にぃ様、浮気はだめなんですよ!
ぽてり、ぽてり、幼子特有の少し危うさを感じる歩き方に、周りの大人達が心配と慈しみの入り混じった視線を向ける。
幼子が念願叶って誕生した王家の宝――ノア第二王子殿下ともなれば、その愛しさはひとしおである。
ふわふわとした柔らかな金の髪を揺らし、一生懸命に歩を進めるノアは、先日五歳の誕生日を迎えたばかり。
同年代の子供と比べると少し小柄な体躯をしているけれど、健康面に問題はなく、大人達からの愛情を一身に受けてすくすくと成長中だ。
彼の向かう先には十四歳上の兄、セドリック第一王子殿下の姿があった。
セドリックはノアの姿に気付くとすぐに駆け寄り、声を掛ける。
「ノア、どうした? 何を持って……なんだ、ケーキか。貸してみろ。俺が運んでやる」
「あ、にぃ様! だめです! ぼくがお持ちするのです!」
ノアが両手でひしと握る銀の盆。
その上には三つのケーキと三本のフォークがのっており、ノアが歩くたびに皿とフォークがガッチャガッチャと音を鳴らしている。
慎重に歩けば歩くほど、なぜか音は大きく、激しくなる一方。
そんな今にも転けて盆をひっくり返してしまいそうな様子に、セドリックを含む大人達はそわそわしながらも彼の歩みを見守った。
ノアが自分で持って行きたいと言うのならば、大人達はその意思を尊重するほかないだろう。
なんでも自分でやってみたいお年頃なのだ。
そうして皆が見守る中、やっとこさ辿り着いたガーデンテーブル。
盆を置こうにも、目線の高さにあるテーブルの上に置くのは難しい。
そこでノアは、先にテーブルについていたセドリックの婚約者、カタリナへと盆を差し出した。
「カタリナ様、どうぞ」
「ありがとうございます。まぁ、とっても美味しそうなケーキですね」
「えへへっ、カタリナ様が来ていると聞いて、いっしょに食べたいと思ったのです。ぼくのお気に入りはこのいちごがのったやつですよ。あ、でもチョコのケーキも美味しくて、あと……」
「ノア、分かったから。お前が好きなのを先に選べ」
横で見守っていたセドリックがひょいとノアを抱き上げ、そのまま膝の上に座らせる。
今は月に最低一度は設けられている、セドリックとカタリナが共にお茶をする時間だった。
以前は大体週に一度は行われていたけれど、最近はとんと頻度が減っている。
今回も約一ヶ月ぶりに開催され、ノアは久しぶりに二人とお茶ができると思い、嬉々として足を運んだのだ。
三人がいるセドリック専用の温室には、お茶ができるようテーブルと椅子がセッティングされていた。
しかし用意された椅子は二脚のみで、必然的にノアはどちらかと一緒に座ることとなる。
セドリックの視界の端で侍従がもう一脚椅子を持って来ていたが、彼はそれを視線で制し、小さな後頭部を愛おしそうに見下ろした。
ノアの椅子は、己の膝で十分なのだ。
抱えられることに慣れているノアも、特段気にした様子はない。
「にぃ様、こういう時は女性から選んでもらうものだと聞きました。なのでカタリナ様、お好きなものを選んでください。ぼく、カタリナ様に食べて欲しくて持って来たんですから!」
「あらあら、ノア様はお優しいのですね。えっと……では、このフルーツタルトをいただこうかしら」
盆の上に並べられた三つのケーキは、どれも美しいデコレーションが施され、キラキラと輝いている。
その中でもノアは苺のショートケーキがお気に入りだと言っていた。
次に、チョコケーキ。
なので恐らくノアが今一番食べたいのはショートケーキで、次点がチョコケーキなのではないか。
そう考えて、カタリナは残りのフルーツタルトを選んだ。
残りのとは言っても、桃や苺、林檎、葡萄など様々なフルーツが贅沢にのったタルトは、大変美味しそうである。
そしてカタリナの考え通り、ノアはショートケーキが残ったことにホッと胸を撫で下ろしていた。
「にぃ様は? にぃ様はどれにしますか?」
「俺は……苺の」
「!!」
「いや、やっぱりチョコにしよう」
「ふぅ、じゃあぼくがいちごのケーキですねっ。実はぼく、いちごのケーキが一番食べたかったんです」
なんとも分かりやすい反応に、セドリックもカタリナもにっこりである。
セドリックの膝の上、ノアはもぐもぐと嬉しそうにケーキを食べている。
上にのった苺は端へよけて、後から食べるようだ。
もしもその苺を食べたいと言ったら、ノアはどんな反応をするだろう?
セドリックの中でむくりと悪戯心が芽生えるも、ほっぺたに手を当てて美味しい美味しいと幸せそうにしているノアを見れば、その顔を曇らすことなどできるはずもなく。
苺を貰うどころか、セドリックは鼻の下を伸ばしながら「よしよし、俺のケーキも食べるか?」と己の皿を差し出した。
王城ではもはや見慣れた光景となった、仲睦まじい兄弟二人の姿。
少し離れた位置で控えている侍従達も微笑ましそうに見守っており、和やかな空気が流れている。
そんな中、カタリナは一人複雑な心境を抱えていた。
カタリナはノアのことを実の弟のように、それはそれは大切に思っている。
上の兄妹しかいない彼女にとって、ノアの存在はまるで奇跡であり、彼と過ごす日々はいつだって愛に溢れていた。
長らく第三子を授かれずにいた王妃殿下がノアを身籠った時、国中が祝福し、カタリナも自分のことのように喜んだ。
ノアが無事に産まれた時は、胸がいっぱいで涙が止まらず、セドリックや王妃殿下を困らせたものだ。
他にもノアを腕に抱かせてもらった時、小さな手で己の指を握ってくれた時、片言でカタリナ様と呼ばれた時……そのどれもが彼女には初めての経験であり、かけがえのない宝物であった。
けれど、そんな愛しい日々ももう少しで終わりを迎えることに、カタリナは気付いていた。
こうしてノアの成長を側で見守ることができるのも今だけなのだ。
一体あとどれだけの時間を彼等と共に過ごせるのか、そう思うとついしんみりとしてしまう。
「……カタリナ様?」
ケーキを一口食べたきり、ぼんやりと宙を見つめるカタリナを、ノアが心配そうに見上げてくる。
ケーキ美味しくなかったかな?
お口に合わなかったかな?
お腹いっぱいだった?
と、これまた分かりやすく顔に書かれている。
「ふふっ、ごめんなさい。ケーキがあんまりにも美味しいので、驚いて固まってしまいました」
「!! そうなんですっ。これはお城のパチシエが作ってくれたんですよ。パチシエの作るケーキはとっても美味しいんです。カタリナ様は、パチシエって知ってますか?」
カタリナが笑って見せれば、ノアもパァッと顔を輝かせ、最近知ったパチシエという存在について興奮気味に語り出す。
新しく知った言葉は、みんなにも教えてあげたくなるものだ。
「パティシエ……なんだったかしら」
「ケーキやクッキーを作ってくれる人のことです! 美味しいものをいっぱい作れて、すごいんですよ!」
「あぁ、そうでした! ノア様は物知りですね」
「へへへ、ぼくも最近教えてもらったのです」
カタリナに褒められて、ノアは照れくさそうに笑う。
その口端についたケーキを拭ってやりながら、実はセドリックもまたカタリナと同様に複雑な心境であった。
ノアがカタリナに懐いていることは、セドリックもよく知っている。
セドリックとノアには姉がいるのだが、ノアがまだ赤ん坊の頃に他国へと嫁いでおり、ノアにとってカタリナは実の姉よりも姉らしい、家族同然の存在なのだ。
カタリナを見かければ嬉しそうに駆け寄り、どこか出掛けた際にはカタリナへの土産を探し、無邪気な顔で「にぃ様もカタリナ様も大好き!」と言ってくる。
そんなカタリナと婚約解消したならば、きっとノアは悲しむだろう。
セドリックだって、カタリナのことは別に嫌いではない。
むしろ好ましく思っている。
好ましく思っているからこそ、弟を悲しませることになったとしても、自分達の婚約は解消すべきだと考えたのだ。
二人の婚約は十年以上前に結ばれており、その間、セドリックはカタリナに散々と迷惑をかけ、苦労もさせてきた。
今では反省し、カタリナとの仲も修復できるよう尽力しているけれど…………潮時だろう。
婚約は解消し、彼女の望むようにしてやりたい。
これはセドリックなりの償いであり、愛情であった。
そしてその結果、ここ最近のセドリックはとある令嬢と親しくし、浮気まがいの行動を繰り返すといった暴挙に出ていた。
カタリナもセドリックの行動には気付いているし、カタリナどころか城で働く使用人の間でも噂が広まりつつあった。
当然、国王陛下と王妃殿下の耳にも入っている。
「まぁ男なら浮気の一つや二つ、経験のうちだ」とは、父である国王陛下の御言葉である。
この発言を受けて、王妃殿下は城を揺るがすほどの怒りを露わにし、セドリック自身も久方ぶりに大変なお叱りを受けることとなったのだった。
しかし、それでもセドリックが浮気をやめることはなかった。
今日も今日とて顔馴染みの令嬢を城に招き、先日カタリナとノアとケーキを食べた温室で、知人にしては近い距離で会話をし、あははうふふと笑い合っている。
……と、そこへ近付く、小さな影。
お散歩中のノア第二王子殿下である。
(密会中の二人がいるため)温室に入ってはいけないと言われたが、駄目と言われれば言われるほど抗いたくなるのが人間というもの。
「ぼく、お花が見たいの。ここのお花じゃなきゃいやよっ」
そうして止めに入った従者達を振り切り、ノアは温室へと足を踏み入れた。
基本的には大人の言うことをよく聞き、良い子と評判なノアだけれど、たまに我儘を言ってしまうのはご愛嬌。
だってまだ五歳になったばかりなのだから。
ノアはふんふんと鼻歌交じりに花々を鑑賞し、これはセドリックにぃさまが好きな花、これはカタリナ様が好きな花、なんて考えながら温室の奥へと進んでいく。
後ろで従者があわあわと「ノア様、あちらの花が綺麗ですよ。あ、こちらに行くのはどうでしょう?」などと言って軌道修正しようとするも、もう遅い。
花から花へと目を移したその途中、目に飛び込んできた光景に、ノアは思わず動きを止めた。
ノアの視線の先には大好きな兄セドリックと、初めて見る令嬢の姿があった。
兄とその令嬢はなんだかとっても親しげで、とっても楽しそう。
その光景を前に、ノアはこてりと首を傾げて考えた。
考えて、彼は頭が良いので、すぐに思い至った。
思い至ったら、むきっと目を吊り上げて、飛び掛かる勢いで走り出していた。
「にぃ様!!」
「……あ? ノア? お前、なんでここに」
「えいっ!!」
「うわっ、なんだよ。おい、叩くな、ノア、ノア!」
セドリックに突進し、そのままセドリックの腹あたりをぽかぽかと叩くノア。
全く痛くはないものの、ノアがこんな風に荒ぶる姿を見るのはセドリックも初めてだった。
セドリックはなんだなんだと不思議に思いながら、暴れるノアを無理矢理に抱き上げる。
セドリックの隣にいた令嬢は、口に手をあて、目を丸くして驚いていた。
彼女とセドリックを交互に見て、ノアはむむむと唸った後、セドリックを睨み付けた。
「にぃ様、うわきはだめなんですよ!!」
「えっ」
まさかノアから浮気などという単語が出てくるとは思わず、セドリックは面食らう。
「にぃ様には、カタリナ様がいるではないですか! だから、うわきはだめなんですよ!」
「な、お、の、ノア、浮気なんてお前、どこで」
「それは今どうでも良いのです。にぃ様、カタリナ様にごめんなさいしに行きますよ!」
「はぁ!? 行くわけないだろう!」
「どうしてですか? 悪いことをしたら、ごめんなさいって言わないと」
きょとんとした顔で、本当に不思議そうに問いかけてくるものだから、セドリックはついまごついてしまう。
王族が簡単に頭を下げてはいけない、でも悪いことをした時は別だからな、とノアに言って聞かせたのは、他でもないセドリックである。
その昔、俺は王族なんだぞと威張り散らし、謝ることを知らなかったセドリックは、可愛い弟が己と同じ黒歴史を繰り返さぬよう必死だったのだ。
「いや、その、俺は別に、良いんだよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって、これは別に、浮気じゃなくてだな」
「こんやくしゃ以外の女性と仲良くするのは、うわきだと聞きました。二人きりでこっそり会うのは、うわきではないのですか?」
「……そうだ、浮気じゃない」
「でもここは、にぃ様にとって大事な人しか入れないのでしょう?」
「……彼女は大事な友達なんだ」
大事な友達、とノアは復唱する。
このセドリック専用の温室には、セドリックが許可を出した人間とその従者、そして温室を管理する数人の使用人のみが入室できる。
従者や使用人以外でここに入ることを許されているのは両親とノア、カタリナの四名だけだ。
そこへ新たにこの令嬢が加わった、そういうことなのだろう。
ノアは考えた。
考えて、やっぱりノアは賢い子なので、すぐに思い至った。
思い至ったら、やっぱり我慢できずに、再びむきっと目を吊り上げた。
「カタリナ様と同じくらい大事な女性がいるなんて、それはうわきです! にぃ様、最低です!」
「なっ……!?」
セドリックに抱き抱えられたまま、ノアは背を仰け反らせて嫌々と暴れ始める。
セドリックはノアを落とさないよう腕に力を込めながらも、可愛い弟から最低と言われたことにショックを受けていた。
いつも「にぃ様、かっこいい!」だとか「にぃ様、さすがです!」だとか、そんなことしか言われてこなかかったので、それはそれはショックだった。
「うううううう、降ろして! にぃ様のおバカ!」
ノアはぷりぷりと怒っているが、その一方でだんだんと悲しい気持ちにもなっていた。
大好きな兄が浮気をしている。
それはカタリナを傷付け、裏切る行為だ。
幼いノアには、それがどれだけ残酷な行為であるのか、正確なことは分からない。
けれどセドリックとカタリナ、大好きな二人の関係が壊れてしまう、そんな漠然とした恐怖と悲しみを感じていた。
そして兄を叩き、最低だと言ってしまったことも、徐々にノアを苦しめる。
いつだって自分の味方でいてくれる、優しくて頼もしい兄。
自分が悪いことをした時、兄は自分のことを叩いたり、最低だなんだと罵ったりはしなかった。
「うぅっ……」
ノアの目にじわじわと涙が浮かぶ。
セドリックが「あっ」と思った瞬間、ノアの大きな瞳からぽろりと涙が零れ落ちた。
そのまま次から次へと涙が溢れ出し、ついには声をあげて泣き始めてしまう。
「うあぁぁぁあああん、にぃさっ、にぃさまが、うわちぃぃいいいああああああ!」
「お、おい、泣くな。悪かった、俺が悪かったから……」
泣くなと言われて泣き止める五歳児ではない。
滅多に泣かないノアの涙、それも大号泣する姿に、セドリックは狼狽える。
ノアもノアで、滅多に泣かないので涙の止め方が分からなかった。
「かた、かたりなさま、ううううううう、かた、うぁぁぁああああん!」
上手く喋れないけれど、ノアはどうやらカタリナに会いたいようだった。
泣き声の合間に、カタリナ様、としきりに呼んでいる。
セドリックがノアの頭を撫で、なんとか泣き止ませようとするも、一向に泣き止む気配はない。
セドリックと一緒にいた令嬢もおろおろするのみで何もできず、困ったように視線を彷徨わせている。
「ノア様……?」
そこへ現れたのは、見かねた侍従に呼ばれ、慌てて駆けつけたカタリナだった。
王妃教育のため、タイミング良く王城に滞在していたのである。
ノアはカタリナの姿を捉えると、ジタバタと一層強く暴れ、カタリナへと手を伸ばす。
セドリックが地面へ下ろしてやれば、両手を伸ばしてカタリナのもとへと駆け寄った。
カタリナはドレスが汚れるのも厭わず、地面に膝をついてノアを受け止めた。
そして何事かと困惑した様子でセドリックを見上げ、その隣に佇む令嬢に気が付いた。
令嬢はカタリナと目が合うと、気まずそうに一歩後ずさり、サッと目を逸らす。
王太子の婚約者としてこの国の貴族令嬢は大方把握しているカタリナだが、初めて見る令嬢であった。
一体どこの家の令嬢なのか。
気にはなったけれど、今はノアを落ち着かせるのが先だ。
ノアを見れば、鼻も頬も真っ赤にして泣き続けている。
「あらあら、何か悲しいことでもあったのですか? ……大丈夫ですよ。ここにいるみんな、ノア様の味方ですから」
「か、かちゃ、かちゃりなさまっ、うううう」
「ひとまず中に入りましょうか。もうすぐ日も落ちますし、中に入って甘いケーキでも食べましょう」
「ううっ、ひっく、けぇき」
カタリナの提案に、こくりと頷くノア。
それにカタリナは優しく微笑みかけると、ごしごしと目を擦るノアの手を取り、温室の出口へと向かって歩き出した。
セドリックも一緒にいた令嬢に帰るよう伝え、カタリナ達の後を追う。
向かう先は、ノアが落ち着けるよう、彼の子供部屋を選んだ。
子供部屋には、ノアのお気に入りのぬいぐるみやお城の模型、パズルなどが飾られ、隅にはテーブルとソファも置かれている。
そこに三人はノアを真ん中にして、並んで腰掛けた。
侍従がサッとケーキをセッティングすれば、ノアはひっくひっくとしゃくり上げながらもケーキに手を伸ばす。
「ノア、先に顔を拭け。こっち向いて…………よし。喉に詰まらないよう気を付けるんだぞ」
「ん」
準備されたケーキは口当たり滑らかな、苺のムースケーキだ。
一口食べて、口の中に広がる甘酸っぱさに、ノアの涙はぴたりと止まった。
「おいしいねぇ」
へにゃりと笑うノアに、セドリックとカタリナはほっと息を吐く。
もぐもぐとケーキを食べ、セドリックに言われた通り、喉に詰まらないようジュースも飲んで。
お腹が空いていたのか、あっという間に食べ終えたノアは、満足気に「ごちそうさまでした!」と手を合わせた。
……けれど、何度も言うが、ノアは賢い子である。
自分が何故泣いてしまったのか、先ほど何があったのか、ちゃんと覚えている。
ノアはお行儀良く膝の上で拳を握り、スッと姿勢を正した。
そして至極真剣な顔をして、右隣に座るセドリックを仰ぎ見た。
「にぃ様、うわきはだめなんですよ」
先ほども言われた言葉に、セドリックは飲んでいた紅茶を吹き出しそうになる。
泣いてなぁなぁになるかと思っていたけれど、そんなに甘くはないようだ。
さすがは俺の弟、と感心しつつ、なんと答えて良いものかと頭をひねる。
「こんやくしゃは、大事にしなければいけないと習いました。うわきは悪いことです。うわきする人は人間性? というものが終わっているらしいのです」
「ノア、誰からそんなことを……」
「かぁ様です」
「母上か……」
ノアの言葉に、セドリックは頭を抱える。
国王陛下の浮気に対する発言で、王妃殿下はこれでもかと激怒し、城内は一時騒然としていた。
生家である隣国の王室に戻りかねない勢いだったが、国王陛下が必死に謝罪し、なんとか怒りを沈めることに成功したのである。
王妃殿下はその時、ノアによく言って聞かせていたのだ。
婚約者は大事にしなさい。
他の女の子と仲良くし過ぎてはだめよ。
異性の友達も大事だけど、限度がありますからね。
婚約者以外の女の子と親しくし過ぎると、それは浮気と言ってね、とっても悪いことなの。
お父様みたいに一度ぐらい良いだろう、なんて思っちゃ駄目。
婚約者を傷付けて浮気するなんて、人間性が終わってる証拠よ。
他にも色々言われたけれど、正直ノアには難しい内容であった。
母もカタリナも、今は遠くにいる姉も、ノアにとっては特別大事な女の子なのだ。
もっと言えば身の回りの世話をしてくれる侍女達のこともノアは大好きだし、大事に思っている。
それでも、そんな母やカタリナ達よりも婚約者は大事な存在なのだと、ノアは一生懸命理解しようとした。
今も理解しようとしている真っ最中である。
「にぃ様、悪いことしたら、ごめんなさいしないと」
「いや……それは……」
「ぼくもいっしょに謝ってあげますから」
セドリックがいつもしてくれるように、ノアはセドリックの手を、自身の小さな手できゅっと握り締めた。
昔、王妃殿下が大事にしていた他国の貴重な花を、ノアは全て引っこ抜いてしまったことがある。
本に落書きしたり、嫌いな食べ物を投げてしまったり、勉強から逃れるためにお腹が痛いと嘘をついたこともある。
いずれもやらかしてから後悔し、自分はとんでもないことをしてしまったとセドリックに泣きついた。
するとセドリックは、いつだって優しくノアを慰め、最後には手を繋いで一緒に謝りに行ってくれるのだ。
だから兄が悪いことをしてしまった今、次はぼくが助ける番だ、とノアは密かにやる気に充ち満ちていた。
セドリックとしても、十四も下の弟にこんなことを言われてしまえば、もはや大人しく謝るしか選択肢はない。
「……カタリナ、悪かったな」
「……いえ」
仲直りとは程遠い気まずい空気が流れたけれど、二人の間でノアは嬉しそうに頷いている。
五歳児ゆえ、まだ空気を読むのは苦手なのだ。
そして空気の読めない五歳児は、疑問に思ったことを素直に口にした。
「にぃ様はどうしてうわきしたのですか?」
「どうしてって」
「にぃ様にはカタリナ様がいるのに、どうして? できごころ、と言うやつですか?」
母上は何を教えているんだ……とセドリックは再度頭を抱えたくなった。
「あのな、大人には色々と事情があるんだ」
「じじょう?」
「そうだ、お前も大人になったら分かるさ」
「えっ、ぼくも大人になったらうわきするのですか!?」
「いや、まぁ、するしないは人によると言うか……」
「ならどうしてにぃ様はうわきしたのですか?」
「……」
所謂なぜなぜ期と呼ばれる時期にノアが突入して、もう一年以上が経つ。
なまじ賢い分、生半可な受け答えでは納得してくれず、周りの大人達は四苦八苦していた。
セドリックもどうしたものかと悩んだ末、これを機にカタリナとの婚約解消を仄めかしておくのも良いかもしれない、と考えた。
そうすれば婚約解消となった際、ノアの受けるダメージも少なく済むのではないか。
そう考えて、セドリックは再びノアが泣いてしまわぬよう、慎重に言葉を選んでいく。
「俺とカタリナは婚約者だが、俺達には別に好きな人がいるんだよ」
「えっ」
「えっ」
「え?」
このセドリックの言葉に驚いたのは、ノアだけではなかった。
ノアの隣で話を聞いていたカタリナも驚きのあまり声を上げ、二人同時に「えっ」なんて言うものだから、セドリックも思わず「え?」と聞き返してしまう。
三人ともが驚き、動揺する中、いち早く動いたのはノアだ。
ノアはそっとカタリナから距離を取ると、震える声で問いかける。
「カタリナ様も……うわきを……?」
「え!? い、いえ、私はセドリック様以外に好きな人なんていません。 誤解ですわ」
「本当ですか……?」
「本当です!」
「ふぅ、そうですよね。カタリナ様はいつもにぃ様のこと格好良い、大好きだって言ってますもんね」
「そ、そうです、その通りですわ」
カタリナは頬を赤く染めながらも、誤解を解こうと必死に頷いた。
いつもノアとはやれセドリックのここが好きだとか、こんなところが格好良いだとかを言い合っているので、嘘ではないのだけれど、本人を前にして言うのはなんとも恥ずかしかった。
そんなカタリナの返答にノアは納得した様子だったが、セドリックは違っていた。
チッと小さく舌打ちをし、苛立たしげにカナリナを睨み付けている。
「なんだ、自分だけ逃げる気か」
「逃げるも何も、私は浮気なんてしてませんもの」
「まぁ良い。そうしないと立場が悪くなるからな」
「立場? ……先ほどから何なのですか? 浮気したのはセドリック様なのに、何故私が責められなければいけないのです!」
「っ、俺だってなぁ、したくてしてる訳じゃない! カタリナがアイツと無事にくっつけるよう、気を遣ってやってんだろ!」
「アイツ……? くっつける?」
「あの公爵家の男だよ! お前が言ったんだろ、アイツは特別な存在だって」
二人の間に挟まれたまま、おろおろと会話を聞いていたノアは、セドリックの発した「特別な存在」という言葉に大変なショックを受けた。
セドリック以外に特別な存在がいる、それはつまり浮気である。
カタリナの浮気と、カタリナに嘘をつかれたことがショックで、俯き、肩を落とすノア。
カタリナはしょんぼりと落ち込むノアを気にしつつ、セドリックの発言に動揺していた。
公爵家の男というのは、恐らくカタリナの幼馴染のことだろう。
セドリックは、カタリナがこの男のことを好いていると誤解しているようだった。
誤解、なのだ。
セドリックが好きで、セドリック以外に好きな人はいない。
これはカタリナの紛れもない本心であった。
ならば、セドリックは何故そんな誤解をしているのか。
考えてみれば、カタリナには身に覚えがあった。
カタリナにとって唯一と言って良い、異性の友人。
それが件の公爵令息である。
信頼しているし、同性の友人とは違った視点の話が聞けるので、よく相談にも乗ってもらっていた。
距離が近いと言われることもあったが、下心なんて一切ないので特に気にしていなかった。
世間でカタリナと公爵令息の仲が噂されていることも、知っていた。
知っていたけれど、カタリナにとっては良い友人でしかなく、噂も噂でしかないと気にしていなかったのだ。
『あの男のこと、どう思ってるんだ?』
『そうですね……彼は私にとって大切な、特別な存在ですわ』
ある日、セドリックからの問いに、そう答えた。
幼馴染で、唯一の異性の友人で、信頼もしている。
だからそう答えた。
改めて思い返せば、なんとも誤解を招く言い方であったと、カタリナは顔を青褪めさせる。
所詮噂は噂だと、否定すらしなかったことが悔やまれた。
「特別と言うのは、友人としてです。私は彼以外に異性の友人がいないので……」
「そうか」
「ほ、本当です! 本当に彼のことは友人としか思っていません。私、そんな誤解をされているって気付かなくて……ごめんなさい。でも本当なんです!」
この状況で誤解を解こうにも、言い訳にしか聞こえないだろう。
カタリナは必死に訴えるけれど、セドリックが信じていないことは一目瞭然であった。
しかし、この場でカタリナの言い分を信じてくれる存在が、一人いた。
「じゃあやっぱりカタリナ様は、うわきしていないのですね!」
キラキラと目を輝かせて、両手を上げて喜ぶノア。
無邪気なノアに、カタリナは困ったようにも安心しているようにも見える、複雑な表情で微笑んだ。
もしもノアがいなければ、カタリナは取り乱し、セドリックに泣いて縋っていたかもしれない。
ノアがいて良かったと思うと同時に、幼い彼に助けられたことが情けなくもあった。
「でもカタリナ様、異性のお友達と仲良くし過ぎてはだめなんですよ」
「えっ」
「何事にもげんど? というものがあるのです」
「……そうですね。ノア様の言う通りですわ。いくら幼馴染だからって、限度がありますよね」
「はい。げんどを守らないと、うわきになってしまいますから」
ノアの中でカタリナの浮気疑惑は晴れ、そうなると次に気になるのはセドリックである。
先ほどセドリックは「別に好きな人がいる」と言っていたけれど、もしかするとカタリナのように何か誤解があるのかもしれない。
パッと顔を上げたノアと目が合ったセドリックは、この賢い弟からは逃げられないであろうことを悟った。
「じゃあ次はにぃ様の番ですね! にぃ様はどうしてうわきしたのですか?」
「俺は……」
「ノア様、良いのです。セドリック様の浮気は私のせいなので……仕方ないのです」
「仕方のないうわきもあるのですか? だめなうわきと、良いうわきがある……? んん、うわき、難しいです」
むにゅっと唇を突き出し、眉をひそめるノア。
うんうんと唸るノアを見て、セドリックは己の浮気騒動に幼い弟を巻き込んでしまったことに、申し訳なさを感じていた。
きっとこのままだとノアは、浮気の是非に関して延々と頭を悩ませることになる。
もしかすると王妃殿下のもとへ、良い浮気もあるのか、なんて聞きに行ってしまうかもしれない。
そうなった暁には、確実に面倒くさいことになるはずだ。
それならば、いっそ全部正直に話してしまった方が良いだろう。
「今日一緒にいた令嬢は、なんでも屋なんだ」
「なんでもや?」
「あぁ。金を払って、浮気相手のふりをしてもらってた」
「うわきのふり? どうしてそんなことするのですか?」
「俺が浮気して、俺の有責で婚約破棄になれば、カタリナはなんのしがらみもなく好きな男と一緒になれるだろ」
ノアの後ろで、カタリナがハッと息を飲み込んだ。
十年以上もの間、王太子の婚約者として令嬢達の模範となり、厳しい王妃教育にも耐えてきたカタリナ。
その彼女がこれまでの苦労や、今の立場を捨ててでも一緒になりたいと願う男がいるのなら、セドリックはその願いを叶えてやりたかった。
迷惑をかけてきたぶん、幸せになって欲しかった。
けれど、このままではカタリナの浮気による、カタリナ有責での婚約破棄になってしまう。
王族との婚約を、不貞で反故にするのだ。
そうなれば慰謝料等の負担はもちろん、カタリナの名誉は深く傷付き、酷い醜聞となって、公爵令息と結ばれることすらも叶わなくなるかもしれない。
そこでセドリックは自身の浮気で噂を書き換え、婚約も彼の有責で破棄ができるよう、なんでも屋に浮気相手を依頼した。
主に裏の世界で暗躍する信頼と実績の厚いなんでも屋は、見事に彼の浮気相手を演じてみせていた。
「ゆ、ゆぅせき? しみがら?」
「しがらみ、な。とにかく俺は浮気してないってことだよ」
ずるいと分かりながらも、敢えてノアが理解し辛いであろう言い回しで説明し、言いくるめる。
難しい話にいっぱいいっぱいだったノアは、セドリックの思惑通り「浮気していない」という言葉を素直に受け取り、喜んだ。
初めて聞く単語が気になりはしたものの、兄がそう言うならそうなのだ。
ノアはセドリックの膝の上へと飛び乗り、ぎゅうっとしがみ付く。
「えへへへ、良かったです。にぃ様もカタリナ様も、悪い子じゃなかったんですね」
大好きな兄と、大好きなカタリナ。
二人が浮気をしている、悪いことをしている、そう思うとノアはずっと悲しくて、苦しかった。
だけどそれが勘違いだと分かって、嬉しくて、安心して。
同時に、勘違いから二人を怒ってしまったことが、申し訳なくもあった。
そうした感情を持て余し、セドリックの胸に頭をぐりぐりと押し付けることで、感情を発散させようとする。
「ごめんな。こんなことに巻き込んで」
「ぼく、巻きこまれたんじゃないです。家族が悪いことしてたら、だめだよって教えてあげるのは、当たり前のことですからっ。でもお二人は悪いことしてなかったので……ぼくは余計なことをしてしまいました。にぃ様のことも叩いちゃった」
「良いんだよ。ノアのおかげで誤解が解けたんだ。むしろ感謝してるよ。ありがとな」
「そうですよ。ノア様のおかげで、私は間違いに気付くことができました。ありがとうございます」
当たり前だがセドリックとカタリナの問題は、まだ解決したわけではない。
セドリックはカタリナの言い分を信じきれていないし、カタリナはカタリナで先ほどのセドリックの説明について聞きたいこと、言いたいことが山ほどあった。
しかしこれ以上は、ノアの前で話すことではないと判断した。
そもそも浮気したとかしてないとか、五歳児に聞かせる話ではないだろう。
「えへへ……どうしましまして……」
二人から感謝され、嬉しそうに頬を緩めるノアの目は、もうほとんど閉じかけており、呂律も回らなくなっていた。
疲れと安心感から、一気に眠気が来たようだ。
散歩して、怒って、泣いて、おやつも食べて、大忙しな一日だったのだから仕方ない。
セドリックの腕の中、背中を優しくぽんぽんされれば、完全に閉じられる瞼。
暫く静かにしていれば、すやすやと可愛らしい寝息が聞こえてくる。
その後、セドリックとカタリナは二人きりで改めて話し合いを行った。
二人がどんな話し合いをし、どんな結論に至ったのか、もちろんノアは知る由もないけれど、現在の二人を見る限りそう悪い結果でもなさそうだ。
現在、二人は世間に流れる噂を払拭すべく、今まで以上に仲睦まじい姿を見せており、噂も誤解であると公言している。
頻度の減っていたお茶の時間も、今では週に一度、多い時なんかは週に二度も設けられている。
それらに諸手をあげて誰よりも喜んだのは、言うまでもなくノアだった。
皆に愛され、皆を愛する王家の宝――ノア第二王子殿下。
彼は今日も大好きな人々に囲まれ、大好きなケーキを食べて、元気にすくすくと成長中である。
セドリックは所謂「ざまぁ返しされる王子」の素質が存分にある子でしたが、ノアが産まれたことで自身を顧みることができ、なんとかざまぁ回避することができています。
また、カタリナもカタリナで「王子を盲目に愛する悪役令嬢」の素質があったりなかったり。
ノアは自分の婚約者にも愛情たっぷり、甘々王子になるんだろうなぁ、なんて思いつつ……
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