第一章 怪盗と修道女
10年くらい前に某小説賞に応募し、1次選考は通過したものの、2次選考で落選した小説です。
その後に送られてきた評価シートには「主人公の能力がチートすぎる」とあったと記憶しています。
今では主人公がチート能力持ちの物語は数多くありますが、当時はこの辺は厳しく見られていたのかもしれません。
またストーリーラインは稚拙で、登場人物の魅力もいまいちだったかなあと思います。
第一章 怪盗と修道女
1
女が舟を漕いでいる。
高波がきたらすぐに転覆してしまいそうな、小さくて飾り気のない小舟である。
幸い、夜の海上に風はなく、波は穏やかそのものだ。
女の名はカタリナという。まだ十七歳くらいの若い娘だ。
彼女は規則的な動作で櫂を動かし、舟を近くの陸に向かってゆっくりと進めている。その視線は切りたった崖の上――目指す聖オリス修道院の方角に注がれている。
そこでは二百名を超す敬虔な修道女たちが共同生活を営み、祈りと労働の精神を育んでいる。
修道院があるのは大陸の北端。冬場は流氷に埋め尽くされてしまう狭い入江と、狩人さえ立ち入らない峻険な山々に挟み込まれた場所にある。
しかし晩秋の今、入江に流氷の影は見あたらない。
波止場に舟を停めると、彼女は修道院につづく長い長い石段を、足音を殺しながら慎重にのぼっていく。侵入をシスターに気づかれたくなかったからだ。
「カタリナ様」
呼ぶ声が聞こえて上を向くと、誰かが階段の踊り場にたっているのが見える。
顔を墨色のヴェールで隠した小柄な少女である。裾の長い濃紺の修道服を着込み、羊の皮でつくった地味な靴をはいている。
「モニカか?」
カタリナが短く訊くと、モニカと呼ばれた少女はヴェールをあげ、嬉しそうに手を振って応える。その顔にはまだあどけなさが残り、白い頬にはそばかすが浮いている。
その愛らしい少女に逢うため、カタリナはここにやってきたのだった。
階段の両脇には荘厳な列柱がたち、二人はその影の中でひしと抱きあう。
カタリナは恋人――否、束の間の遊び相手の腰に手を回したまま、
「逢いたかったよ、モニカ」
と臆面もなく囁く。
その声は女にしては低く、涼やかで、それでいて甘い余韻を残す不思議な声だった。
モニカは夢見るようにうっとりと目を細め、頬を薔薇色に上気させた。彼女は熱い吐息とともに言葉を紡いだ。
「私もです、カタリナ様。今日という日がくるのを指折り数えていました」
「大袈裟だな、モニカは。たった一月逢えなかっただけじゃないか」
カタリナは困ったように笑って身を離し、それから急に真顔になって、
「早速だけど、例の件は調べてくれたかい?」
「あ、はい……。こちらです、カタリナ様」
言うと、モニカはカタリナの手を引いて歩きだす。
階段をのぼりつめ、立派な石造りの門をくぐると並木道にでる。平らな石が敷かれた広い道だ。
落葉の季節ではあったが、木枯らしはまだ吹いていないらしく、頭上に張りだした大枝には紅く色づいた葉っぱが密生している。道は正面奥の聖堂に向かって一直線に伸び、その左手に図書館や寄宿舎が、右手に畑や温室が見える。他に目につくものといえば、敷地をとり囲んだ高い壁くらいだろうか。
日付も変わろうという時刻、寄宿舎の灯りはすでに消えている。宵っ張りな町の娘と違って、修道女の就寝は早い。そして日の出とともに労働をはじめるのだ。
真夜中に酒を飲むのがなによりも好きなカタリナにとって、そんな模範的な暮らしは到底真似できそうにない。もっともだからこそ、こうして忍び込める隙もあるわけだが。
モニカに導かれるまま、カタリナは最も神聖な場所――聖堂に足を踏み入れる。
「へえ……。中はけっこう広いんだ」
そんな呟きがカタリナの唇からもれる。
アーチ型の屋根。太い白亜の列柱が整然とたち並び、それと並行するように木製の長椅子が置かれている。磨き抜かれた床は鏡面のよう。灯りは当然のように消えているが、ガラス張りの天井から蒼白い月光が射し込み、かろうじて歩けるだけの明るさは保たれている。
奥の壇上には石の女神像が鎮座していた。背丈はもう少しで天井に届くほど。こころもち首を傾け、聖典を脇にかかえた姿で優しく微笑んでいる。
モニカは像の真ん前で足をとめ、胸の前で十字を切った。
カタリナは面食らったみたいに口をぽかんと開けた。なんだってこんなところに連れてこられちゃったんだろう、という感じで。
「これは……私にお祈りでもしろってこと?」
「ち、違いますよぅ」
モニカは激しく首を振る。
「この石像こそ、お姉様が探している〈先史の魔人〉の遺体なんです」
「まさか」
驚きにカタリナの声が大きくなる。
翡翠色の目を鋭く細め、石像の脚部にそっと触れてみる。表面は意外なほど滑らかな感触だが、基本的には硬くて冷たい、ごくふつうの石膏でしかない。
「私も最初驚きました。でも物知りな先輩に聞いたから間違いありません。この女神像の中には……あの恐ろしい魔人の遺体が埋まっているんです」
言うと、モニカは寒気を覚えたように身震いする。
カタリナはしばし黙考し、頭の中を整理してから口を開く。
「つまりこういうこと? 魔人のミイラ化した……たぶんしていたはずの遺体を石膏で固め、それを女神のかたちに加工した、と」
「おそらく」
モニカはカタリナの目を見て頷く。
「……うーん。すぐには信じられないけど……」とカタリナは額に手をあてて言う。「でもまあ、ありえない話でもないか」
たしかに、魔人の屍が石像の中に埋まっているなんて、まともな人間ならまず考えつかない。清らかな女神像の中なら尚更だ。なるほど。隠し場所としてはうってつけかもしれない。
カタリナは肩にかけていた鞄を床におろし、中から丸い筒をとりだした。筒には茶色い紙がぐるぐる巻きにしてあり、その先端から白い紐が垂れている。火を点けるための紐、導火線である。
そう。彼女がとりだしたものは爆弾だった。
「やはり……壊してしまうのですか?」
モニカが切なげな声で尋ねる。その顔はいつのまにか蒼褪めている。
「うん」
残念だけどね、という風にカタリナは笑う。
「それが私の仕事だもの。盗むことができれば一番いいけど、さすがにこの大きさでは無理だからね」
「……哀しいです、カタリナ様。そのような罪深い行いをしなければ、院長も寛大な処置をとられたはずなのに」
言いながら、モニカはゆっくりと後ろに下がる。
「モニカ?」
嫌な予感を覚えたまさにそのとき――いくつかある聖堂の扉が一斉に開け放たれた。正面入口の扉、壁側の扉、裏口の扉、そのすべてが勢いよく開放される。
冷やかな夜気とともに雪崩れ込んできたのは、総勢十五名の修道女と、彼女らを率いる痩身のシスターだった。カタリナは眩しいものを見たように顔をしかめる。
「その爆弾を捨て、ただちに投降なさい!」
喉が潰れんばかりの怒声を発すると、シスターは修道女とともにカタリナを包囲し、首筋に槍の切っ先を突きつけた。その殺意さえ込められた兇暴な視線にさらされるうち、カタリナはようやく事態が飲み込めてきた。これはつまり――、
「わ、私をはめたのか、モニカ」
「ごめんなさい、カタリナ様。ごめんなさい」
蒼褪めた顔でそう繰り返しながら、モニカは逃げるように戸外へ飛びだした。
「さあ、爆弾を早く捨てなさい! この槍で喉を裂かれたくなければ」
「くっ……。ここまでか」
カタリナは渋々と爆弾を投げ捨て、その場に両膝をついて無抵抗の姿勢をとる。
荒事には慣れていた彼女であったが、さすがに多勢に無勢、挑むのは自殺行為に他ならなかった。敵が武装しているとあっては尚更だ。
修道女の一人が爆弾を拾いあげる。
シスターはそれを見届けてから、べつの修道女に目配せをする。左手に縄を握った銀髪の修道女だった。その修道女はカタリナの背後に素早く回り込み、
「動かないで」
と短く言った。それからカタリナの両腕を縄できつく縛り、床の鞄を回収する。
真夜中の逮捕劇をしめくくったのは、シスターは高らかな声だった。
「捕らえましたよ、怪盗カタリナ。観念なさい」
2
カタリナが捕らえられてから一夜明けた聖堂――。
例の女神像の前には三つの人影があった。
二人の修道女と、喪服を着た品のよさそうな老婆である。
老婆の表情は暗い。それもそのはず。彼女は最愛の息子を喪ったばかりなのだ。目蓋には泣き腫らした跡があり、顔の血色も悪い。視線は目の前に置かれた棺桶に注がれている。
「ようこそおいでくださいました。修道女のセラと申します」
名乗ったのは銀髪の修道女だった。昨晩カタリナの腕を縛った修道女である。
歳は十七か八。背が高く、目鼻だちがはっきりしている。口許には絶えず微笑が浮かび、それが相手に安心感を与える。瞳の色は黒。しかし角度によっては葡萄色にも見える。髪は長く、後ろで一つに束ねられている。濃紺の修道服に、その美しい銀髪はよく映えた。右手の薬指には黒曜石の指輪がはめられている。
つづいて、もう一人の修道女が挨拶する。
「同じくアンナと申します」
こちらも長身の修道女だった。セラよりも若干大きく、歳も上だ。髪は亜麻色で、前髪をきれいに切り揃えている。顔は可愛いというより、むしろ凛々しいと言ったほうが適切だろう。そして当然のように化粧気がない。
老婆は軽く会釈を返す。
セラは老婆に微笑みかけ、柔らかい声で尋ねた。
「拝見しても?」
老婆は無言で頷く。
了解が得られると、アンナは棺桶の蓋を外し、遺体にかけられた布を静かにずらす。
現れたのは、目を大きく見開いた死に顔だった。その形相には怒りや無念さが込められている。まだ若い、たぶん三十にも満たぬ男だが、ろくな死に方ではなかったことが推察される。
見ていて痛ましい気分になり、セラはアンナに目配せをして棺桶の蓋を閉めさせた。
「息子は殺されたんです」と老婆は言った。「酒場からの帰り道、通り魔に背中を刺されて……即死でした」
「息子さん、生前はどのような仕事に?」
とセラが気遣わしげな声で訊く。
「傭兵です」
老婆は下を向いて答えた。
「金で軍隊に雇われ、戦場で大勢の人間を斬る……。殺し屋同然の商売です」
セラは言葉を挟まず、黙って老婆の話に耳を傾けた。
「惨い戦争から何度も生きて帰ってきたっていうのに……死ぬときはあっけないものですね。あるいは神の御心なのでしょう。この子は人を殺しすぎました。その罰がくだったのです」
「……なるほど。それでここに」
「はい。世界で最も清らかと言われるこの修道院なら、きっとこの子の魂も浄化されるだろうと思って」
老婆は顔をあげ、すがりつくような眼差しでセラの美貌を見あげる。どうかあなたがたのお墓に、この哀れな小羊も加えてあげてください。彼女の潤んだ瞳がそう訴えかけていた。
セラは迷うことなく頷いた。
博愛と寛容の精神をもって、持ち込まれた遺体はすべて引きとるように――と院長から固く仰せつかっていたのだ。
「わかりましたわ。息子さんの遺体は丁重に埋葬いたします」
「ありがとう。頼みます」
老婆の表情が初めて明るくなる。見れば、頬にも赤みが差している。救われたように、と言えば月並な表現になるが、でもそのときの老婆はまさにそういう顔をしていた。
「お役にたてたことを嬉しく思います。神もお喜びになっていることでしょう」
老婆の期待に応えられたことに、セラは至上の歓びを感じたように見せたが、内心では良心の呵責に苛まれていた。「博愛と寛容の精神をもって」というのはあくまで建前にすぎず、遺体を引きとった真意はべつにあるからである。
ありていに言って、セラは老婆を騙したのだった。遺体は丁重になど扱われない。ある目的のために利用されるのだ。他の多くの遺体と同じように……
別れ際、老婆は聖堂の玄関でセラに言った。
「あの……最後に一つ訊いても?」
「はい。なんでしょう?」
セラはとっさに笑みを繕った。あやうく沈んだ顔を見せるところだった。
「うまく言えませんが、あなたからは高貴な人の匂いがします。修道女の中には貴族のご令嬢もいると聞きますが……あなたがそうなのでは?」
「ふふ。ご冗談を。私は百姓の娘です。垢抜けない田舎者にすぎませんわ」
「そうですか。それは失礼。……では、息子をよろしくお願いします」
老婆は頭を下げて言うと、波止場に向かってとぼとぼと歩いていった。午後の北風が老婆の髪を揺らし、喪服の裾をはためかせる。その後ろ姿が完全に見えなくなってから、アンナはぽつりと感想をもらした。
「なかなか鋭いご婦人だ」
そう言って悪戯っぽくセラのほうを振り向く。
「貴族のご令嬢。当たらずとも遠からず、といったところでしょうかね」
「やめてよ、アンナ。くだらない冗談は嫌いなの」
迷惑顔で抗議してから、セラは大きくあくびを膨らます。ゆうべの大捕り物につきあわされたおかげて、朝から眠くて眠くてしょうがなかったのだ。
アンナは「はいはい」と言って大袈裟に肩をすくめ、それから荷車に載せた棺桶を見やる。
「傭兵ですか。ひさびさに使えそうな遺体じゃないですか」
「そうね。あとでメリッサにでも契約させましょう。あの子もようやく術を覚えてきたし」
そう謎めいた会話を交わす二人の前を、両腕を縄で縛られた娘が通りすぎていく。
カタリナである。セラを寝不足にさせた張本人だ。羽帽子に草色の外套を羽織ったその姿は、盗賊というより吟遊詩人のそれに近い。両脇には二人のシスターがついている。その油断ない眼差しは、さながら囚人を監視する看守のようだ。
一方、カタリナのほうはというと、こちらは奇妙なくらい落ち着いていた。あるいはそれは演技にすぎず、本当は胃に穴があくほどの恐怖を感じているのかもしれない。じっさいどうなのかはわからないけれど、その涼しげな横顔を見るかぎり、カタリナの態度はふてぶてしいまでに平然としていた。
「……昨夜の女ですね。名はカタリナ」
「ええ。泥棒の他に、あちこちで墓荒らしもしているそうよ」
「墓荒らし? それはまたどうして?」
「知らないわ。ただそういう噂を聞いただけ」
とセラは首を振って言う。
そんなやりとりを交わすうち、カタリナは聖堂の前を離れ、院長のいる建物に連れていかれた。寄宿舎のすぐ隣にある木造二階建ての四角い建物だ。
「怪盗カタリナ……。院長はどんな罰をお与えになるのやら」
言って、アンナは皮肉っぽく笑う。
「さあね。殺せと命じられれば殺すだけだし、生かせと命じられれば生かすだけよ」
セラは素っ気なく言って髪をかきあげる。私にはどうでもいいことだわと言わんばかりに。
でもそれが本心でないことを、アンナはすぐに見抜く。
「そんな気になりますか? あの女のこと」
「え?」
「隠してもムダですよ。あなたは昔から素直じゃありませんからね。誰かに冷たい物言いをするときは、たいていその人に関心があるんです」
従者に痛いところを突かれ、セラは溜め息をついてうなだれる。
「容姿があの人に……エレノア様に似ているから、少し懐かしくなっただけよ」
「ああ、なるほど。金髪に翡翠色の瞳、たしかに似てなくもない」
アンナは納得して頷く。
「さあ、おしゃべりはこのくらいにして、遺体を早く埋めてしまいましょう。ぐずぐずしてると日が暮れてしまうわ」
言うと、セラは額に手を翳して上空を見あげる。
日はでているが、山には黒みがかった雲が覆いかぶさっている。山頂から吹きおりてくる風も湿り気を帯び、空全体が暗い灰色に変わりつつある。
「少し荒れそうね……」
セラは銀髪を押さえて呟いた。
「おやおや、こいつはまたえらい別嬪さんじゃないか。怪盗っていうくらいだから、もっとゴツイ女を想像していたよ」
カタリナを見るなり、院長のヴァネッサは驚いたように声を大きくした。
しかし本当に驚いたのはカタリナのほうだった。
目を見張るべきは、ヴァネッサの巨躯である。これまでに逢ったどんな女よりも、ヴァネッサの体は大きかった。といっても長身という意味ではない。身長だけならカタリナのほうが上である。だがどちらが大柄かと問われれば、十人中十人がヴァネッサと答えるだろう。
細身のカタリナに対し、ヴァネッサの体は肉づきがいい。よすぎるといっても過言ではないだろう。ネグリジェから伸びる手足は象のように太く、脂肪が二の腕のあたりからでろんと垂れさがっている。顎も首の肉に埋もれている。彼女はベッドの上に横たわっているが、そのベッドも尋常な大きさではない。その面積は部屋の三分の一を占めるほどで、材質も鋼である。木のものでは彼女の体重を支えきれないのだ。
歳はよくわからない。七十すぎの老婆にも見えるし、まだ四十くらいにも見える。赤毛を子どもっぽい三つ編みにし、そのくせ色の濃い口紅をつけている。
右手に握っているのは、どうやら果実酒の瓶のようだ。
「修道院の生活は質素と聞いていたけど……それはデマだったみたいだ」
カタリナはちょっと幻滅して言い、ヴァネッサの前に置かれた木の椅子に座る。
「酒は嫌いかい?」
「まさか。好物だよ」
「ほう。そいつはけっこう。気があいそうじゃないか、私たち」
ヴァネッサは豪快に笑うと、かたわらの修道女を見て顎をしゃくった。まだ十歳くらいの幼い修道女だ。顔が人形のように愛らしく、表情が乏しい。
「おい、このお嬢さんにも葡萄酒をくれてやりな。そうだね……フォルティス産の二十年物を」
「かしこまりました」
修道女は恭しく頭を下げ、壁際の保冷庫らしき棚から酒瓶をとりだした。慣れた手つきで栓を抜き、中の液体をグラスに半分ほど注ぐ。甘い芳香が部屋の中に漂う。
「ねえ、ご馳走してくれるのは嬉しいんだけど、こんな状態じゃ飲むに飲めないよ。縄をほどいてくれないか?」
カタリナはそう言って、縛られた両腕を掲げてみせた。もちろんそれは冗談であって、本当にほどいてくれるなんて露ほども期待してない。
「心配いらない。この子が飲ませてくれるから」
ヴァネッサが目配せをすると、修道女は静々とカタリナに歩みより、グラスの縁をカタリナの唇にあてた。そうしてゆっくりと、少量ずつ、酒をカタリナの口に流し込んでいく。
カタリナはそれを飲み込み、「美味い」と素直に感想を述べた。
「それはよかった」
ヴァネッサは満足げに微笑む。
フォルティス産の二十年物といえば、金持ちしか飲めない希少品だ。まずいわけがない。わからないのは、なぜそんな高価なものを、修道院の院長が所有しているかだ。
ヴァネッサは美味そうに葡萄酒をあおり、からっぽになった瓶を修道女に手渡す。どうやらこの修道女、ヴァネッサの世話役らしい。
「さて、そろそろ本題に入ろうかね」と言ってヴァネッサはげっぷをする。「あんたには二三訊くことがあるが……かまわないよね?」
「いいよ。どうせ黙秘権はないんだろうから」
とカタリナは殊勝に言う。ムダに歯向かうつもりはなかったし、まして逃げだすつもりもなかった。少なくともこのときは。
「ご馳走してくれたお礼に、なんでも答えてあげるよ」
「そいつはけっこう」
と言ってヴァネッサは唇の端をつりあげる。服の襟には葡萄酒の紅い染みができている。
「じゃあ早速訊こうか。どうして聖堂の女神像を爆破しようとした?」
「魔人の遺体を壊すために」
「それは知ってる。私が訊いているのは動機のほうだよ」
ヴァネッサはそう補足する。
カタリナは少し間を置いてから、
「……争いを防ぐため、かな」
と溜め息混じりに答えた。
すると、ヴァネッサはあっけにとられたように口をぽかんと開け、黙ってカタリナの顔を見つめた。たぶん、もっと私利私欲に満ちた動機を予想していたのだろう。
カタリナは軽く息をついてから言葉を継ぐ。
「今さら言うまでもないけれど……蘇生魔法の普及により、各国は今、こぞって死者の発掘に乗りだしている。生き返れば強力な死人兵になるであろう、伝説の戦士や怪物の遺体をね。あんたも噂くらいは聞いてるだろう?」
「一応ね」
ヴァネッサは寝そべったまま頷く。
「南のグランドール帝国では〈黒の教皇〉が、西の騎士団領では〈氷湖の巨竜〉が、そして――近年急速に勢力を拡大している蛮族どもの国・ヴェルニード王国では、あの〈狂顔の魔剣士〉が掘りだされた」
「ヴェルニードっていったら、このオリス山脈のすぐ向こうじゃないか。温厚なユマ国の民を皆殺しにした、野蛮な山岳民族の国家……」
「そう。ヴェルニードがユマを占領したのも、王都にある魔剣士の遺体を奪うためだった。……『鮮血の七日間』。あれは哀しい歴史になってしまった。ユマは最後の最後まで無血主義を貫き、戦争を拒みつづけた。でもその結果、七日のあいだに数千の国民が虐殺された。……最初から、話の通じる相手じゃなかったのさ」
言って、カタリナは窓の外に目をやる。庭の果樹にとまった小さな山鳥が、熟れた果実を熱心につついている。
「でもまあ、世界に教訓は残してくれたじゃないか。この狂った世界で生き残るためには、人は強者にならなければならない、とね。温厚? 無血主義? くだらない。私に言わせりゃ、どっちも阿呆の言い換えだね」
ヴァネッサは冷やかな口調で言う。
その無神経な言い方がカタリナの癪に障った。そして苛立ちを抑えた声でつづけた。
「ヴェルニードの次なる標的は、この修道院に眠る〈先史の魔人〉だ。私はこの地を第二のユマにしたくない。だから――」
「魔人を爆破しようとした、ってわけかい?」
カタリナは真剣な顔で頷く。
「私が世界各地の墓を荒らし、そこにある死者の遺体を壊して回ってるのも、この世から争いの種を失くしたいからさ」
「……なるほどね。あんたは立派な義賊だよ、カタリナ。でも余計なお世話さ。そんな安っぽい正義感で、あの魔人を壊してもらいたかないね」
とヴァネッサは吐き棄てるように言う。
「自分たちだけが戦いの外にいられると思うか? もしそうなら考えを改めたほうがいい。修道女だろうが聖女だろうが、血に飢えた蛮族どもには関係ない。敵は必ずここにやってくる。命が惜しければ、あの魔人を早めに手放すんだ」
カタリナはそう語気を強めて諭す。
すると、ヴァネッサは笑いをこらえながら「ぷぷぷ……」と吹きだし、やがて我慢できずに、
「あははははははははははははははははっ!」
「な、なにがおかしい?」
突然の哄笑の意味がわからず、カタリナは侮辱された気がして頬を染めた。
「私たちが戦いの外にいると思ってるのは、むしろあんたのほうじゃないのかい? カタリナ」
目に涙を溜めたヴァネッサが、逆にそう尋ね返してくる。
「考えてもみなよ。こんな人里離れた僻地に、うら若き乙女が何百と暮らしてるんだ。邪まな連中がやってきたって不思議じゃない。略奪のために、信仰を踏みにじるために、そして乙女らの純潔を奪うために……。なのに、なぜ今の今まで好色な男どもの餌食にならなかったと思う? なぜ襲撃された記録が一つもないと思う?」
「なぜって……」
言いよどむカタリナに、ヴァネッサは薄い笑みを浮かべて教えてやる。
「それはね、私たちがぜーんぶ闇に葬ってきたからさ」
「や、闇?」
呟いた瞬間、カタリナの背筋に冷たい汗が流れた。
見ると、自分をここに連れてきたシスターも、世話役の修道女も、声をあげずにクスクスと笑っている。どことなく悪魔的なものを感じさせる、不気味で謎めいた薄ら笑いだ。いったいなにがそんなにおかしいのだろう?
「ここの修道女をなめないことだね、カタリナ――」
◇
修道院の北には小高い丘があり、頂には夥しい数の墓標がたち並んでいる。
このあたりでは最も見晴らしのいい場所である。
通路には砂利が敷かれ、その周りを晩秋の白茶けた芝生が覆っている。
墓地の一画に傭兵の遺体を埋めると、セラはスコップを置いて額の汗をぬぐった。その顔はなんとなく浮かない感じで、口からは溜め息ばかりもれている。
「あんまりいい気分はしないわね」
「服が汚れるからですか?」
訊きながら、アンナは墓穴に盛った土を平らに踏み固める。
「違うわ。あのお婆さんを騙したことについてよ」
セラは呆れたように言う。胸は罪悪感でいっぱいだった。できれば老婆のあとを追いかけ、真実を洗いざらいぶちまけてしまいたかった。そうすれば胸のつかえがおり、いくらかマシな気分になれるのに。
でもそんなことはできっこない。老婆の乗った船はすでに出航してしまったし、なにより修道院に対する重大な背信行為になる。今までの恩義を思うと、自分だけ善い子ぶったまねはできなかった。
「あなたはどうなのよ? アンナ」
「まあたしかに、遺体をいろいろと利用するわけですからね。心が痛まないと言えば嘘になります」
アンナはいったん言葉を切ってから、
「でもいいじゃないですか。本人は満足したみたいだし。今頃船の中で、息子が安らかな眠りについたと安堵してますよ」
「そう割りきれれば楽なんだけどねぇ……」
セラは嘆息をもらして頭を振り、それからべつの墓に歩みよった。
丘の外れに建てられた、まだ比較的新しい墓である。
セラは墓碑の前で膝をつき、両手を組んで静かに死者の冥福を祈った。
墓の下に眠っているのは、彼女にとって特別な死者だった。だからこそ、ときどきそうやって祈りを捧げたり、林で摘んできた草花を供えたりする。
「あなたが可愛がっていた狼、フェルゥの墓ですね。やはり今でも懐かしいですか?」
やってきたアンナがそう尋ねる。
「そりゃあね。……けど、この子だけはどうしても蘇らせることができないの。あの美しいたてがみに、もう一度触れてみたいのだけれど」
セラはゆっくりと目を開け、たちあがってアンナのほうを振り向く。そしてある異変に気づいて息を呑む。
「ん? あれって……」
波止場の向こう――岸から遠く離れたところに青黒い影が見えた。
船だろうか?
数は一つ。絶壁に挟み込まれた入江にちょうど差しかかろうというあたりだ。
アンナも海のほうに視線を飛ばす。
少しすると、彼女の眉が険しげによせられた。その面持ちはいつになく緊張している。
「あの黒い帆船。ヴェルニードの船ですね。ここにくるつもりでしょうか?」
国の名を耳にすると、セラの顔がにわかに気色ばむ。
「ヴェルニード……。ターシャの国を滅ぼした奴らか」
「ユマ国ですか? まあ、たしかにそういう話ですね」
「……ふん。下賤な山猿ども。ここになにしにくるというの?」
セラは不快感をあらわにし、それまではめていた農作業用の手袋を放り投げた。アンナ、と彼女は重みのある声で従者の名を呼んだ。
「イネドの棺を用意して」
途端、アンナの顔が強張る。
「仇討ちでもはじめるつもりですか?」
「さあ。なりゆき次第ね」
不敵に笑うと、セラは修道服の裾をまくって猛然と丘を駆けおりていく。
「お、お待ちください、セラフィム様!」
アンナも血相を変えて主人のあとを追いかける。
これから長い戦いが幕を開けるとも知らずに――。
◇
……セラとアンナが去ったあと、丘でも一つ異変が起こっていた。
あの狼の墓碑が突如揺れはじめ、土の中から毛むくじゃらの脚が生えてきたのだ。
それは獣の前脚に他ならなかった。
脚には三本の爪がある。鉤状の鋭い爪だ。爪は地表の芝をがっしりとつかんでいる。
墓穴から這いでてきたのは、体が獅子のように大きい灰色の狼だった。額から背中にかけて黒いたてがみが生え、脚の筋肉が異様なまでに盛りあがっている。牙は長く、体毛は短い。
狼は二度ほど身を震わせ、体についた土を勢いよく振い落す。それから放心したように空を見あげ、心細そうにくぅんと鼻を鳴らす。
自分の身になにが起きたのかわからない様子だった。
狼――フェルゥはあてもなく墓碑の周りを歩き回り、ときおり立ち止まっては遠くの山並を眺め、また所在なさそうにうろうろする。
その無為な行為を何度か繰り返したのち、狼の顔がぴくんとあがる。濡れた鼻をひくひくと動かし、懐かしい匂いを嗅いだみたいに目を細める。
視線の先には修道院があった。
七年前、フェルゥが大勢の修道女たちに看とられ、死んだ場所である。
彼は小さく首を傾げる。
あそこに行けば、自分は飼い主に逢えるだろうか?
そう考えているみたいに。
やがて、フェルゥは鈍重な足どりで丘をくだりはじめる。大地の感触を確かめるように、芝生を一歩一歩踏みしめながら……。
3
「セラお姉様!」
並木道で声をかけられ、セラはふと足をとめた。
アンナの声ではない。セラの指示により、彼女はべつの場所で待機している。
振り返ると、ターシャが息せききって駆けてくるのが見えた。淡い金髪を腰のあたりまで垂らした、二つ年下の少女である。
セラに追いつくと、ターシャは「あれを!」と言って正門のほうを指差した。
広い敷石道の上を、初めて見る半裸の男たちが闊歩していた。数は五。褐色の素肌に鉄の胸あてをつけ、腰に獣の生皮を巻いている。着ているものといえばそれだけだ。秋も終ろうという時季には酷な服装であったが、男たちは寒がる様子もなく、えらくゆったりした足どりで歩みよってくる。
「ヴェルニードの使者です」
言って、ターシャは憎々しげに来訪者を睨んだ。国を滅ぼした連中を前にし、復讐の好機と考えているのか、彼女の右手には剣が握られていた。女の腕でも扱える細身の剣だ。
武器を持っているのはセラも同じだった。セラは修道服の上から革のベルトを巻き、そこに一振りの長剣を差している。ここへくる途中、寄宿舎の部屋から持ってきたものだ。こちらはターシャの剣よりも一回り大きく、鞘にも美的な装飾が施されてある。
「ターシャ、あなたは寄宿舎に戻りなさい」
「そ、そんな! 一族の仇を目の前にして、私に退けと言うのですか?」
ターシャは激昂して頬を染めた。瞳には殺意の光が漲っている。少し前まで、彼女は蟲も殺さないような優しい娘だった。なのに、憎しみがすっかり彼女を変えてしまった。
見ていて胸が苦しくなり、セラは溜め息をつきながら頭を振った。
「いけないわ、そんな風に殺気だっては……。穏便に済むものも済まなくなってしまう。今日のところは私に任せて。ね?」
「で、では、せめて一太刀だけでも!」
「ダメよ。なにもしないと約束なさい。少なくとも、私がいいと言うまでは。でなければ、一緒にくることは許しません」
セラが強い調子で言うと、ターシャはつらそうに下を向いた。「……わかりました」と彼女はやがて承服した。
セラはターシャの体をそっと抱きしめ、「いい子ね」と囁いた。それから男たちのほうへと近づいていく。
間近で見ると、ヴェルニード人の体は実に大きく、そして逞しかった。太い首、ごつごつした肩の筋肉。腹筋もきれいに割れている。彼らは己が肉体を誇示するように胸を張り、大きく腕を振りながら歩を進めている。皮膚には戦いの痕――剣で斬られたような古傷がいくつも走っている。兜や胸あても一部ひしゃげていたが、みすぼらしい印象は少しもなく、かえって歴戦の猛者としての貫録を漂わせている。
男たちとの距離が詰まると、セラは立ちどまって口を開いた。
「ここは清廉なる神の御許。そのような物騒なものを持ち込まれては困ります」
セラが言っているのは、男たちの背にある大斧のことである。
「ほう……。ならば聞こうか、銀髪の娘よ。我々の斧を物騒というなら、おまえの腰にぶらさがっているものはなんだ?」
先頭のヴェルニード人が問い返す。顎髭を伸ばした黒髪の男である。歳は四十前後で、使者たちの中では最も年長に見える。胸板が厚く、毛がもっさりと生えている。
「聖剣。悪魔祓いの儀式に使うものですわ」
セラがしらばっくれて言うと、髭の男はつまらなそうに耳たぶを掻く。
「戯言につきあっている暇はないんだがな」
「左様でございますか。ならば単刀直入にお訊きましょう。ご来訪の意図は?」
セラがそう訊くと、髭の男は前歯を剥いて笑い、
「欲しいのは〈先史の魔人〉だ。ここにその遺体が安置されているはずだ」
「魔人? ……はて、なんのことでしょう?」
「死にたくなければ、我々をあまり怒らせないことだ」
言って、男はずた袋の中から――なんと人骨をとりだし、それをセラの眼前に突きつけた。部位は頭部。生前に拷問を受けたのか、こめかみや眼窩のあたりが陥没している。
「ユマの民ですね」
セラの表情は変わらない。けれどもその胸中は穏やかなはずがない。腸も煮え繰り返っている。
「そう。王妃の頭蓋だ。なかなかいい女だったよ。殺すのが惜しいくらいだった」
髭の男は涎をすすり、舌で王妃の骨を舐めた。唾液をだらしなく垂らし、顔に恍惚の笑みを浮かべる。
一頻り愉しむと、男は手の甲で涎をぬぐい、その哀れな骸骨を美術品のように鑑賞した。
「な、なんという冒涜! この野蛮人が――」
斬りかかろうとするターシャの手首を、セラが素早くつかんで制した。彼女の気持ちはよくわかるが、男を殺せばヴェルニードと抗争になる。それだけは避けたかった。
「やめなさい。これは命令よ」
「くッ……」
不満そうに歯噛みしながら、ターシャは抜きかけた剣を鞘にしまった。
「ふふ。血気盛んな娘だ。しかし気が強い女は嫌いではない。どうだ、俺の妾にならんか?」
「だ、誰がおまえなんかの!」
「ターシャ」
再びいきりたつターシャを、セラが目の力で抑え込む。そして男に向き直って尋ねる。
「魔人を差しだす見返りは?」
「なにもない。強いて言えば、おまえらに乱暴しないことか」
髭の男は薄く笑い、骸骨を袋の中にしまう。彼はこう告げているのだ。要求を拒めば、身も心もズタズタに引き裂いてやる――と。
それは交渉ではなく、単なる脅迫であった。しかしムダな争いを避けられるなら、要求を飲んでもいいのではないかとセラは考えた。
癪だが、この山猿どもは危険だ。当初の予定どおり、できれば穏便に済ませたい。
「……いいでしょう。魔人のもとへ案内します。どうぞこちらへ」
言って、セラは使者たちを誘導する。
「ふふ。賢明な判断だな」
髭の男は勝ち誇った笑みを浮かべた。
案内した先は聖堂の裏手――井戸があるところだった。
井戸の向こうは石の防護壁で、他にめぼしいものはなにもない。壁に沿って植えられた灌木と、小さな納屋があるだけだ。
セラは納屋の戸を開け、中に入った。そこには鍬などの農具が積み置かれてある。肥やしの袋も見てとれる。でもそれだけだ。魔人の遺体はない。
「どういうことだ? 遺体などないではないか」
と髭の男が言う。
セラは無言で建物の奥を指差す。
見れば、地面に金属の蓋が埋められてあった。大きな正方形の蓋である。
「この下にあるのか?」
髭の男はとってをつかんで蓋をずらす。その下にはぽっかりと穴があいている。穴は底が見えないほど深く、冷やかな空気が黴の匂いとともに漂ってくる。穴には石の階段が設えてあった。そう。地下への階段である。
「なるほど……。地の底に隠したか」
髭の男は感心したように顎をさする。
それについてはなにも言い返さず、セラは壁に吊るしてあるランタンを手にとった。種火を入れ、「こちらです」と男たちを促す。そしてさっさと階段をおりていく。
男たちも置いていかれまいとあとを追う。最後にターシャがつづく。
穴には濃密な闇が満ちていた。ランタンの灯りがなければ歩けないほどだ。湿った空気が首筋をなで、靴底から石の冷たさが伝わってくる。階段の幅は狭く、人ひとり通るのがやっとだ。しばらくおりていくと、外の物音は一切聞こえなくなる。
「ここには幽霊が住みついてるんです」
とセラは唐突に言った。
「怪談か? ……くだらん」
と髭の男は言い捨てる。その声はかすかに震えている。暗いので表情は読みとれない。
「いいえ。本当の話です。納屋に入ると、ときどきここから物音が聞こえたり、蓋がカタカタと揺れるときがあるんです。背中になにかの気配を感じるときもあります。ある修道女などは、幽霊に階段から突き落とされ、顔を七針縫うほどの大怪我をしました。……ほら、あれがそのときのものです」
セラは足をとめ、ランタンの灯りを石段の端に投げかける。そこには黒ずんだ染みができていた。血の痕に見えなくもない。
「魔人の亡霊がいるとでも?」
「さあ。それはわかりません。ですが、ここを通る際にはできるだけ早足で歩くことにしています。でないと、なにか不吉なモノに追いつかれてしまいそうで」
言葉を終えると、セラは再び階段をおりていく。先ほどよりも明らかに速い歩調で。
すると、男たちの歩みも自然と速まる。途中、男の一人が石段を踏み外し、短い悲鳴をあげた。「なにをしている、莫迦者ッ!」と髭の男が叱った。「だ、だ、誰かが俺の足をつかんだんです」と転んだ男は言った。「そんなはずがあるか」と髭の男が言い返した。二人の声は裏返っていた。
「お気をつけて」
とセラは涼しい顔で言い、そして笑った。
やがて階段が終わり、だだっぴろい空間にでた。
待っていたのは、目深にフードをかぶった七、八人の修道女だった。セラが事前に集めておいたのだ。中にはアンナの姿もある。
部屋は広く、壁の窪みに何本もの白い蝋燭がたっている。その火が集まった人間を照らし、壁に大きな影が映り込んでいる。火の揺らめきにあわせ、影はそのかたちを微妙に変える。
奥には黒い棺がある。石の台座に置かれた大きな棺だ。通常の倍とまではいかないにせよ、かなり大きなものであることに間違いはない。
セラが無言でアンナを一瞥すると、アンナは主人の意を汲んでこくりと頷き、静々と棺の蓋をずらした。
男たちも棺のそばに群がり、固唾を呑んで中を覗いた。
棺には、一体のミイラが納められていた。干からびた骨は茶色く変色し、だいぶ脆くなっている。虫除けの薬が塗布してあるのか、きつい匂いが鼻の奥を刺す。
また、ミイラには真っ赤な鎧が着せられていた。棺の底には剣も置いてある。刀身がまな板のようにぶ厚い特大の剣だ。
それを見た途端、男たちは違和感を覚えたように首を傾げた。死んでから相当の時間が経った遺体に比べ、剣と鎧が妙に新しかったからだろう。まるでつい最近着せられたもののように、その表面には眩しい光沢がある。
「これが〈先史の魔人〉か……。小さくはないが、思ったより大きくもないな」
と髭の男が言う。それから妥協したように、
「まあいい。想像と現物は違うものだ。とにかくこれを持ち帰るとしよう」
「お帰りいただけるのですね?」
「ああ。しかしもう一つだけ欲しいものがある」
「魔人以外にも、ですか?」
セラが眉をひそめて訊く。
「そうだ」
言って、髭の男は乱暴にセラの手首をつかみあげる。
「おまえもこい、娘。その美しさ、気に入った。俺の女になれ」
「なにもしない約束では?」
「笑止。あんな言葉を真に受けるとはな」
「……そうですか。約束を守ってくれれば見逃すつもりでしたが、仕方ありません」
セラはうんざりして息をつき、それから張りのある声で、
「目覚めなさい、イネド」
と言った。
すると、棺の中のミイラが小刻みに揺れ、蒼白い光を放ちはじめた。
訪れた変化は驚嘆すべきものだった。干からびたはずの遺体に肉と骨が蘇ったのだ。しなやかな筋肉が骨を覆い、頭皮から紫紺の髪が生えてくる。
棺からのろのろとおりてきたのは、年若い戦士風の女だった。彫り深い顔だちで、背は男たちよりも頭二つぶん大きい。ほとんど人間離れした背丈だ。肩幅が広く、太腿の筋肉も発達している。
女は眠そうにあくびをしてから、首の関節を二度三度と鳴らす。
「ひさしぶりね、イネド」
そう気軽な感じで声をかけながら、セラは男の手を振り払う。
「あらら、セラフィムか。なーんか嫌な予感がするなぁ。お嬢が私を蘇らせるときは、決まって厄介な問題をしょい込んでるからね」
イネドと呼ばれた女は怪訝そうに顔をしかめる。
「こ、これは蘇生魔法っ。貴様、ネクロマンサーか!」
興奮した髭の男が斧を構え、それを勢いよくセラの脳天に振りおろす。
絶体絶命と思われた次の瞬間、
「………………ありがとう。助かったわ、イネド」
セラが安堵の笑みを浮かべて礼を言う。
刃が脳天に達する寸前、イネドが手甲で受けとめたのだ。常人なら一撃で腕の骨が粉砕されるところだが、イネドはまったくの無傷で、呑気そうに頬を掻いている。そして男の手からひょいと斧をとりあげると、それを部屋の隅っこに投げ捨てた。がちゃんという耳障りな音。イネドは腰に手をあてて文句を言った。
「どこの誰だか知らないけど、女の子にそれはないんじゃないの? ね? お嬢」
「こ、こいつ!」
髭の男はイネドにつかみかかったが、イネドに軽く腹を殴られると、男はたちまち膝をついて呻いた。自慢の腹筋もイネドの怪力の前では役にたたない。男は四つん這いの姿勢で胃液を吐き、忌々しげにイネドを睨みあげた。
「さすが先史の魔人……。たいした力だ。大王が欲しがるのも頷ける」
「魔人? 私が?」
イネドはきょとんとした顔で自分を指差した。腕を組み、少しのあいだ沈思黙考。それからぴんときたように片方の眉をつりあげ、流し目でセラを睨んだ。
「お嬢、私をこいつらに売ろうとしたの? 魔人だと偽って」
「う、うん。まあ、なりゆきで……」
セラは答えにくそうに目を逸らす。
他の修道女も気まずそうに下を向く。
「そういうの詐欺って言わない? ねえ」
「悪かったわ。でもうまく誤魔化せると思ったのよ」
「ご、誤魔化せるわけないじゃん! こんな可愛い私を、魔人だなんて」
悲哀に満ちた声で言いながら、イネドはその逞しい胸板に手をあてた。
「ひでぇなあ、ほんとにひでぇ。前から言おう言おうと思って言わなかったけど、今日だけは言わせてもらうよ。あんたやっぱり、血も涙もない女だわ、お嬢」
「イネドならどこへ行ってもやっていけると思ったのよ。あなたは強い人だから」
そうセラはなだめたが、イネドの機嫌はちっとも直らなかった。
この大柄な女戦士、見かけによらず乙女なのだ。優しく扱われないとすぐに不平を鳴らし、場合によっては泣きだしてしまうこともある。その気性は我儘なお姫様とおんなじで、一緒にいて気疲れしてしまうこともしばしば。ちなみ甘いお菓子が大好きで、趣味は編み物だ。
「……ったく。褒められてんだか、ないがしろにされてんだか」
イネドは愚痴っぽく言って口を尖らせる。
「どういうことだ? こいつは魔人ではないのか?」
「だからそうだって言ってるじゃないか。私の名はイネド。三百年くらい前、この地で死んだ戦士だよ」
「た、たばかったな!」
涼しげに微笑むセラに、髭の男は膝をついたまま怒声をあげる。
「お互い様でしょ。薄汚い山猿ども」
セラは剣を抜き、その鋭い切っ先を男の首に突きつけた。皮膚がわずかに裂け、そこから赤い血が流れだす。男の顔が凍りつく。
セラの動きに呼応し、ターシャをはじめ、他の修道女もめいめいの武器をとりだし、統制された動きで残りのヴェルニード人を包囲する。中には逃げようとする者もいたが、イネドがすかさず腕をつかみ、壁に荒っぽく叩きつけた。
「よせ! 自分がなにをやっているのかわかってるのか?」
髭の男が引きつった顔でわめく。
「わからないわね。教えてよ。私はいったいなにをしているの?」
「我らはグラニカ大王の使者だ。我らを殺すということは、大王に弓引くことと同義。それでもいいのか?」
そう訊かれ、セラは意見を求めるように他の修道女たちを見やった。異議を唱える者は誰もいなかった。この瞬間、セラの行動は修道女たちの総意になった。
セラは小さく息を吸い込み、これから自分たちがやろうとしていることと、それがもたらす困難について考えた。男が言うように、使者を殺せばヴェルニードと抗争になるだろう。何百――否、何千もの兵士がこの修道院に押しよせ、悲鳴や歓声が飛び交う中、大勢の人間が血を流し、命を落とすだろう。
しかし魔人を渡したらどうなる? 強力な死人兵を手に入れたことで、ヴェルニードはその版図をさらに広げるべく、次々と近隣諸国を蹂躙していくだろう。
セラは吸い込んだ息を吐きだし、剣を高々と振りあげた。
やはり魔人は渡せない。たとえ惨たらしい死が待っていようと、世界に悲劇の種はまけない。ユマも戦うべきだったのだ。死者を戦いの道具にするという冒涜の時代にあって、外道に怪物の遺体を渡さないことが、それを管理する者の使命なのだから。
「しょ、正気か? 皆殺しにされるんだぞ!」
「……かもしれないわね」
薄く笑うと、セラは覚悟を決めて剣を振りおろす。肉を裂く感触が掌に伝わり、男の首から夥しい量の鮮血が噴きだす。即死だった。
アンナやターシャも他のヴェルニード人を斬り殺し、部屋は絶叫と血の匂いで満ちていく。
はじまるんだ、とセラは剣を納めながら思った。血に飢えた蛮族どもとの戦いが、この瞬間からはじまるんだ、と。
運命が動きだしていく感覚がセラをとらえる。強烈な悪寒が全身を走り抜け、掌がじわりと汗ばむ。その一方、己の信念を貫いたことに誇りを感じ、妙に清々しい気分にもなる。
もっとも、自分の選択が本当に正しかったのかどうか、セラはまだ自信を持てていない。他にもっと賢い、安全な選択があったのではないか。そんな思いも込みあげてくる。
しかし賽は投げられた。
今さらなにを考えようと手遅れ。もう後戻りはできない。進むしかないのだ。
「お嬢」
呼ぶ声が聞こえてセラはイネドのほうを振り向く。
「どうしたの?」
「すまない……。一人逃がした」
消え入りそうな声で謝罪しながら、イネドは血まみれの腕をセラに見せる。といってもイネドの腕ではない。胴体から無惨に切り離されたヴェルニード人の腕である。切り口からは赤い血が滴っている。
「逃げたのさ。私がちょっと目を離した隙に、自分で自分の腕を斬り落として」
「あなたが壁に押しやった男ね?」
「ああ」
イネドは悔しそうに舌打ちし、男の腕を床に叩きつける。
「すぐに追いかけましょう」
セラは嫌な予感を覚えた。顔が強張っているのが自分でもわかった。
「その必要はないよ。あの出血なら放っておいても死ぬし」
言いながら、イネドはヒステリックに男の腕を踏みつける。床はすでに血の海だ。
「だから怖いのよ。逆上してなにをしでかすかわからないから」
ここには年端もいかぬ修道女もいる。自らの死を悟り、自暴自棄になった男がそういう弱者を道連れにするかもしれない。セラが怖れたのはそういう事態だった。
「しょうがないねぇ」
言うが早く、イネドは納屋への階段を駆けあがっていく。逃がした責任を感じているのか、顔には焦燥の色が浮かんでいる。セラと他の修道女もあとにつづく。
階段をのぼりつめ、納屋から戸外に飛びだす。
地下にいるときは気づかなかったが、外にはいつのまにか雨が降っていた。ぶ厚い鼠色の雲が上空を覆い、ときおり稲光がひらめく。風も強く、横殴りの雨が吹きつけてくる。
体はあっというまにびしょ濡れになり、髪が首筋にへばりついて気持ち悪い。
「いないですね」
言いながら、アンナはきょろきょろを周りを見回す。
セラは地面に目を落とす。
黒々と濡れた石畳の上に、赤い血の痕が滲んでいる。血は雨に洗われてだいぶ薄くなっていたが、その痕跡をかろうじて追うことができる。
「見ろ、お嬢!」
イネドが男を指差して叫ぶ。
見ると、男は院長の建物に踏み込もうとしていた。やはり地獄への道連れを探しているのか、出血でふらふらになりながらも、残ったほうの腕には斧が握られている。建物にはヴァネッサとシスター、世話役の修道女、そしてカタリナがいる。
シスターはともかく、残りの人間に戦う力はない。カタリナにはあるかもしれないが、今は両腕を縛られ、自由に動けなくなっている。巨体のヴァネッサにいたっては、脚が自らの体重を支えきれず、一人で歩くことさえままならない。男にとっては絶好の獲物だ。
「ヴァネッサ様!」
胸騒ぎに襲われ、セラは水溜りを蹴って駆けだす。
指導者の名を叫びながらも、なぜだろう、頭に浮かんだのはカタリナの顔だった。
4
「院長、こちらにやってくるヴェルニード人がいます!」
「とり逃がしたのか……。厄介だね」
シスターの報告を受け、ヴァネッサはやれやれといった感じで溜め息をついた。
「だから言っただろう。奴らは必ずやってくる、と」
椅子に深く腰かけたまま、カタリナは言う。
予想どおりの展開だっただけに、今さら慌てふためくということはない。
だが、全てが予想の範囲内というわけではなかった。いつかやってくるとは思っていたが、まさかこんなに動きが早いとは思わなかった。
ユマを攻め滅ぼし、その猛威を大陸中に知らしめたことで、ヴェルニードは列強に目をつけられるかたちになった。中でも大陸の三分の一を国土とする大国中の大国、グランドール帝国では、臣民のあいだでヴェルニード討伐の声が高まっていると聞く。もはや戦争は避けられない。迎え撃つヴェルニード側としても、早急に戦力の増強を図りたいのだろう。
「まるで他人事みたいな言い草だね、カタリナ。男がここにくれば、あんただって無事じゃ済まないんだよ?」
「そう思うなら、私の縄をほどけ。このままむざむざやられたくない」
「ダメだ。あんたをまだ信用したわけじゃない」
ヴァネッサは要求を斥け、窓辺から外を見張っているシスターに向き直った。
「やれるかい? シスター」
「深手を負っているようなので、おそらく」
「頼んだよ」
「はい」
恭しく一礼すると、二人のシスターは剣を携えて部屋をでていく。その表情に恐れの色はなく、唇を気丈そうに引き結んでいた。
二人が階下に消えると、幼い修道女は部屋の扉に閂をかけた。シスターの実力を過小評価したわけではないのだろうが、一応もしもの場合に備えたのだろう。幼いわりに機転が利く。あるいは襲撃を受けた際にはそうするよう、日頃から訓練されているのかもしれない。
「ウェンディ、あんたは私の下に隠れてな。決して音をたてるんじゃないよ」
「はい」
院長の言いつけを素直に聞き、ウェンディと呼ばれた少女はベッドと床の隙間に潜り込んだ。ベッドの端には派手な桃色のフリルがついていて、うつ伏せになったウェンディの姿をうまい具合に隠してくれる。
それから少し経つと剣戟の音が耳に届き、さらには絹を裂くようなシスターの悲鳴が響き渡った。
カタリナはやりきれない思いで下唇を噛んだ。ただ、心のどこかでこうなる予感はしていた。敵は屈強で知られる山岳民族。手負いとはいえ、女がたった二人で相手にするのは無謀すぎる。
しかし他人の死を悼むよりも、今は自分の身を護ることが先決だった。
「おい、この縄をほどけ! 戦いに慣れている私なら、助けがくるまで時間を稼ぐことができる。このままでは全員死ぬぞ!」
「残念だけど、それはできない」
「今の悲鳴が聞こえなかったのか? 殺されたんだよ、あのシスターは」
「わかってる。でもできないのさ」
「どうして?」
「……体が重すぎて、一人じゃ動けないんだよ。恥ずかしい話だけどね。起きあがってあんたの縄をほどくなんて、とてもとても……」
「ふ、不摂生にもほどがあるぞ!」
怒りを通り越し、半ば呆れた気分でカタリナは言う。
「ヴァネッサ様、私がカタリナさんの縄を――」
とウェンディがベッドの下で言ったが、時すでに遅く、男が部屋の前までやってきてしまう。
「静かにおし。きたよ」
ヴァネッサの言葉とほぼ同時に、部屋の扉が乱暴に蹴り破られた。閂が真ん中からへし折れ、細かな木の屑が弾け飛ぶ。
現れたのは、片腕を斬られた大男だった。出血のためだろう、顔は蒼褪め、呼吸も荒い。それでいて、口許には笑みが浮かんでいる。獲物を見つけたことが嬉しくて嬉しくてしょうがないというような兇暴な笑みだ。右手の斧にはべっとりと血糊がついている。シスターの血だ。
「おやおや、酷い出血じゃないか。どうだい? 私を見逃してくれたら、その怪我の手当てをしてやろう」
とヴァネッサがとっさに提案したが、予想どおり一笑に付された。
「……ふ。この出血ではもう助からぬ。せめて貴様らを道連れにしてやる」
男が斧を振りかぶり、それをカタリナの頭上に思いきり振りおろす。
カタリナは間一髪のところで斧を避け、床を転がって距離をとる。たちあがり、乱れた呼吸を整える。
このままではマズイ、と本気で思った。両腕は縄で縛られたまま。そのうえ逃げ回れるだけの広さもない。縄を懸命に引き千切ろうとしたが、やはり無理だった。へんな方向に引っ張ったせいで、縄がかえって皮膚に食い込み、指先に軽い痺れが生じている。眉のあいだを冷たい汗が伝う。どうする?
そうこうするうちに、男が蹴りを繰りだしてくる。今度は避けられない。重たい衝撃が腹部を襲い、カタリナの体が部屋の隅まで吹き飛ぶ。歪む顔。込みあげてくる嘔吐感。呼吸が一瞬とまり、それから膝をついて咳き込む。男の斧が再び振りあげられる。カタリナは歯噛みして頭を垂れ、死を覚悟する。
しかしそのときである。
一匹の獣が、突然窓を割って入ってきた。
カタリナはハッと顔をあげた。
そこにいたのは、見たこともない灰色の狼だった。狼は獰猛な唸り声を発して男を威嚇した。口周りの肉がめくれ、鋭い牙があらわになっている。割れた窓から雨風が吹き込み、部屋のカーテンを激しく揺らす。
「こいつは驚いた……。フェルゥじゃないか」
ヴァネッサが目を見張って呟く。
「なんだ、この狼は?」
たじろいだように後ずさる男に、フェルゥが低い体勢から飛びかかる。
それは――ごく短いあいだの出来事だった。
フェルゥは男の肩口に噛みつき、その巨体を駆使して床に押し倒した。彼はいったん牙を引き抜くと、今度は男の喉笛に噛みつき、その肉を躊躇なく喰い千切った。噴きだす鮮血。男は悲鳴をあげるまもなく絶命した。
その一部始終を、カタリナは言葉もなく呆然と眺めていた。状況がまったく読めなかった。この狼が敵なのか味方なのか、それさえもわからない。
だからフェルゥが近づいてきたとき、カタリナは反射的に目を閉じ、両腕で頭を覆った。噛み殺されると思ったからだ。しかしいつまで経っても衝撃は訪れない。
おそるおそる目を開けると、フェルゥはカタリナの真ん前にちょこんとお座りをし、不思議そうに首を傾げていた。どうしてそんなに怯えているの? と言わんばかりに。彼は襲いかかる様子もなく、ただじっとカタリナの目を覗き込んでいた。その眼差しは意外なほど優しい。
試しに手を伸ばしてみると、フェルゥはその手に頬をよせ、満足そうに目を細めた。
ヴァネッサはその光景を見て、
「セラの呼びかけにさえ応じなかったフェルゥが、今になってどうして……」
と独り言のように呟いた。彼女もまた混乱しているようだった。
やがて騒々しい足音が部屋の外から響いてきた。蹴り破られたドアのほうを振り返ると、びしょ濡れになった数名の修道女と、紅蓮の甲冑をまとった大柄な女が部屋に駆け込んできた。
「ご無事ですか? 院長」
そう不安げに訊いたのは銀髪の修道女だった。昨晩カタリナの腕を縛った、たしかセラという名の修道女だ。
「心配ない。ウェンディも無事だよ」
ヴァネッサが言うと、ベッドの下からウェンディが飛びだし、セラの腰にひしと抱きついた。
「お姉様!」
セラはウェンディの体を抱きしめ、ほっと安堵の息をもらす。それから怪訝そうにフェルゥを見やり、
「……ここでなにがあったのですか? ヴァネッサ様。死んだはずのフェルゥが、どうしてここに?」
「そりゃあ、蘇ったからに決まってるじゃないか」
「いったい誰が? 誰がこの子を蘇らせたのですか?」
「カタリナだよ」
そう断言して、ヴァネッサはカタリナを見据える。冗談を言っている目ではない。
「私が?」
「そう。あんたがフェルゥを蘇らせたんだ」
「まさか」
言って、カタリナは頭を振る。
「誰かを蘇らせた覚えはないよ。第一、私は蘇生魔法なんか使えない」
「いいや、あんたは死者を操る者――ネクロマンサーだ。その証拠に、フェルゥはあんたを護った。蘇った死者は術者を護り、その命に従うもんだからね」
「私が……ネクロマンサー?」
カタリナは半信半疑で呟き、蘇った狼の目を見つめる。その黒目がちな瞳には、顔に困惑の色を浮かべた自分の姿が映っている。
主人に見つめられて嬉しいのか、フェルゥは尻尾を振りながら舌をだした。
「セラ。カタリナの縄をほどいておやり」
とヴァネッサはいきなり言いだす。
「危険では? 賛成できません」
「あんた、いつから私に命令できるほど偉くなった?」
「い、いえ。命令なんて、そんな滅相もない」
「なら言うとおりにおし」
「はい……」
渋々承知すると、セラは剣の刃でカタリナの縄を断ち切る。
両腕がやっと自由になると、カタリナはたちあがって背伸びをし、凝り固まった肩の筋肉を揉みほぐす。手首には縄の痕が残り、軽い内出血を起こしている。でもたいしたことはない。それよりも男に蹴られた腹のほうが痛んだ。
「カタリナ」とヴァネッサが改まった口調で言う。「私たちを助けてくれたお礼に、あんたの罪を赦そう。ただし、一つだけ条件がある」
「条件?」
「そう。ここの修道女になり、ヴェルニードと戦うんだ。当然寄宿舎に寝泊まりし、生活をともにしてもらう。ただ、あんたに関しては礼拝を免除するし、面倒なら農作業もしなくていい。信仰は人に押しつけるもんじゃないからね。酒だって好きなだけ飲ませてやる。悪い話じゃないだろう? あんたはあくまで戦闘要員。傭兵みたいなもんさ。自由にやりな。ただ世間体もあるから、おおっぴらに兵隊を雇うわけにもいかない。だから表向き、あんたを修道女ってことにしておく」
「そんな! 私は反対です、院長。泥棒を修道女にするなんて」
セラが上擦った声で異議を唱えるが、ヴァネッサはいっさい耳をかさない。
「いちいちうるさい子だねぇ。私はもう決めたんだ。カタリナをこの修道院に入れるって。ちなみに、部屋はあんたと同じだよ、セラ」
「私と?」
「ああ。この子が善からぬことをしないか心配なんだろう? だったら四六時中ついてておやりよ、同居人として」
「そんな……」
セラの口から絶望的な溜め息がもれる。
「カタリナもそれでいいね?」
意向を確認するヴァネッサの問いに、カタリナは迷いなく頷く。
「私の願いはただ一つ、魔人がヴェルニードに渡るのを阻止したい。それだけだ。本当は爆破したいところだけど、君たちがダメだと言うならしょうがない。護るしかないだろう。そのための戦いに身を投じろと言うなら、私は喜んで引き受けよう。美味い酒もついてるっていうなら、尚更ね」
「へぇ。泥棒のくせに、肝の据わったこと言うじゃないか。気に入ったよ」
ヴァネッサは豪快に唾を飛ばして笑うと、その場にいる全員に言い渡した。
「今をもって、カタリナはここの修道女に――私たちの姉妹になった」