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とある平凡だった男が捧げる“真実の愛”

作者: 豊川颯希

『仁義なき当主代理戦争〜「あ、その件はもう決着がついております」〜』に登場したカサンドラ・エリツィーニの婚約者視点の話です。読了推奨となります。

「ねえ貴方、改名する気はない?」

「えっ? ……あの、それはちょっと……親にもらった、それなりに気に入っている名前なので……」

 このやり取りが、ロベルト・シュマーのその後の人生を決定付けた。



 ロベルト・シュマーは伯爵家の次男として生を受けた。シュマー伯爵家は歴史こそ古いが特筆すべき功績はなく、可もなく不可もなくといった平凡な家柄だ。ロベルトも特にこれといった才能もない凡人で、シュマー家らしいと言えばらしい少年だった。

 転機が訪れたのは、10歳の時。王宮で開催されたパーティーでの出来事だ。王子の誕生日を祝う名目で開かれたそれは、側近候補や婚約者候補を見繕うためか、同年代の子供たちが大勢招かれていた。伯爵令息であるロベルトも当然招待されている。とはいえ、ぱっとしない伯爵家の自分が王子のお眼鏡にかなうはずもなく、隅で大人しくしていた。パーティーの主役である王子の周辺は、大きな人だかりができている。地味で凡才な自分が紛れ込む隙は、常識的に考えてない。早々と側近候補選抜戦から自主的に離脱したロベルトは、滅多に入れない王宮の美しく整えられた庭園を眺めていた。豪勢な料理も十分堪能したし、早くお開きにならないかなと呑気にぼうっとしていると。

「こんにちは。何をご覧になっていらっしゃいますの?」

「こんにちは。庭園を…………えええエリツィーニ侯爵令嬢!?」

 突然現れた高嶺の花に、ロベルトはそれはもう驚いた。慌てて周囲を見回すも、人影はない。しがない伯爵家の息子である自分にどうして、と思うも令嬢は話しかけてくる。

「あら、わたくしのことご存知なのね」

「それはもう……」

 彼女は、カサンドラ・エリツィーニ侯爵令嬢。ロベルトと同い年でありながら、学院への飛び級入学は確実だと噂されるほど賢く、侯爵家の跡継ぎでなければ王族に連なっていたかもしれないともっぱらの評判だ。社交界に出ていないロベルトですら知っているくらいである。本人と言葉を交わしたのは、今日が初めてだ。

「貴方は?」

「ろ、ロベルト・シュマーです」

「ああ、シュマー伯爵家の」

 流石才女。うちのようなあまり目立たない家のことも、しっかり頭に入っているらしい。

「シュマー様は、花が好きでいらっしゃるの?」

「いえ、特には」

「? でも、庭園を見ていたのでしょう?」

「ああ……いや、その、この庭園を維持するのにどれだけ労力とお金がかかるかなと」

 王宮の庭園は、広大で壮麗。時に外国の賓客を招くこともあるそこが貧相では、国の威信にも関わる。綺麗に整えるのはもちろんのこと、加えて我が国特産の植物や生育の難しい植物を植えることで技術力も示すこともあるだろう。となると、腕の良い庭師を何人も雇用したり適切な肥料などを買ったりと費用はいくらあっても足りない。そこをどうやり繰りするか、といった細々としたことを考える癖がロベルトにはあった。兄からは「お前って、時々役人みたいだよな」とからかわれている。

 と、そこまで訥々と語って我に返る。今自分の前にいるのは自分と同じ年頃の、加えて言えば身分が上の女の子だ。庭園、とくれば綺麗な花のこととか話すべきでは、とようやくロベルトは思い至る。完全に話題を間違えた。

 だらだらと冷や汗を流すロベルトが、判決を待つ罪人のように震えていると。

「ねえ貴方、改名する気はない?」

 カサンドラは、脈絡のないことを言い出した。いや、脈絡がないと思っているのは自分だけで、遥かに頭脳明晰な彼女が口にしたのなら、筋道が通っているのかもしれない。どう答えるべきか、誰か教えてほしいが運悪く誰もいない。驚きと緊張と戸惑いで、ロベルトは、

「えっ? ……あの、それはちょっと……親にもらった、それなりに気に入っている名前なので……」

と全くもってまとまりのないことを返してしまった。

 カサンドラはひとつ瞬きした後、ふわりと微笑む。ただでさえ可憐な女の子が、更に輝いた。それは、平々凡々、山無し谷無しだったロベルトのこれまでの生き方を丸ごと吹っ飛ばすには十分だった。

「……そうね、わたくしが間違っていたわ。貴方の大切なものに失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい」

「いっ、いえそんな」

 自分に非があれば、格下の相手にもきちんと謝る素直さが眩しい。侯爵令嬢としては軽率に頭を下げるものではないかもしれないが、それでも筋の通った姿は逆に威厳すら感じた。

 ああ、この方が──カサンドラ・エリツィーニ。

 この後すぐ、人に呼ばれてカサンドラは去っていった。一方のロベルトは、家族が探しに来るまで雷にうたれたかのように立ち尽くしていた。

 この日を境に、ロベルトは凡庸さをかなぐり捨てて勉強に打ち込むようになった。その鬼気迫る勢いに、家族が心配して医者まで呼んだほどだ。

「力になりたい方ができました」

 異変の原因をたずねた家族に、ロベルトはそう答えた。王子の側近になりたいのかと重ねて聞いた家族に、首を横に振る。

「カサンドラ・エリツィーニ侯爵令嬢のために、持てる全てを捧げたいです」

 ロベルトは、彼女との会話を家族に伝えた。そこでようやく、ロベルトは彼女がなぜあんなことを言ったのか、その理由の一端を推測できた。父であるシュマー伯爵がまだ幼いロベルトに、言葉を濁しながら侯爵家の事情を教えてくれたのだ。

 カサンドラの父親は、ロナルド・エリツィーニというのだが──端的に言って穀潰しだった。優秀だが持病のある女侯爵マチルダ・エリツィーニを、夫として支えないばかりか遊び歩いて金ばかり消費し、愛人を持ち間に娘までいる。当然、政略結婚の末できた娘のカサンドラに、親として愛情を注いだこともないとか。そんな相手と自分の名前が似ていて、聡明と言えど幼くもあるカサンドラは心中穏やかではなかったのかもしれない。すぐにカサンドラが謝罪して発言を撤回したと聞いて、シュマー伯爵はあからさまにほっとしていた。侯爵令嬢の不興を買っていたかもしれないロベルトを、案じたからこその安堵だ。自分の父親はこのようにロベルトを案じてくれるが、彼女の父親はそうではないらしい。そのことを弱みととらえ、攻撃する者もいるようだ。それでも、彼女は凛としていた。背景を知ったロベルトが、ますます彼女に傾倒していったのは言うまでもない。

 そして一月後。

「お前、本当に何もしていないよな?」

 困惑しながら父は、ロベルトがカサンドラの婚約者候補にならないかと打診されたことを告げた。ロベルトも驚き、また胸が高鳴った。ロベルトもまだ10歳、仄かな憧れを抱いた女の子の婚約者になれるかもしれないと聞いて心が浮き立つのも必然である。端から見ても浮かれる息子に、父はやや言いづらそうに釘を刺す。

「あくまでも、候補だからなロベルト。聞いたところによれば、他の方々は王弟が興された公爵家の令息だったり、騎士団長や宰相のご子息だったり、その、何だ、……あまり、選ばれると思わない方がいいかもしれないぞ」

 父の言葉に、ロベルトは愕然とした。確かに、他の候補を知れば自分が婚約者となることはほとんどあり得ない──そのことにがっかりしたのは否めない。しかしながらロベルトは、自身の傲慢をそれ以上に恥じた。カサンドラに己の全てを捧げる、そうした己の決意は、たかが彼女の伴侶になれない程度で揺らぐほど脆弱だったのか。己の望みを、もう一度ロベルトは覗き込む。彼女の、力になりたい。あの笑顔を彼女が浮かべられるなら、隣にいるのが自分ではないことなど、些細なことだ。むしろ、それだけで彼女のために何も動かないでいるには、彼女の存在はロベルトにとって大きすぎる。彼女が幸いを掴む一助を己ができたのなら、望外の喜びである──ようやく、自分の芯が固まった。そんな気がした。

「父上!」

「なっ何だ?」

 思いの外、ロベルトは思考の波に沈んでいたようだ。黙り込んだかと思えば急に大声を出したロベルトに、父の肩がびくりと跳ねる。

「婚約者になれなくても、僕が彼女の力になりたいことに変わりはありません!」

「あ、ああ、そう、か……」

 父の目にはかなり呆れと手遅れか……という諦めが混じっていたが、ロベルトは気付かなかった。

 それから折に触れ婚約者候補の一人として、時節カサンドラとお茶会をした。お互いの好きなもの、といういかにも婚約者同士の歩み寄りらしいことも話したが、圧倒的に政治や経済、領地の経営に関する実務的なことが多かった。時にカサンドラの話についていけず、口惜しい思いをすることもあった。そういう時は次回までに猛勉強し、理解が及ぶまで努力した。その甲斐あって、そのうち彼女から振られるどんな話題にも適切に応じられるようになっていた。

「ねえ、ロベルト」

 婚約者候補となってから数年経ったある日、カサンドラの呼びかけにロベルトは頷く。

「はい、何でしょう?」

「わたくし、お母様に治療に専念していただきたいから、できるだけ早く爵位を継ぎたいの」

「存じております」

 基本的に、爵位を継げるのは成人年齢である18歳を迎えてからだ。しかし、何事にも例外はある。この国では、“貴族学院を飛び級かつ特に優秀な成績で卒業したこと”、“侯爵の許可を得て権限の一部を譲渡され、数年間領地を円滑に治めたこと”という二つの条件を満たす必要があった。

「だからわたくし、学院に二年早く通うつもりなのだけれど……貴方も、ついてきてくれる?」

「無論です」

 彼女の前では冷静に答えたが、家に帰ってからロベルトは文字通り跳び上がって喜んだ。彼女が、自分の力を欲してくれた。余りの狂喜乱舞ぶりに「まさか婚約者に選ばれたのか?」と頓珍漢なことを聞いてきた家族の勘違いを正してから、「彼女の腹心としての、第一歩を歩めた」と答えた。「……たぶん、違う気がするが……」という家族からのツッコミは、浮かれていたロベルトの耳には入らなかった。

 学院の入学試験は、次席で合格した。首席は、言うまでもなくカサンドラだ。カサンドラの真の腹心を目指し、学院でも精力的に学んでいたある日、ロベルトはカサンドラに呼び出された。

「イリス男爵領のことなのだけど」

 かの領地は、マチルダ女侯爵の実弟が、前侯爵に泣きついてようやく男爵位与えられ治めていると聞く。彼が領主となってから、徐々に税収が目減りしているとか。侯爵が男爵を呼び出して理由を聞けば、「力及ばず」「今年は不作で」「災害があって」等と申し開きをするが、調査しても男爵の能力以外は税収に影響が出るほどの規模の被害はない。

「努力しても税収が上がらないのなら、と代官を派遣することを認めさせたわ」

 イリス男爵家は前々から評判が悪く、前男爵が今際の際に“馬鹿息子に土地を与えるべきではなかった”と悔やんだくらいである。しかし、決定的な不正の証拠は掴みきれず、男爵家の取り潰しまではできなかった。

「貴方に、代官としてイリス領に赴いてほしいの。そして、領地を差配するだけではなく、男爵家が怪しい動きをしていたら、その証拠を掴んでわたくしに届けてくれる?」

「謹んで承ります」

 心の底からロベルトは喜んだ。彼女が、こんな難題を頼むほど自分を頼りにしてくれている!

 そうと決まればロベルトは、表向きは留学として学院から離れ、偽名を名乗ってイリス領に代官として赴任した。後でその詳細を知った家族には「お前が良いなら良いけどさあ……ほんとにさあ!」と呆れられながら叱られた。

 長年の勉学で目を悪くし、眼鏡をかけるようになっていたロベルトは、堅物な役人に見えるらしい。そのお陰で、イリス男爵一家は代官がまさか男爵令息のジョージよりも年下の若造とは夢にも思わなかったようだ。ちなみに、ジョージは入学試験を突破できなかったため学院に通っておらず、ロベルトと面識はない。

「代官殿!」

「何でしょう、男爵」

 仕事中、執務室に押し入ってきた男爵にも、ロベルトは落ち着きはらって対応する。その余裕ある態度で、ロベルトは百戦錬磨の役人として人々の目に映っていた。

「我々にあてられる予算が少ないのでは? 税収は上がっているのだろう?」

「平均的な男爵家の予算を割り当てております」

「しかし、」

「数年前から、イリス領は不作等の影響により、国から決められた税収を納められていませんでした。その分の追加徴収もあります」

「だが、」

「以前拝見した帳簿にも、今回割り当てた予算以上の支出はありませんでしたよ。それとも、何か別の出費があるのですか? それに、ご子息には再三領民に軽々しく声をかけないよう忠告しておりますが、一向に聞き入れてくださいませんね。続くようでしたら、予算も見直さねばなりません。男爵からも、言い聞かせていただけますか?」

「い、いや、その」

 眼鏡の奥から静かに問いかけ、取り付く島もないロベルトに、男爵は分が悪いと悟ったのだろう。捨て台詞を吐いて去っていった。

「姉上も、気の利かない代官を寄越したものだ」

 正確には、侯爵ではなくカサンドラだが。

 男爵が出ていくのと入れ替わりに、ロベルトの補佐をしている役人が入ってきた。彼がきっちり扉を閉めたのを確認して、ロベルトは紙束を取り出す。

「イリス男爵家の、横領の記録です。なお、令息に強引に言い寄られ困っていた領民については、保護した上で一時的にイリス領を離れ、男爵家が追放されてから戻れるよう手配しております」

 男爵は賭博、夫人はドレスや装飾品、息子は娼館。それぞれがそれぞれ、本来与えられた予算では賄えないほど散財していた。元々、イリス領はそれなりに大きな穀倉地帯を抱える豊かな土地だ。資金繰りに、国へと納めるべき税に男爵家が手をつけるのも時間の問題だった。ロベルトは男爵の無茶苦茶な政策を廃し、悪事を働けないよう牽制し、堅実に税収を回復させながら、男爵家の内情を調べ上げた。

 ロベルトが入手した証拠は、役人の姿をしたエリツィーニ侯爵家の隠密の手に渡り、カサンドラへと届けられる。

 こうして、舞台は整った。

 そして、決着の日。マチルダ女侯爵が亡くなったという誤った噂を流せば、俗物どもはすぐに王都の侯爵邸におびき寄せられた。

 イリス男爵家に顔の割れているロベルトは、別室で待機している。使用人がいるとはいえ、一人で対峙するカサンドラについていたかったが、自分を見た男爵家がどう出るか不明であるため、泣く泣くこの配置となった。隠密によって仕掛けられた集音装置で、やり取りの一部始終は聞いている。

 イリス男爵家の放蕩息子、ジョージのカサンドラへの求婚には思わず殴りかかりたくなった。侯爵家が、不肖の婿養子のせいでどれだけ風評被害を被っているか知っていながら、カサンドラの異母妹に愛人になるよう迫ったその口で、よくもぬけぬけと...…。こちらの部屋に控える使用人たちも表情を険しくしており、それを見てロベルトは、皆憤る思いは同じだからと何とか激情を堪える。

『わたくしには婚約者がおりますので……、……とある伯爵家の次男です……』

 聞こえてきた言葉に、ロベルトは目を閉じた。未熟な己を戒めるためだ。王弟やら騎士団長やら宰相やらの息子なら自分より立場が上だからと、どこかで線引きをしていた。しかし、カサンドラが選んだのは自分と身分的には同格の伯爵家の次男。それなら自分だって、と咄嗟に未練がましく思ってしまった。あの時の誓いはどうした。自分は、それでも彼女の力になれるのは変わらない。誰か知らないが、カサンドラを大切にしてくれるなら彼にだって仕えてみせよう。そう改めて決心し一人頷くロベルトは目を開けていなかったので知らないが、部屋中の使用人が物言いたげな視線を彼に向けていた。

 決着がついた後、戻ってきたカサンドラを副官よろしくロベルトは労う。

「お疲れ様です」

「ありがとう。ねえロベルト」

「はい」

「わたくしと結婚してくれる?」

「はい、承知しました……………………………………え、はっ!?」

 礼儀も忘れて、ロベルトはまじまじとカサンドラを凝視してしまった。いやする。するだろうこれは。だって、結婚である。……結婚!?

「閣下!?」

 カサンドラが王宮から正式に襲爵を認められてから、ロベルトは彼女をそう呼んでいた。ちなみに心の中では敬愛を込めて学院の入学前くらいからこっそりそう呼んでいたので、ロベルト的にはとても馴染んでいる。

「なあに?」

「伯爵家の次男と婚約されたのでは?」

「ええ、シュマー伯爵家の次男と」

 シュマー伯爵家!? そこの男子は兄と自分だけで、兄は跡取りだから自分だ。え、自分!?

「で、ですが他の候補の方は!? 王弟や騎士団長や宰相のご子息の方が適任では!?」

「全員、もう他の方と婚約されているわ」

 いつの間に!? そういえば、代官をしていた時は流石に忙しくてそちらの情報は集めていなかった。

「そもそも貴方に代官を任せたのも、貴方がわたくしの婚約者に相応しい実力があると周囲に認めさせるためだったの」

 え、そうだったのか。いや、だからといって、自分でいいとはならないだろう。自分は、ただ多少頭が回る程度の役人顔の平凡な男である。カサンドラの隣には、とても……。

「お待ちください閣下! 消去法で自分を選ばずとも、閣下であれば引く手あまたで」

「貴方は、わたくしと結婚するのは嫌「嫌じゃないです!」なら、良いわね」

 いつかのように笑った彼女にうっかり見惚れ、ロベルトは反論を封じられてしまった。そしてなし崩しに、カサンドラの婚約者となった。爵位を継げるとはいえ、結婚年齢まで下がった訳ではない。結婚は二人が成人し、爵位継承後の諸々が落ち着いてからとなった。本当に自分が婚約者で良いのか、というか本当に結婚するのか、悩むロベルトだったがカサンドラに物申す機会はなかった。正確に言うと時間的にはありすぎるほどあったが、頭からすっぱ抜けていた。カサンドラという優秀な侯爵のもと、腹心として働くのが楽しすぎて忘れていたのである。

 そうこうしているうちに、役立たずの婿養子と離婚し、昔から想い合っていた医師と再婚したマチルダ元女侯爵が妊娠し、その出産に立ち会うこととなった。

「大丈夫よね」

「大丈夫さ」

「大丈夫」

「大丈夫」

 そう意味もなく大丈夫と交互に繰り返すのは、カサンドラと義父・アスターである。どちらも一見冷静そうだが経験豊富な産婆に「旦那様とお嬢様は別室で待機していてください」と厄介払いされていた。ロベルトはカサンドラの婚約者として、彼女の側に控えて──否、婚約者というより腹心という距離感がしっくりくる配置にいた。

 カサンドラとアスターに血の繋がりはないのに、心配する仕草がそっくりだ。思わず微笑みそうになった自分を律しながら、ロベルトもその時を待つ。

 長いような一瞬のような、じりじりとした焦燥感だけが募る時間はようやく終わった。

「産まれました! 母子共に健康です!」

 吉報を持ってきた侍女を押し退ける勢いで、アスターは駆けていった。「そっちじゃないです、旦那様!」という侍女の静止すら喜びに満ちている。

 ロベルトはてっきり、カサンドラはいつものように余裕を取り戻して「それでは、お母様の元へ行きましょうか」と歩き出すと思っていた。しかし、いつまで経っても声がかからない。

 不思議に思い、振り返った先にいたカサンドラは呆然としていた。ロベルトは目を見開く。ロベルトの知っている限り、カサンドラはいつでも優雅で、力強く、美しかった。こんな、隙だらけで無防備なカサンドラなど見たことない。

 ふと、カサンドラと目が合った。途端に、その顔がくしゃりと歪む。小さい子が泣く寸前のようだ、と思った瞬間、胸に衝撃が来た。

「わああああああっ!!」

「かっ、……………………かかかかか閣下!?」

 あのカサンドラが、己の胸で泣いている。えっ泣く!? 閣下が!? えっこれどういう状況で、どう対処したら、はっ、今の自分と彼女は、婚約者であっても不適切な距離では!?

 ならば使用人が引き離し、しかるべき相手、そう侍女とかに預けてくれるのではと周囲を見渡せば。使用人たちは、真顔で顎をしゃくったり指を立てたりしていた。その意味は、分かってしまうが分かりたくない。えっそれって抱き……ええっ!?

 がこっと頭上から音がして見上げれば、イリス男爵領で世話になった隠密が天井板を器用に外して顔を覗かせ、こちらはより赤裸々に抱き締める素振りをしていた。しょ、正気か!? 自分が閣下を抱っ……しろと!?

 駄目だ誰もあてにならない、と頭痛すら覚えながら、ロベルトは自分の胸元を見下ろす。そこでは、カサンドラが変わらずに声を上げて泣いていた。まるで幼い少女のように。

 ふと、ロベルトは腑に落ちる。

 この方は、強い。ロベルトよりも頭が良くて、偉大で、素晴らしい。それは揺るがない。それでも、この方も自分と同じように二十歳にも充たない若者なのだ。生物学上の父親はあてにならず、彼が原因の心ない言葉に母と共に立ち向かってきた。そんな母が愛する人と結ばれ子供を授かったことは嬉しかったが、同時にカサンドラはずっと怖かったのだろう。出産は、どんなに万全の態勢を整えていても、命の危機と隣り合わせだ。ましてや、カサンドラの母は持病もある。母を失いたくない、生まれる弟か妹かも、どうか無事でいてほしい。今、全ての不安から解き放たれ、彼女は年相応に感情を露にして泣いている。

 そして、ロベルトはその胸に縋れる相手として選ばれた。その胸で泣くに値する男だと、心を許されている。弱い姿を見せても大丈夫だと、他ならない彼女から信頼を寄せられている。

 補欠婚約者だのなんだのと、卑下している場合ではない。──全てを捧げるのなら、弱味を見せてくれた彼女を支え、守ることも当然含まれるはずだ。

「……良かったですね、閣下」

 不器用な手つきではあったが、ロベルトはカサンドラの背に両手を回した。そして彼女が泣き止むまで、「良かった、本当に良かった」と繰り越しながらその体を抱きしめる。その抱き方は最後までおっかなびっくり、という何ともしまらないものであったが、カサンドラはされるがままだった。

 そして周囲の使用人たちが、「まあ、及第点か」と自分たちを見守っていたことなど、ロベルトは知るよしもない。

 そんなこんなであれやこれやと忙しくしているうちに、結婚式の日がやってきた。

 当日のことは、はっきりと思い出せない。周囲に聞いた限り、ロベルトは大変な醜態を晒したようだ。

 ただでさえ美しいカサンドラの美しさを、更に引き出した花嫁姿を一目見るなりロベルトは釘付けになり──誓いの口付けですら微動だにせず、ついにはカサンドラから行ったらしい。

 己の不甲斐なさに身の置き所がなかったが、「堅物役人男が、ああも赤面して狼狽するとは」と二代続けて仕事婚ではないかという不名誉な噂を払拭していたらしい。流石閣下、自分のポンコツ具合すら計算にいれるとはとカサンドラを絶賛する手紙を実家の兄に向けて送ったのだが、後日「お前さあ……ほんと、お前さあ……」という文面と共に母と兄の嫁である義姉が選んだ恋愛指南書が届いた。見られて困ることは書いていないが、個人にあてて書いた手紙をまわし読みするのはどうかと思わないでもない。しかし、そちらの方面に疎い自覚はあるので書物は丁重に頂戴した。

「閣下は、いつから自分を婚約者と決めていらしたのです?」

 どうにか(主にこちらが多大なるご迷惑をかけた)初夜を終えた翌朝のこと。穏やかな日差しのなかで微笑むカサンドラに、ロベルトはたずねた。思い返すに、自分が代官として派遣される頃は、まだ他の候補者たちも相手が決まってなかったはず。その頃自分が成し遂げたことといえば、飛び級次席入学くらいで、他の身分も地位も特技もある候補を押し退ける程ではない。

「決定には責任が伴うから、おいそれと決められなかったけれど……心では、貴方がいいとずっと思っていたわ」

「えっ」

 カサンドラによれば、他の候補は向こうから話を持ってきたが、ロベルトだけはカサンドラ自身の希望だという。

「一目惚れ──ううん、一言惚れといったところかしら」

 あの、はじめて会った時。

 庭園を見ながら、その経営について思いを馳せていた姿に、「惜しい」と思った。あんまりにもあんまりな婿養子の父と名前が似ていたのに、考えていることは真逆だったから。だからつい、改名などと不躾なことを言ってしまった。身分も権力も上のカサンドラから言われたというのに、譲れないことは譲れないと告げる姿勢は得難いと思った。

 それに、何より。

「わたくしが愛されていないからといって、他の人もそうではないことを思い出させてくれたから。そんな人と、家族になりたいと思ったの」

 はく、とロベルトの口が開閉する。みるみる真っ赤になるその顔の造形は、なるほど役人にぴったりだが血も涙も通っている。

 カサンドラが、世界一好きな最高の顔だ。

「困りました」

「あら、何が?」

「貴女を愛したい理由ばかり増えていくのに、愛し足りません! 全く追い付かないのです……閣下、自分はどうしたらいいのでしょう」

「あらあら」

 ころころと鈴を転がすような声で笑ったカサンドラは、ロベルトに身を寄せた。

「それじゃあひとつ、手っ取り早くわたくしを愛する方法を教えるわ」

「何でしょう、何なりと!」

「名前を呼んで」

 ぴた、とロベルトは固まる。いきなり段階を飛び越しすぎではないだろうか。

「……えっ、と、その、それは」

「わたくしのカサンドラも、お母様にもらった大切な名前なの。家族になった貴方にも、呼ばれたいわ」

 そう言われては、腹をくくるしかない。

 ロベルトは、覚悟を決めようとした。

「かっカサンドラ、……閣下」

「閣下は無しね、もう一度」

「カサンドラ、」

 閣下という慣れた呼称は、桃色の唇に吸い込まれた。

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