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冷たくて意地悪
ずっとずっと昔から、冷徹な青と腹黒さの黒がそいつにはお似合いのカラーじゃないかと思ってた――
「澤井! お前何度言わせたら気が済むんだ。計算を間違える度に俺が直して、いつも二度手間だろうが!」
「すみませんでした!」
「毎回逆ギレして謝って済むと思うなよ。次間違えたらもう訂正してやらないからな」
大きな音を立てて事務室の扉が閉まる。周りの人間はいつもの事だとでも言うようにその光景に苦笑いをし、声の主が居なくなるとすぐに仕事を開始した。
果穂は溜め息を吐いて席に座ると、今しがた差し戻された伝票の計算表に目を通した。ご丁寧に間違っている箇所に付箋が貼られており、赤のペンで修正してある。しかし正しい数値が記入されているのではない。赤で大きく"誤"とだけ書かれている。
「はいはい、計算し直しますよーだ」
「さすが菅野さんってば厳しいですね」
一人呟く果穂の隣で苦笑いをしている小野遥は、果穂の一年後輩で見た目も中身も控えめなタイプだ。小野は果穂の手に持っている書類をちらりと見て、その付箋に書かれた文字に怒りがこもっていそうだ、と一人小さく笑った。
二人の席には山のように本が積んである。それにはどれも判が押してあり、その判の大学名の図書館の物だと一目見て分かるようになっている。
果穂達が勤めるS大学は国内一の規模と生徒数を誇ると言われている名門大学であった。都会から離れたところに建てられた第一キャンパスは主に文化や芸術、芸能に関わる学部が集中している。広い土地の中にそびえ立つ、まるで古城とでも思わせるような外観をもつ大学だ。隣の市にある第二キャンパスは医学・理工・農・宇宙学に関わる学部が、第三キャンパスは教養一般に関わる学部が集中している。
第二キャンパスには大学付属の大病院があることもあり、地域連携型として他市から、そして世界からも注目を集めている大学だ。
そんな大学の図書館に、澤井果穂は勤務していた。
「図書部は経理部と違って人手が足りないって言うのに。ちょっとくらいの間違いがあったっていいじゃないのよ、ねぇ」
「え? えぇ、そうですよね、もう少し人を増やしてもらっても良いかもしれませんね」
果穂の呟きに小野は困ったような表情で答えた。小野も似たような計算表を作ってはいるが、あまりミスをしたことがなく、提出先である菅野に注意を受けた事が無かったからだ。そんなことを思い返事をした小野だったが、書類から目を上げないままだったため果穂には小野が困っているのは分からない。そのまま果穂はまた話し掛けた。
「小野さん、今日は暇? 一緒に晩ご飯食べに行かない?」
「いいですね、そうしましょう」
約束を交わすと二人は仕事に戻った。
図書部の仕事は人手が足りていない、と職員は常々思っていた。足りないと言っても職員は全部で五十人弱もいるのだが、こうも大きい大学の、それも一般市民と学生全てを相手にしている図書館ともなれば人数が足りないのだ。
市や県で運営している図書館もあるのだが、大学の図書館にはそういった図書館にはなかなか置かれていない高価であったり入手困難な専門書が豊富にある。そういった書籍を求めて本好きな一般市民がやってくるので、大学の図書館という割にはいろいろな年代の人間が出入りしていた。
図書部の中で最も多忙なグループ、図書管理グループに果穂と小野は在籍していた。
先ほど菅野から突き返された書類の計算がやっと終わった頃、職場のスピーカーから就業時間終了の鐘が鳴った。
マグカップに入った温い紅茶を全て飲み干すと、果穂は立ち上がった。
「終わった! ギリギリセーフ」
「お疲れ様です。帰りに経理寄っていきますか?」
「うん、そうする」
周りもがやがやとし始め、殆どの者が帰り支度を始めている。図書館自体は十九時まで空いているので、帰り支度の整った果穂と小野はカウンター業務のグループに挨拶をしてから図書館を出た。
廊下はひんやりとしていた。経理部に提出する書類があるため、果穂はまだコート類を身につけてはおらず、廊下を這う冷たい風に体を震わせた。
図書部は三階にある。果穂と小野はこの後どこで夕食を食べようかなどと他愛もない話をしながら二階へ行くために階段を降りていた。その時、後ろから駆け下りてきた様子の男が二人に声を掛けた。
「あ、澤井さん。もしかして今から経理来る?」
「笹森君。うん、菅野に突き返された書類をね…これから提出しに行くところだよ」
笹森と呼ばれた男性は、低く唸るような声を出すと腕を組んで小首を傾げたまま困惑の表情を浮かべた。
それを見た果穂と小野は思わず足を止めた。
「何? 今行っちゃいけないような雰囲気なの?」
「うーん。そういうわけじゃないんだけどね。まぁ…機嫌悪いかな」
「菅野が?」
笹森は頷いた。経理部で菅野と同じグループに在籍する笹森恵一は、菅野と果穂がよく喧嘩する度、そのフォローに回る事が多かった。最近ではその喧嘩っぷりに本人達も周りも慣れてきたが、それこそ最初の内は笹森が二人の橋渡し役として右往左往する事が多かった。菅野と仲が良い分、周りからの「何とかしろよ」という無言のプレッシャーによるものである。
笹森が足を進めると、果穂と小野もそれに続いた。経理部に到着し、笹森が恐る恐る中を確認してから果穂を中に促した。
小野は小声で「頑張ってください」と果穂に言うと、寒そうに手を擦り合わせ廊下の壁にもたれた。
「失礼します」
果穂の声にぴくりと反応して、すぐに菅野が振り返る。振り返った菅野の眉間には皺が寄っていた。「眉間にデコピンを食らわせたくなる」と日々果穂が言っているのを思い出した笹森は、仏頂面のまま歩いて行く果穂の事を見て笑いそうになるのを堪えた。
「業務時間内には終わらないかと思っていた」
「失礼ね!ちゃんとやってあります」
机の上に書類を置くと、菅野はすぐにそれに目を通した。自身が貼った付箋はそのままで、直された数値のみを確認しているようだ。果穂はその様子を少し緊張して見ていた。
以前こうしてやり直して持ってきたことがあったが、相当機嫌が悪い時だったせいか、またミスをしていた箇所があった事を酷く怒られた事があったからだ。自分が悪いとは思っていても、何故か菅野の正当性のある怒りを含んだ言い方に腹が立つ事が多かった。
菅野が書類の一番下のページに目を通し終わり、書類を机上に置いて果穂に顔を向けた。
「今回は二度目の修正は必要ないみたいだな」
「当たり前でしょう」
菅野は立ったままの果穂を見上げ、小馬鹿にするようにして、ふん、と得意げにあごを突き出す仕草をした。菅野を見下ろしたまま、果穂も同じ動作を遣り返す。その様子を見て菅野の向かいに座っていた笹森が思わず吹き出すと、果穂は二人に向かい乱暴に「お疲れ様でした!」と告げて勢いよく振り返った。
「おぉ、澤井、今帰りか」
「本田さん!」
出ようとした入り口の扉が急に閉まったのかと思うほど、本田真一の体格は大きいものだった。見慣れた黒縁の眼鏡を掛けている本田の顔を見て、果穂は嬉しそうに笑った。
中に入ってくる本田がにこにこと話を始めたので、果穂はそのまま足を止めて部屋の中を振り返った。
「廊下に小野さんが居てなぁ、お前ら今から飯食いに行くんだってなぁ」
「はい、そうです」
室内の端から端まで行き届いてしまう大きな声で本田が機嫌良さそうに話す。最初こそはこの声の大きさにみな驚いたものだが、今となればもう慣れてしまっていた。
本田は去年まで図書部の図書管理グループにいて新人の頃から果穂に仕事を教えていた。果穂にとっては一番頼りになる先輩だった。そして何の縁かよりによって今年度からは菅野と笹森と同じ経理部で働いているのだ。
そんな先輩が嬉しそうにしているので、つられて果穂も機嫌が良くなった。
「よーし、今日は俺が奢ってやる」
がははは、と大口を開けて笑った後、本田はまるで子供のようにニヤリとして小声で続けた。
「たまには若い女と飯が食いたくなるんだ。見て見ろ、俺のグループの男臭さと言ったら。女っ気もなく毎日書類と話でもしてんのかっていうような奴が居るだろう」
本田がそう言ったのを聞いて果穂は吹き出した。これは本田が図書部にいた時からよく言っていた事だったからだ。女が居ないと華が無くていけねぇなぁ、というのが本田の考えだった。
本田の大きな体越しに、乱暴にファイルを閉じる音が響いた。笹森が顔を伏せて笑っているのが見える。
果穂は外で待っています、と本田にこっそりと告げ、部屋を出た。
廊下に出ると、小野が心配そうな顔で果穂を見つめた。果穂はその視線に得意げな顔でオッケーサインをして見せると、小野はほっとした表情を見せた。
果穂はコートを着ると、今しがた中で交わされた本田との会話を物真似交じりに伝える。小野は楽しそうに頷いて聞いていた。
二人で話をしながら五分が経った頃、本田が楽しそうに部屋から出てきた。
しかし、その本田の後ろに続いて出てきた人物が果穂たちの前で本田と一緒に立ち止まったのを見て、果穂は一瞬顔を顰めた。
「ようし、行くか! 今日はこいつらも一緒だ」
「菅野…さんも一緒ですか?」
「おう、人数は多い方が楽しいってな!」
機嫌良く笑う本田が帰りの職員でごった返す廊下を先陣を切って進む。
果穂はその背中を不安そうに見やった。
「ぶはっ。澤井さん、顔に出過ぎ。俺も居るからさ」
「…笹森君は別にいいわよ」
「何だよ。何か不満か」
面白そうに笑い出した笹森とは対照的に、思い切り不満さを露わにした菅野が冷たく言った。
果穂は「いいえ別に」と菅野に負けないように冷たく答えると、小野に声を掛け、足早に本田を追った。
***
「お疲れ様でした~乾杯!」
グラスのぶつかる音が個室に響く。本田が選んだのは果穂が以前よく連れて来られた洒落た居酒屋だった。本田の同級生が営業しているためかとても良くしてもらっている。今も頼んだはずのない料理が、飲み物と一緒に二品ほど運ばれてきたところだ。
本田と菅野、笹森が並んで座り、その向かい側に果穂と小野が座っていた。勿論、果穂は菅野とは対曲線状になるように座ったが、それはそうならないように配慮した笹森と小野のおかげだった。
菅野と果穂は居酒屋に着くまで口喧嘩をしていた。今日の仕事のミスを本田が口にしたのが原因だった。
『今日は大変だったみたいだなぁ、澤井』
『そうなんですよー。ちょっと間違ったくらいで怒鳴り込んできて……』
『大変だったのは俺の方だ。他人のほんの些細なミスで自分の仕事が滞るんだからな』
売り言葉に買い言葉。果穂はこの菅野の言葉を盛大に買い、「神経質!」と言い放ったのを発端に周りの事も気にせずお互いの嫌なところを羅列し始めた。
これにはさすがの本田も笑うしかなく、笹森と小野も苦笑いを堪えきれないまま、後ろで言い合いを終えそうにない二人を置いて早足に店に向かった。
そんな雰囲気を一変させるため、店に着くとすぐにメニューを回し始めた本田が二人に向かってニヤニヤと笑いながら言った。
「お前ら小学校の同級生だったんだろう」
「そうですけど」
嫌々答えた様子で果穂が言う。菅野は無言で酒を飲みながら聞いていた。
「会ってすぐ分かったのか?」
「何がですか?」
「お前ら会うの小学校以来だったんだろう」
「あぁ……」
コップを口に付けたまま、果穂は暫くその時の事を思い出そうとした。
そういえば、入社して最初に会ったのって何処だったっけ……。
酒を二口飲んでグラスを置くと、返答を待っている視線が集まっている事に気付いた。果穂は慌てて答えた。
「覚えてません」
「覚えてないのか?」
「はい」
「わはは! 覚えてないんだとよ。お前はどうだ?」
本田が菅野に聞くと、菅野は心底嫌そうな顔をした。果穂はそれを睨み付けると、まだ誰も手を付けていない軟骨の唐揚げをつまんだ。
「……俺も覚えていませんよ」
「本当か?」
「本田さん、その顔やめてください」
「お前らなぁ~覚えてないわけねぇだろ~」
「そうだよ、本当は覚えてんだろ~」
にやつきながら楽しそうに話す本田に乗せられたのか、笹森も本田の口調を真似て菅野をからかった。笹森は不機嫌なままの菅野を肘で小突いていた。
果穂がそれをじとりとした目つきで睨んでいると、肘をツンと突かれた。
「でも、それじゃあ小学校の時の同級生だってどうやって分かったんですか?」
「あぁ、それは名前聞いた時にね」
がやがやとうるさい男性陣を尻目に、小野が静かに尋ねた。果穂はポリポリと軟骨を頬張ったまま答える。
そうだそうだ、名前を見て気が付いたんだよね。あの時は本当にビックリしたなぁ――。
『菅野……宏彰?』
『……そうだけど』
『あんた……菅野ー!?』
『何だよ』
入社して初めて窓口業務に就いたときのことを思い出す。貸し出しカウンターで提示してもらった社員カードの名前を見て、一瞬凍り付いた。この名前には見覚えがある。それに、顔も見た事があるような気がした。
あの時、一気に小学校時代の憎き想い出が蘇ったのを覚えている。
「あぁ! そういえば……あの時が最初だったかな」
「え?」
「入社して半年ぐらいの時だったかなぁ。カウンター業務を教えてもらってる時、本を借りに来たの。コイツが」
両肘を付いてコップを持ったまま、器用に人差し指で菅野を指差す。本田と笹森もそれを聞いて、小野と三人一緒に「へぇ」と声を上げた。
その視線は果穂が指差した方向――菅野の方へと自然と集まった。肩に回された笹森の腕をどかし、菅野が果穂を見て言った。
「指を差すな」
「何よ」
「気分悪いだろ」
「あーはいはい、すみませんねぇ」
残りの酒を飲み干すと、通路を歩いていた店員を呼び止める。果穂は今飲んでいたサワーと同じ物をまた頼んだ。
「お前ら、小学生の時からそんなんだったのか?」
「はい。勿論です」
きっぱりと言い放つ果穂に本田は苦笑いをした。
「何が原因で?」
「俺には身に覚えがありません」
面白そうに質問をしてくる本田に、菅野は心底うんざりするような表情で答えた。
実際身に覚えが無いのだが、果穂と話していた事は記憶にある。それも殆ど口喧嘩で埋め尽くされた記憶に、菅野はげんなりした。きっとあいつも同じ事を思い出しているだろうと、視界に映った果穂の顔を見て確信した。
「なんていうか……殆ど喧嘩ばっかりでしたよ」
「何何? どんな喧嘩?」
本田に負けず劣らず、にやついた顔をして笹森が聞いてくる。それに困った顔をして見せても、相手は生き生きとした顔を返してくるものだから、果穂は思わず続きを言ってしまった。
「漢字テストです」
「は? え? 漢字テスト?」
「そう。漢字のテスト。朝に毎日やるんです。その後、隣の席の人と交換して採点するんですけど」
ぴくりと眉間が動く。菅野は自分の記憶を探り、その時の事を思い出した。
が、喧嘩していた事は覚えているものの、これと言ってその理由を思い出せない。
――俺が何かしたか?
「菅野って、すっごい神経質なんです」
「へぇ」
「例えば『ここの跳ねがなってない』とか『ここはきちんと止めないといけない』とか、まぁ細かいところ指摘してくるんですよ」
果穂がテーブルの上で指を動かす。漢字の跳ねや止め、払いの箇所をわざとらしく書いて見せる。鉛筆に見立てた指先でトントンとテーブルを叩いて「ここ、払いが甘い」と菅野の言い方を真似た果穂に、本田が盛大に吹き出した。
「お前っ、小学生の頃からっ……そんなんだったのか!」
がははと大きな声でひとしきり笑うと、本田はテーブルに突っ伏した。その隣では笹森も笑いを堪えている。小野は笑ってはいないものの、賛同を求めてくる果穂と怒り心頭の表情の菅野の間に挟まれて困惑している。
「小学生ですよ?しかも三、四年生位だったと思います。そんなところまで見るのかよって毎日苛々してました」
おかげでテストは毎回必ず一問は間違っていたのだと不満を漏らす果穂に、とうとう菅野が反論した。
「あのなぁ、俺はきちんと採点しただけだろ!」
「先生もそんなに細かくしなくてもいいって言ってたじゃん!」
「でも俺が間違ってるとも言ってなかっただろ!」
「みんな満点の中、私だけいつも一門間違ってて悔しかったのよ! 嫌がらせとしか思えませんでした!」
「お前の勉強不足だろ」
「あんたが神経質なのよ」
言い合いの最中、気まずそうな顔をした店員が果穂の頼んだサワーを持ってきた。果穂はそれを受け取るや否や、すぐに半分飲んでしまった。
「お前らなぁ、小せぇ事で昔っから喧嘩してたんだな」
「これはほんの一部で、もっともっと色んな事がありました」
「よっしゃ、言っちまえ!」
「やめてください、本田さん!」
――小さくないっての。こいつと喧嘩ばっかりしてて、私の小学生の時の記憶といったら……。
果穂は残りのサワーも一気に飲み干した。相変わらず本田は二人の小学生時代の話を聞き出そうとしている。便乗して面白がる笹森と本田を止める菅野を思い切り睨んで、果穂は溜め息を吐いた。
「澤井さん、酔いました?」
「え? そんな事ないよ」
「でも、ちょっとボーッとしてません? 顔、赤いですよ」
「そうかな」
店員が空いているグラスを下げに来ると、果穂以外は酒を追加注文した。「私はウーロン茶で」と果穂が小声で言うと、愛想良く店員は立ち去っていった。
はぁ。何で私、こんな奴の事好きだったんだろう……。
目の前で睨み返してくる菅野を見て、果穂はフンッと鼻を鳴らした。
***
「いやー今日は久しぶりに楽しい酒だった」
「俺は楽しくなかったです」
「そんな事言うなよ菅野!」
「お前も調子乗りすぎなんだよ!」
ケラケラと笑いながら、店の前で菅野をからかう本田と笹森。その少し後に出てきた果穂と小野は寒さに身を震わせた。
秋の終わりかけ、寒空はとても澄んでいた。冬が来るともっと夜空は綺麗に見えるのだろうか。暗い空に目を遣って、果穂は目一杯息を吸い込んでから溜め息を吐いた。
「どうした澤井」
「何でもないでーす」
そうおどけて見せたが、顔は火照ったまま、足下も少しふらついている。
ちょっと飲み過ぎたかなぁ。
果穂は軽く頭を振ってみた。この寒さだから、家に着く頃には酔いも醒めているだろう。明日二日酔いになっていませんようにと心配する小野に笑って見せた。
「ようし、帰るか。俺は家が近いからこのまま歩いていく。お前らはどうするんだ?」
「あ、私は電車で」
「俺も」
笹森と小野が答えた後、付け足すように菅野は「俺もです。じゃあ」と言い、さっさと駅の方へと歩いて行ってしまった。
果穂はその背中をじとりと睨んだ後、機嫌悪そうに口を尖らせた。
「何よ、嫌な感じ」
「澤井さんも怒ってるじゃん。澤井さんって、家どっち方面?」
笹森にさらりと指摘されて余計にむくれる。果穂が乗る電車を告げると、笹森は頷いた。
「じゃあ行こうか。本田さん、お疲れ様でした!」
「おう、気を付けて帰れよ!」
酒のせいで暑くなったのか、本田は上着を脱いでいた。足取りも軽やかに去っていく本田の後ろ姿から、わけの分からない鼻歌が聞こえてきた。
残った三人は少し前を歩いている菅野の後に続いて駅へ向かう。果穂は寒さに背を丸めた。
「あいつ、今日はかなり喋った方だよ」
「確かに菅野さんってあまり話さないイメージですよね」
「黙ってればイケメンなんだけどね~。話すと怖いイメージになっちゃうでしょ。損してるよね、あいつ」
「そういえば、菅野さんって結構人気有りますよね」
笹森と小野の会話に耳を傾けても、菅野の話題だと言うだけで話す気が無くなる。どうして自分もここまで苛々しているのか分からない。果穂は適当に相槌を打って二人の話を聞いていた。
「じゃ、俺こっちだから」
「あ、私もです」
「菅野、澤井さんの事ちゃんと送ってやれよ!」
改札口の前、笹森と小野は同じ方向の電車に乗るらしく仲良く手を振って去っていった。笹森の含み笑いに気付かないふりをして二人に手を振る。
面白い事なんか起こらないっての――。
果穂は心の中で呟いた。二人を見送ってから改札を通ると、菅野もそれに続いた。
「あんたもこっち方面なんだ」
「何か文句あるか」
「ないわよ!」
余り人気のないホームで電車を待つ。二列になって待つようにと貼られた地面のテープを見て、どうしようかと少し考えて――先に並んでいる菅野の隣に、果穂は立った。
二人とも何も話さないまま、目的の電車が来る。扉が開いて一人乗客が降りた。その後、二人は中に乗り込んだ。
たまたま空いている座席が二人分あった。その少し先にも一人分の空いている座席があって、また果穂は悩んだ。そうしているうち、菅野はさっさと席に座ってしまった。
こういう場合、隣に座ってもいいの?わざわざ遠くに行って座ったら、私相当性格悪いみたいじゃない……。
結局、果穂は菅野の隣に座る事にした。居心地が悪いけど仕方がない。酔ってる時に立ってる方がしんどいもの、と自分を納得させた。
「お前どこで降りるんだ」
「へっ?」
急な問い掛けに果穂は素っ頓狂な声を出した。周りに聞こえるような声だったため、慌てて小声になる。
「あと二つ先だけど」
「あっそ」
「何よ」
「送ってやる」
「……は!?」
また、変な声が出た。
送ってやるとか、何で偉そうに言ってんのよ、コイツ――!
周りの目が気になるので言い返さなかったが、思い切り拒否してやればよかった――と果穂は後で思う事になる。
『――駅、――駅』
車内アナウンスが流れて幾人か立ち上がる。果穂と菅野もそれを聞いて立ち上がった。
降り立ったホームを並んで歩く。ここでもやはり無言のままで、居たたまれない。
菅野が降りる駅ではないのだから、果穂が道案内しなければならないのだと気付いた。けれど菅野は果穂と並んで歩いた。果穂の歩調に会わせているのか、ゆっくり歩いてくれている。後ろを歩かれるよりはマシか。果穂は仕方なく一緒に並んで歩く事にした。
「悪かったわね、こっちまで来てもらって」
なけなしのプライドを捨てて、一応お礼を言う。棒読みっっぽくなってしまったのは気にしない。
「別に」
簡単な答えが返ってきて安堵する。嫌味の一つでも言われたら、無駄に体力を使う所だ。
果穂の住むアパートは駅から歩いて十分程の所にある。もうあと五分で到着するという所で、果穂は足を止めた。
「ここでいいよ。駅遠くなるでしょ」
いつも寄るコンビニの前で立ち止まると、菅野にそう告げた。菅野は眉間に皺を寄せた。
「すぐ近くなのか」
「うん。あと五分くらいだから、もう本当に大丈夫」
菅野は少し黙ってから、言った。
「別に気にしなくてもいい」
「いや……私が気になるから」
これって、心配されているのだろうか――まさかの返答が返ってきて、果穂は困った。
「一応お前も女だろ。夜道は危ないだろうが」
「は? 一応って何?」
「腐っても女だろう」
「ちょっと! 格下げしてんじゃないわよ!」
悪びれもなく言い放った菅野の言葉に、酔って火照った顔がより熱くなった気がした。
少しは良い奴なのかも……と見直した自分が馬鹿だったと思った。
こんな事なら一人で帰ってきた方がマシだっての!
『黙ってればイケメンなんだけどね』――さっき笹森が言っていた事を思い出す。
きっと菅野のファン――と言っていいのか分からないけど、こんな奴を格好良いなんて言っちゃう人は、きっと馬鹿なのよ!
――だって、私もコイツの事、好きだったんだから! この"顔"に完全にだまされた!
果穂は十数年前の自分を思い起こした。菅野をキッと睨み付ける。やられっぱなしなんて癪だ。
「あんたねぇ……ちょっとモテるからって調子乗ってんじゃないわよ」
「別に調子に乗ってないだろ」
「ったく、黙ってれば良い男ってのにはロクな奴がいないわ」
「は?」
菅野は意味が分からないといった様子で首を傾げた。
言い合いを始めてから数分が経っている。コンビニの前で言い合う男女二人を不審に思ったのか、カップルが不思議そうな顔をして通り過ぎて行った。
「言っておくけどな、お前も黙ってりゃ――」
そこまで言って、菅野は急に口を閉じた。不自然に下を向いた視線を見逃さなかった。
「……何よ」
「何でもない。早く行けよ」
「はいはい。送ってくれてどうもありがとうございました!」
思い切り振り返って、果穂は家に向かって歩き出した。
何なの、もう!ほんとにもう!何なの、菅野の奴ぅ――!
何も無い地面に向かって蹴るフリをする。酔いのせいか、体がぐらついた。うわっ、と声が出て、慌てて体勢を立て直す。
後ろで菅野が見てませんように、菅野が家に帰るまでに一度は転びますように、と祈りながら、果穂は足早に家へ向かった。