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テスト登校  作者: うみ
3/3

「何その辛気臭い顔」

 テスト登校第4週、織戸学園パート最終日、金曜日の放課後、幼馴染の彩夏が話しかけてきた。

「今日が決戦の日なんだ」

「あぁ、囲碁部の。頑張れ」

「おう」

 さすがに5日目となると、教室から囲碁部室までの道のりも勝手知ったるものだったが、5メートル前を春さんが歩いているとなると話は別で、一度階段で躓きそうになるくらい、僕の心はここにあらずだったけれど、決して上の空だったわけではなく、むしろこの一週間で一番集中していたと言っていい。昨日の内に一年生トーナメントの予選にあたる部分は終了していて、今日は上位4名が昨日の倍の持ち時間でもって碁盤に向かうことになっていて、その内の1人に僕がいて、残りの3人の内の1人に春さんがいることは、実は予選が始まる前から僕は分かっていた。月曜日から水曜日までの3日間で彼女が抜きん出た打ち手であることは明確に感じ取れていたし、だからこそ、昨日の予選の間だけでなく、この一週間、空き時間があれば観戦していた彼女の対局を、今もなお思い出し、反芻しながら廊下を歩いているのだ。

 そしてその時がきた。

 準決勝は前座に過ぎなかった。彼女が卓越した打ち手であると同時に、僕もまたそうであるという自信に言葉にできる根拠はまったくないが、しかし彼女も今、こうして僕が対面に座ることが昨日の段階から分かっていたかのような表情で、僕の視線を捉えていること、それを一つの証拠とすることくらいはできるし、それ自体がまた自信にもなった。

「よろしく」

「うん」

 彼女と喋るのはもしかして初めてだろうか? そうかもしれない。明への遠慮もあったし、同時に春さんへの闘争心もあった。彼女に負けたら自動的に、僕は第一志望校を落ちることになるのだ。その条件は春さんも同じとはいえ、むしろだからこそ、あるいはそれでもなお。すでに確かな棋力を示している僕と彼女の直接対決とあって、ギャラリーには先輩も多く混じっているし、顧問も近くに立っているが、けれどそのことが気にならないことが僕を何より安心させた。平常心でいられるということだ。それは予想外だった。この時平静でいられた理由はなんだったろうか?

 僕が後番だった。

 先番だったらこう、後番だったらこうと、初手からいくつかのパターンを場合分けして事前に考えているのは当然のこととして、そのシミュレーションを何に基づいて行うかというと、それこそがこれまでの彼女のデータであり、そのためにこの一週間、春さんの実力を察した時から、観戦は欠かさなかったわけで、それだけ彼女を警戒してもいた。しかし僕は彼女を甘く見ていたということを、対局時計が回り出した直後の静かな碁石の音の出処を見て分からされることになる。彼女はこの一週間、誰との対局でも見せなかった戦術、初手天元(てんげん)、つまりフィールドのど真ん中に、先番を表す黒石をそっと置いたのだ。その位置は盤上全てに力を発揮できるように見えて、逆に四方八方から攻められる可能性のある頼りないポジションでもあり、それを使いこなすにはかなりの経験が必要なはずだが、彼女はこれまでそんな素振りを全く見せない、むしろ基本に忠実、堅実なプレーヤーだったはずで、それは春さんのアイデンティティからはちょっと違和感があったことを今になって思い出してももう遅く、つまり彼女は、僕に対してその武器を隠していたということだ。僕が彼女を警戒していたのと同じくらい、違う、それ以上に、彼女は僕を警戒し、ここで勝つための一週間を戦っていたのだ。

 想定外の初手に、僕の手は止まってしまった。

 チラッと上目遣いに彼女を見ると、同じようにそうした春さんと目が合った。挑戦的で悪戯っぽい眼差しだ。

 何より、楽しそうだった。


 その頃、明は『ムーン』にいた。マスターが明のテーブルにグラスを置く。

「はい。コーヒー牛乳」 

「あざっす」

「今日トーナメントなんでしょ。囲碁部」

「みたいですね。決勝残ってるかな、2人」

「ありがとね。あの子のお願い聞いてくれて」

「いえいえ。いっすよ」


 局面は僕の圧倒的劣勢で終盤に移ろうとしていた。

 しかしまだ戦場には、お互いあまり手を付けていない一画があった。僕はその地の使い方を制限時間内で必死に計算していた。ここまで先の手まで読んだことはないというくらい、劣勢になり始めた中盤からずっと、背中に汗をかいてその一画を見つめていた。いや、違う。彼女の初手天元の時点で、僕はもう劣勢になっていたのだ。

 負ける。

 このままでは負ける。 

 春さんが合格するなら明も喜ぶだろう、そんな諦めが頭をよぎらなかったかといえば、いや、……よぎらなかった。可能性が、勝利の目がまだ残されている内にそんな弱気になるほどの中途半端な精神で、僕は織戸学園囲碁部の門戸を叩いてはいない。まだ戦うのだ、今が正念場なのだ。

 囲碁は将棋と違って明確な試合終了基準があるわけでなく、プレイヤーの二人が「終わりですね」と納得し合い判定に移ることになるような、つまりは徐々に終幕する競技なので、最終盤の大逆転ということがあまりなく、中盤から終盤にかけた現在の局面こそ試合の肝であると言え、僕も春さんもギャラリーも、盤面を見る目に力が入る、

 そんな113手目、

 ミスの許されない場面で春さんが珍しく、迷い気味に置いた黒石はしかし、思わず、声を漏らしてしまうほどの、

「ん……」

 悪手だった。

 ギャラリーもどよめく。

 僕は迷わずその石を攻めた。これまで積み上げていた逆転手の計画よりも遥かに明確に、その手をとがめる方が勝率が高い。残り時間はお互いにそう残されていないが、特段深い読みをするまでもなく、その石は彼女の黒の陣地から孤立している。

 間違いなく。

 迷うことなく。

 逆転勝利が、『合格』がすぐ目の前に近づいて来ている。

 手の届くところに。

 攻めろ。

 攻めろ……!

「……あ」

 何手か後、彼女は自らの過ちに気付き、声を漏らした。

 直後春さんは投了し、黙って囲碁部室を去った。あまりにも拍子抜けの勝利、僕の喜びは7割くらいで頭打ちだった。



 5月になり、1週間が過ぎた。僕と明と、ついでに彩夏も織戸学園に合格し、僕は当然囲碁部に入った。部の練習は長く、夜遅くまで学校に残る日々が続き、『ムーン』に寄って帰ることもなくなったが、その土曜日、僕は明に誘われてばあちゃんに会いに行った。しかしそこで聞いたのは、

「いらっしゃーい。待ってたよ」

という、澄んだ風のような声。

 カウンターの近くのテーブル席に、綺麗な碁盤が置かれていた。

 振り返ると、親友がニヤッと笑った。


「わざとだよね。あの失着」

 パチ、パチと、あの日の棋譜を順番に春さんと並べながら、僕はそう言った。

「気付いてたの。……あれはね」

 春さんはばあちゃんの実の孫で、老齢の彼女から『ムーン』を継ぐことをもう心に決めていたのだと言う。だが、憧れていた織戸学園の囲碁部を一度体験するために、テスト登校だけは受験したらしい。そこで僕に出会った。よりにもよって囲碁部での彼女のライバルは、彼女が月曜日の段階で付き合い始めた明の親友で、しかもどうやらトーナメントの決勝で当たりそうな実力を持っていた、そんな僕との対戦に、しかし本気で臨むために。そして僕に本気で臨ませるために。

 そのために。

「水島君も、わたしほどじゃないけど、頭、よくなさそうだったから」

 相変わらず彼女の言葉にはオブラートがない。

「……」

「入学する気がないわたしが優勝して、水島君が落ちちゃったら、なんか悪いし」

「それはめっちゃ失礼」

「でも、事実じゃない?」

 そう言いながら春さんが置いた例の113手目を、僕は彼女の碁笥ごけに戻した。

「どうしたの?」

「ここから、もう一度やろう。あんな抜いた手じゃなく、本気の113手目を、打ってくれ」

 春さんがどう思っていたかは関係ない、僕にはまだ勝算があったのだ。練りに練った狙いが。

 彼女はゆっくりとこちらを見た。

 決勝戦が始まった直後の、あの時の、爛々とした目だ。

「……どうしよ明。水島君も結構かっこいい」

 少し離れたところのテーブルで、ばあちゃんと話していた明に、彼女は言った。

「待った待った待った! 待った! そういうのはだめだろ美月! 俺はかなり嫉妬深いからね、冗談でもだめ!」

「碁に待ったはないよ、明」

「彗まで何言ってんの! 待った!」


「でも、あのセーラー服は、一度着たかったな」

 春さんは少し残念そうに言った。

「それなー。おれも美月の制服姿は見たかったよ」

「そう聞くとなんか変態みたいでヤだな……」

「えぇ!?」

 二人の仲はこの通り、すこぶる良い。

 テスト登校中の出来事は、明も一枚噛んでいたのだ。考えてみれば付き合う前からあれだけ喋っていた明と春さんの間で、部活の話題が出ていない、僕が話すまで明が、囲碁部のトーナメントの事どころか、春さんが囲碁部に入っていることさえ知らないなんてのは不自然に過ぎる。明は月曜日の時点で『ムーン』で春さんと話していて、僕が遠慮せず、春さんとの対戦で全力を出せるようにして欲しいという彼女の願いをばあちゃんと共に聞いていたのだ。僕が確かな決意を持って対局に臨めるよう、自分から明に話すという手順を踏むのを待っていたし、その後僕にはその話題を一切振らず、いつも通りに接してくれた。

 囲碁部でなくてもこうして碁盤に向かえるライバルとの間を掛け持ってくれた親友に、何かお礼の品物を準備してやる必要があるくらいかもしれない。

「さぁ、じゃあ打とうか、水島君。本当の113手目、いくよ」

「おう、こい」



 次の日、日曜日。

 僕は思い立って、彩夏の家を訪ねた。

「どしたの」

「あのさ、言いにくいんだけど」

「ん」


「彩夏の制服、貸してくれない?」


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