小指の爪
ぼくは、今日も夢想する。
彼女の爪の、黒い理由を。
何がどうというわけではない。特になにがあるわけでもない。
けれどどうしても気になって仕方がない、そんなことはないだろうか。
ぼくは最近、そのようなことで頭が占められている。ぼくのクラスの女子の事だ。
女子、という単語からして、その女の子に対する艶っぽい響きの感情を想像するかもしれない。しかし、ぼくの場合は残念ながらそのようなことではなかったのだ。
しかも実際、気になっているのは、彼女というわけではない。
彼女の指、正確に言えば彼女の左手の小指の爪の色、なのだから。
みっしりと詰め込まれた時間割が、青春とか、二度と戻らない貴重な時間だとか言われているものを容赦なく消費してしていく。同級生達は嘆くように不満をぶちまけるけれど、ぼくはそれに対して、そんなに嫌だとは思っていない。仮に自由を与えられても、何をしていいのかまったく分からないからだ。遊んでばかりでは小遣いが底を尽きるし、稼ごうにもバイトで雇ってもらえても十分な額を稼ぐには難しい年齢だ。不満を少し混ぜながら、限られた時間友人と遊ぶほうが、きっと自分には向いているのだろう。
そんなことを思っていたら、不意にぼくは今ぼくが置かれている状況を思い出した。
どうやら何時の間にか学校に来ていて、何時の間にか数学の授業を受けている。当たり前のように自分の目の前に広がるノートを見つめて、いささか呆然とした。朝どうやって学校に来たのか、よく思い出せない。疲れているのだろうか。今日は一時間多めに寝ておこう。
数学の教師が、朗々と数式の解き方を語る。それは生徒にとっては難しくて面倒で、時間の浪費のように思われる。卒業しても使わないだろう、などと嘯いて見せたこともあった。青いことをしたものだ、と言ってから大して時間のたってないぼくは思う。役に立つたたないではなく、学ぶことに意味があるのだ、と言った方がかっこよかったなあ。とりあえず、社会に出ることもできない幼い時期だ、やることがあるだけ幸せだと最近は感じている。この感覚も、たぶん明日になったら変わるんだろうけれど。そんなものだ、人間の感覚なんて。
前の方の座席に座る友人の寝顔を見ながら、ぼくはひとつつられたような欠伸をする。五時間目の授業というものは、腹が満たされて陽射しが柔らかいせいか、非常に眠い。最近席替えをして、春の日差しが降り注ぐ窓際を獲得したものだから、尚更だった。
ぼくは、そこそこの眠気を振り払いながら、ぼんやりと、けれど妙に冴えた頭で、密かな楽しみをちらりと横目で捉えた。
つい先日の席替えで、ぼくの右隣になった彼女である。長い黒髪と、陶器のような白い肌に、何かがこそぎ落されたような不完全な美貌を持つ、同い年の女の子。いや、もはや女性と言ってもいいだろう。女の子、というには些か雰囲気が老成しすぎている。老成、という言葉を使ってみたかっただけだから、彼女が老けているということではない。つまりは、それほど彼女が大人びている、ということが伝わってくれればいい。
勿論ぼくが視線をやったのは、彼女の美貌に見とれる為ではない。間違いのない美少女ではあるものの、彼女の持つ美しさはあんまりぼくの琴線に触れない。好みではないのだろう。おそらくは。甘酸っぱい初恋の女の子を思い浮かべても、もっとほんわりした女の子を想っていたように記憶している。
そんなことはどうでもいいのだ。とにかくぼくの目的は、彼女の左手の白くて長い指、詳しく言えば、その小指の爪の色である。
黒いのだ。
全ての爪が黒いならば、マニキュアでも塗っているのかと思い、別にどうと言う事もない。しかし小指の、しかも左手の爪だけ、真っ黒に塗られているのだ。右手もそうなのかと思って確認してみたが、右手は全く綺麗なままだった。
最初は、爪が割れて再生する、その黒さかと思っていた。それならば片方だけ、ということも納得できる。けれど、いつまでたってもその爪は黒いままで、更にその色が爪が死んだ時の黒とは全く違っていたので、その説は諦めざるを得なかった。
ずっと疑問に想っていたが、多分新手の呪いか何かだろうと納得した。女子という生き物は、ジンクスやお呪いという類を好んで行うはずだったから。朝のニュースの運勢で一喜一憂できてしまうような生き物だったはずだから。
同じ人類なのに、よくわからない根拠で嬉しがったり喜んだり怒ったり泣いたりするのだ。小指の爪を黒くするくらい、なんてことはないだろう。自分が良く知らないことではあるけれど、それくらいしか思いつかないのだ。
けれど、隣に座る彼女が、そんなことに興味あるように思えない。だから、なんだか妙に気になってしまう。すんなりした指に収まる、黒い黒い、その一点。
そこまで考えて、ふと元に戻していた視線を隣に座る彼女の爪に再び向ける。彼女は右利きなので、ノートに添えられた左手の小指が、あまり動くことはない。左に座っているぼくに、ぶれることなくその黒をとてもよく見せてくれた。
艶の全くない黒が、彼女の細い指の先に、ぽつんと収まっている。暗くて、とろりとした、これこそ本当の黒なのだろうな、と思えるくらいの美しい黒で、ぼくはとても嬉しくなる。うっとりと、ぼくはその爪を見つめた。もはやそれは習慣になっている。
黒という色は、なんだかとても魅力的だ。驚くほど、様々な色との相性がいい。悪い色なんてないんじゃないだろうか。すべてを包み込む黒。
その黒の理想を体現したような小指の爪。とてもとても美しい。
と、ふいに彼女はちらりと、ぼくを見た。視線に気付いたらしい。欠落した美貌は、どこか人間らしくなく、柔らかく微笑んでくる。ぼくはぎこちなく微笑み返した。
微笑むことは意外にぼくにとって、難しい。友人には馬鹿笑いするやつだ、と思われているかもしれないが、事実心底面白くて笑ったことはあまりないのだ。ぼくは、あまり感情の起伏が本当は激しくない。こと、笑うということに対しては、本当に鈍い。なので、彼女に微笑み返す自分は不自然ではないかと、内心冷や冷やしていた。
しかし、そんなぼくの心配は杞憂と終わり、偶然視線が合ったと思ったのだろう、何事もなく、またノートに視線を戻していく。まさか、自分の爪に見惚れていたとは考えなかったらしい。当たり前である。ぼくは、ほっと溜息をついた。
ふと気付いて黒板を見ると、何時の間にかみっちりと文字が書かれていた。えらく進んでいる。ぼくは爪を見ることを諦めて、とりあえずノートに書き写す事にした。
授業が遅れると後々大変だ。ぼくは決して大学に行く気のない、道楽学生ではないので、結構焦ってしまう。あと一年もすれば、大学受験という戦争に身を投じる。そのときの武器はなるだけいいものに仕上げてから挑みたい。後々の苦労は嫌だった。
かりかりかり、とぼくのシャープペンシルがノートに文字を抉りこんでいく。筆圧がそれなりに強いので、本当に彫れている感じだ。ぼくはこの瞬間が実は密かに好きだった。半ばトランスした状態で、爪のこともすっかり忘れて、ぼくは無心でノートを彫り続ける。
線の引かれたノートが、黒い角張った文字で徐々に侵食されていく作業を、達成感を持って進めていく。描いた文字の数だけ、自分が賢くなっていくと考えると、健全ながら倒錯した感情で笑ってしまいそうになる。ちょっとぼくはおかしいのかもしれない。
こぽん
不思議な音が、した。耳元で。あるいはもっと遠くで。
泡が、ゆっくりと弾けるような。ひどく、湿ったような鈍い音が、聞こえた。
ぼくはあたりを見回す。しかし、それらしい音のするものはない。響くのは、数式を説明する教師のかすれ声と、チョークが黒板を叩く音、そして他愛のない密かなささやきだ。決して泡のはじける音を出すようなものは教室内には存在しない。しているはずがない。水槽だってない教室なのに。
疲れているのだろうか。ぼくは溜息をつく。耳に鮮やかに聞こえた音が、空耳だったなんて馬鹿馬鹿しい。けれど、疲れているのはそうかもしれない。何せ、他人の爪にまで興味を示すようになっているのだ。たかが、黒くて綺麗というだけで。大体、何で小指の爪を見たのだろう。女性の手元をじろじろ見るような人間だっただろうか。とりあえず気晴らしに、週末は友人たちを誘って、映画にでも行こうか。
そうぼくは思って、先ほどの空耳を振り払い、また、シャープペンをノートの残っている白地に走らせようとする。
こぽん
湿った、滑った、破裂音。
少し高くて、けれど低くて、心地よいのに逃げ出したい、そんな音がした。
ぼくはなぜだか分からない。それなのに、その時ぼくはふっと彼女の方をみていた。全く他意のない行動である。しかし、吸い寄せられたように、ぼくが躊躇いなく彼女の爪を見てしまったのは、操られたとしか言いようがないかもしれない。
こぽっ こぽん
真っ黒い、真っ黒い彼女の爪。
その表面が、まるで、意思を持っているかのように、
泡が。
こぽっ こぽぽっ
何かに呼応するかのように、その表面が破裂する。
無意識のうちに、ぼくは思っていた。
ああ、この泡は、ぼくを呼んでいるのだ。
ぼくを、呼んでいるのだ。
こぽん こぽっ
呼んでいる。爪が。
あの泡は、ぼくを、呼んでいる。
妙な確信を持って、ぼくがその爪に手を伸ばしかけたその時。
「じゃあ、今日の授業はこれで終わりだ」
そう、教壇に立つ先生の声と同時に、馴染みのある少し耳障りなチャイムが鳴った。何人かのほっとしたかのような溜息と共に、何事も無く授業が終わる。
ぼくは、彼女に伸ばしてしまった手を握り締めた。少しだけ、震えている。ぼくはそれを誤魔化すかのように、黒板にノートに書き写した。没頭してしまいたかった。うそだ。そんなはずはない。本当にぼくはおかしくなってしまったのだろうか。そんな馬鹿な。
しかし。
耳には、まだ、音が残っている。
こぽっ こぽん こぽぽっ
◇ ◇ ◇
ぼくは家に帰ってから、ベッドの上に倒れこみ、そしてあの時の音を、そして彼女の爪を思い出した。黒。泡だつ表面。横顔。綺麗な。白い。黒い。
こぽん こぽっ
まだ、鮮明に思い出せる、その音と映像。記憶は、確かにぼくの中に残っている。
あれは、夢などではない。空耳でもない。確かに彼女の爪は、底無しの沼のように暗い黒がたゆたい、うねっていた。暖かい春の日差しは、そんな幻覚を引き起こしていないことを、あの時が止まったような瞬間に、理解している。
傍目から見たら、そんな事を真剣に考えているぼくは、本当に滑稽に見えるだろう。むしろ、少し頭がおかしいのではないか、と疑われるかもしれない。自分自身で、頭がおかしくなったと官が手いるくらいだ。絶対おかしい。
しかし、ぼくにはそれを無視することは出来なかった。
正直に白状すれば、頭から離れないのだ。
彼女の、爪が。
どんな世界があの爪の中には広がっているのだろう。暗い暗いあの黒の中に、どんなものがあるのだろう。冷たいのか、熱いのか、広いのか、狭いのか、何か在るのか、何もないのか。
考えてみれば、爪の中に世界なんか広がっているはずがない。仮に爪の中を見ようとしても、単に筋肉だとか皮膚だとか血だとか、そういったものが見られるだけなのだ。世界なんて、広がっているはずがない。そんなことは、分かっている。完全に、理解している。
けれど。
ぼくは飽きることなく想像する。
ぼくは、彼女の爪の中を、夢想する。
____その夜、ぼくは爪の中にいる夢を見た。そこは、暗くて、暗くて、けれど不思議と温かくて、とても素敵な世界だった。ぼくはそこで黒に抱かれて眠っている。とても気持ちがいい。なんて、素敵な世界だろう。これなら、現実の世界なんていらない。もう、ぼくはこの中にずっといたい。
そう思った瞬間。ぼくの目は、醒めた。
◇ ◇ ◇
その日から、ぼくの頭には彼女の爪の事しか浮かばなくなった。授業中でも、彼女の小指の爪の黒を見ていないと、そわそわして落ち着かないくらいに、ぼくはその黒さに魅了された。
それと同時に、彼女の爪の音は、日に日に多くなっていった。
こぽっ こぽぽっ こぽん ごぽっ
時折吐き出すように、大きな泡すらでてくるようになった。何かの変化なのだろうか。もしかしたら、ぼくの思いに気付いて嬉しがっているのかもしれない。
ぼくはそう、勝手に夢想して、そして悦に入り、爪に囚われていく。
爪、爪、爪。
そして、それにうねる、黒。
艶のない黒が、時折ぬらりと揺れる。光を跳ね返さない黒を抱いている彼女の指は、対照的にとても白くて、尚更その爪が美しい事を際立たせている。
ぼくは、小指の爪を見ながら、微笑む。そして、ずっと見つめている。
そうすれば、爪の中に入れるんじゃないかと、半ば本気で考えながら、ぼくは彼女をずっと見つめている。
お陰で、友人達からはぼくが彼女の事が好きなんじゃないか、と変に納得されてしまっている。まあ、ある意味惚れているのとかわりはないので、適当に頷いておいたら、協力してやるだと、嬉々として肩に腕を回された。
汚いな。ぼくに触れていいのは、あの小指だけなのに。
ふとよぎった感情に、ぼくはふと不思議なものを感じたが、どうでもよくなってしまった。だって、何よりも今重要なのは、彼女の小指の爪である。
ぼくはまた、彼女の爪を見つめる。
そしてそれに答えるように、爪は音を奏でた。
こぽっ こぽん こぽぽっ
◇ ◇ ◇
ぼくは夢を見る。勿論、爪の中の夢だ。
爪の中でゆったりと過ごす夢は、日増しに心地よく、素敵なものへと変わっていった。
何もかもを許され、任せ、何も考えずに、眠り、そして笑っていられる。あの素敵な黒の中の世界は、本当に楽園のようだった。
ぼくがいつももう、ここに身をゆだねてしまいたい、と思うたびに、ぼくの目はぱっちりと開いて、そこで終わってしまう。残念でならない。
けれど、日に日に増していくその欲望と映像は、ぼくの頭の中を徐々に侵食し、夢や現実を食いつぶし、頭の中を爪でいっぱいにする。
ぼくの中には、爪しかない。
◇ ◇ ◇
「どうしたの? あなたが、わたしを呼ぶなんて。特に話したこともないのに」
彼女は、とても不思議そうな顔をする。当たり前だろう。ただ席が隣なだけの男に裏庭に呼び出されたら、不思議と言うか奇妙と言うか、変な感情を抱かずにいれることはない。
けれど、ぼくには彼女にどう思われようとどうでもよかった。大事なのは、彼女の爪だ。ぼくの中にあるのは、彼女の爪の黒さだけで、彼女がぼくの中を占めているわけでない。
「聞きたいことがあるんだ」
「なあに?」
彼女の無邪気な問いかけに、ぼくはついつい手を出して、叫びそうになる。
もう、ぼくの中には、現実やモラルといった、明確なものが存在していない。夢と虚構の境すら、もうぼくにはわかっていない。どうしようもないくらい、ぼくの中は爪でいっぱいだ。爪、爪、つめ。
ああ、あの黒が、どうしようもなく、素敵で、素敵で、素敵で。
どうしようもないくらいの、妄想の嵐に、ぼくはとうとう彼女を呼び出してしまった。爪のことを、聞きたくてしょうがなかった。
「君の、爪。その、小指の爪の事なんだ」
「…………なにかしら?」
彼女の笑顔が、少し曇る。どうでもいい。重要なのは爪だ。
ぼくは構わず、続ける。
「その爪の中は、どうなってるんだ? その爪の中には、どんな世界が広がっているんだ?」
ぼくは問いかけながら、彼女の肩を掴む。細い。薄い.もっと力を入れたら、折れてしまいそうだ。どうでもいいことだけれど。
「その爪は、一体なんなんだ? 何で、泡が出る? 何で、その爪は黒いんだ?なあ、何でだ? ぼくは、ぼくは」
そのなかに、はいれるのか?
ぼくのその台詞に、彼女の顔は、どんどん曇っていく。哀しそうに、辛そうに、けれど、ぼくは彼女の手をとり、その小指の爪に、口付けた。それは、紛れもない爪の感触である。ああ、なんてなんて。
ああ、ああ、ああ!
「…………あなたは、この爪が、好き?」
「好きなんて言葉じゃ表せないほど、だ。正直、もう、どうしようもないくらいに」
「……………そう」
彼女は、眼を伏せて笑った。静かに。哀しく。
「なら、仕方ないわね?」
彼女は、顔を上げる。頬に、涙が伝っていた。
「な」
がぢゅり
ぼくの台詞はそこでとぎ
◇◇◇
こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ、なかったのに。
もうこんなことするはずじゃなかったのに。前で最後だって、これでお終いにするって、自分に約束したのに。
ほろほろ涙を流しながら、彼女は壊れた蓄音機のようにいびつな謝罪を繰り返す。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。もう聞こえているはずもない隣の席の男の子に向かって、あるいはほかの何かに向かって、崩れ落ちそうな膝を叱咤しながら、謝り続ける。ごめんなさい。
「ごめんなさい。ごめんなさい、神様」
彼女は、はらはらと涙を零す。綺麗な黒髪に、涙が吸い込まれていく。地面に落ちて、小さなしみを作って消えていく。涙に意味はないのだ。何にもならない。ただ痛くなる瞼と目じりに、無駄なことをしたな、と責められるだけだ。でも、でも、それでも。
がぢゅごぢゅぼりぐちゃべちょごり
「こんなつもりじゃなかったの。もう、しないつもりだったの」
後悔する。激しく懺悔する。自分が汚くて仕方が無い。だって、浅ましいから。醜いから。血の匂いに覆われ、飛び散った肉片が囲む中で立っている。なんて、なんて汚らしい。
それだけ罵っても、小指の爪は止まらない。止まらない。止まらない。
彼の体を、その小さな窓口から砕いて飲み込んでいく。食べやすいように。吸い込みやすいように。美味しそうに。
ごりぐちょがぢゅばりがつがつがぐ
「ごめんなさい、ごめんなさい、神様」
懺悔する。贖罪する。出来ない事を、出来ると思う。許されないと解かっていても、許される事を期待する。
何人食べたっけ。何人殺したっけ。何人、何人?
思い出せない。思い出したくない。そんな、たくさん、自分のために殺してきたなんて、食べてきたなんて、知りたくない。理解してしまいたくない。
わたしのせいじゃないの。これが、これが勝手にするだけなの。
だから許される? 許されるよね?
泣きながら、そうそう問い掛ける。だれかに。誰でもない誰かに。
自分のせいなのだ、と思うことにも疲れていた。だって、何にもできないから。
だって、誰も裁けないから。
ぴちゃんぴちゅんごぢゅぢゅぢゅぢゅりりゅりりり
「でも………」
彼女は笑う。微笑む。酷く淋しそうに。けれど、妙に嬉しそうに。ただ、そこにいて笑う。そして泣く。ああ、ただそれだけ。それだけ。
そこには、何の罪も無い。何の罪も、意味をなさない。
「仕方なかったのよ?」
柔らかい皮膚に、骨がひっかかると、とても痛い。だから小指から取り込むには、小さく小さく壊さなければならない。噛み砕く音は延々と続く。気持ち悪い。食べるならさっさとしてほしい。あの隣の少年は小さくなって彼女の中に入っていく。黒い爪は嬉しそうに彼を噛み砕く。ごりゅごりゅごりゅ。ああ、気持ち悪い。なんて、醜い。嫌い嫌い嫌い。だいっきらいよ、大好きよ。
笑う。ただ。泣いて、笑う。そして言う。
「あの人、すごく美味しそうだったんだもの」
ぱちゅん
小指の入り口で、ふくらはぎの肉がはじけた。
◇◇◇
ぼくは、今爪の中にいる。待ち望んでいた。焦がれていた。素晴らしい、夢に見るほど素敵な世界。そのはずだったのだけれど。
痛い、痛い、暗い、暗い、冷たくて、哀しくて、最悪だ。
ぼくは、ただ悲鳴を上げる。爪の中は全く素敵なところじゃない。最悪で、最低で、どうしようもない。
砕かれてばらばらになってしまった体は、あちこちに黒にまとわりつかれて、一つ一つ徐々に消えていく。死んでいるはずのぼくが、なんで頭だけになって生きていられるのか、不思議でしかたがないけれど、なによりも死ぬことの恐怖があるので、なんの疑問にもならない。
死ぬ。死ぬ。死んでしまう。死にたくなんてなかった。ただ、夢を見ていただけなのに。ああ、どうしてあんな爪に惹かれてしまったのだろう。今思うと、ぼくは憑かれていたのだろうか。あの、黒い、綺麗な小指の爪に。
ただ、ひたすら一心に望む。出たい。出たい。出たい。上にカスカに入り込む光に向かって、声を上げる。出ないはずの声を、張り上げる。
「たすけて」
ただ、怖いと思った。自分が、自分じゃなくなっていく。ゆっくり取りこまれて、何も無くなって行くことが、こんなに怖い事だと思わなかった。ああ、助かりたい。生きていたい。無理だろうけど。でも、死にたくない。
だからぼくは、ぬめった闇に取り込まれながら、悲鳴を上げる。上げ続ける。
なんて愚かだったのだろう。なんてバカだったのだろう。あの爪は、あの爪が泡を上げていたのは。
歓声などではなく、消化されていく痛みの悲鳴だったんだ。
◇◇◇
こぽっ
ぼくは、驚いて悲鳴を上げそうになった。隣に座る彼女の小指の爪が、まるでぼくの意思に呼応するかのように、泡をあげたのだ。
そんなはずはない、そんなはずは。
ぼくは、自分に言い聞かせる。
前隣にいた男子が行方不明になってから、ぼくは彼女の隣に移った。そして、彼女の黒い爪に魅了されてしまってから、もう半月が立っていた。
ぼくは、来る日も来る日も彼女の爪をこっそり盗み見する毎日を送っていたのだが、まさかこんな幻想を見るとは思わなかった。
いけないいけない。しっかりしなくては。
こぽっこぽぽっ
再びゆらめく、爪の黒。
それは、幻なんかじゃない。
ぼくは、そのゆらめきを見つめる。夢なんかじゃない。現実でもない。
じゃあ、ここは何処だ?
こぽっこぽん
爪がまた、泡を出す。
◇◇◇
わたしは、自分の爪を見つめてくる男子をこっそりと横目で見て、それから少し哀しくなって笑った。ああ、この子もとり憑かれ始めている。
わたしの爪の中で、この前の男の子とは消化される恐怖に、悲鳴を上げている。痛いイタイイタイ。ごめんなさい。わたしには、どうすることも出来ない。
溢れ出そうな涙をこらえて、わたしはノートにシャーペンを滑らせた。字が、綺麗に意味を生み出していく。わたしは、この瞬間が一番好きだ。
こぽん、こぽぽ、と言葉がわたしにだけ聞こえる。
助けて、あげたいのだけれど。仕方が無い。わたしには、この爪の中から人を出せたためしがないのだから。
一生、こうしてわたしはこの悲鳴を聞いていくに違いない。食べずにはいられないみたいだから。彼の前に三人目を食べてしまったとき、一生やりたくない、と叫んで、そして自分の小指を切り落としても、駄目だったから。また生えてきてしまった。
わたしの小指の中の悲鳴は、だんだん強くなっていく。殺さないで、死にたくない、助けて、ここから出して。
わたしは、耳を塞げない。けれど、聞く気も無かった。どうしようもないことだし、第一、彼が望んだのだ。わたしの責任じゃない。
わたしが、悪いんじゃないわ。
こぽこぽ、助けて、こぽこぽ、死にたくない。
ああ、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、死んじゃえ。
わたしは、唇から漏れそうになる悲鳴を殺して、自分の胸を押さえた。苦しい。わたしまで、爪に食われているようだ。こんな、酷いことを思うことは無かったのに。
隣の人は、じっとわたしの爪を見つめていた。悲鳴の泡が上がる爪の黒は、とても綺麗に見えているに違いない。
こんな禍禍しい黒が、素敵なはず無いのに。
わたしは、笑った。誰にも見えないように、密かに、低く、喉を鳴らして。
ああ、神様。ごめんなさい。
だってこの人、とっても美味しそうだわ。
◇◇◇
ぼくは、揺らめく爪の黒を見る。美しい本当の黒が揺らめく。
そしてぼくは。
今日も、夢想する。
彼女の爪の、黒い理由を。