第一話
「ミナギさん。今日からここが、君の家だ」
「は、はい」
背中をやさしく押されながら視線を上げた私、ミナギ・ヤマシナは、目に映る大きな門の姿に気押されつつ、視線を向ける。
身長を遙か超える高さを誇り、その左右から竹垣が屋敷を取り囲んでいて、そのまま門をくぐると立派な瓦葺きの母屋と白砂が丁寧に敷き詰められた庭が見えた。
さらにその奥には、離れや倉があるようだ。
「庭が気になるかい? 今はまだ冬だから、葉を落としているが、春から夏にかけては中々きれいな花を咲かせてね。妻の趣味だったんだが、私としても自慢なんだよ」
私の様子に、今日から私の父になる少壮の男性、カザミ・ツクシロさんが穏やかな声で語りかけてくる。
たしかに、私ををもてなしてくれるかのように身体を揺らす木々や落ち着きを放つ屋敷の様子は、彼の人柄と合致し、自慢というのにも納得がいく。
とはいえ、それらの様子は今までの私の家とはあまりに異なり、場違いな場所に来てしまったことを自覚させられる。
「驚かせてしまったかな?」
「あ、いえ。その……」
そんな私の心情を察したのか、気遣うような表情を浮かべるカザミさん。
父になると言われたのは先日のことだけど、いまだにお父様と呼ぶことは出来ないでいた。私のことを気遣ってくれていることは分かるというのに。
「急なことであったからね。まあ、徐々に慣れていくといい」
「えっ!?」
そんなことを考えたまま、答えられずにいた私の頭をカザミさんは静かに撫で、それから柔らかな笑みを浮かべて手を握ってくる。
そのまま一緒に、軒をくぐると、主人の帰りを待っていた和服姿の品のよい女中達の礼に出迎えられる。
「え? え? こ、こんなに……??」
玄関に並ぶ女中たちは十四、五人はいるだろうか?
恰幅のよい中年女性から、まだ年若い人までいるが、皆が皆、人のよい笑顔としっかりとした佇まいで迎えてくれている。
はじめこそ、緊張していた様子のものもいたけれど、私の慌てぶりを見て微笑ましくなってくれたようだ。
「この部屋を使うといい。足りないモノは何かあるかな? 女中達に、必要と思われるモノは用意させたのだが、女の子が必要とするモノはよく分からなくてね」
「え、えっと……」
女中達への挨拶もそこそこに、カザミさんは私を部屋へと案内すると、部屋のあちこちへと視線を向けながらそう口を開く。
そう言われて室内を見まわすと、一通りの調度品は揃っていたし、これまでの生活を考えれば贅沢すぎるほどの家具や調度品がとも言える。
正直なところ、慣れるまでは気疲れしそうな部屋でもあった。
「足りない物があったら遠慮無く言うと良い。あまり、贅沢はさせられないと思うが」
「あ、はい。大丈夫です。……えっと、その」
そんなカザミさんの言に、私は“十分贅沢です”と言いかけるのを必死にこらえ、カザミさんに対して向き直る。
先日から今日まで色々と世話になりっぱなしであり、少なくとも彼に対するお礼はしなくてはならないと思ったのだ。
「うん?」
「いえ。あの、あ、ありがとうございます。お父……ツクシロ様」
「ふふ……、気にしなくていい。疲れているだろうし、食事までゆっくり休みなさい」
なんとかお父様。と言いかけた私であったが、どうしても気恥ずかしさが先に立ってしまい、ツクシロ様と呼ぶのが精一杯であった。
とはいえ、そんな私の心情を察し、変わらぬ笑みのままカザミさんはそう答えると、部屋を後にした。
一人になると、しんとした使い慣れない部屋の中にポツリと残され、なんとも物寂しい気持ちにさせられる。
立ったままいても仕方がないため、用意された高座椅子に腰を下ろし、勉強などのために用意された座机に肘をつき、頬杖をしながら外の景色を見つめる。
このような物に触れること自体、いつ以来だろうかと思う。
少なくとも、“この世界”に生まれてから今日のこの日まで、勉強の類をしたことはない。
簡単な読み書きなどは母が教えてくれたし、本には不自由しなかったから一般常識などもあると思う。
幼稚園も小学校にも縁のない貧乏家庭で育ったのである。縁がないのは当然かも知れない。
「それ以前に、私は勉強とか学校とかとは縁がなかったな……」
思わずそう呟きながら、園側から外に広がる景色へと視線を向ける。落ち着きのある庭園。それらははじめて目にするモノであったが、その先にある空。
それらは、昨日まで見てきたそれと、私の記憶の中にあるそれと何ら変わらぬ美しい青であった。
◇◆◇◆◇
――私には、ミナギ・ヤマシナという今の自分とは異なる、もう一人の女性の記憶があった。
縁側から見える空は、その女性がよく目にしていた空。――病室のベッドから見える景色と何ら変わらぬ空。
もう一人の私は、生まれながらに病弱で、少し駆け回るだけで咳き込むほど。はやり風邪の度に病院に担ぎ込まれて、その結果として、ベッドの上の住人となったのは小学校に入学する頃のこと。
それからは入退院を繰り返す日々であり、同世代の子達が外で駆け回ったり、成長と共に経験する青春の類とは無縁のまま、徐々に進んでいく病状とともに過ごす日々だけが、私の人生だった。
そんな私にとっての唯一の楽しみは、親や友人からの差し入れである読書だった。
まともに授業に出ることも出来ず、数少ない幼馴染み以外とは縁のない私にとって、本の中の登場人物達は、友人であり、教師。そして、本によって様々な世界を知り、現実の地球や小説の中にある異世界のことを良く知っていった。
そんな私も年齢を重ねるごとに病状が進んでいき、高校を卒業する頃にはベッドから起き上がることも困難なほどであった。
自分のことながら、もう長くは生きられないなと思いつつも、私が手にしたある小説が、そんな私の残りわずかな命の灯火を灯してくれた。
近代日本によく似たとある東方の島国を舞台に、平凡な家庭に生まれた主人公と島国の皇太子の恋愛模様を描いたその小説。
物語は、いわゆるお貴族様御用達学校に一般学生として主人公が入学した所から始まる。
最初は、しきたりや選民思想に凝り固まった御貴族様たちとの価値観の違いに振り回されるが、徐々に友達もでき学校生活を楽しんでいく主人公。
そんな主人公にも気になる異性が現れ、それが身分を隠していた皇太子だったことから、物語は大きく動き始める。
皇太子の正体を知っていた選民思想の権化のようなライバルとその取り巻きたちに悩まされたり、あまりに違いすぎる身分の差に悩む主人公やその友人達との青春物語が展開されていく。
最終的には困難に負けずに主人公は皇太子と結ばれて、めでたしめでたしとなるのだが、この物語が多くの読者の支持を受けたのは、ライバルであるミオ・ヤマシナとその取り巻きの悲惨な最期も大きな要因と言える。
国内でも有力貴族の令嬢であったミオは、親の権力を笠に着て学校内でも女王のように振る舞い、気に入らない人物を権力を用いて家ごと潰したり、陰湿ないじめを命じたりとやりたい放題な人物。
そして、高家という立場から皇太子の正体も知っており、やがてはその妻に収まることを当然のモノと思い込んでいた。
そのため、皇太子と関係を深めていく主人公に対してのいびりからはじまり、時には取り巻きを使って暴行を加えるなど、典型的な悪役キャラであった。
そんな彼女が、最終的には主人公と皇太子によってこれまで罪を断罪され、実家ともども没落していく様が、多くの読者の溜飲を下げたのである。
私もミオやその取り巻きたちの最後には自業自得だという思いを抱いた。
ただ、それ以上に困難にあってもめげることなく、必死に生きていた主人公の姿が、病状が進む私にとっては、何よりの味方であり、完結までは絶対に死なないという目標を与えてくれた。
そう言う意味では、主人公は私にとっての恩人であるのだ。
そして、病気の進行から最後を悟った私は、もし適うのであれば、主人公達と同じ世界に行ってみたいな。と言う思いを抱きながら永遠の眠りについたのだ。
――結果として、その願いは叶った。
それも、病気によってほとんど自由の効かない身から、健康的な身体で生を受けたのである。
しかし、その喜びは一瞬のことであった。
意識がはっきりした私が寝かされていたのは、派手な外装をしている一室。
高級料亭の類をもう少し派手にしたような、そんな雰囲気の部屋であったのだ。そして、私を見下ろしてくる一人の女性の姿。
男に媚びるような、派手な化粧を施した女性に見下ろされたときには、『この人が私のお母さん?』と一瞬落胆したことを覚えている。
しかし、その女性が自分から目を放して声を上げると、ほどなく波がかった黒髪を乱し、頬を上気させた彫刻のような美貌の女性が目に映った。
――――綺麗な人。
その女性を見た時に私が抱いた感想は、それであった。同じ女性であっても、素直に美貌を賞賛でき、目を奪われるほどに彼女は美しかった。
しかし、それもつかの間、先ほどまでの困惑と同時に出ていた鳴き声や涙が止まったことを私は自覚する。
なぜ衣服を身に着けていないのかはわからなかったが、その立ち姿に卑しさを感じることはなく、そのまま彼女は優しい笑みを私に向けながら抱き上げてくれていた。
その笑みと胸元に抱かれたときの暖かさは、この人が私のお母さんなんだということを実感させてくれた。
しかし、そんな安堵もつかの間のことで、彼女の脇から伸びてきたゴツゴツした男の手に無造作に撫でられた時には、全身が強ばり、一瞬のして恐怖のどん底に落とされたことを今でも覚えている。
「おいおい。乳が出るかと思ったら、子連れか~? へへへ、中々かわいいじゃねえか」
恐怖に泣き叫ぶ私にかまうことなく、下卑た男の声が耳に届いたかと思うと、今度は全身が男を拒絶し、凍りついてしまっていた。
そのまま、男のするがままにされてしまうのかと言う恐怖が全身を支配したのだが、それは杞憂に終わった。
鋭く男の手が払われると、先ほどの柔らかな笑みを消し去り、全てを見下す絶対零度の視線を男へと向けた女性の姿がそこにはあり、さらにそこから鋭い声が男へと向けられたのだ。
「我が子に触れるでないっ!! 下郎が」
「な、なに?」
女性の一括と鋭い視線に凍りつく男と私。
一見すれば、男女の縺れであるようにも見えるが、獣のような男を人形のような美女が、視線だけで圧倒している様は異様だったんじゃないかと今更ながらに思う。
その後は互いに罵詈雑言の荒らしである。
だが、聞くに堪えない罵倒は、私の幼い涙腺をあっという間に決壊させ、両者も閉口するほどの鳴き声を誘発する。
やがて、私の泣き声と彼女の視線に耐えられなくなった男は、すごすごと退散していき、女性は私を駆けつけてきた女性に預けると、その均整の取れた美しい裸体を豪奢な衣服を身に着けていく。
男の恐怖から逃れた私は、再び彼女の様子を眺めるだけの余裕ができたのだ。
男との口論の中に、“女郎”“売女”という罵倒があったが、今目の前で衣服を身に着け、髪を結い、化粧を直していく女性の姿は、そんな罵倒とは縁が無いことのようにも思える。
だが、外見の割に、どこか気品には欠ける印象もあった。
「ミオさん……、気持ちは分かるけどさあ」
「ごめんなさいね。でも、この子にはね」
そして、そんな着替えの最中、先ほど私の顔を覗き込んできた厚化粧の女性があきれたように口を開くと、ミオと呼ばれた彼女は、表情を落としながらそう応え、私に対して視線を向けてくる。
「うん。でも、あの言い方じゃ、後で注意されると思うよ? もう、ヤマシナ家の威光は通じないんだし」
「ちょっと、あなたっ!!」
「元より、頼る気はないわ。うん、ありがとう」
そして、身繕いを手伝う厚化粧の女性の言葉に、私を抱いてくれている女性が食って掛かるが、ミオはそれを制して。力無い笑みを浮かべる。
どうやら、女性はミオの客への態度と予想される問題について心配している様子であったのだが、私には、そんな三人のやり取りよりも聞き逃すわけにはいかない単語が耳に入ってきたことに気を取られていた。
“ミオ”
“ヤマシナ”
前者は、母と思われる女性の名。
そして、後者は姓であると思われる。
加えて、一見すると彫刻を思わせるような美貌と櫛を入れられてもなお優雅に波打つ黒髪。そして、全てを睥睨するかのような目元から放たれる光は、遊女とも思われる彼女の立場を思わせない鋭さが内在している。
現に野獣のような男を眼光だけで追い払っているのだ。
そして、ミオと言う名、ヤマシナという姓。そして、そんな美しさと鋭さを併せ持つ外見の女性に、私は心当たりがあった。
それは、彼女が生前に愛読していた小説にあって、主人公の恋敵として登場し、最終的に家もろとも没落していった少女。ミオ・ヤマシナの姿と重なっているのだった。
(ってことは……、私のお母さんは、あの性悪令嬢ってことっ!?)
声にならぬ声を上げながら、私は再び豪快な鳴き声を上げるしかなかった。