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「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
就業時刻にはまだ早い時間、果穂は経理部の本田の席の前で頭を下げていた。
深々と頭を下げる果穂に、本田は何時も通り部屋中に通るような笑いを返した。
「誰にでも間違いはあるからな。昨日いいだけ菅野にも謝られたから気にするな」
それでも――と先を続けようとした果穂を遮り、笑って「気にするな」ばかりを繰り返す本田に、やっと体の力が抜けた。
さっき買ってきた缶コーヒーを献上品とばかりに差し出すと、本田は快く受け取ってくれた。
「えっと……菅野、さんはまだ来ないんですか?」
普段から"さん"付けで読んだりしないので妙に余所余所しい口調になった。不自然さに自分でも驚くくらいだと果穂は苦笑いをしたが、本田は気にも留めない様子で腕時計を確認して椅子の背もたれに深く寄りかかった。
「あぁ、菅野は普段ならもう来てる頃だがなぁ。多分昨日の書類を提出しにいってるんだろう」
「……ですよね、今日の朝まで提出期限伸ばしてもらったって言っていました」
がっくりと果穂は項垂れる。まだ安心できない。もしあの書類に間違いがあって突き返されていたら……きっと果穂ではなく菅野が代わりに怒られる事になるだろう。期限を伸ばしただけでなく間違いを指摘されるなんて……あの完璧主義者にはこれ程屈辱的な事もないだろう。
そう考えて果穂は溜め息を吐いた。
「おうおう、朝から溜め息なんて吐くもんじゃねぇぞ」
「すみません……」
「今朝電話がきてなぁ、何度も確認して間違いが無かったと言ってたぞ。あいつが間違いないっていうなら大丈夫だろ。な」
あの後、家に帰ってから更に書類を確認してくれたのだろうか。あんな遅くに帰ったのに。そして今朝上司に連絡を入れるという周到さ。果穂は感心して息を呑んだ。
「本当に……申し訳ないです」
「おう。あとは菅野に言ったれ」
本田は楽しそうにそう言い、缶コーヒーを開けて飲み始めた。
果穂が神妙な面持ちのまま考え込んでいると、横から声を掛けられた。
「あれ? 澤井さん、おはよう」
「笹森君。おはよう」
笹森は果穂の後ろを通り過ぎて自分の席に着いた。笹森の席は本田の目の前にあり、更にその向かいには菅野が座っている。笹森と菅野のファイルが背中合わせに連なっていた。
項垂れて本田と話をする果穂は時折言葉に詰まっている。そんな果穂とは逆に何時も通りの爽快さで話し掛ける上司。
合点がいったのか笹森は小さく笑った。自前のカップを持って席を立つと、通り過ぎる時に二人の会話に割って入った。
「澤井さん、もうすぐ菅野来ると思うよ」
「うん……」
力無く笑い返した果穂に「大丈夫だよ」と言いそうになったが、それはもう本田に幾度と言われていそうなので口を噤んだ。立ったまま話している果穂に自分の席に座って良いと勧めると、果穂は遠慮がちに笹森の席に着いた。
笹森が部屋を出て給湯室へ向かうと、廊下で菅野がこちらへ向かって来るのが見えた。笹森が足を止めるとそれに気付いた菅野も笹森の前で足を止めた。
「おはよう」
「おはよう。澤井さん来てるよ」
「は?」
「お前に用があるんじゃないの?」
「……分かった」
それだけ言うと菅野はすぐ経理部へ向かった。
開いたままになっている出入り口の扉から本田の声が聞こえてくる。誰かと話しているのは明らかだ。
部屋に入ると、数人に挨拶をされて返事を返す。自分の席の前まで行って、やっと本田と話している相手が見えた。山のように積んである笹森のファイルに隠れるように(本人にそのつもりは無いが)、果穂が座っていた。
「……おはよう」
「おはよう。何でお前ここにいるんだ」
「何よその言い方」
いかにも迷惑そうな顔で見られて、果穂はムッとした。けれどここに来た意味を忘れてはいけないと立ち上がった。
「書類……大丈夫だった?」
「あぁ。ちゃんと提出してきた。昨日確認して間違いも無かったし。大丈夫だろう」
「ほらな、澤井。菅野が大丈夫っつってるなら大丈夫だろう!」
脇で話を聞いていた本田が大きな声で言った。これで一安心だ、と自分の仕事道具を並べ始めた本田を見て、菅野も席に座り自分の仕事用のファイルを開き始めた。
ただ、果穂だけが納得のいかない表情をしてそこに立っていた。
「すいませんでした。朝から迷惑掛けて」
「別に。今に始まった事じゃない」
自分の方を見もせずに言われたその一言にとうとう耐えきれなくなった果穂は、ダメだと分かっていつつも口を開いてしまった。
「あのね……私が下手に出てるってのに、なんなのよその態度」
「自分で下手に出てるって言ってる時点で反省の色が無さそうだけどな」
「私が自分のミスを認めて謝ろうと思ってるのに、あんたがそんな態度取るからでしょう!」
カッとなって大きな声が出てしまった。気付いた時には視線が自分に集中していて、果穂は恥ずかしさに口を閉じる。
菅野にギロリと睨みをきかされたので視線を逸らして咳払いをすると、「ちょっと来い」と菅野は果穂を部屋の外へ促した。果穂は嫌々その後ろをついていくと、部屋を出て少し行った所で菅野が振り返った。
「あのな」
「何よ」
腕組みをして壁にもたれると、菅野は果穂を見て溜め息を吐いた。果穂は何を言われるかと構えて待つが、数秒ほど何かを考えてから菅野は言葉を続けた。眉間に寄った皺が嫌みったらしい。
「俺が昨日フォローに回ったのに、お前がああして来て自分のミスがどうのこうのと騒ぎ立てれば、俺や本田さんに迷惑が掛かるっていう事が分からないのか」
「は? 迷惑?」
本当に言っている意味が分からなくて、果穂は首を傾げた。菅野がフォローしてくれたのも本田に迷惑を掛けてしまった事も分かっている。自分のミスのせいで騒いで何が悪い、と果穂は思った。
「迷惑を掛けた事を謝りに来た事が、迷惑だって言うの?」
「そうだ」
間髪入れずに返ってきた答えに、果穂は開いた口が塞がらない。頭で必死に考えてはみるものの納得がいかない。
「何で、そんな……私は迷惑を掛けたから……二人に謝りたかっただけよ」
「昨日散々謝っただろ。あれで十分だ」
「今朝書類を提出するまで心配だったんだもの。またミスがあったらって……」
「俺が大丈夫って言ってるんだから大丈夫だ。この後万が一何かあったら俺の責任だ。後は騒ぐな」
「はぁ!?」
菅野がもう話は終わったとばかりに部屋へ戻ろうとした。が、果穂は食い下がりその行く手を阻むように立ちはだかった。
「ちょっと、まだ話は終わって無いんだけど」
「もういいだろ」
「あのね、私はっ」
ストップ――。
突如降ってきた声と共に、ヒートアップしそうな雰囲気になった二人の間にいきなりマグカップが現れた。コーヒーのいい香りが二人の間に立ちこめる。
突然の事に驚いて果穂が隣を見上げると、笹森が苦笑いをして立っている。果穂の背後からやってきたのだろう、菅野はその笹森が見えていたのか驚いている様子はない。
「二人とも何朝っぱらから喧嘩してんの?」
「だって菅野が!」
「俺は気にしなくていいって言ってるだろ。何の文句があるんだお前は!」
「あーもう、二人ともやめろって!」
言い合いを始めた二人を笹森が制止する。笹森は二人の顔を交互に見ると、うーんと唸った。
何となくではあるが、二人が言い合いをしている理由を推測する。そして。
「じゃあこうしたら?」
「何だよ」
嫌な予感がするのか、菅野は眉間に皺を寄せて笹森を見た。笹森の方が身長が高いため少し見上げる形になる。笹森は菅野を見下ろしてニヤッとすると、話を続けた。
――菅野の嫌な予感は的中した。
「澤井さんはお礼がしたいんでしょ?」
「え? あ、うん。まぁ。迷惑掛けたからちゃんとお礼言いたくて……」
「菅野は謝られたくないんでしょ?」
「あぁ。もういい」
うんうん、と満足げに頷いて、笹森はカップに入っていたコーヒーを一口飲んだ。
「じゃあ今度どっか食事に行こうよ。飲みでもいいし。会社で口喧嘩になるくらいなら外で話し合った方がいいでしょ。俺と菅野と澤井さんと小野さんでどう?」
「はぁ!?」
声を上げたのは菅野だ。今にも掴みかかりそうな勢いで笹森を睨んでいる。
果穂はというと……菅野とは正反対で、さっきとは打って変わったように明るい表情をしていた。
パシンと手を合わせると、果穂は笹森に賛同した。
「よし! それでいこう!」
「澤井っ、ふざけんなよ、もうこの話は終わってるだろ」
「いい? 私は謝りたい、あんたは謝られたくない。だからもう私は謝らないし騒ぎ立てないから、代わりにあんたは黙って私に奢られなさい!」
ビシッと人差し指を差すと、果穂は菅野から視線を外して笹森に向き直った。
「じゃあ笹森君、小野さんにも言っておくから!」
「はーい」
「ちょっと待てよ、何で俺が奢られる事に…………」
菅野が一切口を挟む隙無く、あっという間に約束が交わされた。去って行く果穂の背中を見て菅野は呆れ返る。そして、その苛立ちの矛先は笹森へと向かった。
「お前なぁ……」
「いいじゃん別に。廊下で喧嘩してた方がよっぽど目立ってると思うけど」
「それは……そうだけど。あいつは昨日ちゃんと俺に謝ってきたんだぞ」
わざとらしく大きな溜め息を吐いて菅野が歩き出す。笹森もその後に続いた。
「ふーん。でも澤井さんは今朝まで不安だったんでしょ。じゃあ別にお礼くらい言わせてあげてもよかったんじゃないの?」
「"お礼"ならな。あいつが言ったのは"すみませんでした"だったぞ」
「それくらい気にしてたって事なんじゃない? ミスしてフォローされても知らん顔してるよりよっぽどいいんじゃないの」
笹森は不思議に思って首を捻る。横目で笹森の様子を見た菅野が付け足した。
「あいつが自分のミスを周りに知らしめるような行動を自分から取ってどうするんだって事だよ。立ち上がって俺に頭下げてたら、誰でも俺が澤井のミスの尻拭いをした事が分かるだろ」
「成る程。"ありがとう"ならあんまり周りも気にしないか」
「ちなみに昨日そのお礼も言われた。だから俺はもう気にしてないんだが」
部屋へ戻り二人とも自分の席に着く。それと同時に始業の鐘が鳴った。
菅野は部屋を出る前に開いたままのファイルに目を通し始めたが、目の前に自分の私物ではない物がある事に気付いて手を止めた。
手に持ってそれを確認する。手の中で一周回すと裏側に紙が貼ってあるのに気が付いた。
「あぁ、その缶コーヒー澤井さんが置いて行ったよ」
笹森は菅野の眉間に寄った皺を見てニヤッと笑うと、もう一言付け足した。
「もう気にしていないから大丈夫だよ、って優しく言ってあげればよかったのに」
菅野は何も答えず、立ち並ぶファイルの隙間から見える笹森を睨むと、缶コーヒーに張られていた紙をくしゃっと丸めてごみ箱へ捨てた。
昨日はありがとう ごめんなさい――――紙にはそう書かれていた。
「もう分かってる」
誰にも聞こえないような声で呟いて、菅野は仕事に戻った。
***
先日の言い争いから一週間後の週末。果穂は小野と一緒にとあるレストランの前に立っていた。
待っている相手は勿論菅野と笹森だ。このレストランで食事をしようと提案したのは小野だった。
「小野さんが推薦するだけあって良さそうな感じだね、このレストラン」
「友達とランチで来た事があって。夜はお酒も出すみたいでいつか来たいなと思っていたんです」
待ち合わせの時間までまだ十分はある。時計を確認して果穂は行き交う人々に目を戻した。行き交うと言ってもそう人数は多くない。仕事帰りの人が大半であり、中にはカップルもいる。仲良さそうに腕を組んで目の前を早足に通り過ぎて行ったカップルを羨ましく思って目で追ってしまった。
「寒いですね~もう少しで本格的に冬が始まりそうですね」
小野に話し掛けられて果穂は目線を小野へと移した。話に頷いて同意すると、二人の間を通って言った風に身を震わせる。もう秋が終わろうとしていた。
遠くに見覚えのある二人組が見え、それに小野が先に気付いた。言われた方を見ると、笹森と菅野がこちらにやってくるのが見える。コートを羽織って話ながら歩いてくる二人は、結構……なかなか悪くはない。
――ほんとにね、黙ってれば格好いいのよ。あいつは。
果穂はマフラーに隠れた口元で音もなく呟いた。
「ごめんごめん! 待った? 寒いから中に入ってても良かったのに」
「いいえ、大丈夫ですよ」
先に到着していた果穂と小野の前を足早に通り過ぎて笹森がレストランの入口の扉に手を掛ける。まるで店員のような手際のいいエスコートで「どうぞ」とにっこり笑って促され、果穂と小野は中へと入った。
「相変わらずの女慣れっぷりだな、お前は」
「いや、別に女慣れ関係無いからね、こういうの。ただ女の子に優しくしてるだけだって」
菅野を先に通し笹森が最後になって扉を閉めた。小野が店員に予約していた旨を告げると奥の部屋へと案内される。到着した席は半個室になっていて他のテーブル席よりも少しプライベートな空間が保たれていた。脇に設置されていたコート掛けにコートを掛けてから全員席に着く。四人用にしては少し広めのテーブルでゆったりとしていた。
果穂の隣には小野が、そして勿論向かい側には笹森が……と言いたい所だが、いつもなら気を遣ってくれるはずの笹森が今回は小野の前に座った。別に嫌な素振りを見せるわけでもなく、菅野も果穂の前の席に着いた。
今回は果穂と菅野のための食事会なので、ある意味笹森としては気を遣ったのだろう。果穂はちょっとだけ緊張していたので、もぞもぞと動いて何となく座り直した。
ウエイターが水とメニューを持ってきて全員の前に並べていった。早速そのメニューを開いて中を確認した。
「オススメってどれ?」
「えっと、ここはですねぇ……」
笹森に問い掛けられて小野が答える。最初はコースにしようかと提案したのだが、みんなそれぞれ好きな物を食べた方がいいんじゃないかという笹森と小野の提案に従う事にした。
メインを含む幾つかを頼んだ後、すぐにアルコールが運ばれてきた。
「えーと、じゃあ今日は楽しく飲んで食べましょう~」
「はーい」
「乾杯!」
笹森の掛け声の後、軽くグラスがぶつかる音がして宴会が始まった。
料理は美味しく話しも盛り上がり、満足のいく飲み会になった。何よりも果穂と菅野の言い合いが一度も無かった。その事に一番驚いていたのは果穂自身だった。
「今日は菅野に対してのお礼の会だから。もし怒りたくなってもぐっと堪えてみてね」
先日、廊下で笹森とバッタリ会った時に言われた事をこの飲み会の間に数回は思い出していた。
言われなくても元々我慢するつもりではあったけれど、菅野がチクッとするような事を言う度に笹森の言葉が頭を過ぎり、そのおかげで反論をする事が抑えられていた。
という事は、もし笹森の一言が無かったら口喧嘩に発展していた可能性は否めない。
――我慢が足りないのは自分の方なのに。それは分かっていてもムカつく! 一言多いのよこの馬鹿!
口と態度には出せない思いを胸の奥で呟いて、果穂はグラスに三分の一ほど残っていたワインを一気に飲み干した。
「澤井さん今日はよく飲むね」
「何か飲みたい気分なの」
あまり鮭には強い方ではないはずの果穂のピッチが速いのを見て笹森が声を掛けた。それに低めのトーンで答えた後、突然果穂が席を立ったので小野も心配そうに声を掛けた。果穂は心配ないと笑って見せると、鞄を手に足早に部屋を出て行った。
「澤井さん酔ってるよね」
「そうみたいです……」
少しふらつく足下を見た二人は顔を見合わせた。その後、視線の先が向かうのは、
「……何だよ」
無理矢理知らない振りをしても無駄のようだ。グラスを傾けつつ、菅野は不機嫌に二つの視線に答えた。
「今日は菅野も怒らないんだ」
「怒った方がいいのか」
「そんな事言ってないだろ」
「そう言いたそうに思えるけどな」
笹森は苦笑いで額に手を当てる。そう言う意味じゃないんだけどなー、と小声で呟いた。
その後、当たり障りのない話をしていた。が、果穂が帰ってこない。席を立ってから十分程経過していた。
「澤井さん遅いですね。私様子見てきます」
鞄も持たずに小野は席を立った。小野の姿が見えなくなり、男が二人だけになった部屋に気まずい雰囲気が流れる。
「どうしたんだろうね」
「悪酔いしたんじゃねぇの」
「でも澤井さん三杯しか飲んでないよ。この中で一番飲んでないよね」
言われてみれば。食事中の様子を思い出しても特段気持ち悪そうにはしていなかったはずだ。
菅野が頬杖を付いて考えていると、笹森もそれを真似した。右手で頬杖を付いて、左手の指で米神を突く。
「あ、真剣に考えてる」
「は?」
「仕事中、手が止まって何か真剣に考えてる時のポーズ。それ」
何を言い出すんだと思い、隣を見ると、自分の真似をして覗き込んでいる笹森が目に入った。
「……気持ち悪い事すんな」
「ひでーな」
笹森は笑って体勢を戻すと、今度は真剣に言った。
「大丈夫かな、本当に」
それに菅野が返す言葉が見当たらず黙っていると、小野と果穂が戻ってきた。
特に具合の悪そうな様子はないようで、笹森も菅野も内心ホッとしていた。
「ごめん、ちょっと知り合いに会っちゃって。話してたら十分くらい経っちゃった」
同級生だったの、と楽しそうに話し出す果穂に、みんな耳を傾けた。
「小学校から中学校まで一緒だったんだー。あ、菅野も知ってるでしょ?和弥君だよ」
「あぁ、和弥か」
舘田和弥は小学校の時に果穂と菅野と同じクラスだったことがあり、その後中学校は果穂と、高校は菅野と同じだった。
「すっごく優しいんだよ~小学校から中学校までずっとそういう性格でみんなから好かれてたんだ。しかも今話してみても昔のままって感じで、何か懐かしくなっちゃった」
「へぇ、そんな良い人なんだ。菅野も知り合いなんだろ?」
「高校の時はたまに遊んだかな。大学に行ってからは殆ど連絡取らなくなったけど」
菅野も懐かしい気持ちになっているようで、少し顔が緩んでいた。普段の眉間に皺を寄せて不機嫌にしている顔からはあまり想像できない表情につい見入ってしまい、目線を上げた菅野の視線と交わったのに驚いて、慌てて果穂は話題を振った。
「菅野も話してくれば?」
「向こうも連れといるんだろ。迷惑になるだろうから後でメールする」
尤もな返事が返ってきたので、和弥の話はそこで終了した。
その後も三十分飲んだり話したりして、二十一時過ぎに飲み会はお開きとなった。
会計が終わり店を出た。最初に果穂と菅野が、その後に小野と笹森が出てきた。飲んでいる最中、一度も喧嘩をせずにいた二人だったのに……と、後の二人は苦笑いで先に出た二人を見ている。
店を出た瞬間に言い合いをしている原因は、会計の時の出来事だった。
「あのねぇ、今日は私があんたに奢るって言ってたでしょ!」
「別に奢られたくないって言ってるだろ」
「それじゃ今日の飲み会の意味がないじゃない!」
納得いかない様子で菅野に詰め寄る果穂の話を菅野は聞かないように流している。
その態度に余計苛立つのか、酔いも加わって果穂の口調はちょっとキツめだった。
「だから、割り勘じゃ意味ないって言ってんの!」
「自分の分は自分で払う。同期に奢られるって変だろ」
「今回は理由があるでしょ! 私が、あんたにお礼がしたいの!」
「そんな怒りまみれのお礼って何だよ」
「なっ……あのね!」
「はいはい、もうお終い。人目が気になるから澤井さん落ち着いて」
間に割って入った笹森の言葉に反応して果穂はすぐに大人しくなった。確かに周りの視線は物珍しそうに果穂を見ていた。
「まぁ菅野の気持ちも分からなくもない。でも澤井さんの気持ちも分かるよ」
「今日はみんな割り勘って事にしましょう?」
笹森と小野の宥めるような説得に、もうこれ以上迷惑を掛けられないと果穂は頷いた。
「せっかく二人とも喧嘩してなかったのに。最後までもうちょっと頑張ろうよー」
「頑張るって何だ。俺は怒ってないだろ」
わざとっぽく軽い言い方をして雰囲気を元に戻そうとした笹森を菅野がギロリと睨む。まるで悪いのは果穂だけだと言わんばかりの菅野の言い方に腹が立ったが、笹森の気遣いを無駄にしないためにと果穂は喉まで出かかっている言葉を飲み込んだ。
「それじゃあ今日はこれで解散」
「はーい」
駅の改札前、笹森の号令で解散した四人は自然と二手に分かれた。
帰る方向が同じ者同士そうなるので、今日もまた果穂は菅野と帰る事になる。
気まずさが背中からだだ漏れな二人を見て、笹森と小野は笑った。
「あの二人、無理してるの見え見えで何か痒くなる」
「喧嘩しないようにしている方が二人らしくないなんて。ちょっと面白いですね」
「喧嘩する程仲が良いとか言うけど」
「うーん……」
軽く首を捻った小野につられて笹森も顔を傾ける。普段の喧嘩する様子の二人を思い出して、思い付く事は一緒だった。
「仲良くはない……か」
苦笑いで話を締めくくると、酔いで気持ちよくなった足取りのまま着いたばかりの電車に乗り込んだ。
週末だけあって飲みの帰りの人が多く混み合うホームに、果穂は菅野と並んで立っていた。非常に不機嫌な顔をしている果穂とは違って、菅野は平常通りと言った様子で、それも余計癪に障った。
電車に乗り込んでからも一切話すことなく、そのまま果穂の降りる駅へと到着した。まさか今回も……と嫌な予感がしたが、やっぱり菅野は果穂に続いて降りてきた。家まで送るつもりらしい。
「別に一人でも平気だけど」
「何かあって俺の所為にされたら嫌だろ」
そこは心配だからとかじゃなくて――!? と突っ掛かりそうになったが、一応相手の好意として受け取る事にする。何より笹森の「もうちょっと頑張ろうよ」が効いている。明らかに喧嘩腰なのは自分の方だと、果穂は自覚していた。
改札を出てから果穂の家までは十分程だ。今回もまたコンビニの前までで大丈夫だと断ろうと思い、せめてコンビニまでの五分間は口喧嘩にならないよう頑張るぞと心の中で呟いた。
果穂はうーんと頭をフル回転させて話題を探す。全く話題を思いつかない中、突然さっき会った和弥の事を思い出した。
そうだ――。
「小学校の時、読書の時間ってあったの覚えてる?」
「は? ……あぁ、あったなそういえば」
突然切り出された話に驚いて、菅野は昔の事を思い出そうとした。記憶を辿るとすぐに思い出せた。
「読書の時間に、みんなで栞作った事あるでしょ?」
果穂の話に思い当たる節があるのか、相槌はしなかったが菅野は覚えているような感じだった。
果穂は菅野からの返事がないまま話を続けた。
「あの時作った栞、まだ使ってるんだ。ほら、小さい貝殻をラミネートして作るやつ」
果穂は立ち止まって鞄の中から読みかけの本を取り出した。菅野も一歩先で立ち止まった。
「ほら、これ。今も使ってるんだ」
青い台紙の上に小さな貝が数個。街灯の明るさでもハッキリと見えた。
「菅野も作ったでしょ? もう捨てた?」
「いや……持ってる、と思う」
「まぁ男の子はこんなの大事にしないよね。どうせ無くしたんでしょー?」
言葉尻を濁した菅野の反応に、果穂はついからかう態度を取ってしまった。けれど菅野は特に気にした様子のない反応で、面白くなくなった果穂は栞をしまい、また歩き出した。
「さっきの栞、本当は無くしたんだけど和弥君が見つけてくれたの」
「へぇ」
「それでさっきレストランで話してた時にこの栞の話になって。昔の事思い出して嬉しくて見せちゃった」
本当に嬉しそうな様子で話す果穂に、菅野は短く返事を返した。
あっと言う間にコンビニの前に着いてしまい、果穂はぴたりと足を止めた。
「じゃあ、今日もここまでで。コンビニ寄ってくし」
「そうか。じゃあ、気を付けて」
「うん、ありがとう」
軽く言葉を交わすと、菅野はアッサリと帰っていった。今までにないくらいの普通の別れに拍子抜けした。
喧嘩しないとこんなに普通なんだ、あいつ……。
昔の話を振った事が功を奏したのか、喧嘩に発展することなく平和に一日が締めくくられた。今日はムカムカしないで寝られそうだ……と思ったけれど、そういえばあいつ私に奢られなかったなぁ、などと考えながら果穂は暫く菅野の背中を見送っていたが、菅野が振り返るとまずいと思い、特に用もないコンビニの中へ入る事にした。
雑誌のコーナーで立ち読みをしている最中、ふと思った。
「菅野って、どんな栞作ったんだろ――」
今度機嫌がいいときに聞いてみようかな、と考えて果穂は読んでいた雑誌を閉じた。