春風のゆく先へ、文字を飛ばせたら
物書きにとって、誰のために書くかとか何のために書くかとかいうのは、大きな執筆理由になりうる。
例えば、
昔に夢みた・考えると胸が熱くなった、人類の調和と可能性。悪のなかにある正義。それらに立ち向かう正義の対立と答。
他にも、生きるとは何かとか、息を吸える奇跡とはどういったことであるかとか……。
昔は、書く題材がたくさんあった。
書きたいと思える心が、どこかから湧いてきた。
人の持つ、底力のため。
人の命の持つ、可能性のため。
人の心が持つ、豊かさのため。
そんな賢ぶった理由だ。
しかしながら、今という時代を生きていて、それらの軸がぶれている。
人は案外脆く愚かで救いようのない者だ。大切なものを多く失いながら、なんとか生きるために椅子取りゲームをして過ごしている。ルールなんて有ってないようなもので。
約束も、果たされぬまま言葉だけが消えてゆく。正しさも、自分の頭で考えることができない。
何が文殊の知恵だ。
そう言う私だってそうだろ……と。
もし作品で描くのならこの気持ちであるのか? と考えもするが、あまりにもリアリティに満ち溢れていて、気持ちが悪くなる。
だからといって、強引にハリボテのファンタジーをくっつけたところで、鼻で笑われるだけだ。
その証拠に、私自身が私の作品に介入(感情移入)できなくなってしまったのだから。
これはきっと、作者としての心が死んでしまっているのだろう。
しかしながら、まだ物語を描く希望はある。それは決してこの世の風刺などではない。
とても自然なカタチで『ちいさな美しさを知る者』を描くことだ。
ただ、これはわざとらしくても興ざめする。
正義も悪も、疲れた。
もう関わることさえしたくない。
現実とはなんとも滑稽で醜いものなのだ。
被害者面をするようで悪いが。そう考えている私にも、少なからず『見えている美しさ』がある。
それは、仕事の帰り道の梅の花。
私が最近見つけた、ちいさな美しさだ。
誰かが手入れをしていたのだろう。支柱のおかげで真っ直ぐきれいに伸びている。
花は季節と大地と風のことしか知らないように見える。ただ咲くことに一生懸命で、もしかしたら自分が美しい花で「梅の花」と呼ばれ親しまれていることも知らない。
影だってそうだ。
姿あるものに必ずつきまとい、命絶えて無くなるまで、ずっとずっと、懸命についてくる。
影のない世界は、きっと不安定で目に悪い。それに、確実にその者が存在していることを知らせてくれる。
この世でハッキリと醜いと言えるものは『私が醜いと思える範囲の人の悪意』であって自然そのものではない。これはどんな時代になっても変わらない普遍のことである。そう思う。
何のために書くのか。誰のために書くのか。その答は、決して人にだけ向けるべきものではなかったのだ、と。
心情を吐露する芸術に疲れてしまったのなら、自然を謳えばいい。自然は、常に人の側にあり、常に人に問い掛けている。
「そこにいるんだね」
「私もね、ここに居るんだよ」
「不思議だね、またあえたらいいね」
どこまでも純粋で、当然のように或る自然。それは、人の想像力を回復するよりも先に、人の心を深く癒すことだろう。
──風が吹く。
揺れる梅の花。
振り返れば影が動く。
春風の辿った道のゆく先を、私は描きたいなぁ。




