エターナル
少し寒くなって来る秋空。待ち合わせ、午前十時半。駅前南口、可愛い彼女と。
「お待たせ、アキくん」
後ろからそっと肩を叩かれた。舌足らず気味で高めの彼女の声だった。僕は微笑んで振り返る。
彼女は白い薄手のコートに、黒いタートルネック、それにジーパンとシンプルな格好で来ていた。普段は可愛らしい格好だが、動くからだろう。大きめのリュックを重そうに華奢な身体に背負っていた。ロングストレートの髪が、揺れる。
「ううん、待ってないよ。今来たとこ」
「嘘だぁ」
「ほんとだよ。うん、行こうか」
「そうだねー……」
彼女……奥間美和子は少し考えて、僕に聞いた。
「ほんとにいいの? へーき?」
「平気……じゃないけど。大丈夫だよ」
「……そう? わかった!」
そう言って、にっこりと幸せそうに笑う。うん、この顔が見られるなら、僕は何でもできる。なんてったって可愛いのだ。彼女の長いまつ毛は瞼の上で踊っている。
「ワガママ言ってごめんね」
「大丈夫。ちゃんと準備してきたから」
「でも昨日の今日だよ、ほんとに……」
「平気だってば。ほら、行こう?」
僕が手を差し伸べると、美和子は少し照れてうん、と小さい手が僕の手を握る。彼女の手はいつも少しだけ冷たい。
改札をくぐって少し歩いたところで、彼女は小声で僕に尋ねた。
「……いくら持ってきた?」
「ぼく? えーと……四十万?」
「そんなに……私ごめん、十万円しか」
「しかってことないでしょ、ある分ってだけだし、仕方ないよ。まぁ僕も幾らかは置いてきたけど……。だって、そんなに長引かない方がいいでしょ?」
「うん……でもなるようになるもんね。とにかくごめ……」
「謝らないでよ。したくてしてるだけだから」
さっきまでとは違い、苦しそうな顔を何処か崩さない彼女の横顔を見る。その顔を見たくなくて頭を撫でると、彼女は少しだけ表情を和らげて、ふんわりと笑った。
電車に乗りこむ。雑多な声が耳に、唐突に流れ込んできた。
「右側のドアが__」
「聞いた? あの後輩の子さぁ」
「おい、見ろよこの事件! お前ん家の近くじゃね?!」
「ビッグマック食べない?」
「あんた刺されても知らないよ〜」
「うちのリュウゴがほんっと馬鹿で……」
「パレットの新色かわいい!」
「彼女欲しいー」
「丸山さんがこの間言ってたじゃん、あれの事なんだけど」
「アイツまじ信じらんねぇ」
こう聞くと、人の喋る言葉は欲望と悪意とマウントに溢れていて、その事に今の段になってやっと気づいた自分に馬鹿らしく感じた。それでも横にいて、小さな手で僕の手を握っている彼女だけは、純粋な顔をして。嬉しそうに電車に乗りこんだ。電車の中は混んではいなかったが、立てるほどの余裕は特になかった。「ドアが閉まります」と電車に響いて、プシューという音とともに電車の扉は閉まった。生まれ住んだ街との別れの音だった。
結局、僕たちがしようとしていることは簡単に言うと駆け落ちだった。最後の旅だった。
彼女が昨日の夕に、僕を唐突に呼び出して、死にたいと言った。最後に別れを言いたいと言っていた。僕はそれに困惑しつつも、脳内はフル回転していた。彼女のことを引き止める資格がないことは表情から自明であって、でも彼女がいなくなるのは嫌だった。僕が出した提案は、醜いエゴの結果だった。
「最後にミワのしたいことをしようよ。僕も一緒に行くよ。もしそれが叶って、それでも死にたいなら二人で死のうよ」
彼女の頬は濡れていた。うん、と頷くとその液体はぽとりと床に落ちた。
彼女が死にたいという理由は聞かなくてもわかっている事だったから、聞かなかった。自己嫌悪に押しつぶされた結果で、そうするしか彼女の中に選択肢がないのも、もう分かりきったことだったけれど。僕はほんの少しの間でも、止めずにはいられなかった。
夕日はもう落ちかけていて、光としてほぼ機能していなかったけれど、彼女の苦しそうな笑い方だけは酷く印象的に写った。自分が残酷な提案をしたことにも、彼女がもうどうにもならないことにも気づいていたけれど、二人とも、もう少しだけ気が付かないことにした。
それから、朝が来るまで家で二人で「逃げる」準備を家でして、さもただ遊びに行くかの様に外に出た。受験勉強でしばらく根詰めていたからか、親もとくに気にとめないように「体調には気をつけて」とだけ言って僕を見送った。ここまで素行不良じゃなかったのは、今日のためだけのように、思えた。お金は貯金がたくさんあったけれど、全て使うのはそれこそ家族に申し訳なくなったから、全部の貯金の三分の一位だけ持ってきた。結局何事にも振り切れないのが僕の今までの人生で、多分これからもそうだった。それを断ち切るのにも、なんだかんだちょうどいい機会な気がしている。
「これくらいあったら大体一ヶ月は一緒に過ごせるかな?」
美和子に声を掛けられ、僕は特に意味の無い回想と自諦をやめて彼女の方を向く。
「多分ね。そのくらいで出来るかな、したいこと」
「大丈夫。したいことなんてちょっとしかないから」
書いてきたの、とやりたいことリスト、と書いてあるメモの切れ端を彼女は見せた。
『やりたいことリスト
○海に行く
○星見る
○アキくんと一緒にいる
○ 』
最後のリストは消しゴムで消されていて、○しか読めなかったけれど、消しが甘くて少しだけ読めてしまった。申し訳ない気持ちになるけれど、見なかったことにする。それもだけれど、『アキくんと一緒にいる』というひと文が馬鹿みたいに嬉しかった。上がる口角を抑えるために、きょとんとした表情を作る。
「というか、実質二つじゃん。海と、星?」
「うん。どっちも家あたりだとないし、見えないでしょ?」
「そうだね。いいよ、見に行こう。最後と最初と真ん中、いつがいい?」
「んー、最後。綺麗なもの見て死にたい」
「まだ死ぬって決まってないからね。見てから決めよ?」
僕の諭しにうん、と小さく頷く彼女はどこか心細そうに見えたので、冷たい手をぎゅっと握りしめた。握りしめる力はやはり弱くて、心配になる。窓の外を見やると、揺れながら、ビル群が通り過ぎていった。人がゴミのようだとはまさにこの事だと思う、
別に自分が死にたい訳ではなかったけれど。
彼女がいない世界で一人生きたくはなかっただけだった……いや。
それよりも……。
小さく揺れを感じながら、数駅過ぎた。繁華街を過ぎて、座れるようになった。また数駅過ぎた。彼女はうとうとして僕の肩に寄りかかる。また数駅過ぎて……終点駅に着いた。
彼女の肩を叩くと、彼女はびくっと起きた。僕が「着くよ」と言うと、ああ、と眠そうに呟いた。
「……悪夢見た」
その怯える顔が余りにも青ざめていたから背中をさすっていると、終点についた。
終点で降りると、時刻は午後十一時半だった。降りると、駅だけは整備されていたが(乗り換えもここにあるからだろう)見渡すと山も多かった。田舎なんだなぁと思いながら彼女に話しかける。
「ここでご飯食べて、海の方に向かうよ。この辺ホテルもなんもないから、ちょっと街の方に行くけど、いい?」
「……うん。すごいね。調べてきたの?」
「まあ、さっき、電車でちょっとだけ」
「流石だ……ありがとう」
アキくんは将来出世するだろうね、と笑う彼女は、今が駆け落ち中だということを忘れているように見える。無邪気な笑い顔は、子供のようにも猫のようにも見える。ありがと、と軽くお礼を言って近くのうどん屋に向かう。
うどん屋で僕はザルそば、寒くないの?と聞く彼女はかけうどんを食べて、乗り換えをする。彼女は行く時よりもほんの少しはしゃいでいるように見えて、可愛らしい。死のうとしている人には思えなかった。
ただ、時折。信じられないほど暗い......底なし沼のように、計り知れない感情をした顔をするときがあった。僕がそれに気づくと、彼女は僕が見ていることに気がついて、どうかした?と普通に、普通に尋ねる。それが何か、隠したいことがあるような牽制に思えて、僕は首を振るしか無くなっていた。
少しだけ街の方に出て、駅で降りると、そこは全く知らない街だった。まだ夕方だったけれど、何処か暗がりに居るような印象を与えられ、少しだけ足が竦む。そうでなくても、そこそこのネオンが多い知らない街は、まだ……ギリギリ子供の僕たちにとって、ある程度怖い場所だった。
彼女の身もすくんでいた。僕は話しかける。
「……今ならまだ間に合うよ、どうする? 帰る?」
少しだけ間があって、ぴしゃりと返される。
「今更そんなこと言ってられないでしょ。『もう、間に合わない』んだもの」
そっか、と返す。諦められないようだった。
少しだけいつもより早足で歩みを進めた。電車の中でどこに一先ず泊まるかは決めておいた。少し古びたビジネスホテルに、2泊くらいして、そこからどんどん場所を移していくつもりだ。
十分ぐらい歩いて、ホテル着く。ロビーに美和子を待たせておいてチェックインをすると、受付のおばさんに少し変な顔をされた。少し化粧がケバい、四十代ぐらいのおばさんだ。
「あなた達……いくつ? 家出?」
彼女はこちらを不安そうに見つめる。僕は返した。
「まさか。ちゃんと成人してますよ。小旅行中です、なんなら身分証……」
「ああ、要らないよ成人してるなら。めんどくさいからね。あんた達が未成年だと警察やらなんやらでこっちが迷惑被るんだよ。はいじゃ二泊セミダブルだから一万円ね」
「えっ」
いつの間にか後ろにいた美和子が驚きの声を上げる。ん?ときくと、あ、いやいやと顔の前で手を振っていた。
「これがルームキーね」
どうしたの?と聞くとこう言った。「……セミダブルって……」少し顔が赤い。あっと僕も気がつく。安くつくからとそうしたのだが、そもそも僕達は未だプラトニックな付き合いだった。そりゃ軽いスキンシップやキスはしたけれど、そういうことは二人ではしたことがなかった。
「ごめん気が回らなくて」
「……いいよ、アキくんなら」
そっか良かった、と流して暫くして、どういう意味なのだと多少心臓が鳴ったけれど
、聞くに聞けなくなってしまった。多感な思春期はこういうところが大変なのだ。
彼女は、僕が告白した時こう言い放った。
「あの……私……クズだけど……ほんとに……?」
元はダメ元の告白だったけれど、予想外の返答が帰ってきてぽかんとした。
通学途中の電車で毎朝彼女のことを見かけていた。可愛らしい彼女に僕は一目惚れして、それから数カ月してようやく連絡先を聞き出せて、初デートの時に言った時に放たれた一言だった。
僕の公立の制服とは違う、私立の洗練された服装は彼女にとてもよく似合っていたけれど、その学校のことを彼女はいつも悪く言っていた。
「馬鹿ばっかり。イジメとか無視とか悪口とかそんなんばっかりだよ。アキくんの高校は偏差値高いからそんなんないだろうけど、くだらないことばっかり。……でもそんな中で落ちぶれてる私が一番最悪」
彼女は中学時代は勉強も頑張っていて成績も悪くなかったようだったが、受験に失敗して滑り止めの高校に入ったらしい。そうするとどうにもやる気も無くなってしまい、どんどん成績が下がって、もう取り返しがつかないと言っていた。
「お父さんもお母さんももう好きになさいって感じだよ、ほんとにどうやって生きよう」
帰り道にセブンティーンアイスを頬張りながら特に感情なさそうに言っていたことを思い出した。
告白の話に戻すと、水族館に行った帰り、そう切り出すと、先程の「クズだけど」が帰ってきた。え?と思って、俯いていた顔を上げ彼女の顔に視線を戻すと、彼女は涙目で言っていた。
「……私最悪なの。色んな人と遊んたりしてるの。この間なんて大人の人と会ってお金貰ったし、つい先週なんて友達の好きな人に迫られた。流石にそれは断ったけど、クラスでも色々孤立しちゃうの。断りたくないし、一人になりたくなくて、そんなことしてて、辞められなくなっちゃって……。てっきりアキくんも知ってて誘ってきたのかと思ってたよ。……ほんと最低。私貴方の告白は、だから、受けられな」
僕はそれを遮った。君がクズだったとしても、それでもいいと言った。もしどうしても嫌なら、友達からで、まずはそういうのをやめてみようよ、と。
彼女は涙を流しながら頷いた。どうやら彼女の側も僕に悪い印象は持っていなかったみたいで、全ての『そういう』関係を断ち切って、三ヶ月後くらいに改めて彼女が僕に告白してくれた。顔を赤くしてそう言った彼女が余りにも可愛らしくて、僕は彼女を初めて抱きしめた。高校二年生になる前の、それが春頃で、あれから一年半ほど経っていた。
この話を前友達にすると、「お前なぁ、そんな奴普通大地雷だべ。悪いこと言わねーから今からでもやめとけ」などとほざかれたが、お前との友達をやめてやろうかと思った。「ほんとアキはお人好しなんだから」と言われたが、どうやら彼女に対してだけはそうでも無かったようだった。要は僕は僕の我儘の為に彼女に甘くしていたようなのだ。今もそうで、こんな駆け落ちなどをしている。
それでも仕方がなかった。柔らかな肌や髪も可愛い声も匂いも仕草の一つ一つも表情も紡ぐ言葉も全て好きだった。手放せなかった。それは僕の我儘であって、笑顔が見たいということでさえそれはそうなのであって。甘い蜜は知ってしまうと戻れなかった。自分自身が彼女という蜜に吸い寄せられる虫のような気さえした。
彼女は弱い。心も、力も弱ければ、存在さえどこか頼りなかった。つなぎ止めたくて必死になるけれど、どうにも上手くいきそうになかった。だから、今、必死に。彼女を……。
「……アキくん? お風呂上がったよ、寝てたの?」
目が覚めた。暗い室内に驚くも、彼女がお風呂上がりのスウェット姿でいることで我に返った。
「……うん。僕も入るね」
「ご飯どうする? コンビニ?」
「そうだね……節約しないと」
「節約は別にしなくてもいいけど。でもまあ、もう着替えちゃったし、コンビニぐらしいか行けないかなって」
ぽつぽつと言葉を紡ぐ。心地よくて、仕方がない。空気を抱きしめて仕舞いたくなった。
「うん、お風呂とりあえず入っちゃうね。上がったら一緒にコンビニに行こうよ」
わかったぁと間延びした声で返事された。携帯をふっと見ると、もう充電が切れていた。どうせ今頃通知で溢れているのだ。ちょうどいい。
「ねえ」
「うん?」
「私やっぱり、アキくんの人生壊したくないよ。アキくんだけでも帰っ」
「やだ」
「やだじゃないの! 私はもう死ぬけど、アキくんは」
「死ぬなら一緒に死ぬんだよ」
「だけど」
「僕にとっての不幸は死ぬ事ではなくって、君を一人で死なせることだよ。きっと……一生後悔するから、だから一緒に死なせてよ」
「……!」
泣きそうな顔をする彼女を軽く抱きしめて、お風呂場に向かう。……わかった、と小声で言う彼女は、何を考えているのだろう。考えてもしかたがなかった。
コンビニでパスタを買って、麺ばっかりだ、と軽口を叩きながらバラエティ番組を見ていた。先程より彼女は幾分か元気だ。元気、に見せているだけだったのかもしれないけれど、形だけでも、元気そうだった。
「……アキくん」
くだらないギャグに笑っていたら、唐突に話しかけられた。ん?と尋ねると、彼女は言う。
「一緒にいようね」
うん!と元気いっぱいに返してあげると、彼女は吹き出して笑った。今は僕たちが世界一幸せなように思えた。
寝る時は僕は彼女をそっと抱きしめた。彼女の方が昨日も眠れていないのか疲れていたのか先に寝てしまう。魘されていて可哀想だったから、頭を撫でると、すとんと静かになった。可愛らしかった。おやすみ、と僕は彼女に囁いた。
それからの日々は信じられないくらい穏やかに過ぎていった。
朝起きて、パンを買って、たまに朝食は抜いて、ホテルから出たり、散歩したり、部屋ですこしイチャついたり。ホテルもボロいところ、格安、1度だけ手違いでスイートに泊まれた。それでも僕達はプラトニックだった。海に向かってゆっくりと転々としながら。ある日カフェで久しぶりにスマホを充電すると、とてつもない量の通知が溜まっていて、少し笑った。どうやらそろそろ捜索願を出されそうだったから、心配しないでとだけ返した。彼女の方はそんなことも無い様子だったので何故かを聞くと、「全部断捨離して来たから」と返された。人間関係を、ということか?
とにかく二人でいられるのはただただ幸せなことだった。今までの人生はなんだったのか分からなくなるほど。
もうほんの少しで海だ、というところまできていた。ある日、ご飯を持ち帰ってホテルで食べようと話して、ホテルに近づくと、気がついた。ホテルの前にパトカーが泊まっていたのだ。捜索願か、あるいは……。慌てて僕達はホテルから離れた。彼女は泣きそうになりながら言う。
「警察……っ!」
「どうしようか」
「……もう、海行こう!」
「え?」
「ここからあと何キロ?」
「5キロくらい……でも、海ってそれは」
決断の時で。
「私、見つかりたくないの。早く、私このままじゃもう」
彼女は青ざめていた。久しぶりにそんな顔を見た。もう時間が無いことを察知した僕はすぐに決意して、彼女に言った。
「わかった。行こう」
五キロというのは決して遠くはなかったけれど、近いわけでもなかった。ホテルに行くことも彼女が怖がっていたので、夜明けまで外にいようということになった。午後二時頃出て、午後四時頃に海に着いた。少し休憩してから近くのコンビニでおにぎりを買って食べた。残金は2人合わせておよそ十万円。もう少しだけ2人でゆっくり出来ると思っていた。日常……いや、平穏の破壊は突然に来るのだった。戦争も災害も、いつも急なことは自明なはずだった。
日が短くなっていて、六時頃には日が落ち始めていた。ぽつぽつと彼女は話す。
「私ね、貴方とずっといたいの」
「でもやっぱりこの世界で私はどうしてもやっぱり一番要らないと思うの」
「私はアキくんがいてくれたらそれでいいんだけど、それもこのままだと許されないのはわかってるから」
僕は返す。
「僕もずっと一緒にいたいよ。ミワは僕には絶対必要で、だからいなくならないでほしいけど。もしどうしても耐えられないんなら、僕がいるから。だから」
見て見ぬふりをどちらも止めなかった。
それ以前の問題が僕たちにはあるのに。
持ってきて今までは使わなかったけれど、静かすぎたので流していたラジオでは酔っ払って事故で死んだ男のことを取り上げて、アルコール中毒について話していた。
星はキラキラとしていて、互いにもたれて見つめていた。
灯台は遠かったけれど、確かにそこには光があった。遠くには水平線もあった。地球はやっぱり丸いね、なんて話して笑った。
僕は、握りしめた。
ポケットに入れていたもの。ずっと無くさないように持っていたもの。明日渡そうと思った。僕は嘘をついていた。
僕は五十万円、持ってきていた。十万円で彼女への指輪を買ったのだ。それは永遠を意味する指輪。待ち合わせの前にデパートで買った、シルバーで品のいいリング。僕は、朝起きたら彼女にそれをあげて、これからの話をしようと思っていた。
午前1時頃までたわいも無い話をしていたけれど、流石に寒く、眠くなっていた。近くに林があって、そこでとりあえず夜を明かそうと話した。念の為に持ってきていたレジャーシートを引いて、寒かったから持ってきていた服を掛けて、眠ろうとした。
「……ごめんなさい」
彼女が寝る間際に言った。
「どうしたの?」
「私まだ一緒にいたい」
「……僕もだよ。でもとりあえず寝ようよ。朝、その話もしよう。今後どうするか。ね?」
「……ごめ、ん、なさい……」
なんにも謝ることなんてないよ、とキスをした。彼女の唇は温かくて、幸せな感触がする。たとえ未来がどうであろうとも、この瞬間だけは幸せだ、と確信を持って言える。彼女の目が揺れて、瞼が動く。
彼女は今にも眠りそうだった。おやすみ、と僕が言おうとすると、彼女は呟く。
「……殺して……ごめんなさい」
全身の血の気が、引く。
見て見ぬふり。
彼女から電話があったのは、駆け落ち決行前夜の事だった。
急に受話器越しに泣かれて、呼び出された僕は戸惑いつつも彼女がいるという公園に駆けた。そこは人気の無い町外れの公園だった。
彼女の声を聞きつけて、その中でも人気の無い樹木の陰にたどり着く。彼女は蹲って泣いていて、そこには……死体があった。というのも飲み込めず、最初はただ人が倒れていて、それにパニックになっているのかと思ったら、違った。その落ちている男は、ジャケットを着ていて、後頭部を打ち付けたようだった。地面が赤く染っていて、嫌な匂いがする。真っ青な顔をして……いや、嘘だったかもしれない。暗くてよく分からなかった気もする。ただ、荒い息と涙を堪えて、彼女は俯いたまま言った。
「わわ、わたしが、ころしたの。このひとが、私のこと、ころそうとして、あれ、わたし……っ」
「落ち着いて、ゆっくり」
僕が背中をさすると、彼女はぽつりぽつり話し始めた。
「私、このひと、だいぶ前に“切った”人なんだけど、今日たまたま会って、それでっ、お前のせいだって殴りかかられて……っ何が私のせいなのかわからなくて、でも、怖くて、突き飛ばしたら……」
「打ちどころが悪かったってことか……」
僕は静かに打ちのめされていた。彼女が、間接的にとはいえ、わざとじゃないとはいえ、というか正当防衛だとはいえ、人を殺してしまった。……その事実は、僕の上に重くのしかかってきた。
彼女に自首するよう勧めようと思った。そうして口を開こうとした時、彼女の様子が目に入った。
涙を幾つも垂らして、何事かをぶつぶつと呟いていた。ごめんなさいという震えた声がその隙間から聞こえて、たまらない気持ちになった。できることなら、どこかへ連れ去って、守りたいとさえ思った。……できることなら……できることなら……?
不可能じゃない。その考えを強く、強く反芻する。
僕なら彼女を最後まで守ることが可能かもしれなかった。この日のために、自惚れではなく今までなんの問題もない青年として生きてきたようにさえ思えた。このひとつの間違いのために、それまで清廉潔白な身であるかのように。考えに、彼女に溺れていた。ある種酩酊状態のようだった。彼女が口を開く。その言葉は僕を更に深いところに落とさせるのに十分過ぎた。
「……死にたい……」
僕は咄嗟に先程から脳内に駆け巡っていた、この駆け落ちを提案した。彼女は悪くない。殺してしまった彼も……悪くない。僕は彼の着ていた、彼女がそこしか触っていないというジャケットを預かった。近くに防犯カメラがあったとして公園内にはないことも見た……二人で待ち合わせて散歩でもしていたといくらでも言い訳がきく。彼は酔っていて、精神的に不安定そうだった。全部『事故』。だから大丈夫だった。
「大丈夫だよ」
また深いところに、沈んでいく感覚がした。
目が覚めたら、彼女に改めて自首を勧めようと思っていた。そして謝ろう。彼女が罪を償うという道を絶ってしまったこと。だから、それをお願いする。僕も罪を被るから。もし君が望むなら、僕は罪を受けないでも、君のことを生涯守り続けるから。だから、一緒に生きてください、と言おうと思っていた。いや、一緒じゃなくても良かったけれど、一緒の世の中に生きていてほしかった。
左薬指にシルバーのリングを、そっと、付けようとおもっている。
だから。
何処にも行かないで。
目が覚めると、全身が筋肉痛だった。硬いところで寝たからだろう。僕はそっと横を見る。彼女の肩を叩こうとすると、彼女はいない。あれ、と思い寝返りをうつ。反対側にもいない。もう起きたのか、と起き上がって彼女を探す。と。
彼女はほんの数メートル先の大きな木の枝で、ロープで首を吊っていた。
一瞬幻覚かと思い、目を凝らす。『それ』を視認して、僕の心臓は破裂しそうなほど鼓動を増す。足をもつれさせながらも全速力で駆け寄って、見間違いであることを祈る。ひたすら祈る。数度転けながら、泥だらけになって、僕は『それ』の前に立ち尽くす。
……『それ』はやはり彼女のようだった。目も舌も飛び出、体液は溢れ出し、ハエがたかり、恐ろしい形相になっている彼女は僕は知らなかったけれど、紛れもなく本人のようだった。人間はとんでもなく驚くと息が出来なくなると、初めて知った。数瞬後咳き込んでから息をしていなかったと初めて分かったくらいだったから。
「ミワ」
なんで?と震える唇から声は出ない。
「ミワ?」
ずっと一緒だって。え?だって 昨日。また明日って。この段になって、僕の側だけがそう言ったことに気がつく。だってこんなの。もしかすると、ずっと前から。
吐瀉物も出してから自分が吐いたことに気がつく。生理現象でしか涙は出てこなかった。もしかしたら出しているのかもしれなかったけれど、何も分からなかった。水の中から急に這い出たように、全てがわかって、全てが分からなくなった。
僕が悪かった。全ては僕のせいで。僕が悪くて、だから彼女は死んでいた。その事しか分からなかった。
選択を間違えた。気がついて、それでも訂正しなかった。間に合わなかった。とんでもない馬鹿が世の中にはいたものだ。僕だ。
「あ、あ、ああああああっ」
掠れた咆哮が口から漏れ出す。
彼女に会いたかった。もう一度謝りたかった。やり直してくれと言いたかった。全部を、そう、全部を。
そこでふっと思考が途切れる。……もう一度、会えるかもしれなかった。ロープは僕の持ってきたもののようで、それにまた心は千切れるけれど、まだ確か残りがあったはずだった。
彼女と一緒にいるためには。
ごくりと生唾を飲み込む。唯一の可能性に賭けるべきか、悩む。どうしたらいい、と聞こうと彼女を見て、やはり恐ろしい姿に、後込む。
あぁ僕はこの段に至っても、自分でどうすればいいか分からない愚か者だった。
彼女はきっと僕が死なないことを望んでいる。一人で逝ったから。
彼女はきっと僕が一緒に行くことを望んでいる。ここで、僕にわかるように、逝ったから。
いくら考えても分からなくて、蹲る。どうすればいいのか分からなかった。そこにはただ残酷な事実だけがぶら下がっていて、どうにもならなかった。
どのくらいの時間そうして蹲ってだろうか。永遠とも思える時間がたった頃、僕は決断を下した。
そのまえに、ポケットを探り、シルバーのリングを見つけ出す。
彼女の、冷たく力のない、薬指にそっと嵌める。大事にその指に口付けて、永遠を、誓う。
僕がその後どうなったかは、もう書ける気力がないので、ここで筆を置くことにする。
うららです。爆鬱恋愛小説です。多少閲覧注意かもしれません。




