春
高校の入学式が5月に行われるようになってから、今年で20年らしい。
20年前というと、僕を構成するタンパク質がまだ牛を構成していた時代になる。牛が食べ頃を迎えてナムった後、白いトレーとラップに包まれてスーパーの生鮮食品コーナーに集合住宅みたいに平積みされるまでにどれくらいのどんな過程があるのかは知らないけれども、とにかくその内の一つが色合いや値段、見た目の雰囲気によって母さんの選球眼で選び抜かれた末に我が家の冷蔵庫に一時の居を構え、それからビーフシチューになって母さんの体に摂取され、それから赤ちゃんである僕に分配される、それより前の、知ったこっちゃない時代であるので、つまり今の僕達にとってはテスト登校は当たり前で、一般化した制度だった。
「何の話だっけ?」
「昨日『ムーン』で働いてた女の子はやっぱ美月ちゃんじゃないかって話」
4月は最終週26日月曜日で午前8時の天気は弱快晴。
テスト登校期間も同時に最終週に入り、僕と明がこれから向かうのは、第4の選択肢、織戸学園。第4とはいってもそれは単にテスト順の話であって、僕はここが本命だ。常識的な範囲として僕が家から通える場所にある高校として唯一、織戸学園には囲碁部があり、理由はそれだけで十分。
「あ、ほら、彗。上級生」
「おぉ……」
織戸学園制服は、濃紺ベースの男子用ブレザーと、それよりほんの少しだけ薄い色に純白のラインが映える女子用セーラー服、共に県内最高デザインとして特に女子の間では有名だ、というのは中学クラスメイトで幼馴染彩夏の言だが、けれど反論を差し挟むところではないというか、僕の目からしても少なくとも、曲がり角から現れた二人連れの女子の先輩の制服姿は滅茶苦茶素敵、というか、後ろ姿を見て可愛いと思えるのだから、それは制服のステータスの高さの証明と思っていいはずで、その印象は噂に違わない。
まだテスト登校段階だから、僕達が着ているのは中学までの学ランだ。味気も色気もない。
「まぁバイトとかしててもおかしくないんじゃない? もう、一応高校生だし」
「『ムーン』でバイトねぇ。まぁマスターも歳だしな」
「気になるなら今度訊いてみたら? マスターに」
「うむ。あの制服を着ている美月ちゃんを見るためなら、俺はなんだってするぜ」
「見るだけでいいなら無理してアプローチしなくてもいいと思うけど」
「見るだけじゃだめだわ」
テスト登校期間第1週、鳴屋高校で春美月さんに一目惚れしてから、明の志望校は「美月ちゃんの行く高校」に決定したらしくその1週間、明は春さんへのアタック、そして彼女の第一志望校を本人いわくさりげなく聞き出すことに尽力しその結果、明もまた織戸学園を本命に決めたらしい、ということは、春さんもそうなのだろうと直接聞いてはいないけれど、きっとそうだという僕の推測を証明するかのように。
果たして、織戸学園仮1年A組に、彼女はいた。明と春さんが同じ高校になったのは第1週以来で、明もかなりやる気をだしている。幸運なことに僕も明も春さんも、ついでに彩夏も同じ教室となり、1週間だけの臨時クラスとはいえ頼もしいメンツが揃っていて、知らない人ばかりの生きづらい5日間とはならなさそうだ。
「春美月です」
正直、春さんの外見は普通だと思う。普通。
本当に普通だ。身長、スタイル、髪の長さ、顔立ち、雰囲気、どれをとっても普通と言う言葉が一番合う。決して美人じゃないし、特別可愛いとも、僕の目からは言えない。何様のつもりだと思われるかもしれないが、けど彼女に関してこの意見は多分、大抵の人の賛同を得られるんじゃないか。
「よろしくお願いします」
けれど、一つだけ。
その声は彼女のアイデンティティとして、ズバ抜けて魅力的だった。明は「一目惚れだ」と言葉にはしていたが、その実のところは「一目」とは違って、その声に惹かれたらしいこの場合を「一聞き惚れ」と語呂悪く言い代えていいのかどうかはともかくとしても、その声をして明は「快晴の土曜日の朝みたいだ」と形容していて、「それは良く分からない」と一蹴したかったのだけれど、ちょっとだけ、ちょっとだけ分かってしまう喩だったのだ。
確かに言われてみれば、快晴の土曜日の朝みたいな声だなと、自己紹介を終えて座った彼女の後頭部を眺めながら思った。澄んだ風が吹いていそうだと、そう思ったのだ。
テスト登校期間といっても、試されるのは高校側だけじゃない。生徒側もまた、この4月の内に高校側からテストされているのだということを、忘れるわけにはいかない。20年前にこの制度が導入されると同時に、高校受験というものが公立高校から姿を消した。生徒達の学力や生活態度はペーパーテストと内申書によってではなく、まるままその生徒のテスト登校中の有り様をその解答として、高校から採点されることになる。授業中の態度、部活動への取り組み、もちろん簡単な試験も金曜日に用意されていることがほとんど。
この1カ月こそが入試なのだ。
そして、県内最高レベルの進学校であるだけでなく、部活動に力を入れていることでも有名なこの織戸学園、その事は囲碁部なんてマイナー部があることからも窺えるわけだけど、つまりこの高校の『入試』に受かる方法として、仮入部した部活動で結果を残すというのももちろん有効で、学力で不利をとったとしても、顧問の先生の一推しがあれば、その生徒はやはり優遇される。学力に秀でているとは誰がどうお世辞しても言えない僕がこの学園に入るためには、この道が唯一と言っていい選択肢。
そういえば今日の仮授業を見る限り、春さんもまた勉学が得意というわけではなさそうだった、というのは僕の婉曲表現を最大限に発揮させた上での感想であって、率直に言えば彼女が学力でこの織戸学園に入れるとは思えない、というのが第一印象、おそらく彼女もなんらかの部活動で結果を残すことを主眼に置いているのだろう。彼女は何部だろうか? もしかしたら合唱部かもしれない。だとしたら合格は間違いないように思える。
さておき、僕は囲碁部の門を叩いた。
「水島彗です。よろしくお願いします」
目の前にした囲碁部の先輩達、というよりも、囲碁部全体の雰囲気空気は、僕の想像以上に真剣厳格、どこか静謐が混じっているのは碁盤の魔力だと分かっていても、部員全員の前に並べられた32人の1年生の一として自己紹介する声は固く、さらには震えてることが自覚できるはずなのに、それ以上の『これから』への期待が僕のあらゆるマイナス感情を理解直前でシャットアウトした。
自己紹介の直前に、顧問の先生が開口一番こう告げたからだ。
「木曜日と金曜日に、君達にはトーナメント戦をしてもらう。見事1年生のトップになった者は、学力に関わらず入学を許可するように取り計らう事を約束する」
それは、例え週末予定されているミニ考査で僕が5教科赤点ビンゴを叩きだしたとしても、という前提さえ含んでいるはずで、当然ながら燃えてくるわけで、今僕の隣で挨拶した田中太郎とかいう奴を筆頭にするかは置いておくとしても、1年生(仮)全員がすでにライバルであり、先輩達は立会人だ。学力での入学が絶望的な僕に、これだけ明確なゴールが示されたことは分かりやすくて素晴らしく、おそらく同じように優勝への決意を固めた一年生は数多いだろう。
優勝。
もうそれしか頭にはない。
もうそれしか、頭に入らない。
はずだった。
が、そんなフル10の脳内情報に割って入ってきたものがある。それはなんだ? 視覚? 嗅覚? 触覚? いや違う、これは音声情報だと、脳が理解するのに少し時間がかかったのは、それを聞いた時目の前にまるで、土曜日の朝の快晴が広がったように感じたからだ。
「春美月です。優勝します。よろしくお願いします」
澄んだ風が吹いているように、思えたからだ。