第三十六話
ヒサヤ様の悲鳴が耳に届いた時には、身体は自然に動いていた。
格納庫と思われる一角。扉を開き、積み荷の影から駆け込んだ先にあったのは、苦痛に表情を歪めるヒサヤ様と右手を押さえながら困惑するシオンの姿。
一瞬、何事かとも思ったが、眼前にある敵手を撃つ事に逡巡する理由にはならない。
「シオンっ!!」
駆け込みつつ、砲筒を構えた先にて私の出現に気づいたシオンに対し、躊躇うことなく引き金を引く。
放たれた砲弾がシオンの肩を撃ち抜くも、私の砲筒もまた銃弾を受けて、弾き飛ばされ、それに反応したヒサヤ様に対し、眼前のシオンは笑みを浮かべて狙いを定める。
距離的には必中距離。私の場合は、単に運が良かっただけだ。
だからこそ、自然に身体は動く。二つの発砲音が格納庫内に響き渡った時には、私はヒサヤ様の前に身をさらけ出していたのだった。
そして、その刹那に胸元に走った焼けるような痛み。それは、これまでに経験した事の無いような、身体の中で何かが壊れたかのような、そんな痛みである。
だが、そんな痛みよりも背後にいるはずのヒサヤ様はどうなったのであろうか?
眼前のシオンは、射撃と同時に地を蹴っていた様子だったが、そのせいか砲筒を取り落とし、外への搬出口の方とよろめいていく。
そして、身体に力が入らずに、後方へと倒れ込んでいった私は、柔らかな何かに抱きとめられる。
何かと思い視線を向けると、見覚えのある青年の顔。どうやら、銃弾は私の身体を貫通したわけではないようだ。
「ミナギ……っ」
そして、私に対して声をかけてくるヒサヤ様。なんとか、声を出そうとするも、堂にも力が入りそうもない。
「ぐっ、このっ……」
そして、再び耳に届いてくるシオンの声。取り落とした砲筒でも拾おうとしたのか、即座に耳に届いた発砲音から、ヒサヤ様がそれを妨害するべく砲筒を撃ったのであろう。
「終わりだな。シオン……」
「何?」
「そこに浮いている刻印……、それがお前を守っていたと言うことか。どうりで、いくら殴りつけても応えないはずだ」
「自惚れるなよ小僧。貴様の攻撃で俺が倒せるとでも思ったか?」
「倒せぬかも知れんな。俺の攻撃では。だが……」
耳に届いてくるヒサヤ様とシオンの言。
そこまでの会話を終えると、ヒサヤ様は改めて砲筒をシオンに向けて構える。
朦朧とし始めた意識の中で、私の目に映っていたのは、ヒサヤ様が手にしている白塗りのそれ。
おそらくではあるが、もう一人の私が動力源として囚われた後も、私とともにあってくれたのであろう。
多くの敵手達の血を吸ってきた砲筒であったのだが、その白塗りの外装は、今もなお白く輝いている。
そして、再び目を見開いた私は、ゆっくりとそれに対して手を伸ばしていったのだった。
◇◆◇
突き付けた砲筒に視線を向けたシオンは、なおも不敵な笑みを浮かべたまま、背後の搬入口を開く。
吹き込んでくる風。いつの間にか、外は夜明けを迎えていたようで、水平線から顔を出しはじめた陽の光が格納庫内を照らしはじめる。
「逃がすと思っているのか? もう、お前は終わりなんだよ。シオン」
「ふ……良いのか? これがどうなっても?」
そう言うと、シオンは懐から手の平台の袋を取り出し、そのまま開かれた搬入口の方へとかざす。
「忘れていないか? お前達の身体に流されている毒の存在を。巫女の知識を持ってしても、消し去ることの出来ぬもの。だが……」
「無様だな。そうまでして生きたいのか?」
「これだけではないぞ? 見ろ」
袋の中身は、ヒサヤやミナギの身体に流し込まれた毒の解毒剤なのであろう。だが、シオンがそんなものを簡単に渡すはずもないし、それを信じることが出来るわけもない。
解毒のために口にした瞬間、さらに強力な毒が全身を蝕む可能性もあるのだ。
だからこそ、そのようなつまらぬ交渉ごとを持ち出してきたシオンに対して、ヒサヤはもはや侮蔑や憎しみ以上に、憐れみの方が強くなっていた。
だが、それを掲げつつ、陽の差し込みはじめた水平線の先へと指差したシオンに、ヒサヤは思わず眉を顰める。
水平線の周囲。ちょうど空と海の境目に当たる付近は、本来であれば日に光を反射した波間が見れるはずであったのだ。
だが、この時、ヒサヤの目に映ったのは、海上に映る波間ではなく、無数の黒点。それも、ゆっくりとこちらへと向かってきている事が確認できるほどのそれ。
はじめは何か分からなかったヒサヤであったが、海上に浮かぶ何かと言う事を考えると、一つの結論が浮かび上がってくる。
「あ、あれは……、まさか」
「ふ、俺が素直にベラ・ルーシャに逃げると思っていたか? 報酬はすでに得、女神の檻の研究成果も、新たなる動力源も得た。今更、狂信者共に組する理由はない」
「……ユーベルライヒの艦隊。つまり」
「くっく……。そう、どのみち貴様等は終わりだ。眼前のベラ・ルーシャとの戦いに気を取られ、普段は熱き低気圧に覆われた海域からの奇襲に耐えられるかな? それに、クマソ大森林を突破したその先には、神皇リヒトがいる」
「父上がっ!?」
「ふははは。分かったであろう? だが、俺もこうなってしまえば命は惜しい。貴様を傀儡の帝に添え、生き長らえるのも悪くはない……。加えて、愛しきその女の命も救えるのだ。貴様にとっても悪い話ではあるま……」
そして、そこまで言い放ったシオンであったが、眼前の光景に、思わず言葉を切る。
たしかに、このシオンの言うとおり、自分が生きることでスメラギの未来を繋ぐという選択肢もあるであろう。
ここから見える船影を考えれば、ユーベルライヒもまたベラ・ルーシャを駆逐できるだけの戦力を投入してきている。
だが、それは隷属の道でしかなく、生きながらにして死んでいるのと同じ道。
そうでなくとも、ヒサヤやサキは、シロウやユイといった同志達を救えず、生き恥をさらしている。そして、これ以上、犠牲者を生み出すわけにはいかなかったのだ。
そして、そのような大義以上に、ヒサヤにとって、そして……、静かに砲筒へと手を伸ばしてきたミナギにとって、眼前の男シオンは、決して許されざる敵である。
「ま、待てっ!! 俺を殺したところで、ユーベルライヒの進撃は止められんぞ。それに、解毒剤がどうなってもっ!!」
ヒサヤによって握られた砲筒に、静かに手を添えるミナギ。
その凛とした眼光に気押されるようにシオンは動揺し、虚空へと晒した解毒剤入りの袋を揺する。
自身を不死たらしめてきた刻印を失った事が、この高慢な男にはじめてと言える死に対する恐怖を芽生えさせたのであろう。
だが、そのような恐怖など、ミナギが、ヒサヤが、そして、ミオやサヤをはじめとする多くの者達が味あわされた苦悩や悲劇を考えれば生易しすぎる。
本来ならば、先ほどヒサヤが見せつけられたような、人間の愚かさが生み出したありとあらゆる苦痛を与え続けたやりたいほどに、ミナギとヒサヤのシオンに対する恨みは深い。
しかし、そこは長き時を生き続けてきた男。不死の力を失って初めての困惑だからこそ、付け入る隙があるというもの。
下手に生かしてしまえば、必ず自分達に害を為す。
そう思ったミナギとヒサヤは、躊躇うことなく、確実にシオンを仕留めるべく、砲筒の狙いを定めていく。
「や、やめろ……っ、やめろぉっっっっ!!」
そして、シオンの懇願の叫びが周囲に木霊すると、それを掻き消すかのような、空気を斬り裂く乾いた音が格納庫内に響き渡ったのであった。
◇◆◇◆◇
耳に届いた、いや脳裏に届いた一発の銃声……砲筒が奏でる乾いた音に、ミオははっと顔を上げた。
「ミオさん?」
「閣下?」
そんなミオの様子に、壁にもたれかかった彼女に寄り添うように治癒法術を施しているサキとアドリエルもまた顔を上げる。
だが、ミオはそれに応えることなく、ゆっくりと視線を眼前にある赤き光を灯す水晶体へと向ける。
気づいたのは、アドリエルやリアネイギスが聖堂騎士達を蹴散らしてこの場にやって来た時の事。
ミツルギ等が工作を施して室内への突入口は完全に塞がれ、聖堂騎士達の怒声のみが周囲に木霊する状況下で、ミオは眼前の水晶体……“女神の檻”動力源に囚われている少女、ミナギ・ツクシロの様子の変化に気づいていたのだ。
シオンによって、シロウ達脱出のための同志達の命を奪うことになってしまったミナギは、自身の生命を終わらせるべく暴走を開始し、一度はシオンの手によって事の黒幕たち。
ユーベルライヒがその本拠を置く海を隔てた大陸にあるその根拠地を消滅させた。
だが、そのことが奇貨となったのであろう。
ミオやサキに対して語りかけたりしてくることはないが、相変わらず周囲を赤き光で染めているとは言え、その目には生気が灯りはじめていたのだ。
そして今、ミオが視線を向けた先で、ミナギは一瞬だけ微笑んだように見えたのだ。
(終わった……のか)
その表情と先ほど脳裏に届いた銃声に、ミオは想像のつくすべてを悟った。
ミナギとヒサヤは、シオンに勝利したのだ。
これで、あの男……すべてを裏から操り、ミオだけではない、サヤをはじめとする多くの者達を絶望へと貶めたあの梟雄は、本来の住処である地獄の釜の底へと帰って行ったのだ。
そう思うと、ミオは身体から何かが抜け落ちていくような、そんな感覚に襲われる。
彼女にとっての生きる糧の一つ――――シオンに対する復讐が、今ようやく成ったのだった。
「ミオさんっ!?」
「…………大丈夫だ。ミナギの……それと、ミルの姿を一目見るまで、私は死なぬ」
「っ!?」
そして、力無く目を閉ざしたミオに対し、慌てて声をかけるサキ。
口元に笑みを浮かべつつ、それに応えたミオであったが、その声は、サキやアドリエルを驚愕させるには十分なモノであったのだ。
それまで、彼女は傷つきながらも凛とした女傑たる姿を崩すことはなかった。
彼女がその姿で無くなったのは、これ以上ミナギが傷つく様を見たくないという懇願をシオン等に対して行ったほんの一時のみ。
だが、今のミオの声に、それまでのような凛とした張りはなく、そこにあったのは、死を目前にした一人の女性の霞むような声でしかなったのだ。
◇◆◇◆◇
掲げていた腕は、力無く振り下ろされ、その手から小さな袋が取り落とされる。
すでにシオンにそれを拾うための力も、顔に浮かんだ死に対する恐怖を取り払う力も存在していない。
静寂。
シオンの額に穿たれた穴から流れるどす黒き血以外に、動くものは無い。
今、すべてが終わった。この場に居るすべてがそれを悟り、時すらも停滞したかのような錯覚を周囲に与えていた。
そして、緩やかに吹きつける風が、飛空艇を揺らすと、力無きシオンの身体はその揺れにあわせて緩やかに振れ、やがて格納庫から落下していった。
スメラギに襲いかかった多くの不幸を影で操り、絶望した人々の嗚咽を糧に生きてきた男に対してはあまりに平穏すぎる死であったのかも知れない。
だが、私にとっては、すべてが終わったことに変わりはなかった。
「ミナギ……」
腕にこもっていた力はすでに無く、全身の脱力感がひどい。
力無く身体を預けた私を、ヒサヤ様は優しく抱きとめ、声をかけてくれた。
守ることが出来た。ヒサヤ様の温もりを感じながら、私が思ったのはそのことであった。
思えば、あの時……、今の私ではないようだったが、ケゴンからの脱出の際に、ヒサヤ様をシオンから守り抜けなかったことが、私の心の奥底にずっと引っ掛かり続けていたのであろう。
サヤ様への恩にも報いる事が出来ず、お父様やお母様の期待に添えなかったことを、ずっと……。
「ごめんなさい……」
「何を謝る?」
「あの時、私が守れていれば」
そして、私はずっと言いたかった事をヒサヤ様に対して告げる。
記憶が戻ったことを知った時には、お父様の仇という思いが邪魔をしてしまっていた。
あの時、墓標に刻まれた私の名を見た時、私の胸の内に去来したのは、死を賜った事に対する嫉妬。
ヒサヤ様へと罪悪感とお父様の仇である彼に対する怒り。そして、仇討ちの責務。それらが入り混じり、私は苦悩したまま、努めてヒサヤ様にかつて仕えていた時のように接していたのだ。
口を着いた謝罪は、それらすべての発端であるあの日の出来事。
私が無能にもシオンに倒されていなければ、一連の被害は軽減されていたかも知れない。ヒサヤ様やサキが組織に苦しめられることもなかったのかも知れない。
そして何よりも、今この時まで、偽りの気持ちでヒサヤ様に接することもなかったのかも知れないのだ。
「今更か? お前は、こうして俺を守ってくれたじゃないか……。男が言う事じゃないが、これからも、頼むぞ」
「……ふふ、ヒサヤ様、お優しい」
「おいおい。それと、おしゃべりはここまでだ。今は、傷を治す事が先だ」
「良いのです……。自分の、身体は、自分が一番よく分かります」
そんな私の言に、口元に笑みを浮かべながらそう告げてくるヒサヤ様。
シオンとの戦いにて全身を傷付けられたにも関わらず、それを気にすることなく私を元気づけようとしてくれる。
おおよそ、臣下に対する恩寵として過ぎたるモノであった。
そして、そんな気持ちはとてもありがたく、暖かいモノであったのだが、生憎と私はその想いに応えられそうもない。
身体は、心はとても温かいのだが、それを感じている身体の奥底で、先ほど、シオンからの銃撃を受けた時に感じた、身体の中で何かが壊れる感覚がさらに増してゆき、身体がひどく寒いような、そんな気がしている。
そして、それはゆっくりと確実に私の身体を包み込もうとしているのだった。
「弱音を吐くな。ミオさんが待っているのだぞっ!! 誰よりも、お前を思い、お前を待ち続けているお母さんが待っているんだぞっ!! お前が頑張らなくてどうするっ!!」
「っ!?」
そして、ともすれば、“死”に支配されてしまいそうになっている私に対し、若干声を荒げるようにそう告げてくるヒサヤ様。
その言の通り、お母様は女神の檻の間にて、シオンと戦い、致命傷とも言える傷を受けていた。
もう一人の私が受けた仕打ちに、さしものお母様とて我を忘れてしまったのであろう。
血に染まったまま、私達の戦いを見つめていたお母様は、あの場にて私達を待っていてくれているのであろうか?
「いいな? 決して死ぬんじゃないぞ? 頼むからなっ!!」
そんな事を考える私を抱きかかえたヒサヤ様は、シオンが取り落とした小袋を拾うとそのまま操縦室へと向かう。
すべての決着はついた。だが、スメラギへと迫るユーベルライヒの大艦隊。そして、死の縁にあるお母様やもう一人の私がなんとか抑えている女神の檻の暴走。
まだまだ、私に残された責務は多く、ここで倒れるわけにはいかないのである。
しかし、自らの身に襲いかかりつつある“死”。どこか、身に覚えのあるそれを身近に感じながら、私はヒサヤ様の胸元にて暗き底に沈んでいく意識に身を任せるしかなかったのだ。