20 王の弟――――菱人
「原稿は意地でも間に合わせて、賭けには俺が勝ったけれど、この短編集の完成に向けてずっと、編集者として支えてきてくれたことにきちんとお礼を言いたいとは思っていたんだ。だから、好きな方を選んでもらおうと思って」
二つとも箱を開けて、彼女の前に差し出した。
「こちらが、打ち合わせの喫茶店で君に見せたもの」
ほとんど黒に近い濃紺の七宝の万年筆、キングスブラザー。普段から使っているせいで少し傷やくもりもある。
俺はそれを裏返して見せた。ネーム入れサービスで、贈り主がメッセージを刻んでくれたのだ。
『弟へ』
「これ」
彼女は目を見開いて俺を見返した。
「カズトが、デビューの祝いにくれたものだ」
「そんな大事なものを賭けのカタなんかにして」
じろっとにらまれる。俺は軽く肩をすくめた。
「兄弟なんてそんなものだろ。この万年筆があったってなくたって、俺と兄貴の関係は別に大して変わらない。兄貴らしいよ。わざわざ、『王の弟』にこのメッセージを刻んでくるんだから」
彼女はふきだした。
「カズ兄ってば、『王様はオレだ!』ってわけね。本当に、らしい」
「今は、ヘルシンキでIT系ベンチャー企業の代表をしている。こちらにも折々、帰国はするけれど」
俺は言葉を切ると、もう一本の万年筆に指先を触れた。こちらはもう少し淡い、夜明け空のような群青色のボディだ。エナメルに真珠色のパウダーがほんの少し混ざっていて、銀河の星雲のようなムラがにじんでいる。傷ひとつない、光沢のある新品ならではの表面が美しい。
彼女の視線が注がれるのを意識しながら、俺はそれをそっと裏返した。
『To S』
「こちらは、俺がサチのために選んだ。どちらを選んでも構わない。けど」
俺は、喉の奥にずっと引っかかっていた小骨を一思いに引き抜くように、つけ加えた。
「兄貴のほうを選んだら、兄貴の連絡先を教えるよ。サチはお気に入りだったから、連絡したら帰国した時に必ず会ってくれるだろう」
「じゃあ、こっちを選んだら?」
サチは群青のペンを指さした。
「大したおまけはつけられない。あるのは、こんなものだけだ」
俺は箱の中に指を滑り込ませると、ペンの下に敷いていた四つ折りの紙切れを取り出した。
月日が元は鮮やかだった印刷の顔料をくすませ、土台の紙もわずかに黄変している。
広げて、彼女のほうに向けた。
「これ、朝霧ユニコーンランドのチケット……あの年の、八月末日まで?」
「親父さんが連れて行ってくれなくても、俺と行けばいいじゃないかって言いたかった。高校生だってそのくらいのことはできるって。結局、実際には俺は何もできなかったけれど」
「だって、遊園地の話をしたのって、私が引っ越した日の前の夜でしょ」
泣きそうな声で言う。
「そう。くそったれの兄貴が人の気も知らないでろくでもないことしてるし、右輪さんはもっとどうしようもないクズだったし、お前らサチの気持ちも知らないで何やってんだよって猛烈にむしゃくしゃしたから、次の日、部活の帰りに買ったんだ」
「でも、私とお母さんは家を出た後だった……、って、ええ? あれ? ちょっと待って」
形のよい眉をぎゅっとひそめて、彼女はこめかみを押さえると小さく瞬いた。
「サチの気持ちも知らないで、って、リョウト、なんかすごい勘違いしてない?」
「勘違いって?」
「いや、なんで、ここでカズ兄の連絡先なんて出てくるんだろうって思ったんだよね。まさか、リョウト、私がカズ兄のこと好きだったって思ってる?」
怪訝そうな顔で単刀直入に尋ねられて、俺はだらしなくぽかんと開きかけた口をごまかすように慌てて右手で覆った。
「え? だって、あの時のあれって」
そういうことだったんじゃないのか。
「違うよっ」
サチは桃とお盆のことで俺を責めたさっきの数倍以上むっとした顔をして、ぎろっと冷たい視線をこちらに送った。
「まさか、恋愛小説の名手、リョウト先生がそんな初歩的なミスを犯すなんて」
彼女は深いため息をついた。短く切ってはあるけれど、桃のような温かみと落ち着きのある色合いに染められた爪で、古いチケットの折り目をそっと撫でる。
「あれは、本当にあの時の私は自分のことが大嫌いだったから。大好きなカズ兄に、美人さんの彼女ができたみたいってわかったのに、おめでとうとか、何と言ってからかってやろうかとか、そういう楽しいことじゃなくて、真っ先に、なんか汚い、って思った自分がすごく嫌だった。カズ兄はちっとも悪いことなんてしていないのに。父とは全然違うはずなのに」
そして、独り言のようにぽつりぽつりと語り始めた。
ここを離れたときのこと、言葉もわからない土地で、案じてくれる母親や義父にもうまく心を開けなかった数年間のこと。俺の本のこと。
実父のいる日本に、母親の反対を押しきって帰国することを決め、就職活動したこと。
その実父が交通事故で亡くなったと半年前に聞いたこと。
「それで、何だか怖くなっちゃったんだよね」
「そりゃあ……」
話の先が見えない。あの親父さんから逃げ出すようにしてここを離れたんなら、むしろ、正直なところ亡くなったと聞けば、ほっとするんじゃないのか。
「人ってそんなにすっと、死んじゃっていなくなったりするんだなって。中学生の時、あんなに何度も、私自身がこのままふっと誰の記憶にも残らずに消えてしまえないかなって思ったのに、今になってすごく怖くなったの。奇跡的なバランスで成り立っていた今の生活なんて、本当に大事なことから目を背けていたら何の意味も価値もないんじゃないかって、このままじゃ絶対にダメだって思ったの」
「うん」
圧倒されつつ、俺はうなずいた。
「漬物石みたいに重たい片想いなんだけど、ここに住んでいた頃もその後も、私を支えてくれてたのはリョウトなんだよ。消えちゃったらなって思った次の瞬間に、でもやっぱり嫌だなって思ったのは、リョウトがいたからなんだ」
彼女は、古びたチケットの折り目にそっと置いたままの爪をじっと見つめた。
「ずっと好きだったし、再会してからもどんどん大好きになっていくから、このままだとやっぱり、仕事もしくじっちゃうんじゃないかなって心配になってきて。どうしても気になることは増えちゃうし、中立の意見が言えなくなるから」
その声が儚くて、今にも泣きだすのではないかと俺が息を止めた次の瞬間、彼女は顔を上げて俺の目をまっすぐに見つめて、晴れやかに微笑んだ。
「だから、異動しようって思ったの。リョウトと離れたいっていうことじゃなくて、仕事じゃない話ができる立場になりたかった。仕事の相手じゃなくて、昔の知り合いとして。おばあちゃんのことをちゃんと尋ねて、それから、あの頃も、今も、リョウトを大好きだって思っていることをちゃんと伝えてみようって思ったの」
とんでもない火力の爆弾発言だ。こんな破壊力の高い漬物石があるか。
ずっと好きだった?
あの頃も、再会してからも?
俺は何か言おうと口を開きかけて、何と言っていいかわからずに硬直した。
「だからね、迷う余地もなく、私が欲しいのはこっち」
彼女は群青の万年筆を手に取ると、キャップを外して俺に差し出した。
「それで、このチケットの裏側に、携帯番号書いてくれたら嬉しいなあ。仕事の相手には固定電話しか教えないって、前に言っていたでしょ。でも、私用でスマホは使ってるじゃない。私、単行本の仕事に区切りがついたら担当は離れるけど、元お隣のよしみで、これからも、時間が合うときに会ってくれたら嬉しいなって思ってたんだ。あんな漬物石を投げ込まれて、それでもまだ迷惑と思わずにいてくれたら、なんだけど」
十三年の月日は、リコーダーを振りかざしてがむしゃらにカラスに立ち向かっていたヤマネコのような小さな女の子を、したたかで愛くるしい交渉の名手に変身させていた。
迷惑ってなんだ。そんな風に思うわけないことくらい、わかってくれていると思っていたのに。
「普通、スマホを持ってる二人の人間が直接向かい合っていたら、もっと洗練された連絡先の交換方法があるんじゃないのか」
俺はぼやきながらも、万年筆を受け取ると十一桁の番号を書き込んだ。
「うん。でも、書いてもらった字はずっと残るでしょ。筆跡も筆圧も、この瞬間のリョウトの記憶になるでしょう」
照れたように笑うサチの、予想通りの答えに思わず頬が緩んだ。それは、字を丁寧に書け、と、しょっちゅう俺やサチに注意していた祖母の口癖そのままだったからだ。














