージャーが並んで、記録用紙の説明を始める。もちろん、二ノ宮と音瀬も一年に付いて教えている。
「やっぱり、優一さんはすごいね」
「別に、凄い事はしてないんですが」
「ううん、二ノ宮先輩の事を一年生がちょっと怖がってるのも考えてだよね?」
「さあーて、俺は今のうちに出来る片付けやっておきますねー」
香織に図星を突かれてなんだか気まずくなり、俺はその場からそそくさと退散した。
一年は三年に遠慮してしまう。そして、自然と距離を置いてしまうものだ。そうなると、特に二ノ宮のような見た目や表面的な態度で誤解されがちな人間は、一年との間に壁が出来てしまう。でも、マンツーマンで接する機会が増えれば、きっとその誤解も晴れるはずだと思った。
ゴールに蹴り入れられたボールを手に取り、雑巾で砂を落としてボール入れに放り込む。
「跡野考えたな、流石だ。あれなら、記録の練習も出来る上に上級生と下級生のコミュニケーションも取れる。」
「いえいえ、俺はビブス持ってきてバインダーと記録用紙用意しただけですから」
「そうやって褒めると恥ずかしがってはぐらかすのも懐かしいな」
ボールを磨き終えた俺は、ボール入れを押し始める。
「跡野」
佐原に呼び止められた俺は、佐原が投げ寄越したボトルをキャッチする。
「ありがとう」
「ドリンク、サンキュー」
ボトルからドリンクを飲むと、ゴールポスト脇に戻して、ボールを片付けに向かった。
ミニゲーム終了後、給水をしていた所に顧問の先生が再び現れた。
「おーし、ボール追い始めるぞー」
練習終了前の恒例行事、ボール追い。それの準備の為にみんなが先生の後ろで並んで固まる。
「おいこら! 跡野! お前も来い!」
「えっ! 俺もですか!?」
とりあえず走ってみんなの最後尾に付くと、隣に見覚えのある顔が立っていた。
「ゼッテー負けない」
例の一年こと神崎だ。どうやらまだ俺の事が嫌いらしい。
「おら! 一発目行くぞ!」
その掛け声と共にボールが蹴り出され全員が天高く蹴り上げられたボールを見詰める。
「全員跡野に取らせるな!」
「ゲッ!」
佐原の意地の悪い指示のせいで俺の周りはがっちりマークされる。
ボールは上昇速度を緩めて、一瞬空中で静止した後、地面に向かって落ち始めた。
俺は自然とボールの落下地点に入る。普通、ボール追いでは最初に触るのではなく、最初に触った人が取りこぼしたボールを狙って保持するのが一番確実な方法だ。でも、それには跳ね返りを予測する能力と、跳ね返りに競り勝つ力が必要だ。あいにく俺はそんな事は出来ない。だから、昔から俺は最初に触ってボールを保持するしか早く抜ける方法はなかった。
「バカ! 跡野に触らせるな!」
後ろから佐原の声が聞こえる。しかし、もう落下地点には入って、ボールはすぐ真上だ。
真上から落ちて来たボールに足の甲を合わせる。そして、ボールが足の甲に触れた瞬間に、スッと足を下に下げた。
「なっ! そんなデタラメな!」
神崎が俺を見てそんなうめき声を上げる。
「サッカーは苦手だけど、ボール追いだけは得意なんだ」
右足の甲の上に乗ったボールを地面に転がし足の裏で保持する。
「あの高さから落ちてきたボールをクッションコントロールで保持するなんて、有り得ない」
「まあ、とりあえず、俺が一抜けな」
ボールを軽くドリブルして居ると、三年と目が合って俺を見てため息を吐いた。
「跡野はボール追いだけは強いからなー」
「先に触らせたらダメなのすっかり忘れてたわ」
三年の選手から不満混じりの声が聞こえるが、俺はニヤッと笑って先生の所に戻る。
「こら! 雑用係に一番取らせてどうする! ったく、跡野次はお前が蹴れ」
「分かりました」
先生の指示を受け、俺は久しぶりにボールを天高く蹴り上げた。
「跡野お疲れー、じゃあな」
「おう、お疲れ」
すれ違う選手達に挨拶をしながら、大量のコップが入ったカゴを持って流し場に行く。
「跡野さん、お疲れ様です。今日はありがとうございました!」
「お疲れ、明日からもよろしく」
先に流し場でドリンクキーパーを洗っていた一年が、俺が来たのを見て頭を下げる。
その一年の隣でコップを洗っていると、反対側に居た別の一年が俺の手元を見て目を丸くする。
「速いし綺麗……」
「こんなのは慣れだ慣れ。誰でも回数をこなせば速くなる」
そんな話をしていると、向こう側から二ノ宮の声が聞こえてる。
「こら神崎! 横着しない! そんな適当な洗い方してたら二度手間だって言ったでしょうが!」
「す、すみません」
「向こう側の雑用係に対抗するなんて無駄よ。私だってあいつには勝てないんだし」
背伸びをした二ノ宮が俺を見た後に視線を隣に向け、深くため息を吐く。どうやら、俺にあまり神崎を刺激するなと言いたいらしい。しかし、そうは言われても、勝手に神崎が張り合ってくるのだからどうしようもない。
コップを洗い終えて乾いた布巾で水気を取っていると、隣に香織が並んで来て別の布巾でコップの水気取りを手伝ってくれる。
「ありがとうございます。香織先輩」
「ううん、優一さんが段取り組んでてくれたおかげで、私の方はもう終わったから」
「跡野、もう先生帰ったから、別にいつも通りでいいわよ」
向こう側から二ノ宮の声だけ聞こえる。
「二ノ宮先輩からお許しが出たな。ハァー二ノ宮に敬語とか苦痛だったわ」
「こっちもあんたに敬語使われて気持ち悪かったわよ」
互いに憎まれ口を叩き終えると、クスクスと小さな笑いが起きる。
「でも、一人増えるだけでこんなに違うんですね。いつもならまだグラウンドの片付けがやっと終わった頃なのに」
「残念だけど、こいつの代わりにどんな一年が入ってもこの時間には終わらないわよ。こいつ、次に何が必要か、次に何を使わなくなるのか、そんなのが全部頭の中に入ってて、勝手に体動かしてるような奴なんだから」
「それも慣れだ」
「いつもはマーカーとかカラーコーンの片付けは私がやってるのに、今日はいつの間にか片付けられてたし。いつ片付けたのよ」
「ん? ボール追いのボール蹴った後からボチボチと」
「わ、私達がボール追いを見てる間に? すみません、全然気付かなくて」
「いや、女子マネは選手に声掛けてやってくれ。それだけで多分、あいつらはやる気が出るから」
「男って単純ねー」
平謝りする一年にそう返すと、しみじみとした声で二ノ宮が呟く。なんだか、やっぱり二ノ宮が男関連の事を言うと妙な説得力がある。
「仕方ないだろ。女子マネージャーに応援されて、やる気の出ない男は居ないからな。だから、そういうのは二ノ宮達に任せる。んで、俺はその間に雑用係らしく雑用をやる。ほれ、完璧な役割分担だ」
「香織が別の男の名前呼んで応援してたらどうする?」
「ん? そいつのドリンクに塩を入れる」
「プッ……ひっどー」
「サッカー部全体の応援は当たり前だが、個人の名前を呼んでたらイラッとするのは仕方ないだろ」
笑う二ノ宮に正論を返すと、反対側でボトルを洗っていた神崎がボトルを持って俺を睨み付ける。
「こっち終わりました」
「こっちも終わりだ。フー、やっと帰れる」
「チッ」
舌打ちをする神崎がボトルを持って歩いていくのを見送ると、二ノ宮がまたため息を吐く。
「あんたと香織が付き合ってるって知って諦めるかと思ったら、余計火が付いたみたいね」
二ノ宮の視線が香織に向き、香織は困った表情を見せる。
「神崎くんの事を好きになる事なんてないから、正直迷惑なんですよね……」
「あ、跡野さん! 聞きましたよ。神崎くんが嫉妬したせいで怪我したって。しかも、そのトラブルを黙認してサッカー部の事を守ってくれたって」
「……誰だよ、そんな適当な事を言ったのは」
視線を二ノ宮と香織にそれぞれ向けるが、二ノ宮は肩をすくめ、香織は首を横に振る。
「選手の先輩達が話してるの聞きました。それに、そのせいで県予選のレギュラーに入ってないって噂もあって、実際に神崎くんはベンチ外でしたし」
「まあ、あんだけの事やったんだから当然でしょ」
最後に二ノ宮が吐き捨てるのを聞いて、俺は口を開く。
「そもそも、部外者の俺が首を突っ込んだのが間違いだったんだ。多分、俺の立場が佐原や顧問の先生だったら、神崎は大人しく引き下がったかもしれない。それを間違えて俺が首突っ込んで、それでトラブルを起こしたんだ。だから、俺がなんかいい奴みたいに語られるのは違和感しかないな」
「そうは言っても、突き飛ばして人を怪我させるのは男として無いわ。しかも完全な逆恨みだし。ほんっと、神崎だけは私絶対に無理」
「私も、最初は神崎くんいいかなって思ってたけど、人に怪我させるのは良くないし、諦めが悪いのも男らしくないと思います」
「ちょっと気持ち悪いよね……」
ここに神崎が居なくて本当に良かった。多分、流石のあいつでもこれを聞いたらメンタルやられるぞ。当人じゃない俺も女子の恐ろしさを再認識したし。女子には出来るだけ嫌われないように気を付けよう。
「で? あんたと香織、どこまで行ったのよ」
「あー、それ私も気になります! 駿河先輩、教えて下さいよー」
「えっ? ちょっとみんな、悪ノリし過ぎだよ」
笑って流そうとする香織に、横から一年の質問が飛ぶ。
「もう、チューはしたんですか?」
「えっ…………し、してないよ!」
……バカ、分かり易過ぎだろ。
耳まで真っ赤にしてから必死に否定する香織に背を向け、俺はカゴに入ったコップを運ぶ。
「あっ! 跡野さん逃げた!」
「一年! 跡野を捕まえなさい」
「「はい」」
何も持っていない一年二人に両腕を掴まれる。そして二ノ宮に手を引かれた香織が俺の前に立たされ、隣から二ノ宮が香織の顔を覗き込む。
「何処で、どっちから、どんなキスしたのよ。もう逃げられないんだからさっさと白状しちゃいなさい」
「……空き教室で……優一さんから……ちょっと強引に引き寄せられて……」
「「「キャーッ!!」」」
「跡野にしては随分と積極的じゃん! あっ、こら!」
歓声を上げた一年が俺から離れた隙にコップを片付けに行く。これ以上追求されれば、もっと恥ずかしい思いをする事になる。それを避けるには、さっさと帰るしかない。
後片付けを終え、何とか二ノ宮達の追及を逃れ、俺は香織と一緒に学校を出た。
「優一さん、お疲れ様」
「香織もお疲れ。久しぶりにやったら疲れた……」
「優一さんが手伝ってくれたから凄く早く終わったし、助かっちゃった」
「香織が少しでも楽になったなら良かった」
そこでさり気なく香織の手を握ると、香織はえへへっと笑って握り返して来た。
「優一さんとこうやって手を繋いで帰るの夢だったんだ」
「ちっさな夢だなー」
「まだまだいっぱいもっと夢はあるから大丈夫! 次は……」
「ん? ンッ…………」
顔を向けた瞬間、つま先立ちした香織が俺の両肩に手を置いて、唇を奪った。俺は香織の腰に手を回して支えながら前かがみになる。唇を触れさせたまま香織は踵を地面に付けた。香織は手を俺の両肩から首の後ろに回し、俺の首をガッチリとホールドする。
「……優一さんからも、してほし……ンッ……」
一度離れた唇を、今度は俺から奪い返す。香織は、手を俺の背中に回した。
何分キスを交わしていたかわからない。そしてどちらからともなく唇を離した瞬間に、香織が不満そうな声を上げた。
「優一さん、今日一年の子に褒められてデレデレしてた」
「してないっての」
「一年の子二人に両腕抱かれて鼻の下伸ばしてた」
「伸ばしてません」
「……優一さん、モテるから心配になっちゃう」
「それはこっちのセリフだ」
香織はニコッと笑って今度は一瞬だけ唇にキスをする。
「これから毎日、一日一回ずつお互いにキスをします。これは決定事項です」
顔を真っ赤にして言う香織は、やっぱりめちゃくちゃ可愛かった。
手を繋いで歩き出す。
単なる部活の帰り道。でも、そんななんの変哲もない夜の一時でも。
香織と居れば特別に思えた。