3 王様の専属パイロット(前)――――菱人
スマートフォンが小さく振動した。共振したデスクのほうがびりびりと大きな音を立てる。
俺は手に取って確かめた。家族やごく親しい友人としか連絡先を交換していないこの端末は、鳴ること自体が珍しい。サチも、出版社に伝えておいた固定電話に掛けてきていた。
手のひらの中の明るい窓には、『十五分以内に、雨が降りはじめます』という無感情なメッセージが浮かんでいる。
通知を消そうとタップすると、プリインストールされていた天気アプリが立ち上がった。派手な赤やピンクが寄り集まった塊が画面の端から現れて、現在地を示すブルーの四角いマークを呑み込むようにゆっくりと移動していく。
そのどぎつい色からして、かなり発達した雨雲が近づいているらしい。先ほど窓から見えた黒い雲の塊がそれだろう。
耳を澄ませると、ふたたび、低く轟く雷鳴が聞こえた。先ほどよりも大きい。
雨が降りだしたら、彼女はどうするだろうか。
真っ先に想像したのは、平気で突っ込んで走るだろう、ということだった。
社会人としての彼女は、落ち着いて節度のある振る舞いで、けして非常識な人間ではないし、良識も分別もある。冷静に考えれば、この季節、折り畳み傘の一本くらいバッグに入れているのではないか、とも思う。
それでも、そんな破天荒な想像をしてしまったのは、彼女と会話していると思い出す、古い記憶のせいだった。
彼女が決して触れようとしない過去。
名前と顔だちで、間違いようがなく俺が確信している事実。
彼女は、六歳年下の、隣の家に住んでいた女の子だった。あのころの――幼児だったころのサチは、思ったことは何でもぽんぽん言うし、破天荒で無鉄砲な女の子だった。
◇
彼女がもうすぐ六歳になろうという八月、俺が小学校五年生だった頃のできごとだ。
ある暑い日、水泳の課外補習から帰宅した時だったから、多分、正午前くらいの時間だったと思う。
自宅の目の前の通りに出る角を曲がった瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、坂道の上から猛スピードで駆け下ってくる木箱だった。
一瞬遅れて気がついた。人が乗っている!
『はやいー!』
車輪がアスファルトにこすれる、がーっという激しい騒音を切り裂くように、乗っている女の子の悲鳴のような高い声が響いた。ヘルメットの下から、ふわふわと、見間違えようのないくせ毛が風に踊った。そのスピード。
坂道は下りきった地点で大きくカーブしている。このままでは止まれない!
『危ないっ!』
叫ぶより早く身体が動いていた。女の子――隣家のサチを右腕で抱え込みながら転がった。左腕でアスファルトの路面を叩いて衝撃を逃がす。
顔面をがつんと直撃した五歳児の頭突きはなかなかの威力だった。頬骨のあたりにヘルメットのへりが、口元にも何かがぶつかってくる。かなり痛かったけれど、俺は腕を離さなかった。
じいんと耳がしびれたような気がした。急に静かになった往来で、横転した木箱の車輪が、カタカタと小さな音を立てて空転する。
口の中にさびた鉄のような味が広がるのも構わず、腕の中のおてんば娘に声をかけた。
『サチ、ケガしてないか』
『うん』
きょとんとした顔でうなずくサチを立たせて、確認した。
足。普通に両足に体重を乗せていられる。全身をまっすぐ伸ばして、どこかを庇っている様子はない。腕と肩。両手を掴んで軽く揺すっても平然としているから、打ち身や脱臼の心配もないだろう。背中。軽く砂をはたいてやると、くすぐったそうにきゃはは、と笑う。前倒しの誕生日プレゼントとして買ってもらったばかりのはずの自転車用のヘルメットにも、傷や凹みはない。
よし。
俺は詰めていた息を吐き出した。
『りょーと、足はやーい! さっきまで見えなかったのに、ばびゅーんってきた! もういっかい、やろー?』
ヘルメットからはみ出したくせ毛をゆすって、人の気も知らないで、サチはけらけらと笑った。脱力のあまり、がっくり肩が下がる。
そのときようやく、怖がって悲鳴をあげていると思ったのは俺の勘違いで、サチは興奮して歓声を上げていただけだったらしい、と気が付いた。
『もう一回なんて絶対やだ』
『リョウト、もう帰ってきたのか』
坂の上から歩いてきたのは、中学二年生の兄、カズトだった。
やっぱり、こいつの仕業か。
予想が的中したが、それで怒りが収まるわけではない。俺は低い声で抗議した。
『何やってんだよ』
『おかしいなあ、僕の計算ではブレーキが効いて、坂の途中で減速するはずなんだけど。思ったよりスピード出てたね』
『サチ、ブレーキしてない! はやいの、たのしい!』
『ダメだよ、さっちゃん。パイロットは言った通りにしてくれなくちゃ』
のんきにサチをたしなめている兄に、俺は吠えた。
『ダメなのはお前だろ! だから、説明しろって。何やらせてんだよ!』
『何って、ごらんの通り、ソープボックスレース。車輪をつけた木箱で坂道を駆け下る無動力の四輪レースだよ。アメリカのカウンティ・フェアでは定番の、いわば伝統競技だ。あちらでは石鹸を入れていた木箱で行われるんだけど、ここでは石鹸の木箱は手に入らないから、ワインボックスレースだね。できるだけ回転部の摩擦を低くして、トップスピード重視でチューニングしてみた』
『あのね、カズ兄が王さまで、サチはメーヨあるパイロットにニンメーされてるの!』
二人はそろって俺に向かって胸を張って、誇らしげな表情を見せた。
いや違う。そういうことじゃない。っていうか、王様とパイロットが共存するごっこ遊びって、むちゃくちゃすぎる。どんな世界観だ。五歳児にして、スチームパンクか。
こめかみを押さえる俺をよそに、兄は上機嫌で続けた。
『体重や体格から言ってさっちゃんじゃないと、木箱に乗れないからね。恐怖をものともせず重大任務を引き受けてくれたさっちゃんの勇気には感服するよ』
『あー。カズ兄、だめなんだよー。女の子のタイジューのことはいっちゃだめって、園でナツキちゃんがいってた!』
『ああ、そうかそうだね。ごめんね。さっちゃんは立派なレディだもんね』
腰に手を当てて的外れの抗議をする五歳児、サチと、しゃがみこんで視線を合わせ、これまた見当違いの謝罪をしている中学二年生の兄、カズトを、俺は等分ににらみつけた。
『問題はそこじゃねえ』
そろってこちらを振り向き、同じ角度で首を傾げる二人に、俺の堪忍袋の緒は切れた。
『危ないっつってんだろ! 万が一にも、サチがケガしたらどうすんだよ!』
小学五年生の弟に説教される兄よ。もうちょっと後先を考えてくれ。
ふむ、と兄は腕を組んだ。
『ステアリングはかえって危ないから敢えて付けていないけど、さっき言った通り、ブレーキはつけたよ』
『サチが言うこと聞くわけないだろ。この無鉄砲娘が』
『ごもっとも』
『サチ、ぜんぜんこわくないよ!』
胸を張るサチを、俺は軽くにらみつけた。
『お前は、危ないことはちゃんと怖がれ。平気な方が見てて怖いんだよ』
『むー。りょーとのいじわる』
サチはふてくされて頬をふくらませる。
カズトは両腕を広げるようにして、坂道を上から下へと指し示した。
『この坂道は、一番下で曲がってあちらの道路に続いているね。だから道なりに真っすぐ下れば、そこで道をそれてシロツメクサの草地に突っ込む。植物と車輪の摩擦でかなり減速するはずだ。その先は、ばあちゃんの畑で、先週、成りごろが終わったトマトを全部抜いて更地に戻した場所にあたる。障害物はない』
『障害物って、いや、なんかそこにあるだろ』
目の端に映った塊をよく見ようと、俺も祖母の畑を振り返った。
『……布団?』
そこには、色鮮やかな花柄の布の塊がバリケードのように積まれていた。ちょうど、坂道を直進して下ってきたら正面になる辺りだ。
『先週、捨てると言っていたから貰って車庫に保管していたんだ』
カズトは片頬をゆがめるようにしてふっと笑うと、俺の肩をぽんと叩いた。
『もちろん、制動装置がうまく機能しなかった時のために、第二・第三の安全策を用意するのは基本中の基本だ。リョウトが実験の成否を気に掛けてくれていたことには、本当に感謝するよ。僕がさっちゃんの言う通り王様だとするなら、王の失策は、後先考えずにお姫様を助けようと突っ込んでくる騎士の存在を計算に入れていなかったことだね』
『……っ』
ぐうの音も出ずに、俺は歯ぎしりした。相変わらず、嫌味なやつだ。