明
最も絶望的だったことはなんだろうか? 相変わらず春さんしか目に入っていない明のクラスでの見境ないアタックっぷりだろうか。それとも春さんの稀に見る……御学力の御低さぶりだろうか、一体どういう思考回路をしていればアウストラロピテクスと答えるべきところでボルボックスが出てくるんだ? それとも、昨日の部活で観戦した春さんの、トーナメントを決勝まで勝ち上がってきてもなんらおかしくないと思える棋力だろうか。
そのどれか1つだったらどんなに幸せにこの火曜日を送れただろうと考えることさえ、もう何度目かは分からない、とこうして考えていることは現実逃避に他ならないわけで、では現実とは何かというと、ここ最近の絶望全てを足し合わせかけ合わせると、こうなるということだ。
「僕が落ちるか、春さんが落ちるか」
明はああ見えて、ああ聞こえて、あの人間性でありながら、成績はすこぶる良い。信じられないくらいなのだ、というとさすがに失礼か? と思わないでもないが、信じられないというのは明が、信じられないくらい頭悪そうな見た目をしているという意味ではなく、信じられないくらい成績が良い、この3月まで通っていた中学校の定期テストでは最後の学年末でトップをとりそれが何連続だろうかと、それこそ不明なくらいで、つまり織戸学園に入るのに苦労する人間ではない、ということなのだ。
だが春さんは違う。語尾「クス」が被っているというだけで南の猿人とオオヒゲマワリを取り違えるのはもはや学力とかそういう問題ではない。そんな彼女が織戸学園に入るルートとして選ぶことに意味がありそうなのは、やはり部活動推薦、つまり仮入部した囲碁部での活躍を得点にして学校側にアピールすることくらいしかないわけで、それを自分でもわかった上での「優勝します」という恐れ知らずの宣言だったのだろう。それが一瞬囲碁部室を静まりかえらせたことに気付いていたのかいなかったのかは知らないが、いずれにせよ彼女本人は体面など気にしていないというか……いや、春さんの場合はそういう形容はどこかズレている、そもそも春さんの存在自体がズレている結果がボルボックス発言を生んだと考えるのがむしろ自然、いくら彼女でも間違ってることは分かっていて、それでも何か言っとこうと思った結果があの返答なのだと、なんとなく思う。直接話したことはないが、明から聞く限り彼女のトークは9割方がストレートで構成されていて、しかもそれがほとんど胸元ぎりぎりをえぐってくる遠慮のないボールなのだ。率直、フランクといえば聞こえが良く、歯に衣着せぬ、空気を読まないといえば聞こえが悪い、そんなスタンスが彼女のアイデンティティだった。
はぁ……どうしよう。
「なんかさっきから、ため息多くないか、彗」
個人経営の喫茶店『ムーン』は、僕と明が常連になってしかるべき立地、値段、マスターの人間性を兼ね備えていて、火曜日の放課後、僕達はそこで待ち合わせることにしていたわけではないのに店の奥のいつもの席で丸テーブルを挟んでいた。
「僕は明と違って、織戸に入れるかどうか微妙だからね。ストレスも溜まるってものだよ」
嘘は言っていないが、本当も言っていない。『本当』を言うならば今この場しかないのだと、さっきから何度も頭の中では繰り返しているんだけど、どう切り出したものか迷っていた。「僕と春さん、どっちかが落ちるとしたらどっちがいい?」なんて訊けるか? けど、今の言葉は明に対してちょっと皮肉っぽい言い方になってしまったことには気付いたので、訂正しようとしたが彼は話題をサラッと進めてしまった。
「ど? 囲碁部は」
「ふぉ……」
突然クリティカルをえぐられて変な声が出たが、明の声表情から察するに、僕が抱える葛藤には全く気付いていないようで、つまり明と春さんは、部活の話題とかをまだトークテーマにしていないのだろうということが理解でき安堵した。安堵した? それはちょっとズルいんじゃないか? と内心の良心の中心が疼いたけれど……、いずれは明にも話さなければならないとはいえ、まだそのタイミングには、僕の心の準備が追いつけていない。あと5分待ってほしい。
「1年だけでトーナメントやってさ、優勝したら合格だって」
「へー! シンプルでいいな。競争率は?」
「32分の1」
「結構大人数なのな」
「問題なのは人数じゃなくて相手だけどね……」
囲碁部の話題からトーナメントの話題へ、そして相手の話題へ、若干ずつ若干ずつ、100メートル先の目標にすり足で近付くくらいの慎重さで話の中心をスライドさせ、僕は春さんの名前を卓上に出すタイミングを窺った。明に黙ったままで春さんとの決着を迎えることは、何か親友への裏切りのような気がしていて、だから言う、言うなら今、できるだけ早い内に、具体的には春さんの口から囲碁部志望であることが明に伝わるよりも前に、僕の口から……言うなら、今だ、今だ!
「あのさ……」
「ほい、コーヒー牛乳2つ」
マスターだ。
優しげにしわがれた声が僕のあのさを遮ったことについて、僕がマスターを責めたりしないいくつかの理由の内の最たるものは、そのマスター本人にある、というのは何故かというと、僕達は彼女に前からお世話になっているからで、彼女、そう、この『ムーン』のマスターは齢75歳になるおばあちゃんで、その名前は桜庭四月という。白髪の混じった髪を結い、眼鏡の奥、しわくちゃの顔に埋もれて笑う両目はいつも優しく、常に礼しているような腰の角度と、床さえ気遣っているかのようなゆったりゆたりとした歩き方がいかにもおばあちゃん然としているけれど、少なくともこの3年間で彼女が風邪をひいているところは見たことがなく、元気溌剌というイメージはそぐわないにせよ、いつも静かに陽気なばあちゃんは厳格という言葉からも程遠い、授業をサボった不良生徒にさえも、笑顔でコーヒー牛乳を振る舞うのだという話を、僕は幼馴染の彩夏から聞いたことがあり、そんな穏やかなおばあちゃんに対して腹を立てるということを、そもそも彼女のアピアランスは許してくれないのだ。
「ありがと」
「あざっす」
冷たすぎず、それでいて決してぬるくもないマグカップのコーヒー牛乳をさっそく一口運びながらばあちゃんの目を見てありがとうを言うと、決してキラリとは光らないその眼鏡の奥から、いつもの眼差しが僕の視線を予想外にもじっと捉え返してきたので、僕はドキッと瞬きせずにはいられなかったし、全てを知っているはずもないばあちゃんがそれでも全知であるかのように、励ますような瞬きを送ってきたことに、心が追い込まれていた僕は冗談ではなく少し目頭が熱くなった。本当になにも知らないのだろうか、と思えるほど、その眼差しに含まれた『理解』成分は濃厚でしかも温かく、僕がさっきまで勢いに任せて乱暴に言おうとしていた「あのさ」を考え直し、落ち着いて、ちゃんと、冷静に、明に話す決心がついたことは、きっとこれから数分間、親友と交わす大切な会話のために必要な下準備だった。
「春さんも、囲碁部志望なんだ」
「…… まじか」
少しの間が空いて返ってきた、必要以上に冷静だった明の声は僕には予想外ではない。明が本気で驚く時はいつもそうだからだ。
「僕も、多分春さんも、成績では織戸学園に行けないと思う。優勝するしか、ない」
明は無言で頷いた。
「すまんけど、俺はどっちも応援しないよ。彗」
いつも早口気味な明の、それは珍しく落ち着いた、無理に落ち着けているような口調だった。
「あぁ」
それから、明はコーヒー牛乳を一気に飲み干して『ムーン』を出て行った。ばあちゃんがテーブルにきて、明の分のマグカップをトレーに乗せた。
「私は応援するよ」
「……」
「事情は知らないけどね、全力を出さない、ってのが、大っ体どんな場合でも一番後悔をでっかくするもんだ」
押しつけがましくないアドバイスは、心にすっと入ってくる。
「私は応援するよ、あんたらの青春」
「ありがと」