第十二話
遅くなってしまって申し訳ありません。
リヒト様、そして両殿下との面会を終えた私は、アドリエル達とも別れて、お母さまの私室へと足を運んでいた。
ともに歩くのは久しぶりのことであったが、前を歩くお母様はなんだか小さくなったように思える。
白桜へと入学してから会う機会はほとんどなく、ケゴンの地でもほんのわずかに顔を合わせただけ。
その後の五年間の空白は、私にとってもお母様にとっても変化の大きすぎる空白だったのだろう。
「ミナギ」
「はい?」
眼前を歩きつつ、お母さまが口を開く。
ちょうど、通路に立っている歩哨がいない区画に入ってのことで、その声は先程までの凛とした、周囲に緊張を与える声色とは異なり、ひどく弱弱しい感じがするものだった。
顔を向けては来ないため、表情はうかがい知れないが、どんな顔をしているのかは容易に想像がつく。
「あの後のことは……、本当に記憶にないのね?」
「はい。シオンによって飛竜から投げ出された後、海岸にて目覚めるまでは」
「そう……。スメラギの近況は、その後に?」
「はい。事が大きく動きすぎていて困惑しております」
実際には、空白時間でのサヤ様との邂逅によって、事の顛末は知りえていたが、お兄様やムネシゲ様の最後等は知りえぬことでもあった。
とはいえ、サヤ様との邂逅は常人の想像及ばぬことであるとも思うし、お母さまに対して世迷言を語りたくはなかった。
「そう。体のほうは?」
「十分に休ませていただきましたので、大丈夫です」
「……それならばよかったわ。気を失ったまま、運び込まれてきたから心配したのよ?」
「あ、……ご、ごめんなさい」
「謝ることではないわ。他者のために尽くすことは、私があなたにやらせてきたこと。むしろ、謝るのは私のほうね」
そう言って、顔を向けてきたお母様の表情は、嬉しさと悲しさの入り混じったものである。
「お母さま……。いいえ、それは私が望んだことです。はじめこそ、悲しくはありましたが、その後は楽しく、充実していましたから。むしろ、この五年間、何もできなかったことのほうが口惜しいです」
「……あなたは優しいわね。昔からそう……。だからこそ、今回の任務では無茶をしないでほしいわ。カザミが、そしてフミナ様がおられる天津上は、かつての平和な都ではない」
「わかっています。それと、お母さま……」
「何?」
私に対して何を語り掛けるべきか、自身が母親として何もしてやれなかったことを恥じていることが、そのお母さまの表情や口ぶりからは容易に察せられる。
幼き頃からしつけなどは厳しかったが、母親としての顔を見せることを苦手としていた人なのだ。
サヤ様との一件も私の知らぬ実家の事情があるとはいえ、お父様やリヒト様を頼るなど、立ち回る方法はいくらでもあったように思えるのだが、お父様への思いや親友を傷つけたことに対する罪の意識がそれを許さなかった。
結局は、お母さまはどこまでも不器用な人であるのだった。
だからこそ、口にできないお母様の思いを私は聞いておかなければならなかった。
「これからは、……私が天津上から帰還してからは、一緒にいられますよね? お父様やほかの皆様と一緒にまた……」
もちろん、それは一朝一夕にかなうことではないこと。
むしろ、目覚めてからはこのような気持ちはできうる限り抑えていたつもりだった。アドリエル達やボタンさん達のような平素は市井の民として生きている人たちですら、スメラギのために命がけで働いている。
両親や友人、故郷を失った人は、それこそ数えきれないほどであるだろう。
それでも、今も生きて再会できた母親と改めて母子として過ごしたいという思いは、当人を目の前にして抑えきることは難しかったのだ。
とはいえ、これは口に出して聞かねばならないほど、私とお母様の間にある小さなわだかまりの大きさの証明でもあったのだが。
「…………」
そんな私の問いかけに、ゆっくりと目を閉ざして立ち止まるお母さま。
もちろん、お母さまが背負う責任の重さは理解しているつもりである。
かつては、大罪人としてすべてを失い、遊女にまで身を落としたにも関わらず、現状、お母さまの立場は神皇直属の神衛たちを取りまとめる総帥の立場にあるというのだ。
お父様が天津上へと赴いているための代理とはいえ、現状、キツノ離宮をはじめとした天津上外部の抵抗勢力のとりまとめなど、背負うものは大きい。
だからこそ、公私の混同にもなりかねない発言をたやすくするわけにもいかないのであろう。とはいえ、今は上司と部下ではなく、母と娘として返事を聞きたかった。
「ふふふ、そなたも、身内に対しては甘くなるのだな」
そして、口元に笑みを浮かべ、凛とした表情になったお母さまの口調は、先程までの母としてのそれではなく、神衛の総帥としてのそれに戻っている。
やはり、甘かったのか。
そう思った私に対し、お母さまは目を見開くと、その凛とした雰囲気を取り払いつつ、笑みを浮かべる。
「でも、それでいいわ。思えば、私はあなたに甘えさせたことなど、ほとんどなかったもの」
「お母さま……っ!?」
「ふふ、でもねミナギ。大事な人達を忘れているわよ?」
「え?」
そういうと、お母さまは私室のある区画へと足を向ける。
そして、入口の前まで来ると、歩哨に立っていた神衛に対して、休むようにつげると、ゆっくりと扉を開けた。
「ただいま、帰りましたよ」
「あ、お母さまっ!!」
とたんに、飛び出してくる小さな影。思わず、身構えかけるが。殺気のないそれに対しては全くの無防備であり。
驚きつつも足元に抱き付いてきたそれのなすが儘になるしかなかった。
「あれ? 違う?? あれ、でもお母さま??」
そう言いながら、顔を上げてきたのは、5歳ぐらいの女の子であった。
「ミル、私はこっちですよ。この人は、あなたのお姉ちゃんのミナギ。昨日話したでしょ」
困惑する私ときょとんとするミルと呼ばれた女の子に対して、穏やかな笑みを浮かべながらそう口を開く。
その言に、思わず目を見開く私に対し、はじめは遠慮がちな視線を向けていたミルであったが、おずおずと口を開く。
「えっと、おねえ、さま……。ええと、は、はじめまして。ミルです」
「あ、私はミナギです。はじめまして、ミ、ミル」
照れくさそうに笑顔を作りつつ、そう口を開いたミルに対し、私はその場に腰を下ろしながらそう答える。
お母様から話は聞いていたようだが、初対面の姉であるのだ。他人と言っても遜色はないだろう。
「うんっ。おば様から聞いてたけど、本当に母さまにそっくりなんだね~」
しかし、はじめは遠慮がちにしていたミルも私の言に嬉しそうに笑みを浮かべると、さらに胸元に飛び込んできた。
それに驚きつつも抱きとめると、嬉しそうに胸元に顔を埋めて笑みを浮かべているミルを抱き上げる。
「うわあっ。すごいねえ」
「え、何がですか??」
「わたし、一番背が大きいからなかなかこういうことをしてもらえないの。お父さまも出かけたままだったし、おじ様は腰が痛いって」
「そ、そうなんですか?」
「うん」
こんななんでもないことに笑みを浮かべてくれるミルに、わたしは僅かに困惑しつつも、悪くない気分にさせられる。
子どもに接したのは久方ぶりであるし、ミルの姿になんとなく幼い頃の友人達の姿が甦ってくるようなそんな気がしていた。
「さあさあ、積もる話しもあるでしょうし、中に入りましょう。ミナギ、会わなきゃならない人は他にもいるわよ?」
「他の人……ですか?」
そんな私達に対し、お母様は優しく語りかけると私達を室内へと誘う。
他に会わねばならない人物とお母様は言うが、ミルとの出会いという驚きが大きすぎて、候補者の姿が浮かんでこない。
ミルは、あの戦いの後に誕生したのであろう。おそらく、お母様がお父さまに同行せずに、こうしてキツノの地に残ったのは、リヒト様の守護と同時にミルのことが会ったからだとも思う。
リヒト様自身が、自分の不備を理由にして戦力を削る選択を選ぶとは思えないが、それでもサヤ様との絡みでお母様には後ろめたさを感じているはずである。
お父さまと離ればなれにはなっても、無事に帰りを待つこともまた選択肢としては有り得る。
そして、お母様にそれを納得させるための存在として、ミルの誕生は大きかったのだと思う。
「っ!? …………」
「ん? なあに?」
「いえ。なんでもないですよ?」
そこまで考えて、私は実の妹に対して、ひどいことを考えていたことに気付き、抱き上げたまま頭を撫でる。
純粋に妹が出来たことを喜ばず、お母様が安全な地にいる理由になったと考えてしまったことに対する罪悪感であったのだろう。
困惑もあったが、それでも自分に懐いてくれた妹に対して思う事ではない。
「うふふ。お姉さまなんだかむにむにしているね~」
「むにむに??」
そんな私に対し、部屋について腰を下ろすと、膝に乗ったまま妙にほっこりとした様子で身体を預けてくるミル。
なにやら、胸元に顔をすりつけているようだったが、知らぬ間に太ったのであろうか?
ミルの仕草にそんなことを考えていると、襖が開いた音と友に、初老の女性の震える声が耳に届く。
「ミナギ様……無事で良かった」
「…………っ!? おば様、おじ様っ!?」
視線を向けた私に目に映ったのは、襖の向こう側に正座し、深くお辞儀をした初老の夫婦の姿。
それは、かつて私とお母様が世話になっていた、金物屋を営む老夫婦。二人とも、数年の時を経て年を重ねていたが、私にとっては祖父であり祖母である二人の姿に、思わず目頭が熱くなる。
「ミナギ様。すっかり美しくなられましたな。ミオ様の若い頃にそっくりだ」
「む? 私はもうおばさんか?」
「そういうわけではございません。しかし、あの小さかったミナギ様が」
「おじ様も壮健なようですね」
「ええ。おかげ様で、張り合いのある日々が帰ってきましたんでね」
感情が振り切ったのか、一人涙を流している老婦の背中を優しく撫でた老父は、笑みを浮かべながら照れくさそうにそう口を開く。
その言に、お母様が珍しくおどけたような口調で問い詰めるが、それを苦笑しながらいなした老父は、傍らの物入れに掛かっている錠を開きはじめる。
「そうなのですか? それでも、お元気で良かったです。おば様もお変わりなくて」
「ミナギ様が元気に戻って嬉しいんですよ。ミル様も良かったですね」
「うん。おばさまからお姉さまの事は聞いていたけど、本当に優しそうな人で良かったよ」
それを横目に、涙を拭っている老婦へと声をかけると、彼女もまた笑顔を作ってそう応じてくれる。
ミルに向ける表情も元の穏やかなもので、ミルの笑顔を見るとかつての自分も、そしてお母様もまたこの人たちに救われていたのだと言う事がはっきりと分かる。
「それじゃあ、今日は張り切ってごはんを作りますね。材料はあまりないですけど、ここは腕の見せ所です」
「なにか手伝いましょうか?」
「いえいえ。ミナギ様の任務のことは、私も知っています。今日は、ゆっくりしていてください。量は少ないですが、栄養のあるものを用意しますから」
「分かりました。ありがとうございます」
「期待していますよ。それより、師夫。例のモノは」
「こちらに」
そんな私達のやり取りを笑顔で見つめていたお母様は、台所へと向かった老婦に対してそう声をかけると、錠をいじっていた老父に対してそう声をかける。
なにやら、重要なものがしまってあるようで、幾重にも渡って世情が成されていた。
そして、その中から取り出されたのは二つの筒。
テーブルに置かれたそれには、なんとなくではあるが見覚えのある刻印が成されていた。
「こちらは?」
「約束していた物ですよ。開いてみてください」
そう言って私の目の前へと筒を差し出してくる老父。かなりの長さがあり、包装なども丁寧かつ厳重にしてあるそれ。
しかし、肝心の中身が何か分からず、私はミルを傍らに座らせると、ゆっくりとそれを開く。
すると、箱の中から、一瞬虹色の鮮やかな光が発せられる。照明になっている水晶球の光が鮮やかに反射したようだが、光が収まると。
そこには綺麗に研ぎ澄まされた一本の片刃剣。元いた世界で言うところの、日本刀によく似た形状の反り身の剣が収められていた。
「これは……」
「ええ。あの時、約束していた剣です。ミオ様がケゴンへと向かわれた後、陛下より死者が参りまして、こちらの製作に打ち込む機会をくださったんですわ。少なくとも、国内にはこれと並ぶ物など数えるほどしかありませんよ?」
手にとって全体に視線を向けた私は、そのあまりの美しさに言葉を奪われる。
武器となるのもは比較的重量のある物なのだが、こちらは非常に軽く。それでいて、ミルだけで斬れ味の鋭さが分かるほど。
控えめな老父がそこまで言う理由がよく分かるほどの出来映えであったのだ。
「本当であれば、正式な神衛となった時に渡したかったのですが、その後は色々とありましたからね。ミナギ、これを持って行きなさい」
「よろしいのですか?」
「ミナギ様の物です。わしはもう戦えませんが、少しでも助けになりたいんですわ」
「分かりました。ですが、もう一本の方は?」
お母様と老父の言に、私は力強く頷く。
困難な任務に際し、優れた武器はいくらあっても足りぬ事は無い。残念ながら、白桜入学の際に送られた小刀は紛失してしまっていたが、この新たなる一本はそれを補ってあまりある。
もちろん、私を守り続けてくれていた小刀の紛失は残念でしかなかったが。
「こちらは、ある人物のための物ですよ」
「ある人物?」
そう言いつつ、包みを開く老父。
同様に光を発するそれは、私の剣よりもやや頭身が長く、薄赤から桃に近い色の装飾が成されている私の物に対し、深い青と白の装飾が成されている。
見るからに男性を意識した色合いであった。
「ミナギ、あなたが守ると誓った人が、一人いるでしょう? フミナ様の次は、その方よ」
「あ……」
そんな私に対し、お母様は表情を引き締めながら口を開くと、私は守るべき人物の姿を思い返す。
皇子ヒサヤ様。
リヒト様より告げられた生存の裏付けもあり、果たせなかった使命は、まだ挽回の機会があるのだった。
◇◆◇
昨夜の再会と出会い、そして、託された牙の事を思い返しながら、私は背に背負った二振りの剣のうち、青色の長剣へと手をかける。
すると、お母様やミル、老夫婦やリヒト様、ハルト様と言った、キツノの地に残った人達の姿が脳裏に甦る。
これから私が赴く地は、ルナ様の言を借りれば“地獄”と称せるほどの激戦地。当然、常に死が隣り合う世界だった。
「皆様、見えてきましたぞ」
剣に触れながら、そんなことを考えている私の耳、船室に戻ってきたジゴウさんの声が届く。
先ほどの漁船から商船に乗り換えての移動だったが、今度はハルーシャ水族達が用いる軍艦へと乗り移り、いよいよ天津上へと入るのだという。
「あれが……。なるほど、ベラ・ルーシャが恐れるというのも頷ける」
船室から外へと出て件の軍艦へと視線を向ける私達。
水上に浮かぶ巨大な影が目に映ると、ルナ様が仮面を付けながら、息を飲みつつそう口を開く。
視線の先にあったのは、まるで一つの島を想わせるような、そんな威容を誇る巨大な軍艦の姿であった。




