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Blue Black  作者: 佐倉夏南
◆意外な一面
2/3

2

 冷えた空気が玄関から流れ込む。果穂は朝の空気を吸い込むと閉めたドアに鍵を掛けた。

 駅までの道程を歩いているといつものコンビニの前に差し掛かる。一週間前の出来事を思い出して溜め息が漏れそうになった。

 朝から溜め息なんて縁起でもない! アイツのせいで今日も朝から台無しになんてしてやるもんか。

 そう考えると無意識のうちに足取りが速くなる。駅に着いた頃には苛々は少し治まっていたが、電車に乗るとまた思い出してしまうのだ。もう一週間経ったのに……果穂はここ最近毎日菅野の事を思い出しながら仕事に向かっていた。



「小野さん、おはよう」

「あ、澤井さん。おはようございます」

ロッカールームで小野と一緒になった。小野は肩まである髪の毛を束ねている最中で、果穂を見るとにっこりと微笑んだ。

「なんか……小野さん見ると安心する」

「えっ?」

 ここ最近の果穂の言動が先週の飲み会の後から少しおかしくなった事に小野は気付いていた。けれど、特に突っ込んで聞こうとは思わなかった。

「何か疲れてますか?」

「うん、色々と」

 コート類をロッカーに預け、鞄だけを持って二人一緒に図書部へ向かう。

 階段を登っている最中、果穂はひたすら祈っている。――菅野に会いませんように、と。あの飲み会から一度だけ廊下で出くわしたが、何となく気まずくて目線を合わせる事もなかった。

 図書部に着くと、もう殆どの職員は出勤していた。それとなく部屋に聞こえるように朝の挨拶をするとちらほらと返答が返ってくる。

 果穂が机につくと、ホチキスで留めてある書類が数枚目に入った。

「げっ」

「どうしました?」

 一枚目に目を通して、果穂は思わず声を上げた。見覚えがあるのだ。

「先々週に学生課に頼まれて購入した物、計上して纏めて提出するようにって」

「わぁ……あれは相当な数でしたよね」

「そうそう。二ヶ月続けてあの量だもの。大変だったよね」

 先々月と先月、二度にわたって大量の書籍を学生課から指示されて購入した。専門分野の洋書コーナーで重たい書籍の移動作業をしなければならなかった。新刊図書に判を押すのにも苦労したのを覚えている。あの時遅くまで残業した事を果穂も小野も思い出した。

「うわー。もう一つ急ぎでやらなきゃいけない事あるんだけど……まぁでも、何とかなるでしょ」

「いつまでですか?」

 期限は明後日だった。無理な事言ってくれちゃって、と果穂はむくれたが、書類の提出元の名前を見て機嫌はこれ以上悪くはならなかった。

 本田の指示なら仕方ない。これが菅野だったら……怒り倍増だ。と、仕事上どうしようもない事を思った。

 鞄から光沢のある紫色のシュシュを取り出す。お気に入りのそれで髪の毛を一括りにすると、果穂は早速仕事に取りかかった。



***



 二日間滞りなく仕事は進み、就業時間までに何とか書類は纏まった。一昨日の件も加わり急ぎの仕事が二つ重なったが、先に手を付けていた方も無事に纏め終わり、本田へ提出する書類もやり切った。両方ともファイルへ入れて、やっと果穂は緊張感から解放された。

 席を立って給湯室へ紅茶を入れに向かう。就業時間まではあと三十分程あるが、この二日間休憩時間もまともに取らずに仕事詰めだったので、残りの時間はのんびり仕事しようと凝り固まっている背中を伸ばした。両腕を上に上げて軽い柔軟をしていると、後ろから果穂を呼ぶ声がした。

「澤井さん」

「あ、笹森君。どうしたの?」

 笹森は給湯室に入ってくると、果穂に小さな小袋に入った菓子を渡した。

「それ本田さんから差し入れ。って、仕事終わっちゃったんだよね? 小野さんから聞いた」

「うん! 今回は頑張ったよー。あ、お菓子ありがとう」

 紅茶を入れ終わり、笹森と一緒に席へ戻る。やり終えたばかりの書類が収まっているファイルを渡すと、笹森は仰々しく受け取った。

「ははー。有り難く受け取らせて頂きます。お疲れ様でした」

「無事に渡してください」

 果穂もわざとらしく返事をすると、笹森と小野が笑った。

 残り時間を通常の業務に費やし、すっきりとした気持ちで就業時間を終える。帰りには自分へのご褒美だと、コンビニで高めのデザートを買って帰った。

 今日はなかなか良い日だった。果穂は何となく充実した気持ちで一杯のまま、いつもより少し早めに眠りに就いた。



***



 翌日の昼食後、暖房の効いた部屋で眠気と闘いながら仕事をしていると、別の部署へ書類を持っていった小野が戻ってきた。

 隣の席に着く前に果穂の肩をトントンと叩くと、小野は周りに聞こえないような声で果穂に言付けた。

「澤井さん」

「ん? 何?」

 果穂は振り返ると、すぐに小野の表情が曇っている事に気付く。自然と身構えるようにして続きを聞いた。

「あの……菅野さんが来てます。大事な話があるそうで。廊下にいます」

「分かった」

 嫌な予感がする。果穂は大きく深呼吸してから立ち上がった。

 普段ならずかずかと部屋の中へ入ってきては果穂のミスを捲し立てて帰って行く菅野だが、わざわざ小野に言付けを頼むくらいだ。今回はいつもと違うのが果穂にも容易に想像できた。

 部屋の外へ出ると温度差に体がブルッと震える。廊下では菅野が腕組みをして書類を見ているところだった。近付いて来た果穂に気付くと、眉間に寄っていた皺が一層深く刻まれた。

「どうしたの」

「澤井。やり直しだ」

 返答は簡潔だった。菅野は書類を果穂に渡すと、貼られている付箋を指差して言った。

「全部間違っている」

「え? 嘘でしょ?」

 慌てて書類に目を通す。昨日笹森に渡した書類だ。自分では間違っていないと思っていたし、上司も目を通したのに。果穂は震える手でそれを確認し始めた。

「厳密に言うと、計算自体に間違いは無かった。ただ、指示したのはその書籍じゃない」

 菅野の字で、付箋には間違いが書かれている。その間違いを見てはっとした。

「これ……今月購入した書籍の事じゃないの?」

「あぁ。俺が何時購入した物の事か書かなかったのが悪い。まさかそれの一月前にも似たような書籍を買っていたのには気が付かなかった」

 専門書で洋書の場合、国内の書籍と違って内容や見た目を覚えるのに苦労する事がある。それも専門的な内容の場合には何巻も続いていたりする。大学の図書館となれば頻繁にある事なのだが。

 件の書籍は、双方たった一文字しか違わなかったのだ。それも表紙は全く同じで。

「どう……しよう……」

 青ざめた果穂は、ページを捲る事も出来ずに固まってしまった。

 菅野はそんな果穂を見て、静かに溜め息を吐いた。

「一応本田さんの名前になっていた。けどそれは俺の仕事だったから」

「そう、なの……ごめん。本当に」

「提出期限は今日だったけど。間に合いそうもないよな?」

 二日掛けてやった仕事だ。終業時間までの残り二、三時間で間に合わない事は分かりきっている。果穂は返答に困った。

「俺も悪かった。一先ず出来るところまでやってもらえないか」

「うん。分かった。本当にごめんなさい」

「いや、いい。それ確認したのって佐藤さんか? 俺が話してくる」

 果穂の書類を確認した上司に話をするため、菅野が図書部へ向かおうとした。が、果穂は慌てて菅野の腕を引いてそれを制止した。

「いいよ、大丈夫。私から説明するから」

「いや。俺のせいだから」

「あんたのせいじゃないでしょ! 私が……ちゃんと確認しなかったから。私が謝るから。菅野はいい。仕事戻って」

 菅野の腕を掴んでいる手に力がこもる。菅野は暫く果穂を見た後、果穂の方に向き直った。

「一人で大丈夫か」

「うん。大丈夫。きちんと謝って、それから急いで仕事するから」

「無理に急がなくていい。また計算間違われたら二度手間だからな」

「ちょっ」

 反論しようとした。が、そんな事を言える立場ではないと思い、すぐに口を噤んだ。

 菅野と目が合わせられない。いつも迷惑を掛けているのに。本当に、心底申し訳ない気持ちだ。果穂は下を向いたまま何も言えなかった。

「おい」

「へっ」

「手、離せよ」

「うあっ、ごめん」

 ぎゅっと掴んだままだった手を離す。掴まれていた部分に皺が寄ってしまっていた。

 怒られるか、と果穂は恐る恐る菅野を見た。けれど、その菅野は眉間に皺ひとつ寄せていなかった。

「終業後、また来る」

「え、あ。うん」

「頑張れよ」

 そう言って、菅野は立ち去っていった。

 ――何よ。いつもの眉間の皺はどこ行ったのよ……。

 優しく掛けられた最後の一言。果穂はそれを思い出して泣きそうになった。

 心配なんてする柄じゃない癖に。私が悪かったのに。何であんたまで申し訳なさそうな顔するのよ。私のせいなのに。

 気持ちが落ち着くまで、そう繰り返し心の中で唱えた。一分後、果穂はこの事態をどうにかするべく、一人部署へと戻っていった。



***



 終業の鐘が鳴ってから既に二時間。カウンター業務のグループが後片付けを始めている横で、果穂は未だ仕事をしていた。

 幸いな事に上司からは口頭で注意を受けただけで済んだ。誠心誠意謝ったので、大事にはならずに済みそうだ。

 それというのも、果穂が仕事に没頭している間に菅野から上司に電話がきたのだという。自分が悪かったから果穂を責めないでやってくれというもので、それを聞いて果穂は恥ずかしくなった。自分のミスを菅野がフォローしている。この書類が出来上がらなくて迷惑を被っているのは菅野だというのに。

 それだけではなく、菅野はこの書類の提出期限を明日の朝までに延ばせないかと提出先に打診してくれた。終業時間直後に果穂に掛かってきた電話で菅野から聞いた。淡々と告げられる内容に、謝る事しかできなかった。

 そんな果穂を心配してか、小野が手伝うかと申し出た。が、果穂はそれを丁寧に断った。自分で最後までやり切りたい、これ以上誰かに迷惑を掛けられない。果穂にそう言われて、小野は心配そうにしたまま帰って行った。



 どれくらい時間が経っていたのかも忘れるくらい果穂は仕事に集中していた。明日の朝に菅野がこれを見直さなくてはならないのだ。二度同じ事で手間取らせるわけにはいかないので、仕事を進める手は自然と慎重になる。

 しんと静まりかえった部屋に電話の音が鳴り響いた。いきなりの事に驚いて肩が跳ねる。辺りには人気が全く無くて、少し不気味に感じた。

 電話を取った。相手は菅野だった。

「まだ仕事してるか」

「うん」

 沈んだ気持ちで答える。続きが言葉にならない。ほんの少し沈黙があった後、ふと思い立った。内線で電話をしてきたのだろうか。だとしたら菅野もこんな遅くまで残っているのか?

「今からそっちに行く」

 電話越しにガチャンと音がして、そっと受話器を置いた。何故か鼓動が速くなる。

 ――こっちに来るって……やっぱりまだ残ってたんだ。

 菅野の部署からここまでは歩いて五分も掛からないだろう。果穂はまだ持ったままだったボールペンを置いて、椅子の背に深くもたれた。

 数分後、廊下を歩く音が聞こえてきた。人気のない廊下に足音がよく響いている。思わず姿勢を正してしまった。

 部屋の前で足音が止まった。

「残ってるのお前だけか?」

 背後にある入口から声がした。振り返ると、菅野が立っていた。

 声が出ずに頷いて答える。菅野は真っ直ぐに果穂の方へと歩いてきた。

「色々買ってきた」

 机の上にドサッと置かれたコンビニの袋。中にはパンやらコーヒーやらが入っているのが見えた。

「え、これ……」

「もう食ったか?」

「ううん、まだだけど……」

 菅野は「じゃあ食え」と言って、果穂の隣にある小野の席に座った。

 果穂はコンビニの袋には手を付けず、恐る恐る菅野へ首を回した。

「あの……ごめん。まだ終わってなくて」

「ああ、いいよ。手伝いに来たから」

「はっ!?」

 思わず大きな声が出た。

 菅野が、私を手伝いに――? って、それじゃあ迷惑掛けてるのと一緒じゃない!

 気が付くと、さっきよりももっと大きな声で菅野の申し出を精一杯拒否していた。

「ダメダメ! これ以上迷惑掛けられないから!」

「でも終わりそうにないんだろ」

「そうだけど、でも……私一人で何とかやってみせるから! だから、もう遅いし菅野は帰って」

 果穂はそれだけ言うと、黙って俯いてしまった。

 気まずい雰囲気の中、菅野は口元に手を当てて暫く考えた。そして上着を脱ぐと、果穂の机の上にあったコンビニの袋を引っ張って中身を取り出した。

 果穂は顔を上げて菅野の行動を不思議そうに見る。そんな果穂に、菅野はパンを差し出した。

「食ってから考える」

「えっ?」

 ん、と押しつけられたパンを受け取り、果穂は呆然とする。菅野はもう封を開けてパンを頬張り始めていた。

 片手にパンを持って、もう片方の手で器用に缶コーヒーのプルタブを開けた。それも果穂に差し出してくるので、果穂はおずおずと受け取った。

「これ……菅野がお金出したの?」

「そうだけど」

「私の分は払うよ」

「いい」

 不機嫌な顔でサラッと否定されてしまって、何となくそれ以上は言えなくなった。果穂はパンの袋を見つめていたが、お腹が空いていたので封を開けて食べる事にした。

 黙々と食べていると、先に食べ終わった菅野が缶コーヒーを飲み干して、果穂のパソコンの画面を覗き込んだ。

「結構進んだな」

「うん、まぁ……六時間近く必死でやってたから。それなりには……」

 自信がなくて、最後の方はボソボソとした声になる。実際、普段の何倍も集中していたせいか、残りは三分の一といった所だろうか。

 果穂は更に俯いて残りのパンを頬張った。

「今の段階で出来上がったページまで印刷して。確認するから」

「分かった」

「あぁ、食い終わってからでいい」

 果穂がすぐにマウスに手を伸ばしたのを見て、菅野がそれを止めた。

「十分くらい休憩しても支障ないだろ」

「……っていうか、本当に手伝ってくれるの?」

 いつの間にか手伝う方向で話が進んでいたので、思った事を口にした。

 それに対して、菅野は盛大に不機嫌そうな顔を見せる。眉間には見慣れたいつものアレが出来ていた。

「あのなぁ。今回はお前一人のせいじゃないって言ってるだろ」

「でも、」

「俺のせいでもあるんだ。手伝わせろ。お前の意見はもう聞かない」

 果穂の言葉を遮って、菅野は強く言った。

 ここで素直に聞いていればよかったのに――。

「だって……菅野が今までフォローしてくれた事なんてなかったから。何だか……」

 あぁ、私って本当に可愛くない女だ。特に菅野の前では――。

 果穂は口に出した言葉をすぐに後悔した。けれど言ってしまったものはしょうがない。少なからず思っていた事だ。だが、今それを言わなくてもよかったのではないか……と更に落ち込む。

 パンを持っていた手を降ろして食べるのをやめた。菅野の方は見る事が出来ない。何も言わず黙っているのは、きっと怒っている証拠だろう。

 迷惑を掛けただけでなく、憎まれ口までたたくとは。自分に呆れる。

 果穂は目頭が熱くなるのをぐっと堪えた。

「お前の中で俺はどれだけ酷い男扱いなんだよ」

 菅野の声は静かだった。いつもの様に語気が強めな言い方ではない事が、自分を責めているようで辛い。責められるような事を言ったのは自分なのに。果穂は反論も出来ず、黙り続けた。

「言っておくけどな、今まで書類を突っ返してたのは、お前が間違ったからだろ」

 正論だ。ぐうの音も出ない。果穂は素直に頷いた。

「でも、今回は違うって言ってるだろ。同僚が一生懸命仕事していて困っているのを見捨てる程、俺は嫌な奴じゃない。それは覚えておけよ」

 最後の一言は、いつもの嫌みったらしい言い方だった。果穂はそれを聞いて更に深く俯いた。

 ギギッと椅子が回る音がして、菅野は空き缶と空になったパンの袋を持って立ち上がった。

「あと、泣きそうな女に追い打ち掛ける程腐った男でもないからな。トイレ行って来る。戻ってきたら仕事するぞ」

 そう言って、菅野は部屋を出て行った。

 果穂は零れてきた涙を指で拭うと、残りのパンを食べ始めた。途中、何度か鼻をかむ。唇を噛んで、これ以上涙が出ないように堪えた。

 鞄から鏡を取り出して目元を確認する。泣いた証拠が残っていると、きっと菅野に気を遣わせてしまう。分かっていても、菅野は恐らく見ていない振りをしてくれるだろうけど。

 ぎゅっと目を瞑って、大きく深呼吸した。空になったパンの袋をごみ箱に捨てて、缶コーヒーに口を付ける。

 さっき菅野に言われた通り、出来上がったところまで印刷をするべく、果穂はパソコンに向かった。



***



「終わった……!」

 果穂は大きく息を吐いた。けれどこれは嬉しさと安堵で一杯の溜め息だ。菅野も小さく溜め息を吐くと、二人そろって上体を仰け反らせた。果穂が首を回すとポキポキと音がする。

 菅野が横で確認作業を終えたので、これで明日の朝一番にこの書類を無事に提出する事が出来る。ファイルに収まった書類を持って菅野が立ち上がった。

「終電には間に合いそうだな」

「うわっ、もうこんな時間!?」

 慌てて果穂も立ち上がる。菅野は上着を着直して鞄を持ち上げた。果穂もパソコンの電源を落とすと鞄を持って立ち上がった。

「私、部屋の戸締まりとか確認して行くから。先に行っていいよ」

「分かった」

 返事をすると、菅野は部屋を出て行こうとした。そこで、果穂は肝心な事に気付いた。

 戸口に手を掛けた菅野を呼び止めた。

「か、菅野!」

 重大な事を忘れてるじゃないの――! お礼言いなさいよ、私の馬鹿!

 果穂は菅野の傍に駆け寄る。不思議そうにしている菅野に向かって、勢いよく頭を下げた。

「本当にごめんなさい。ありがとう。すごく助かりました。迷惑掛けて本当にごめん」

 一気に喋り終えて、ゆっくり頭を元に戻す。と、目の前には驚いた様子で果穂を見ている菅野が居た。

「おう」

 それだけ。返ってきた返事の短さに、今度は果穂が驚く。菅野は振り返ってドアノブを回した。

 そのまま部屋を出て行くのか、と思ったが、あと数㎝で扉が閉まりそうになった所で止まる。

「下にいる。早く用意しろよ」

 そう聞こえた後、バタンと無機質な音が響いた。

 下にいる――? 私を待ってるってこと? まぁ、帰る方面は同じだし、乗る電車も同じだし――。

 果穂は考えながら部屋の窓や給湯室の戸締まりを確認した。プリンターの電源を落とし、部屋の電気を落として廊下に出る。

 もう果穂達くらいしか残っていないだろう、非常灯以外の電気は点いていない廊下に出て、寒さの他にも別の何かが体を震わせた。

 急いでロッカールームに行き、コートを引っ掴むと、果穂は階段を駆け下りた。



「はぁっ、はぁっ」

「……コート着ないのか」

 少し走ったせいで息が上がる。果穂は靴を履いて玄関を飛び出た。

 先に待っていた菅野が果穂を見て言った。果穂はバツが悪そうにすると鞄を足下に置いてからコートを羽織る。寒さが少し和らいだ。

「何で走ってきたんだ?」

「え? あぁ、別に。何でもないよ」

 不思議そうにしていた菅野だけど、それ以上は特に何も聞いてこなかった。

 この歳になって暗いのが怖かったなんて言ったら笑われそうだ、とバレていない事を祈った。

 並んで歩いていると、酔っぱらいの集団が大声で笑いながら駅に向かっているのが見える。菅野も果穂も迷惑そうに目を遣るとその横を通り過ぎた。

「ああいう中年にはなりたくないな」

「菅野はむしろ説教するタイプじゃない?」

「は?」

 呟いた菅野の言葉に果穂が答えると、途端に菅野の機嫌が悪くなる。眉間にいつもの皺が呼び戻されて何だか安心した。面白くなって果穂は笑った。

 今なら素直に言える気がする。果穂は隣の菅野をチラッと見た。

「菅野も結構優しいところあるんだね」

「俺はいつも優しいぞ。澤井以外には」

「何で私以外なのよ」

「お前が俺を嫌ってるからだろ」

 ピタ、と足が止まる。――嫌い? 菅野の事を?

 菅野は立ち止まった果穂の方を見ることなく進む。果穂が立ち止まった事に気付いていなかったのだろうか。

 追いかけて、また隣に並ぶ。果穂は何と言っていいか分からなくて、でも言い返したい気持ちはあった。けれどそれをどう言葉で伝えればいいか分からず、結局黙ったまま歩いた。



 駅に着いて電車を待っていると、さっき見かけた酔っぱらいの集団がホームに降りてくるのが見えた。それと同時に電車が到着するアナウンスが聞こえた。

 電車に乗り込むと、週末の終電なだけあって満員だった。けれど果穂達の居る車両にはあまり人が乗っていなかった。それもそのはず、先ほどの酔っぱらいが乗り込んできて騒ぐので、乗客の半分は隣の車両に移動してしまっていたからだ。

 果穂と菅野はドア付近に立っていた。果穂がたまたまその集団に目を向けた時だった。その中の一人と目が合ってしまい、その男性は果穂の方に向かって笑いかけてきた。

 呂律の回らない口調で、明らかに果穂と菅野をからかっている。二人の間柄がどうだとか勝手な想像をして下品な単語まで飛び出してくる始末だ。

 果穂は居たたまれなくなって下を向いた。

 と、その時、さっき果穂と目が合ってしまった男性が、果穂の方へと寄ってきた。

「お姉ちゃん、これから一杯いかねぇ~?」

 くいっと酒を飲む仕草をした男性が、その直後に果穂へ向かって手を伸ばそうとした――が、その手は果穂に触れる事は無かった。

 菅野が果穂の腕を掴んで自分の方に引き寄せる。揺れる電車と踵の少し高めなヒールのせいでふらついた体は、思い切り菅野にぶつかった。が、菅野はしっかり果穂を受け止めると片手で抱き留めたまま、無言で歩き始めた。

 後ろからはヤジが飛んできていたが、むっつりとした顔で無視を決め込む菅野に連れられて隣の車両へ移った。

 連結部分の扉を閉めると、酔っぱらい達の声は一切聞こえなくなった。が、満員の車両へと移ったため身動きが取れない。自分たちが来る前でもぎゅうぎゅうだった車内は、無理矢理ねじ込んできた二人を押し出すかのようだった。

「大丈夫か」

「うん……ごめん。ありがとう」

「気にすんな」

 車両が大きく揺れる。乗客が皆同じ方向に揺れるが、果穂は扉に背を付けているためかそれほど衝撃を感じなかった。けれど目の前の菅野は苦しそうだ。ドアに手を付いて、果穂が潰れないようにしてくれている。菅野に密着されても困る。けど、菅野が苦しそうなのも嫌だ。

 ――それに、目の前にある菅野の顔が近すぎて、果穂はどうしていいか分からない。

「大丈夫……?」

 今度は果穂が聞いた。菅野はそれに軽く頷く。あと五駅で果穂が降りる駅だ。それまで我慢して――と、果穂は申し訳ない気持ちで一杯だった。

 ずっとこの状態が続くのかと思っていたが、果穂が降りる二つ手前の駅に到着すると満員だった車内の空気が一気に軽くなる。ここは乗り継ぎの多い駅なので、半分以上の乗客が降りて行ったからだ。やっとすし詰め状態の空間から解放されると菅野は果穂から身を離した。

 残念ながら座席が空く事はなく、二人は立ったままだった。

「すごかったね。こんな時間に乗らないから、満員なんて初めて見たよ」

「俺は本田さんと飲みに行った時、帰してもらえなくて何度か乗ったな」

「うえー、キツイね」

「ほんとにな」

 自然に振る舞えただろうか。果穂は密着状態の時にすぐ目の前にあった菅野の顔を思い出して顔が熱くなった。俯いているおかげで髪の毛に隠れて顔は見えないだろう。今、きっと変な顔になっている。果穂はまだ収まらない鼓動をなんとか落ち着かせようと必死になった。



『――駅、――駅』

 果穂が降りる駅のアナウンスが聞こえる。果穂はやっと落ち着いた顔を上げた。

 と、菅野が果穂の方を見た。

「家まで送るか」

「え?」

 菅野の問いに、驚いて言葉が返せない。そうこうしているうち、電車はどんどん速度を落としていく。

「やっ、申し訳ないですから、大丈夫です!」

「……何で敬語になってんだよ」

 慌てすぎたのか、とても不自然な受け答えをしてしまった果穂をもっと動揺させたのは、菅野の笑った顔だった。

 なんて顔して笑うのよ! そんな顔見た事ないから焦るっての――!

 初めて見た菅野の笑顔に、果穂は思わず釘付けになった。

 菅野が果穂を見た。もう笑ってはいないらしい。いきなり交わった視線に驚いて果穂が菅野から顔を背けると、同時に電車がゆっくりと停車した。

「これ終電なんだからここで降りたら菅野が帰れなくなるでしょ。大丈夫だよ。ありがと!」

 一気に言って、果穂は開いたドアから足早に出て行った。

 後ろを振り返る事も出来ない。今振り返ったら、まるで追いかけてきて欲しいと――そんな顔をしてしまいそうで怖い。

 って、私何考えてるの!

 心の中で自分に突っ込みを入れながら、果穂は改札を駆け抜けた。

 帰り道、またコンビニでデザートを買う。その時に見かけたパンが、菅野のくれた物と同じで思わず足を止めた。パンの袋に菅野の顔がちらつく。それを振り払うように頭を振ると、慌ててレジへ向かった。

 昨日とは大違いだ。今日は全く眠れそうにないかもしれない、と果穂は項垂れた。

 深夜の人気のない道がちょっぴり怖くて、果穂は走って家まで帰った。

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