2 桃と遠雷――――佐知子
駅の改札を出てすぐに電話をかけ、ほどなく到着すると伝えた。
リョウト先生は切り際に、『じゃあ、気を付けて』と、ごくそっけない口調で告げた。
その低い声が、駅前の古い青果店で買い物をしている間中、耳に残っているような気がした。
前回、喫茶店で打ち合わせをしてから、一月と少し経っている。それでも、その姿は昨日会った人のように容易に脳裏に浮かんでくる。
ほんの少し猫背気味で、細身ながら私より十センチは高そうな長身をすこし窮屈そうに椅子に収める姿勢。人生で一度も染めたことがなさそうな、真っすぐで黒い髪は、少し長めで、目元にも襟足にもかかっている。清潔感以外の要素にはまるで無頓着な髪型やファッションをさておけば、顔だちや体形はすっきりと整っているのだが、表情はあまり動かさず、話し方はぶっきらぼう。彼をまったく知らない人に、その職業を自由に想像してもらったら、IT技術者、とか、開発エンジニア、とか言われそうなタイプである。
彼の実際の職業は、恋愛小説家だ。
幻想的で切ない作風が人気を呼んでヒット作を複数飛ばし、若い女性のファンが多いことでも知られる『匂坂遼都』先生なのだから、世の中、分からないものである。彼が外見や私生活を一切公表しないポリシーを貫いているので、ファンの間ではもっときらきらした方向に想像が膨らんでいるらしいことは、編集部に届くファンレターやメール、SNSでの反応などから容易に伺えた。そのギャップも、本人を直接知る人間としては印象的だった。
ファンの誰にも素顔を見せない彼と会って会話を交わせるのは、私が担当編集者だから。そんなことはわかっているけれど、それでも、その事実は、――彼の存在そのものは、私にとってただの仕事以上の意味を持っていた。
桃を買って店を出た直後、遠くに雷鳴が聞こえた。
すうっと妙に涼しい風が頬を撫でていく。くせ毛がうなじをくすぐった。湿度が上がってくると、ふわふわと広がって手に負えなくなる手ごわい髪は、いつも私に真っ先に雨の接近を知らせてくる。
見上げると、南西の空にもくもくと真っ暗い雲が迫ってきていた。
大気に、わずかに湿った匂いが混ざる。
これは、まずい。
私はちらっと腕時計を眺めた。
駅前のこの古びた青果店から先生の家までは、普通に歩いて二十分強。
全力で走れば十五分。
傷みやすい桃をかばいながら走って、雨雲から逃げ切れるだろうか。
次の瞬間、悩んでいる時間も惜しんで、私は軒下を飛び出した。
なるようになれ。
最後ぎりぎりで雨雲に追いつかれるかもしれないが、多少濡れたところで、かまいやしない。どうせ、桃は剥く前に洗うのだ。薄手のスーツだって、少々濡れたくらいなら、すぐに乾くだろう。
下手にこの軒下でぐずぐずしていたら、強く短く降る夏の雨のことだ、あっという間に土砂降りになってしまうにちがいない。そうなれば、わずかな距離のためとはいえ、駆け抜けるのにも勇気がいる。
いくら通り雨だろうと、止むのを待っていたら、今から三十分後という約束の時間には到底間に合わない。
このさびれた駅前では、傘を買えるような店もない。青果店が店を畳んでいなかったのが奇跡のような土地柄なのだ。
何より、ここまで気力をふるいたたせてきたのに、最後の最後で萎えてしまうのは何ともしゃくだった。
柔らかい紙に包まれ、発泡ウレタンのネットでできた袴を履かされていた二つの桃は、振り回さないように胸元にしっかり抱えた。
走る歩調に合わせて、ポリ袋と包み紙が擦れて微かな柔らかい音を立てる。
気ばかり急いて、ちっとも距離がはかどらない、緩やかな上り坂。
百メートルも行かないうちに軽く息が上がってきた。
社会人になって、運動する機会がめっきり減った。
自分の体力の低下を感じて、舌打ちした。
子どもの頃なら、このくらい、何ともなかったのに。
手のひらの中の繊細で傷つきやすい果実がじわりと重さを伝えてくる。
桃を二個。
そのリクエストにどんな意味があるのだろう。考えても考えても、わからなかった。
可能性はいくらでもあるのに、たった一言、彼に尋ねたらよいはずのことは、いつまでも宙釣りになったまま、私の目の前にぶら下がっていた。
ただ、昔を懐かしんでいるだけなのか。
それとも、私が知らない、大きな出来事がもう起こってしまったのか。
直接尋ねて、はっきりさせなければならない。でもそれは、ひどく恐ろしいことでもあった。
あの賭けを受けたのは、半ば衝動的なものだった。断っても、リョウト先生も別にへそを曲げたりはしないだろうし、上司もそのことで私を叱ったり注意したりはしないはずだ。
だが、自堕落なように見えて実はいたって真面目なリョウト先生が、ずいぶん年下の私に、冗談めかして珍しくわがままを言っているな、と思った。それが妙にくすぐったくて、嬉しくて、つい絆されるように賭けに応じてしまっていた。
けれど、桃だ。
桃を間にはさんで彼と向かい合ってしまえば、私は、もう知らないふりはできなくなってしまうだろう、ということに、遅まきながらその日の夜、気が付いてしまった。そして、桃が誰のための果物なのか、と思いを巡らせたとき、私は、今さらながら大変な可能性に思い至ったのだった。
あの人はずっと変わらずにそこにいてくれると思っていた。そんな保証なんてどこにもないのに、勇気が出せない私はずっと、その儚い可能性に甘えて、彼に尋ねようとしてこなかったのだ。
もしかして、もう、何もかも手遅れなのだろうか。
雨雲のようにもくもくと内心を覆いつくそうとする不安に追いつかれないように、私は地面を蹴る足に再び力を込めた。
こんな日々は、今日で終わりだ。
リョウト先生に告げなくてはいけない。私が、ずっと前から彼を知っていたことを。ペンネームの匂坂遼都先生としてではなく、本名の、坂崎菱人として。
私の姓が今はデラフエンテだけれど、かつては右輪佐知子と名乗っていたことも。
その告白と、それに続けて私がする質問が、どんな答えを私にもたらすのか。そのやり取りが、私と彼にとってどんな意味を持つことになるのか、今の私にはさっぱり分からない。
でも、何かが――あるいは、全てが変わるのだけは、確かだった。
先延ばしにしてきたことに決着をつけるのなら、いっそこんなドラマチックな天気がふさわしいような気もした。