ショート集
虫
川中栄一、三十歳。某電機メーカの営業マンである。
「この売り上げ成績はなんだ」
「す、すみません」
「すみませんじゃあ、ないよ。一年間、営業部内でずっと最下位じゃないか。月に百万そこそこの売り上げで、三十万もの給料がよくもらえるな。
ほんとにたいした男だよ、きみは……」
「す、すみません」
「すみませんはいいから。それより、仕事をなんて考えてんだ」
「……」」
「えーっ、どうなんだ」
「……」
「なんとか言ったらどうなんだ」
「……」
「イヤならいつ辞めてもいいんだ。うちの会社は慈善事業じゃないんだからな」
栄一は布団にくるまりながら、部長の怒った顔を鳥肌のたつ思いで回想していた。
「まったくイヤなヤツだ」
同時に彼は、営業部内の壁に高々と掲げられた月ごとの個人別売り上げ表を思いだし、
「それにしても情けない。売り上げさえのびれば、毎日叱られなくてすむのに……」
暗やみの中で、自己嫌悪が回り燈篭のように回転を始めた。
眠れないままに、たばこを吸おうとうつ伏せになり、蛍光灯スタンドのスイッチをひねった。
月の光も差しこまない殺伐とした部屋の中は、目覚まし時計の秒針を刻む音だけが、やたらと耳をうつ。
そのときだった。
灰皿の中でうごめいている灰褐色の小さな虫が突然目に入った。吸い穀を伝い、外に出ようと懸命に身をよじらせている。
「不憫なやつだ」
たばこを吸い終わると、明かりを消し、ふたたび仰向けになった。
目覚し時計の音に混じって、今度は、灰皿の中で懸命にもがいている虫の音が気になってしかたない。
彼は動きをとめない虫の騒々しさと、姿態の醜さ、それに灰皿から出ることもできない虫の弱々しさに、ある種の嫌悪を抱いた。
腹ばいになると吸い穀を指でつまみ、一気に灰皿の虫に押しつけた。
虫はブチっと音をたて、水気を失った灰色の死骸が吸殻にくっついたまま、あとに残った。
「こんなもの、目障りだ。チクショウめ」
彼は灰皿を隣の部屋に押しやると、ふすまを閉めた。
翌朝、目覚まし時計のけたたましい音で目を覚まし、隣の部屋に押しやった灰皿の中を覗き込んだ。
昨夜、睡眠を妨げた虫が気になったからである。
しかし、虫の姿はどこにもない。たばこの吸い穀で押しつぶしたはずなのに……。
便器にまたがり、顎を掌の上に乗せながら考えた。
「ああ、あれだ!」
突然、膝をたたいた。かって学生時代に読んだドイツの精神分析学者・フロイドの「夢判断」を思いだしたのだ。
精神分析の創始者フロイドはその中で、夢による「願望の充足」と「夢の検閲」を説いている。
私たちは現実の生活の中で、心の奥底の願いごとを抑圧している。無意識のうちにだ。ところが眠りに入ると抑圧力が弱まり、潜んでいた願望が急に頭をもたげるという。
その夢なるものの内容が仮に反人間的なものであった場合、「夢の検閲」、すなわち夢に出てくるものが現実とすりかわって登場するという。
おそらく栄一は、あの弱々しい昆虫を殺すか殺すまいか、思いあぐねているうちに眠りについた。そのため、虫は灰皿から無事脱出することができたのだろう。
炎暑のさなか、駅へ急いだ。パンを口にはさんだままである。
発車のベルが鳴っている。
階段を掛け登ると、閉まりかかった電車のドアにぶつかるように車内へ飛び込んだ。そばに立っている何人かの乗客が冷めた目で、こちらを見つめている。
中は足の踏み場もなかった。
ひと駅、ふた駅を通過して、多少気持ちも落ち着いたとき、乗客の表情も心なしか、疲れと苛立ちの混じっているのを感じた。
どこへも逃げられない客車という限られた箱の中で、窓へ頬をこすりつけるようにして、流れる町の景色をぼんやりながめた。
そのときだった。
部長の顔が中空の一点に浮かんで、一瞬、身を堅くした。
きょうもまた、あの部長の顔をみて、同じ説教を聞かされて……。
「あーあ」
流れる風景に向かって長い、長ーいあくびをした。
えっ、昨夜のあの醜い虫ですか?。
ああ、……。あれはフロイド流にいうと、「夢の検閲」にかかった、部長というより、栄一自身じゃなかったんでしょうか。
花いちもんめ
♪ お花ちゃんが欲しい、花いちもんめ
勝ってうれしい、花いちもんめ
子供たちの笑い声が蝉しぐれに混じって、境内に響く。
「あれえ。お民ちゃんだけ、また、一人になってしまった」
一人の子が笑いながら言った。
じゃんけんで勝つと相手方から皆の気に入った子を一人、味方へ入れることができる。お民だけがひとりになるということは、それだけ皆からあまり好かれていないということだろうか。それも毎日のことである。お民は泣きだしそうな顔で、遠くの山を見やった。
♪カラスが鳴くから帰ーろ
山間の日の入りは早い。足もとに夜気が這いだしたかと思うと、たちまち辺りは暗闇に包まれてしまう。
「また、あした遊ぼう」
「また、あしたね」
それぞれにあしたの約束を交わしながら、皆、家路を急いだ。
お民ひとりが、境内に残された。彼女は家路につく仲間を、狛犬の陰からじっとながめた。夕日が皆をだいだい色に包んでいる。
蝉しぐれもいまはやみ、夕闇迫る森閑とした境内に戻ってきたカラスの鳴き声が、夕日と陰の合間に吸い込まれるように響いている。、
お民は、家族や両親に暖かく包まれながら食卓についている仲間のことを思い描いていた。
そのときである。背後の社の方からお民に声を掛ける者があった。
「どうしたの。元気だしなさいな」
最初、お民は驚いた様子で呆然と立ちすくんでいた。が、突然社へ向かって走り出した。
「お、おかあさーん」
「ほら、涙をふいて」
お民は母に取りすがって泣いた。
「おなか、すいただろう」
半分朽ち落ちた社内の薄暗い片隅になつかしい父親の姿があった。目を細め、お民の頭をなでながら、大きな団子を彼女に手渡した。
「おとうさん、おかあさん、ひとりぼっちは、もうイヤーっ」
お民は両親のふところに飛び込んで力いっぱい泣いた。
「もう、ひとりになんかしやしないから安心しなさい」
「きっとよ」
「もちろんだとも」
「じゃあ、おとうさん、おかあさん。指きりげんまんしよう」
♪嘘ついたら、針せーんぼん。
おとうさん、おかあさんの山のように大きな胸、海のように広くて深い愛情に包まれ、お民の顔から笑みがこぼれた。お民は時がたつのを忘れて遊んだ。
「お民、いっしょうけんめい遊んだから、疲れた」
「よーし、よーし。とうさんとかあさんの胸で、ゆっくりおやすみ」
やがてお民は両親に抱かれたまま、深い眠りに落ちていった。
どのくらいたっただろうか。目のまえが突然、明るくなった。
目を開くと、暗闇の中に松明の炎がヌラヌラと揺れ、炎の向こうからお民の顔をにらみつけている男がいた。たいまつの炎が男の顔の陰影を深くし、仁王に似た形相をさらに恐ろしいものにしている。
お民は思わず、悲鳴をあげた。
「馬鹿たれが。手伝いもせんと、こんなとこでなにしてた」
仁王立ちになった男が、お民の襟元を激しくつかみ、左右に激しく揺すった。
「叔父さん、ご、ごめんなさい。ゆ、許してください」
お民の悲痛な声を押さえつけるように、男はお民の顔を何度も床に強く押しつけた。
「おとうさーん]
「おかあさーん」お民は心の中で、激しく両親に叫んだ。
このままではお民がかわいそう。その後のお民について、多少、ふれたいと思います。
二年後、叔父が酒乱で泣くなり、お民は村長の家に引き取られます。
両親に先立たれても決していじけることのないやさしさを見そめられ、村一番の長者の息子に嫁いでいきます。しっかり者でやさしい婿も彼女をいたわり、やがて彼女は貧しい人たちに衣食を与え、皆から慕われる人間へと大きく成長していきます。
しかし、いいことばかり続きません。
結婚して三年にして、婿は肺炎を患い他界してしまいます。婿の死で一時は気落ちし、やせ衰えていきます。
そうしたある日、お民は家族に相談し出家します。
同時に医師としての勉学にも励み、尼として、また医師として、村人はもちろんのこと、まわりの人々にために尽くし、その生命を絶つまで奉仕していきました。
かくれんぼ
暑い日が続くある日の夕暮れどき、遠くから聞こえてくる子供たちのはしゃぎ声を耳にしながら、布団の中でうつらうつらしていた。
灰色にかすむ、夢か幻かはっきしない子供のころの記憶が、ほどよい心地でぼくを包んでくれる。
♪もーう、いいかい まーあだだよう。
もう、いいかい もういいよーう。
ぼくは両目を覆った手をパッと開き、蜘妹の子のように散らばっていった仲間を探そうとして、呆然となった。なにもかも、いままでとことごとく異なっているではないか。木々の中に隠れるようにして立っていた鎮守のやしろも、眼下に一面に広がっていた畑や、いまは刈り取られてなにもない田。それらはすっかり消え去り、代わりに、コロニアルっていうのか、原色の屋根をもつ家々が所狭しと軒を並べている。
ぼくは両親や妹が侍つ家を、それこそ必死になって探しまわった。しかし、わが家はどこにも見当らず、とうとう袋小路にぶつかってしまった。
「すみません。ぼくの家、赤レンガ造りの家で、たしかこの辺りにあったと思うんですが、知りませんか?」
五十前後の太鼓腹をした男は、「こいつ、少し、頭、おかしいんじゃないか」というような顔をしながら、ガレージの中へ入っていった。
無理もない。自分の家を尋ねる方が悪いのだ。しかし、顔も名も知らない人間に尋ねなければならないまでに、追い詰められていた。
今度は大学生風のほっそりした人に尋ねた。
「ああ、赤レンガ造りの西洋館みたいな家ね。それだったら、向こうに見えるあの山ネ、あの麓近くにあったと思うよ」
ぼくは教えられたままに、山に向かって舗装された道を半信半疑で歩いた。
「以前は舗装などされてなかったのに……。ほんと、あんな所に自分の家があるのだろうか」
一時間あまり、やっとのことで赤レンガ造りの家にたどり着いた。しかし、大きな建物は自宅どころか、病院で、入り口の看板には「精神神経科」と記されてある。鉄格子がはまった窓からトローンとした目の人が二、三人、こちらを見つめている。
元の場所に引返すことにした。
「おばさん。ぼく、自分のウチを探してるんです。赤いレンガ作りの小さな家です。たしか、このあたりにあったはずなんですけど……」
恐る恐る尋ねた。が、キリギリスのようにやせて神経質そうな女性は、ぼくを一瞥し、
「知らないね」車のドアをバタンと閉め、排気ガスを顔に吹きつけながら立ち去った。
と、そのとき、道の反対側から一人の太った老婦人が歩いてきた。見覚えがあった。近くのおもちゃ屋のおばさんであった。
「おばちゃーん」
ぼくは走っていって、おばさんの手を握りしめた。
「ぼくの家が分からないんだ」
「だーれ?、あんた」
おばさんは握った手を、冷たく振りほどいた。
「ぼく、ぼく、ヨシオだよ。いつもおもちゃを買いにきていた西村好夫だよ……」
「うちはおもちゃ屋なんかじゃないわよ。これからファッションショーに行くの。急ぐから、またね」
おばさんはおもちゃ屋さんと聞いてプライドを傷つけられたように表情を硬くし、肩にぶら下げたタヌキのぬいぐるみのようなものを誇張するように右手で左右に振り、道の先に停めてあった大きなクルマに乗った。
悲しかった。まるで、竜宮城から戻ったばかりの浦島太郎であった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。何か悪いことでもしたというのだろうか。
そういえば、思い当る節がないでもなかった。皆とかくれんぼをするうちに、隣に住む目立ちたがり屋の田津おばさんに道ですれ違った。本来ならおばさんに、
「おめでとうございます」っていうのが礼儀だろう。だけど、ぼくは知らん顔をしていた。
田津おばさんとこの吉男くんは三日まえ、全国作文コンクールに入選していた。そのコンクールにはぼくも応募していた。しかし、ぼくは落選してしまった。
悔しかったから知らん顔をした。そのため、バチが当ったのかも知れない。暮れなずむオレンジと灰色の雲の混じった複雑模様の空を見つめながら思った。
「文ちゃんごめんね。ぼく、すなおになれなかったんだ。その代わりといっちゃなんだけど、今度、文ちゃんが作文の他に、ハーモニカが上手だってこと担任の吉田先生にこっそり知らせてあげるけんね」
瞳からこぼれる大粒の涙と鼻水を、両手でズルズルこすりながら、両親の待つ家を探して、さらに歩いた。
西の山の端に傾いた太陽も光を失い、夜気が足もとから次第に迫ってくる。家の窓からこぼれる楽しい笑い声が、いっそうぼくを孤独にした。小路にぶつかっては引き返し、引き返しては、ふたたび袋小路にぶつかった。
どうしてよいか分からない。とうとう、ぼくは道端にしゃがみこんでしまった。
そのときだった。視界がにわかに開け、まっ黒にふれあがった大海原が突然、目に飛び込んだ。ぼくは、しばらく沖をながめていた。海は黙して、悲しさも不安もことごとく遠く彼方へ運び去ってくれるようであった。
遠くで二、三、イカ釣り漁船の灯りに似たものがチラチラ輝いている。少しずつだが、こちらへ向かってくるようでもあった。「なんだろう」
目を凝らしていると、漁船のような灯りは岸に向かってさらに近づいてくる。
やがてそれは、ぼくが立っている岸辺からわずか数十メートル離れた岩に、ゆっくりと舷側を寄せた。
しばらくすると、どこかで、だれかがぼくに声をかけた。やさしい声である。
「もういいよー」
その声に、ぼくはカクレンボをしている気持ちになった。振り返って、声の方を見つめる。
「あ、な、た」
リズミカルな声は妻であった。彼女は微笑みながら砂浜の上に立っている。ぼくはいままさに、玉手箱を開いた瞬間の浦島太郎だった。
「もう、いいよ」
しばらして、暗闇の中から娘が現れた。続いて息子と末の娘が……。ぼくは三人の子供をしっかり抱きしめた。
漁船が放つ明かりのようなものは、いまはすでに波間にはない。東の空が次第に白んでくる。
ー 完 ー