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コンチェルト。アゲイン  作者: 煮込みハンバーグ
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1【変わり果てた世界】

 真っ暗な世界。何も見えない何も聞こえない。そんな無の世界。途方も無い時間、この世界をフワフワと漂っている気がする。

 自力では前に進むことも後ろへ下がる事も出来ず、ただ時間という流れに身を任せることしか出来ない。

「私は諦めませんから。何もかも、全部。絶対に」

 不意に聞こえた遠い声。何処から聞こえたのか耳を澄ませる。きっとその方向に誰かが居る。誰かが居るという事は、そこは俺一人ではない場所だ。

 重い身体を必死に動かして、溺れるかの如く両手両足で宙を切り、藻掻く。

 ああ、やっとここから出られるのか。そんな安堵が、重い身体を動かす俺に力をくれる。

 必死に藻掻いた末に、視線の先に小さな光の点が見えた。途方もなく遠く見えるその点に向かって藻掻く。

 藻掻いて藻掻いて……藻掻き抜いた末に、目の前は眩い光に包まれた。

 これでやっと暗い世界から抜け出せる。

 俺はその時は、その先の世界に希望を抱いていた。


  【変わり果てた世界】


 瞳を開けると、真っ白い世界が見えた。少しぼやけたその白の世界をしばらく見詰める。

 視界が鮮明になってきて、白の世界の正体が、石膏の白いパネルを組み合わせたものだと分かる。それに視界の端にカーテンレールが見えるところから察するに、俺は天井を見ているらしい。

跡野あとのさん、お加減はいかがですか?」

 僅かな耳鳴りと一緒に、俺の名字を呼ぶ声が聞こえる。顔に影が落ちたと思ったら視界に看護師の女性が入ってくる。その看護師は、俺と目が合った瞬間に目を見開き、慌てた様子で俺の枕元に手を伸ばす。

「二〇五の跡野さんの意識が戻りました! すぐに担当医の先生を呼んでください!」

 看護師がナースコールで医者を呼んだのだろう。という事は、俺は今、病院のベッドに寝ているらしい。

 しかし、頭がボーッとして、何故自分がここに居るのか思い出せなかった。


 看護師がナースコールをしてからすぐに中年の男性医師が駆け付け、聴診器を胸に当てたり、ペンライトの光を目に当てたりして診察をする。内心「眩しいんですけど」と言ってやりたかったが上手く声が出せない。

「瞳孔はちゃんと反応しているし今のところ異常はない。MRI等の詳しい検査は必要だろうが」

「先生、跡野さんのご家族が」

「ああ、通してくれ」

 やっと目に直で向けられていたペンライトが視界から消え、ホッと一安心していると、視界に見慣れた顔が飛び込んできた。

「優一!」

 母さんの顔が見えたと思った瞬間に視界から母さんは消え、変わりに胸に衝撃が伝わる。

「……お兄、ちゃん?」

 そっと俺の顔を覗き込むのは、妹の聖雪みゆきだった。

 少し距離を開けて恐る恐る俺を見ていた聖雪に視線を合わせると、聖雪は口元を抑えて視界から消えた。

「お兄ちゃん、お兄ちゃんが……良かった、良かったよぉ」

 俺に掛けられた布団が引っ張られるのが感覚で分かる。そして、耳に泣いた聖雪の声が聞こえる。たくっ、泣き虫だとは思っていたが、こんな人が居る前で泣くとは思わなかった。

「優一」

 最後に、視界に父さんの顔が見える。父さんはジッと俺の顔を見詰めた後、フイっとそっぽを向き、服の袖で目元を拭う。

 そして、再び俺に向けられた父さんの目は赤くなっていた。

「優一、よく頑張った。よく頑張ってくれた。戻って来てくれてありがとう」

「だぐ、おどごがなぐなんで、がっごわりいな」

 恐ろしいくらい声が嗄れていた。自分でも何を言っているか分からないくらいの声だ。

「跡野さんに水を」

 看護師が吸い飲みを俺の口に付けて水を少しずつ口の中に入れてくる。渇いた口にジュワッと水分が一瞬にして広がり、喉を水が通る時にはヒリヒリとした痛みも感じた。

「ありがとうございます」

 吸い飲みが離れた瞬間に看護師にお礼を言う。さっきよりも遥かに何を言っているか分かる声になった。

「俺って、なんか貧血で倒れでもしたんですか? 病院で寝てる理由になりそうな事を全く覚えてなくて」

 とりあえず、何でか泣いている家族三人とは話が出来そうな気がしなかったので、脇にいる中年の男性医師に尋ねてみる。すると、男性医師は少し困った表情をして、それから表情を整えて口を開いた。

「跡野さん、落ち着いて聞いて下さい。あなたは昨年の五月に事故に遭ってから、今までずっと気を失っていたんです」

「事故に? 全然記憶に無いですけど、病院に居る理由は分かりました。でも、昨年の五月って」

「はい、今は年を跨いで跡野さんが事故に遭った日から丁度十ヶ月後の三月です」

「十ヶ月、後……」

「混乱するのも無理はありません。跡野さんは事故の直後、この病院に運ばれて来ました。擦り傷や打撲はありましたが、手術が必要な大怪我は負っておらず、意識の回復を待っていました。ですが、跡野さんの意識は戻る気配がなく、MRIにMRA、CT等の検査を行いましたが異常は見付かりませでした。一度、この病院よりも設備も在籍医師のレベルも高い病院に転院し検査を行いました。ですが、そこでも結果は同じでした。そこで、ご家族と相談の上、意識の自然回復を待つという事になりました」

「それで、十ヶ月経った今日、意識が戻ったと」

「はい。本当に、よく頑張りましたね」

 この医者はいい人なんだと分かった。患者と言っても、赤の他人のために声を震わせて涙を堪えてくれる人はそうは居ないだろう。だから、この人はいい人なんだと思う。

「にしても、十ヶ月寝たきりだとこんなに身体が鈍るんですね」

「まだ詳しい検査をしてみないとなんとも言えませんが、事故による障害がなければ事故前と変わらない生活を送れますよ。ただ、寝たきりでなまってしまった体を元に戻すために三ヶ月のリハビリは必要でしょうが」

「まあ、リハビリしないとまともに動けないでしょうしね……」

 気持ちはバリバリ走れる気ではいるが、手を動かすのもままならない俺の現状を考えると、リハビリが必要なのは明らかだ。

「そういえば、聖雪、今日学校は?」

「お兄ちゃんが目を覚ましたのに学校なんか行ってられないよ!」

「そうか、休みの日に目を覚ましてやれば良かったな」

「バカぁ、なら、もっと早く目を覚ましてよ。ずっと心配してたんだからぁ」

「わっ、バカ泣くな! 悪かったって」

 泣き出す聖雪に慌てて声を掛ける。部屋の端では父さんと母さんが男性医師となにやら話している。俺の今後についての説明でも受けているのだろう。

「あ、お兄ちゃん。香織かおりちゃんが学校終わったら来るって言ってたよ」

「香織って駿河香織するがかおりか?」

「そうだよ。香織ちゃん、毎日お見舞いに来てくれたんだよ」

「そうか、会ったら礼を言っておかないとな。マネージャーの仕事も大変だったろうに」

「お兄ちゃんが居ないと大変だって言ってたよ。お兄ちゃんは全然サッカー上手くないけど雑用だけはピカイチだったもんね」

 聖雪がいたずらっぽく笑う。兄貴をからかうとは、後でお仕置きをしてやらねばいけないな。

 駿河香織は俺の所属しているサッカー部のマネージャー。駿河が入ってきた時は一年だったし、四月で二年になるのだろう。

「あれ? そういえば俺、学校どうなってるんだ?」

「休学になってるよ。でも出席日数が足りないから留年はしちゃってるけどね」

「てことは、俺、まだ二年なのか」

「うん、四月になったら私と同い年だね」

「同い年じゃない。せめて同学年と言え」

 正直、留年したのはショックだ。留年は決して悪い事だとは言えないが、あまり良いイメージはない。

 でも、今俺が留年を悔やんだってどうにも出来ない。話を聞けば事故で留年したのだし、少なからず俺だけの過失ではないはずだ。まあ、事故に遭った事は自己責任だ。なんて言われてしまったらどうしようもないが。

「お兄ちゃん、本当に何処も痛くない?」

「ああ、痛みは全くないな。ただ、寝過ぎた後みたいにめちゃくちゃダルい」

「実際に寝過ぎだよ。十ヶ月寝た人なんて聞いたことないし」

「まあとにかく、体が思うように動かない事以外は何の問題もない」

 やけに心配する聖雪にそう言って、視線を天井の白いパネルに向ける。

 駿河が入部したての頃、マネージャーの人手が足りず、チーム戦力ではなくマネージャー戦力として扱われていた俺が仕事のやり方を教えていた。

 元々、うちの高校のサッカー部にマネージャーは居なかった。今のマネージャーがやっている仕事、まあ言い方は悪くなるが雑用は一年の仕事だった。しかし、部内の会議でマネージャーを募集する事になり、何名かの女子マネージャーが入った。

 部内の会議では「やっぱり女子が居ればやる気が出るだろ」とか「サッカー部なのにモテない」とか、マネージャーの必要性に関する議論は皆無だったが、結果的に一年のボールに触らせてもらえる機会は増えた。

 だが、俺はボールに触れる機会が増えたと言ってもサッカーは上達しなかった。元々、俺はサッカーをするのは好きだったが、上手くなりたいという向上心は全くなかった。だから学校の授業で時々やる程度で本当は十分だったのかもしれない。

 周りの奴らがどんどんサッカーが上手くなる中、俺はどんどんマネージャーの仕事が上手くなった。

 途中でマネージャーとして入部した同学年の女子は、マネージャーのマの字も知らない人だった事もあって、何人かの一年が一緒にマネージャーの仕事をやる事は多かった。その中で、サッカーの才能がなかった俺が残っただけの話だ。

 そして、ほぼマネージャーみたいになって新学期を迎えた四月。駿河が入部してきたのだ。

 駿河は飲み込みが早く仕事も正確で速かった。それに見た目も可愛かったし、俺と同い年の女子マネージャーまでではないものの、部員の人気もあった。今頃は後輩に指導出来る立場になっているだろう。

「お兄ちゃん、香織ちゃんの事ちゃんと覚えてる?」

「覚えてるぞ。仕事の出来る良いマネージャーだ」

「そっか、良かった。あっ、でも香織ちゃんと遊びに行くとよく言ってるよ。跡野先輩にはいつまで経っても勝てる気しないって。ホント、お兄ちゃんってマネージャーとしては凄いんだけどね。なんでサッカー下手くそなんだろ」

 からかう聖雪を小突きたい衝動に駆られたが、体が思う様に動かせない今はそれも出来ない。

 俺は「リハビリ後に覚えておけよ」と思いながら、隣で笑う聖雪の顔を眺めていた。


 様々な検査を終えてベッドに戻された時には疲労困憊だった。ほとんど体を動かさなかったとはいえ、十ヶ月のブランクは凄まじかった。

 疲れ切った俺は、いつの間にか寝てしまっていた。そしてハッとして瞳を開けると、天井の白いパネルが淡いオレンジ色に染まっていた。窓から差し込む夕日に照らされているらしい。

「せん、ぱい?」

 声の聞こえた方に顔を向けると、文庫本を手にして俺を見詰める駿河がいた。

 紺色のブレザーにチェックのプリーツスカート、胸元には赤いリボンが揺れている。見慣れた、学校の女子制服だ。

 サラリとした長い黒髪が前に垂れ、それをスッと手ですいて耳に掛ける。その動作をジッと見ていると、駿河はニッコリと笑った。

「跡野先輩、おはようございます」

「お、おう、おはよう」

 入って来たばっかりのたどたどしさや子供っぽさは感じられない。年相応の少し大人びた女子という感じだ。十ヶ月見ない間に駿河は随分大人っぽくなった。聖雪は全然変わらなかったのに。

「久しぶりだな、駿河」

「私は毎日先輩に会ってたんですが、お久しぶりです」

「ああ、毎日来てくれてたんだってな。聖雪から聞いたよ」

「それは、先輩は私の師匠ですし」

「おいおい、二ノにのみやが聞いたらブチ切れるぞ」

「二ノ宮先輩にも色々と指導してもらって感謝はしています。でも、やっぱり跡野先輩に教えられた事が凄く役に立ってます。先輩に夏はボトルがお湯みたいになるから小まめに変えてあげると助かるって教えて貰って、夏の試合でやってみたら部員の皆さんに褒められました! 他にもこの先輩が纏めてくれたノート、凄く助かってます! 緊急時の対応とか部室の何処に何があるとか、遠征で必要な物のリストとか!」

「そうか、まあ二ノ宮も普通にマネージャーをしてくれてたけど、やっぱり細かい所は気付いてくれなかったからな」

 俺と同い年で、うちのサッカー部最初のマネージャーである二ノ宮江梨子にのみやえりこは、仕事は普通ではあるが容姿が物凄く良い。男の俺が二ノ宮くらいの仕事をしていたら、恐ろしい先輩からのシゴキが待っているだろうが、二ノ宮にはみんな甘い。まあみんなが甘いのは他の女子マネージャーに対しても言える事だ。

「多分、先輩が居なかったら私はマネージャー続けられなかったと思います」

「そんな大層なことはしてないんだけどな。そのノートだって、引き継ぎに必要だから作っただけだし」

「他の先輩達は口頭での説明ばかりでしたし、やっぱり先輩が教えて下さったことは大きいです!」

「めちゃくちゃマネージャー業務について褒めてくれるのは嬉しいんだが、俺、本来は選手なんだけどな」

 俺が大きく息を吐いてそう言うと、駿河は慌てた様子で両手を振る。

「べ、別にそう言う意味ではなくて! サッカーされてる先輩も凄く楽しそうでしたし!」

「冗談だよ冗談。自分が一番、自分を選手らしくないとは思ってるからさ」

 実際、部内でも俺を馬鹿にする奴は居た。下手くそでマネージャーの仕事しか出来ない、そう言われていたのも知っていた。それに、そもそも一番自分がそう思っていたのだ。俺はサッカー部で何がしたいのだろう、と。

 他の選手みたいに居残り練習や早朝の走り込みをして自分の力を伸ばそうと、俺はしなかった。ただ、ボールを追い掛けてパスをして、本当に時々ゴールを決める事が出来たら、それで良かったのだ。

 そんな奴は、本気で大会での優勝を目指していたり、その遥先のプロを目指していたりする人達からしたら目障りでしかなかったのだろう。

 そもそも、俺は部活という集団に向いていなかったのだ。

「先輩、退院は何時になりそうですか?」

「うーん、正直分からん。一人で歩けるようになるまではまず退院は出来ないみたいだ。退院出来たとしても、三ヶ月はリハビリで通院しないといけないみたいだし。正直憂鬱になるな」

「私、毎日来ますね!」

「部活があるだろうが、部活が」

「分かってますよ! 部活が終わってからでも面会時間には十分間に合いますし!」

「今は部活やってる時間のはずだが?」

「今日はお休みをもらいました。顧問の先生に事情を話したら、近々俺も見舞いに行く。そう言ってました」

「あの暑苦しい先生来るのかよ……」

 サッカー部の顧問は国語教師だが、見た目はクマみたいな先生がやっている。みんなツキノワグマとかヒグマなんてあだ名で呼んでるが、俺はグリズリーだと思っている。

「相変わらず、練習終わりのボール追いはやってますよ」

「ああ、あのボール争奪戦か。あれはめんどくさかったな……」

「でも、先輩いつも早く抜けてたじゃないですか」

「ああ、なんか運が良かったのかもな、あの時だけは」

 顧問の先生がボールを天高く蹴り上げ、それに真っ先に触れた奴は練習を上がる事が出来るという練習というか競技というか、そんな事を練習終わりにやっていた。そのボール追いで、俺は結構早くに争奪戦を制することが多かった。しかし、最後の一人まで先生の足が保つわけが無く、抜けた奴が順番に蹴らないといけないし、最後の一人が抜けるまでみんな待つのが通例だった。

「みんなクタクタなのにボール追いで最後の体力まで使い果たして座り込んじゃうんですよね」

「その後にボールを蹴り上げるのもしんどかったからな~」

 駿河はクスクスと笑い部活の話をする。その顔は実に楽しそうだし、部活も上手くいっている事が分かった。

「ああ、そういえばどうやら俺、留年するらしい」

「は、はい、十ヶ月の休学でしたし、仕方ないと思います」

「という事で、四月から同級生になるな」

「そうですね。でも、先輩は先輩ですよ!」

「頼むから四月からは先輩って言うのは止めてくれよ。なんか言わせてるみたいで居心地が悪い」

 気にしすぎなのかもしれない。でも、現実に同学年になる女子に年が上だからという理由で先輩なんて呼ばせていたら周りの印象は良くないだろう。それに、新二年生からしても、年上の同学年ほど接しにくい存在はない。もし復学できたら、出来るだけ目立たない方がいいのは明らかだ。

「先輩」

「だから先輩を止めてくれって――」

「まだ四月じゃありません」

「た、確かに四月からって言ったからな。仕方がない、四月までは我慢する」

「はい、それで、先輩」

「どうした?」

「本当に、良かったです」

 急に駿河が俯き両手で顔を覆った。そして、声は震え、鼻を啜る音が小さく響く。

 相当、駿河に心配を掛けてしまったらしい。そして、無理をさせてしまったらしい。さっきまではニッコリ笑って話してくれていたが、身近な人が事故で意識不明になるという経験は相当辛い事のはずだ。特に、俺と一つしか変わらないと言っても、駿河は女の子。もう少し、彼女の事を考えてやるべきだった。

「駿河、心配掛けたな。でも、医者も異常はないって言ってるし、なにより俺自身、尋常じゃ無い運動不足以外は大丈夫だと思ってる」

「でも、先輩が――」

「お兄ちゃんヤッホー! …………あっ」

 病室の扉が勢いよく開き、制服姿の聖雪が右手を挙ヒョイっと上げて入ってくる。そして、涙ぐむ駿河と俺を見比べて目を見開いている。

「お、お兄ちゃんが香織ちゃんを泣かせてる!」

「違う! いや、違わないがちゃんとした理由がある!」

「お兄ちゃん、どんな理由があっても男の子が女の子を泣かせちゃダメなんだよ!」

「うっ……聖雪にしてはもっともらしい事を言いやがって」

 ふいに返された妹の反論が思いの外正論で、兄貴の俺が怯んだ。

「違うの聖雪ちゃん。私、ちょっと安心しちゃって、そしたらなんだか涙出ちゃって」

「大丈夫、香織ちゃん。それでもお兄ちゃんのせいなのは変わらないから」

「正論の暴力を兄貴に振るうのは止めてくれ」

 聖雪は鞄を床に置いて、駿河の隣に椅子を運んでくると、よっこらせっと親父っぽいかけ声と共に腰を下ろす。

「ホント、香織ちゃん毎日欠かさず来てくれてたのに、そんな子を泣かせるなんてサイテー」

「妹よ、もうそろそろやめてくださいごめんなさい」

「聖雪ちゃん、もう大丈夫だから。先輩も、取り乱してしまってすみません」

「俺の事は気にするな。心配を掛けたのは、聖雪の言うとおり俺のせいだからな。本当に申し訳ない」

「いえ、緊張の糸が解けたのもそうなんですけど、やっぱり嬉しくて。先輩とこうやってまたお話し出来るなんて」

 駿河は涙の残るキラキラと煌めく瞳をこちらに向けて、笑う。俺を安心させようと笑っているのは明らかだ。でも、それを察して俺が何かを考えるよりも、単純になって安心した方が駿河の笑顔は報われるだろう。だから、敢えて単純に安心しよう。

「私お邪魔だったかな~」

「おう、邪魔だ邪魔だ。聖雪が掻き回したせいで大分ややこしくなったからな」

「ヒドイ!」

「兄貴に散々言っておいて、聖雪だけ不平不満を言う気か。俺だって無意味に心を傷付けられたんだぞ」

「心が傷付いた人は、自分で心が傷付いたって言わないし、そんな余裕のある顔なんかしないし!」

 聖雪と言い合いを繰り広げていると、間に挟まれている駿河がクスクスと笑う。その駿河を見て、俺と聖雪は決まりが悪くなり互いにそっぽを向いた。

「二人とも仲が良いですね」

「からかうなよ」

「からかってませんよ。単純に羨ましいんです。私一人っ子だから喧嘩する兄妹も居ませんし」

「ところでお兄ちゃん。今日、サッカー部のキャプテンからお兄ちゃんの様子聞かれて、明日顧問の先生と一緒に見舞いに行きますって」

「ああ、佐原さわら来るのか」

「先輩、なんで佐原先輩がキャプテンになったって分かるんですか?」

「新三年、俺と同い年の奴らの中でキャプテンを出来そうなの、佐原くらいだろ」

 佐原は、気が付けばみんなの先頭に立ってみんなを纏めているような、強いキャプテンシーの持ち主だった。そんな佐原だからチームメイトにも慕われていたし、三年が引退した後にキャプテンを引き継いだとしたら、佐原以外あり得ない。

「私は先輩もキャプテンに相応しいと思います」

「何処の世界にベンチ外のキャプテンが居るんだよ。聞いたこと無いぞ」

「そうだよ、キャプテンが一番下手くそだなんて威厳もなにもないじゃん」

「聖雪、言いたい放題だな」

「事実だしね!」

 それからしばらく、よく喋る性格である聖雪を中心に会話に花を咲かせた。学校の事はもちろん、俺が意識を失っていた十ヶ月に何があったかを二人は楽しげに話してくれた。

 でも、それで俺は思い知る。本当に俺は十ヶ月も意識を失っていたのだと。

 美人と評判だった英語の先生が結婚し退職した事。芸能人の誰と誰が結婚した。駅前に建設中だった大型複合商業施設がオープンした。そんな話を聞く度に、俺は自分の知らない事が増えていく。

「そういえば、サッカー部のマネージャーであの美人の先輩以外にもう一人おとなしそうだけど可愛い先輩が居るじゃん」

「あっ……」

音瀬侑李おとせゆうりがどうかしたか?」

「そうそう! その人、キャプテンの彼女になったんだよ! 私、てっきり二ノ宮先輩の方だと思ったのに。二ノ宮先輩は他校の人と付き合ってるみたいだし」

「そうか。でも佐原は決断力あるからな。音瀬は悪い奴じゃないが、ちょっと優柔不断なところがあるからバランスとれてていいと思うぞ。そうか~、俺の知らないうちに色んな事が変わってるんだな~。というか、俺の記憶が正しかったら、二ノ宮ってバスケ部の奴と付き合って別れて、そのあと野球部、テニス部、バレー部って彼氏がコロコロ変わってなかったか? 今度は他校に手を伸ばしたのか。見た目は良いが気分屋な奴だとは思ってたけど相変わらずだな~」

 つい、そう捲し立ててしまう。そう捲し立てて仕舞わないと、思わず潰れてしまいそうだった。

 音瀬侑李、その名前を口にして酷く後悔した。そして、聖雪から音瀬が佐原と付き合っているという事を聞いて、もの凄く胸が痛んだ。

 俺は、音瀬が好きだった。二ノ宮とほぼ変わらないタイミングで入部して来た音瀬は、二ノ宮のような派手な女子ではなく大人しい女子だった。二ノ宮みたいにサバサバとしてスパッと竹を割ったような性格では無かった。いつも周りの視線を気にしてビクビクしていて、自分の意見を言うことを躊躇っている人間だった。

 初めは、そんな音瀬が心配で色々気に掛けていた。失敗のフォローをしたりそれこそ佐原と一緒に慰めたりもした。そして、いつの間にか、俺は音瀬の事が好きになっていた。

 時間を、日数を、積み重ねるだけ積み重ねた末、結局俺は彼女に思いを告げる事は出来なかった。そして、事故で十ヶ月眠っている間に、彼女にも変化が起きた。

 頭の中では、彼女が選んだ彼女の幸せを祝福するべきだと思う。それに、相手はチャラチャラとしたやつではなく、あの真面目な佐原だ。だからなんの問題も無い。おめでとうと笑ってやるべきの事だ。でも、頭ではそう思えても心はそう思えなかった。

「今度二人に会ったら盛大に茶化してやろう」

 そんな軽口を叩いて笑う。

「結構、サッカー部でも彼氏彼女出来た人とかいっぱい居るし、マネージャーで行き遅れてるのは香織ちゃんくらいだよね~確か」

 駿河に視線を向け、聖雪がそう言いながらからかう。駿河は微妙な笑顔を聖雪に返した。

「行き遅れてるって聞くと、なんかお嫁に行けてないみたいだね」

「そりゃあ、彼氏が居ないんだからお嫁にも行けないよ! 香織ちゃん可愛いしいい子なのに! ねえ、お兄ちゃん?」

 俺がもし事故に遭っていなかったら、何か変わっただろうか? 勇気を振り絞って思いを告げることが出来ただろうか? …………いや、きっとただ時を積み重ねるだけだったかもしれない。

 十ヶ月。その過ぎ去った時間はあまりにも長く、途方も無いものだ。単に時間だけではなく、世界がガラリと姿を変えてしまう。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん!?」

「えっ、ああ、どうした?」

「どうしたって、それはこっちのセリフだよ! 急にボケーってしちゃってさ! 私の話全然聞いてないし!」

「悪かった悪かった。で、何の話だっけ?」

「まったく~」

 不満顔で話を再開する聖雪に、俺は笑った表情を向けた。

 夕日ももう少しで沈み切ってしまう。そうしたら、外は暗くなり建物の明かりや街灯に照らされるだけになるだろう。そんな暗い世界を想像して、俺は既視感を覚える。

 元々俺が居た世界は、俺が居ない間に姿を変え、俺が居ない間に酷く居心地の悪い世界に変わり果てていた。

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