駅弁のクリティカルパス
東海道新幹線のぞみ号の車内は、平日の午前中特有の、妙に張り詰めた空気に満ちていた。
私は、基本的にはスマートなビジネスパーソンでありたいと願っている。だが、今の私の姿はお世辞にもスマートとは言い難かった。パンパンに膨らんだナイロン製のボストントートを座席上の荷物棚に放り投げたせいで、左肩がバキバキに凝っている。キャリーバッグを転がす軟弱なビジネスパーソンにはなりたくないという、私のちっぽけなプライドの代償が、この鈍痛だ。
窓側のA席に深く腰掛け、シートピッチの狭さに小さく息を吐く。今回の目的地は名古屋。クライアントの基幹システム刷新プロジェクトが、現在進行形で盛大に炎上しかけていた。複数の開発タスクが並行して走り、現場のリソースは完全に枯渇している。どこにバッファを設けるべきか、どの順番で処理すべきかという「工程管理」と「リソースの最適配置」の難題が、私の脳内メモリを限界まで圧迫していた。
せめて、名古屋に着くまでの時間は無心になりたい。
私は品川駅のホームで滑り込み購入した、黄色いパッケージの折箱をひざの上に載せた。崎陽軒の「シウマイ弁当」。関東のビジネスパーソンにとっての、絶対的なセーフティネット。これさえあれば、どんな過酷な出張も乗り切れる気がする。
お馴染みの赤い紐に指をかけ、まさにそれを解こうとした、その時だった。
「失礼。通路側のC席をもらおう。君は真ん中のB席だ」
聞き覚えがありすぎる、低く、無駄に通りが良い声が鼓膜を叩いた。
私の指がピきりと止まる。恐る恐る視線を上げると、そこには紺のジャケット、仕立ての良い白いシャツ、そしてノーネクタイという、いつもの「あの男」が立っていた。そして、その隣のB席には、完全に目が死んでいる――しかし、どこかその状況に慣れきった風情の――若手社員が、借りてきた猫のように滑り込んできた。
なぜだ。なぜ、この広い関東・東海平野を時速二百七十キロで疾走する鉄の塊の中で、三人掛けの同じ列にジャスト配置されるのか。確率論の神様を本気で呪いたくなった。
先日の立ち食いそば屋の一件で、私は彼らに「顔」を認識されている。ここで声を出すのはリスクが高すぎる。私はシウマイ弁当のパッケージを盾のように胸元に掲げ、徹底的に気配を消し、窓の景色と同化することを決意した。
しかし、私の祈りは虚しく、男の「ビジネス解剖論」の幕が上がった。男と若手社員の手元にも、まったく同じ黄色いパッケージが握られていたのだ。密室での、逃げ場のないトリプル・シウマイ弁当。私の胃壁が緊張でキリキリと鳴り始めた。
「いいか、よく見なさい」
男は美しい所作で紐を解き、木の蓋を開けながら、隣の若手社員に語りかけ始めた。声のボリュームは新幹線のアナウンスにかき消されない絶妙なラインだが、A席の私にはステレオ音響のようにクリアに届く。
「駅弁というものはね、単なる移動中の食事ではない。限られたリソースの最適配置における、ひとつの完成形なんだ。まず、この経木の折箱を見なさい。これこそが優れた『インフラ設計』だ」
男は箸の先で、空になった蓋の裏をトントンと叩いた。
「プラスチックの容器を使えばコストは下がる。しかし、それではご飯から出る水分がこもり、ベチャついてしまう。この天然の木材は、余分な水分を吸収し、冷めても米のコンディションを常に最適に保つ調湿機能を備えている。いくら上に乗るコンテンツ――つまりおかずが優秀であっても、基盤がグラついていてはビジネスは成立しない。崎陽軒は、このインフラに投資し続けているんだ」
(ただの伝統的な折箱でしょうが……!)
私は心の中で激しくツッコミを入れながらも、自分の弁当の蓋を開けた。経木の香りがふわりと鼻を抜ける。確かに、男の言う通り、米粒は一粒一粒が美しく独立し、最適な水分量を保っているように見えた。
男の講義は、さらに核心へと進む。
「次に、このご飯の配置だ。最初から八つの区画にセグメントされ、黒胡麻と小梅が配置されている。これはプロジェクトマネジメントにおける『タスクの細分化(WBS:Work Breakdown Structure)』そのものだ。一気に食べ進めるのではなく、一口ごとに進捗を確認できるよう設計されている。全体を一塊の『大きなタスク』として捉えるから、現場は途方に暮れるんだ。このように適切な粒度に切り分けることで、人間は無理なくプロセスを完遂できる」
若手社員は、死んだ魚のような目で、しかし懸命にメモを取るかのように頷いている。
私は自分の弁当の、俵型に成形されたご飯を見つめた。……確かに、美しい。そして私の脳裏に、午前中に作ったクライアント向けのスケジュール表が浮かび上がった。「システムテスト」という巨大なタスクを、私は雑に一枚のガントチャートに配置していなかったか。だから現場のリソースが足りないと騒ぎになっているのではないか。
(いや、待て。私はなぜ、新幹線の車内で赤の他人の蘊蓄をベースに業務プロセスのリ省察を始めているんだ)
頭を振って雑念を払おうとしたが、男のバリトンボイスは容赦なく私の脳内メモリをハッキングし続けた。
「そして、この弁当のコアコンピタンス、シウマイだ」
男が、主菜であるシウマイを一つ、箸で持ち上げた。
「冷めても美味い。豚肉と干帆立貝柱の旨味が凝縮されており、温め直す必要がまったくない。これは、ネットワークが切断されたオフライン環境でも、単体で高いパフォーマンスを発揮する『エッジコンピューティング』であり、システムの『堅牢性(耐障害性)』だ。環境や外部要因に依存しない圧倒的なコア機能。これがあるからこそ、他のどんな駅弁が攻め込んできても、この牙城は崩れない」
(エッジコンピューティング……フォールトトレランス……)
私は、口に運んだシウマイを咀嚼した。帆立の旨味がじわりと広がる。美味い。確かに、温かくないのにこれだけ美味いのは、一種の異常事態だ。どんな劣悪な環境でもスタンドアロンで駆動する堅牢なシステム。私の目指すべきアーキテクチャが、今、私の口腔内で咀嚼されている。
しかし、男の話はそこで終わらなかった。男の箸は、シウマイの横に鎮座する、茶色いエリアへと向かった。
「だがね、このプロジェクトにおいて真に賞賛されるべきは、主菜であるシウマイではない。この、四角く刻まれた『筍の煮物』だ」
若手社員が、少しだけ目を見開いた。「筍、ですか?」
「そうだ。見なさい、この圧倒的なボリュームを。シウマイの引き立て役にしては、やたらと量が多く、どこを箸でつついでも出てくる。これはプロジェクトにおける『バッファ(余裕リソース)』であり、現場のトラブルや急な仕様変更をすべて泥泥になって吸収してくれる『ミドルマネジメント』そのものなんだ。主菜が輝く陰には、常にこの筍のような、泥臭く機能するバッファが存在する。この筍の量が減った時、この弁当というプロジェクトは崩壊するだろう」
若手社員は、何かに救われたような顔をして、筍の煮物を口に運んだ。
「……ミドルマネジメント、ですか。染みます」
「だろう? では、そこの『マグロの粕漬け』はどう定義する?」
男が若手に問いかけた。若手は少し考え、おずおずと答えた。
「ええと……メインではないけれど、味の濃いアクセント、でしょうか」
「不合格だ」
男は一刀両断にした。
「それは『唐突な仕様変更』だ。少し身が乾いていて、全体の調和を乱しそうに見える。しかし、味が濃い。これを途中で挟むことによって、全体の進行に刺激という名のアクセントが生まれる。仕様変更をただの障害と捉えるうちは二流だ。それを全体のスパイスとして機能させてこそ、一流のマネジメントと言える」
(マグロが、仕様変更……!)
私の箸が、マグロの粕漬けの前で止まる。確かに、シウマイ弁当の中でマグロの粕漬けは、少し異質な存在感を放っている。これを「仕様変更」と捉える男の狂気的なポジティブシンキングに、私は恐怖すら覚えた。しかし、口に入れると、その塩気と粕の香りが、次のご飯への推進力になる。……癪だが、ロジックが通っている。
「では、部長。この『あんず』はどうですか?」
若手社員が、自発的に質問を投げた。男の教育の成果が、こんなところで結実している。
男は満足げに、低く笑った。
「いい質問だ。あんずをいつ食べるかは、プロジェクトにおける『撤退戦略』の縮図だ。最初に食べる者は、リスクヘッジを急ぎすぎて全体の果実を味わえない。最後に残す者は、余韻に浸りすぎて次のフェーズへの移行が遅れる。主菜と副菜をバランスよく消化し、口の中が脂っぽくなった中盤の終わり――ここで投入してこそ、最も美しいフェーズ移行、すなわち『リフレッシュ』が完了する。君は、自分のクロージングのタイミングを間違えるなよ」
若手社員は、深く、深く頷き、あんずを見つめていた。
私は、自分の弁当の隅にある、オレンジ色のあんずを見つめた。
私の担当しているプロジェクトは今、どのフェーズにあるのだろうか。まだ中盤だ。脂ぎった現場のトラブルに塗れている。ここで安易にあんずに手を伸ばしてはいけない。すべてのタスク(ご飯)とバッファ(筍)を適切にコントロールしたその先にこそ、美しいクロージングがあるはずだ。
私は無言で、筍の煮物を口に放り込んだ。甘辛い味が、今の私の疲れた脳に、驚くほどダイレクトに染み渡っていった。
『まもなく、名古屋です。お出口は、右側です』
車内アナウンスが流れ、現実へと引き戻された。
私はすでにシウマイ弁当を完食していた。驚くべきことに、男のビジネス講義をBGMに食べていたせいか、いつも以上のスピードで、しかし完璧な時間配分で箸が進んでいた。
席を立つ準備を始める男と若手社員。通路側の男が、ふと私の方を振り返った。
その瞬間、彼の切れ長の目と、私の目が真っ向から合った。
男は、フッと優雅に口元を綻ばせ、私の空になった弁当箱に視線を落とした後、言った。
「お先に。午後も、素晴らしいアロケーションを」
私は心臓が跳ね上がるのを感じながら、引きつった笑顔で、コクコクと小さく会釈を返すことしかできなかった。男と若手社員は、スマートな足取りでデッキへと消えていった。
二時間後。
私は名古屋のクライアントの会議室で、ホワイトボードの前に立っていた。
机を囲むクライアントの役員や現場リーダーたちは、リソース不足とスケジュールの遅延について、険しい表情で議論を戦わせていた。
「とにかく、今の状態ではどこから手をつけていいか分からないんだ。人員を増やしてくれと言っても、予算の承認が下りるまでに時間がかかるし……」
現場リーダーの溜息混じりの言葉を聞いた瞬間、私の脳内で、新幹線の車内でハッキングされたロジックが、驚くほどの流暢さで展開を始めた。私はマーカーを握り、ホワイトボードに勢いよく線を描いた。
「皆さんの仰る通り、現在のプロジェクトは巨大なタスクが一塊のまま放置されています。まずはこれを、適切にセグメント化……そう、一口サイズのご飯のように『タスクの細分化(WBS)』を行う必要があります」
会議室の空気が、わずかに変わった。
「その上で、各工程の合間に、現場の突発的なトラブルをすべて泥泥になって吸収してくれる、十分な『バッファ』を埋め込みましょう。この泥臭いミドルマネジメント的なリソース枠をあらかじめ確保しておくのです。そして、外部の予算承認や環境の変化に依存せず、オフラインでも単体で高いパフォーマンスを発揮する、いわば『堅牢なシステム(エッジコンピューティング)』をコアとして構築します。唐突な仕様変更が来ても、それを全体のアクセントとして機能させるだけの設計基盤――これらを適切なアロケーションで配置すれば、このプロジェクトは必ず完遂できます」
沈黙が会議室を支配した。
私は、自分が何を言っているのか、途中で少し怖くなった。「ご飯」とか「泥泥」とか、口が滑らなくて本当に良かったと冷や汗が出た。
しかし、次の瞬間。
「……素晴らしい」
最前列に座っていたクライアントの常務が、深く頷きながら、ぽつりと言った。
「まさに、我が社が求めていたアーキテクチャだ。タスクの細分化と、それを支える強固なバッファ。そして環境に左右されない堅牢性……。非常にロジカルで、腑に落ちました。よし、この方針で進めましょう!」
パチパチと、会議室に拍手が沸き起こる。現場リーダーたちも、先ほどまでの絶望的な表情から一転し、希望を見出したような目で私を見つめていた。
「さすがはプロですね」
その言葉に、私はビジネスパーソンとしての誇りを満たされつつも、胸の奥で得体の知れない敗北感が広がっていくのを感じていた。
帰りの新幹線。
私は再び、重いボストントートを座席の足元に置き、ノートPCを開いていた。左肩の凝りは、不思議と少し軽くなっている。
今日の議事録と、次フェーズへの提案書の作成。
私は画面の最上部に、本日クライアントを大絶賛させた提案のタイトル案を打ち込んだ。
【堅牢なリソース配置による工程管理改革案】
ブルーライトに照らされた画面を見つめながら、私は車内の誰にも聞こえないほどの、ごく小さな小声で呟いた。
「……筍は、ミドルマネジメントじゃないからな」
それだけは、私の中の、ちっぽけなコンサルタントのプライドとして、絶対に譲れなかった。




