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書き遺し  作者: 高砂
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後章

 

 突然、その日はやってきた。

「私、結婚することにした。」

 全身鈍器で殴られたのではないかと思うほど、心が悲鳴を上げていた。

「お…めでとう!」

 学生の頃より、断然嘘が上手になった僕は良くも悪くも大人になっていたのかもしれない。心の中の甲高い悲鳴などおくびにも出さず、表面ばかりを取り繕って、自分の心 にでさえ嘘をついた。

「いやー、びっくりしたよ!彼氏がいたのかよ!いや、もう婚約者かぁ?早く言ってくれればよかったのにさぁ。もったいぶっちゃって!てか、いいのかよ、俺と飲んでてさ。」

 涙におぼれた心はもう叫び声もあげられていなかった。

「いいの。いいの。寛容で、やさしい人でさ、心配してくれてるんだけど、俺のエゴで君を縛っちゃいけないよね。なんてさ気遣いもできる人なんだよ。」

「おいおいおい!早々にのろけんなって。後でいくらでも聞いてやるからさ。それより結婚式はやるのか?やるんだったら、呼んでくれよ?盛大に祝ってやるからさ!」

 あぁ。酒が入っててよかったななんて思い、今夜はきっと一人でやけ酒をして、無様に泣くのだろうと未来の自分がぼやけた頭でも容易にわかってしまった。

「おっ!私の意図に気が付くなんて、さすが親友!三か月後の六月中旬にあげる予定だから、一番最初に知らせたかったんだよ!」

 そう言って笑った彼女は今までで一番幸せそうな顔を僕に向けていた。

 彼女の婚約の知らせを受けた時から、彼女が結婚するまでの間が、僕の人生の中で一番荒んだ生活を送っていた期間なのかもしれない。いや間違いなくそうであろう。

 毎晩、酒に溺れて、毎朝、ふらつく体を引きずって出社していた。社会人となって五年目の冬。もうすぐ雪解けの季節が迫っていた。


 あの頃の僕は酒に溺れてはいたが、女性にも、ましてや薬にも走ろうとはしなかった。

 酒に溺れるのも一瞬で、目が覚めてしまえば後悔と懺悔の日々だった。だが、どこかであきらめていた自分がいたのも事実で、いくら良い女性に走ろうが、薬に頼って気を紛らわそうが、きっと僕は満たされないのを知っていたのかもしれない。ただただ、幸せそうな彼女の隣で、彼女を見ていられたなら、友人という形で彼女を見守れたら、それだけで幸せなんだと自分の劣情にお綺麗な理想で蓋をして、咽返るような彼女への独占欲などそ知らぬふりをした。

 彼女の結婚式が刻々と迫る中で彼女の夫となる方に彼女に紹介をされた。誠実そうで、優しい目付きをした茶目っ気のある穏やかな人だ。彼女の友人なら僕の友人だと笑いながら僕に手を差し伸べてくれた懐の大きな人だ。


 それから、彼女と彼女の夫であるRさんの暖かい雰囲気に毒気を抜かれ、完全にあきらめのついた僕は彼らの幸せを傍らで見ていられるのならそれもそれで悪くない人生だと本気で思えるようになっていた。

 もちろん結婚式にもよんでもらい、度々彼らの新居に招かれ、夕食をいただいたりもした。夏には、バーベキューに誘ってもらったりもした。一度は何度も悪いと断ったりもしたが、Rさんは、君がいなけりゃ楽しくないからなんて笑っていた。正直、とても嬉しかった。僕は彼らの傍で、彼らの幸せを見ていられることができることが、それが許されていることが、僕にとっての唯一の幸せだった。

 そんな日々の中で、僕は自分の人生について考えることが多くなっていた。僕もいつか結婚をしよう。彼女への思いさえも包み込んでくれるような大らかで、やさしい女性に出会ったなら、その人だけを懸命に見つめ続け、僕のすべてを捧げよう。

 Rさんが彼女を幸せにするから、僕はもう他の人に目を向けなくてはならない…。


 十年ほどにもわたる長い長い夢から覚める時は来た。初恋は実らない。実る方が稀なのだ。

 彼女はきっと幸せになる。だから、僕もいい加減前を向こう。

 やっと、僕は一歩一歩前に踏み出せるときが来た。恋愛経験は全くないが、彼女以外とだったら何とかなるだろう。なんて楽観視をしながら、心機一転、新たな人生を…易々と歩かせてくれないのが神様なのだろうか。あるいは、こうなる運命だったのか…。どちらにしても笑えないが、もう起きてしまったことは変えられない。 

 悪夢はそう簡単には終わらないから悪夢なのだと、僕を指さし笑った悪魔がそこに立っていた。


「…今なんて言いましたか?笑えない冗談なら、止めてくださいよ…。」

 ぎこちない笑みで、震える声で、僕はRさんの電話に返事を返していた。

「俺も夢であればいいと思いますよ。でも彼女が彼女じゃないようなんです。今朝、体調不良を訴えた彼女を総合○○病院に連れて行ったのですが、お医者さんが言うには、検査して懐妊の旨を伝えたら、何故か錯乱状態に陥ったんだそうです!俺も今しがた彼女と面会したんですが、変なんです。まるで別人だ!どうしたのかと尋ねたのですが、貴方に連絡をしてくれの一点張りで、何が何だか!もしかして、何か隠してませんか?何故彼女は俺じゃなくて、貴方に連絡しろ何ていうのかさっぱりで!」

 ずいぶん慌てているのだろうか、早口で、まとまりのない言葉がRさんの心情を何よりも表しているようだった。

「…落ち着いてください。僕も彼女に会ってみないとこには、なんとも言えません。とりあえずRさんも一回落ち着いた方がいいです。いったん彼女と距離をとってみたほうがいいですよ。俺もすぐ向かいますから…。」


 僕の経験上、嫌な予感ばかりが的中してきたが、彼女がなぜ別人のようになってしまったのかは、“彼女”にとって家族というものがどれほど重荷だったのかを知っていた僕からしたら予感というよりも確信に変わっていた。

 懐妊…彼女だったら泣くほど舞い上がったのかもしれないが、”彼女”にしたら地獄の奥底に落とされたような絶望を味わうに違いない。

 今になって、無くしたすべてを掬い上げてしまうなど…“彼女“は本当に不器用な人間だ。すべて捨て置いたってよかったのに…。

 僕はこの日以上に彼女の天邪鬼な部分を恨めしく思ったことはないだろう。


 幸いその日は日曜日で用事もなかったので、彼女のもとへすぐさま駆けつけることができた。僕が移動中に考えていたことはすべて“彼女”のことだった。 

 今になって…僕を縛り付けるつもりなのか?

 そんな疑問とは裏腹に僕は一種の背徳的な感情を燻ぶらせていた。…また“彼女”の瞳に僕が映るのだと…歓喜していた。


 すべてが真っ白な世界の中で青ざめた顔をした彼女が白いベッドの上で体を起こしていた。そこに、Rさんの姿はなく、彼女に行き先を尋ねると医者に呼ばれているのだと言われた。ひどく静かな空間の中、あの頃の様に彼女はその暗い瞳に僕を映していた。

「ごめんなさい。…傷つけてしまったね。」

 彼女が幸せだったなら、それだけで僕も幸せだと…本気で思っていた。

「いいんだよ。どんな形であれ、僕は君の傍にいられたのだから。それだけで幸せだったんだ。」

 偽善者なのはもう自分でもわかっていた。

「私は、彼を好きに、愛するように、なれそうにない。」

 彼女の独白は僕に向けられ、僕だけに縋っていた。彼女の手を取れば、僕は彼女に受け入れてもらえるような気がした。彼女の独白が罪悪感からでも、助けてほしいからでも何でもいい。彼女の手を取れるのなら、彼女でさえも利用してやろうか…。そんな僕の薄汚い算段を崩したのは、頭によぎった幸せそうに笑う彼女とRさんの姿だった。

「それでも君が愛した人だ。きっと“君“だって気に入るはずだよ。」

 一縷の希望を裁つように、僕は彼女のことを突き放した。

「そうだよね。彼を愛さないと…。」

 諦めたように、決心したように、彼女の薄暗い瞳が細められた。


 彼女を残し、放心状態のRさんと共に病院を後にした。どんな時でもRさんはやはりRさんだった。

「もう、夕飯時だ。一緒に飯、食べていきませんか?」

 僕はその時の優しい気遣いが、Rさんをより一層苦しめていく気がしていた。

「そう…ですね。…それなら僕が知っている彼女のことすべてお話しします。」

 Rさんがそれはありがたいですと弱弱しく言ったことは今でも忘れられない。


 僕は、自分の過去を隠したまま、僕の想いを隠したまま、Rさんに彼女が記憶喪失者であることを語った。あくまで、僕は幼馴染として彼女を支えてきた…親友としての過去を語っていた。罪悪感からか、それとも罪悪感のためか、お涙頂戴な友情劇…馬鹿なシナリオがよくもすらすらと出たものだと心の中では毒を吐きながら。

 Rさんは思いつめた面持ちで、僕の話を真摯に聞いてくれていた。あれほど味のない夕飯はもう一生食べることはないだろう。

「俺は、今はまだ彼女を受け入れられるかわからないけど、きっと彼女を幸せにすると誓ったから…。でもさ、彼女の心が今はひどく遠いような気がするよ。」

「…ゆっくり歩み寄ってやってください。それは、Rさんにしかできないことですよ。」

 僕にはもうその権利さえないと冷めた頭が警告していた。目の前のRさんはありがとうなんて優しい感謝を述べていたが、僕にはそれさえも受け取る権利などない気がした。


 毎週日曜日はRさんの心の整理がつくまでは、僕が彼女へ会いに行ってあげてくれというRさんの願いを受け、日曜日には“彼女“のいる病院へと足を運んでいた。本当にそんな役割を僕に与えても良いのかとRさんに尋ねれば優しい顔できっとそれが彼女のためだと言われてしまった。Rさんの優しさが、Rさんの首に手をかけたようだった。


 それから、高校生の卒業式前日から時が止まってしまった“彼女“の時を進ませるように僕は”彼女”に会い、“彼女”に話しかけ続けていた。


 ある日曜日、僕が彼女にRさんに自身が記憶喪失者であることを伝えていなかったのは、何故かと問えば、彼女はそのことを話してしまったら記憶を無くした自分も記憶を戻した自分もどちらも受け入れてもらえないような気がしていたと”彼女”は語ってくれた。そう思わせてしまった一因が僕にある気がして、自分の軽薄さに後ろめたさを感じた。やはり彼女を苦しめた僕が”彼女”を幸せにしようなど烏滸がましいにもほどがあるのだろうと、その後も“彼女”の手を取ることを頑なに拒んでいた。

 またある時は”彼女“は彼女であった自分がどう見えているのかと聞いたこともあった。”彼女“は全くの別人を俯瞰しているようだと彼女のことを語っていた。

 体調は大丈夫か、何か食べたいものはないか、暇ではないか、何気ない質問を問いかけたりしながら…僕は穏やかな感情で”彼女”との時間を大切にしていた。


 そして、一か月ぐらい経ったころにRさんが彼女のいる病室に顔を出してくれた。酷くやつれたRさんの姿に痛痛しさを感じながらも“彼女”と会話をするRさんの顔には迷いなど見られず、僕は安心感を覚えていた。その時、僕は決心した。いや、決心できた。

 きっと彼なら“彼女”でさえも幸せにしてくれる。僕も”彼女”もきっと前を向けるようになる。

 …そんな考えも自分のいいように思い描いただけに過ぎない未来だと、僕は少しも気づけなかった。


 彼女の病室では穏やかな夫婦の時間が流れていた。そこに空気の様に佇むんでいるのもどうかと思い、区切りのいいところで僕の決意を口にした。

「Rさん、僕は今日で彼女を訪ねるのは最後にします。」

 どうかRさんの優しさが報われますように。彼女が前を向けますように。心の中では言葉にするには照れ臭い思いをつぶやいていた。

「本当にありがとうございました。そうですね、お礼に今日の帰りに何か奢ります。一緒に食べに行きましょう。」

 Rさんは誠実な返事と共に、優しい気遣いまで僕に向けてくれた。

「…それは嬉しい誘いですが、まだ面会の時間はありますし、もう少しここに居てはどうですか?」

 僕はそう言って彼女を一瞥したが…彼女の表情は生気のない顔色をしていた。

「いや、もう妻もつかれているようですからもう帰ろうかと思いまして。」

 Rさんはそれに気づいていたらしい。

「そう・・ですね。では帰りましょうか。」

 僕の言葉に同意しようとしていたRさんの声を遮るように彼女が口を開いた。

「じゃあ。下まで送るよ。今までお世話になっちゃったしね。」

 そんな気遣いにぎょっとした僕とRさんは二人していやいやいやと否定を口にしていた。

「何言ってるの、何だか具合悪そうだし。無理はいけないよ。」

 僕はRさんの言葉に何度も同意をするように小刻みに首を縦に振っていた。

「うーん。でも、下の購買で、飲み物買ってきたいし…。」

「それなら、俺が今買ってくるから、待ってて。」

 Rさん自らが彼女の願いを叶えようと行動しようとするものだから、それにもぎょっとした僕は否定を口にした。

「いやいやいや。僕が買ってきますから。Rさんは彼女の傍にいてあげてください。」

「お世話になったのに、そんな罰当たりなことできませんよ!?」

「いや、罰当たりって、そんな大げさな。」

「いや、恩を仇で返す様なもんじゃないですか。」

「えっ!そんなに!?」

 男が二人して、否の応酬を繰り返していた。

「うーん。やっぱり私が…」

 そして彼女の申し出に、二人の男が、首を横に振っていた。

「じゃあ、二人で行って来てくれる?」

 次に飛んできた彼女の妥協案に、これ以上は無下にできないと思い。男二人で、購買に足を運ぶことになった。

 その後、彼女が要望した飲み物を届け、Rさんと共に彼女の病室を去ろうとしたとき…

「今まで、本当にありがとう。」

 彼女は笑顔で僕にそう言ってくれた。

「あぁ。いいんだよ。お安い御用だ。」

 今までの僕が救われたような気がした。今までの苦労は無駄ではなかったと思えた。そんな思いを胸の内に…最後に彼女への愛を伝えた。

「僕はいつだって…お前の幸せを祈ってるよ。」

「…うん……ありがと。」

 照れ隠しをしたかのような彼女の苦笑は、僕が最後に見た彼女の顔だった。

 もう会うこともない。巡り合うこともない。一生に一度の初恋に…僕は本当の別れを告げた___。


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