2頁目(100頁後に死ぬ蟹)
「え、見てこの蟹。前に歩いてるやん」
海岸にて。何か生き物はいないか、そうでなくても、何か世界で自分だけが今触れ合える、面白いものはないか。
やっと見つけた昼過ぎのお宝に、少年は胸を弾ませた。
だが、寸分の時を待たず、その弾んだ胸も十分な遊泳を楽しめぬまま、目の前のハサミに鷲掴みにされたのだった。
「いやいやいやいや、自分こそ横に歩くやん」
少年は半ば確信しながらも、まるで何かの間違いではないかと探すように、立ち上がり、辺りを見渡した。
「ないないないない。明らかに意識はこっちに向けてあるやん。こっちも忙しいから、君に早く、言うことは言うておきたい」
少年は一度唾を飲み込むと、流れる汗も拭わず、もう一度しゃがみ込んで、目の前の水生生物に目を向けた。
「よっしゃ。ええか?君だって、横に歩くやろ?」
少年は察していた。この貴重な機会に、今すぐ両手を振って踊りだし、家族や友達に知らせたいが、きっとその間に、この、さっきまで蟹だと思っていたナニカは居なくなってしまう。「うん」と声に出たかどうか、とにかく頷き、相対した。
「僕ら蟹も一緒やねん。歩く時の、なんていうの、″かどういき″っていうやつやな。それが、横に大きい訳やから、自然と効率よく、横移動になるわけやな。」
なんて早口で話すんだろう。そして、何故関西の訛りがこんなに強いんだろう。
「前に歩くときだってあるわけよ。急いでない時とか、興味あるもんに近づく時とか。」
もう本当は移動方向のことより、気になって仕方がないことが他にできたわけだが、他でもない、ご本人から説明をもらえることなど滅多にないのだから、少年は黙って聞いていた。話すチャンスを待ちながら。
「どう?納得いった?どうせ頭の中では、自分だけの発見やと思って舞い上がってたんやろ。でも、これからはどうか、その前にいっぺん調べたり考えてみてほしいわけよ。これ、別にこの場だけに限った話やないと思わへん?」
きた。自分の返事を待っている。少年は、すぐに口を開いた。どうして話せるの?と。
すると蟹は、ハサミを両手とも、上にあげ、のけ反った。表情は読めない、蟹だから。
でもこれは絶対に、驚いている。
「え、ちょ、ま」
動揺している。泡がブクブクしている。
「聞こえてたんかいや、君。」
先ほどまでの、少年と蟹の立場が、完全に入れ替わっていた。
蟹は、両手を下すと瞬時に、高速横移動能力を遺憾なく発揮し、少年の前から姿を消した。
「どこかへ行っちゃった。」
10分ほど、岩場の陰などを調べても見つからず、少年は、家族のもとへと、戻っていった。
それから月日が経ち、少年は、制服に袖を通していた。かつては禁止されていたスマホとパソコンを持つことになった。
少年は、海岸のことを忘れられず、家族でも友人でもない、見知らぬ誰かに、この話を聞いてほしくて、ネットを活用し、書き込むことにした。
「アカウント?ユーザー名?」
慣れないタイピングで、少年はゆっくりと、思い出の名前を名乗ることにした。
「蟹」と。




