19 スウェットと仏壇――――菱人
そんな濡れ鼠の状態でそのまま帰らせて、風邪でも引かれたらたまらん、と、俺は半ば強制的に彼女を家に上げた。
とにかく話は後にして着替えてこい、と、タンスから少々防虫剤の匂いがするスウェットの上下を引っ張り出して渡すと、しおしおと彼女はバスルームに姿を消した。何かがツボに入ってしまったらしく、さんざん笑っていたので、さすがにむっとしてたしなめたのだが、それを真に受けてしょんぼりしているのだろう。そういうところは、昔のままだ。
スーツはとりあえず多少なりとも乾くように、水気を取って掛けておけ、と、バスタオルとハンガーを渡しておいた。
「あの、ありがとう……ございます、これ」
おずおずと、彼女が居間に戻ってきた。
ブラウンのスウェットは、胸のあたりにクマのアップリケが施されている。サイズは、彼女には少しだけ小さめ。もちろん、俺のものではない。
俺は黙って、座卓の上に並べた、淹れたばかりの紅茶を示した。以前彼女が仕事のお供に、と渡してくれた、白桃の香りがついているものだ。自分が座って、向かいの座布団に座るように促す。小学生の頃のサチの定位置だ。
どちらから、何を話せばいいのだろう。目を合わせたが、一瞬ためらった俺に対して、サチはすっと目を伏せると口を開いた。
「非常識な訪問になってしまって、申し訳ありません」
「今さら、敬語は止めてくれないか。俺はサチに『先生』と呼ばれるのだって、座りが悪くて仕方なかったんだ」
彼女は少し微笑んでうなずいた。だが、その微笑みをうかべた唇はわずかに白っぽく、血の気が薄かった。
「今日は仕事ではないので、お言葉に甘えて。仕事の時は戻すことにするので」
一つ大きく深呼吸して、真っすぐに俺を見つめる。先ほどのかすかな微笑みは目元にまで到達しないうちにすっと消え失せた。不安そうに、大きな瞳がわずかに揺れている。
「最初に、聞かせてほしいことがある。おばあちゃんはどこにいったの? 靴も、傘もない。このスウェット、おばあちゃんのなんでしょう? でも、ただ出かけてるにしては、歯ブラシもいつも使っていた椿の髪油も、バスルームの洗面台に置いていない」
「へ」
思ってもみなかったことを聞かれて、俺は一瞬、ぽかんとした。彼女はあくまで真剣な表情だ。その視線がふっと、隣の元は仏間だった部屋に動いた。
「あ。いや違う。死んでない死んでない」
「……っ! 言い方!」
とっさの俺の一言に、彼女は両手で口元を押さえた。ほっとしたような、笑い出しそうな、泣き出しそうな、何とも言えない表情が目元に浮かぶ。
「そうか。何にも言ってなくて、この家の様子を見たら、そういう心配するのか。ほら」
俺は立って、隣の部屋に通じるふすまを開けはなった。一人暮らしになった今、日当たりがよく、この家で一番快適なその部屋は、デスクを入れて俺の仕事部屋にしていた。
「あれ、ここにあった仏壇は?」
「覚えてたか。ばあちゃん、数年前に引っ越したんだ。じいちゃんの位牌と仏壇持って」
祖母の年下の友人が市内でケア付きの高齢者向けシェアハウスを経営することになり、祖母が大乗り気で、元気なうちに入居してそこを終の棲家にしたいと言い出した顛末、今ではそのシェアハウスで入居者兼スタッフとしてバリバリ働いている様子を話すと、彼女はくすくす笑いながら相づちをうって聞いてくれた。
「で、今は、そのシェアハウス仲間で積み立てた資金で、二週間の予定で北海道に遊びに行ってる。温泉付きのウィークリーマンションみたいな滞在施設があって、仲間のツテで安く借りられたらしいんだ」
「すっごい元気! よかった」
彼女はうなずいた。
「よかった」
自分に言い聞かせるようにもう一度言う。ほんの少し、目じりに涙が浮かんでいた。笑いすぎたせいだけではないだろう。
「さて、サチ。俺としてはこの一年半、君が自分で言ってくるまでとりあえず聞かないで待っていようと思ったわけだけど、何で今まで黙ってた?」
「ええと……いや、その、タイミングを失って」
途端に頬を赤らめてもごもごと言う。
「じゃあ、もう一つ」
俺は一瞬目をつぶって、腹の奥底の気力を探した。
「翻訳出版部に異動するって、本当か」
「何で、……知って」
彼女ははっとしたように顔を上げた。
その一言が返答だった。本当、なのだ。
「さっき、編集長が電話くれたんだ。そういう大事は、一言くらい、事前に相談してくれるかと思っていたんだが」
大きく見開いた瞳がうるむ。
その瞬間に、いや、そもそも社内での異動に関して、彼女は俺に相談する義理なんか一切ないのだ、と気がついて、俺はその発言を即座に取り消したくなった。
なんでこんな子どもっぽい、責めるようなことを言ってしまったのだろう。思い上がりもはなはだしい。
努めて無表情を装いつつ、俺は頬の内側を軽く噛んだ。
彼女は目を伏せると、紅茶を一口飲んだ。言葉を探すようなわずかな間の後、彼女は俺に爆弾を投げ込んだ。
「私がお隣のサチだって言えなかったのも、異動するのも、異動の相談をできなかったのも、全部、リョウトのせい」
「はあ?」
なんだそりゃ。穏やかな口調ながら、内容はまさかの理不尽な非難である。全く心当たりはない。
自分の先ほどの失言も思わず棚に上げて、抗議の声を上げると、彼女はゆっくりとかぶりを振った。
「違う、リョウトは悪くない。悪くないんだけど」
「じゃあ、なんだよ」
話の展開が見えない。
「待って。その件について説明する前に、私からも、質問させて」
俺はうなずいた。
「桃と万年筆。賭けって、本当は何か意味があったの?」
「意味って?」
彼女は腕を組んだ。憤然とした顔になる。
「賭けの提案をされた日に、後で思い当たったの。縁起でもないけど、おばあちゃんの仏壇にお供えするためだって言われたらどうしようって。そんなのありえないって、できるだけ考えないようにしていたけど、今日、いつもの喫茶店じゃなくてこの家に呼ばれたでしょう。それで、まさか、万が一だけどリョウトは私の正体に気が付いていて、リョウトはともかく、おばあちゃんに挨拶にも来てないのに腹を立てていて、今日こそ仏壇やご位牌にちゃんと手を合わせろって言われるのかもって」
えらく豊かな想像力である。でも、そうだ。サチはこういう子だった。色々気をまわしすぎて、その先で暴走するタイプ。苦笑していると、サチはむっとしたように付け足した。
「ほんっとうに緊張したし、怖かったんだよ。こんな日付で、わざわざ果物って言われて」
「こんな日付?」
俺は慌ててカレンダーを振り返った。今日は十五日。八月である。
「……あ」
「全国的には、お盆と呼ばれる時期ですけれど。ご存じでしたか、先生」
芝居めかしたクールな口調でツッコまれてしまった。文筆を生業とする日本人としては致命的な度忘れである。素直に認めるのは少々恥ずかしかったので、オレも彼女のトーンに合わせて、精一杯つっぱった態度で返した。
「締め切りに間に合わせるほうに必死で、そういう世事には疎くなっていましたかね」
夏になると、祖母がむいてくれた桃を彼女と競うように食べた記憶がよみがえるので、毎年食べたくなるのだ。賭けを提案した時には、とっさの思い付き、出来心だった。
けれど、少し冷静になった頭で後から考えれば、ずっと抱えてきた気持ちのせいなのだと、気がついていた。
もう、向き合うべき時期なのだろうと。宙ぶらりんの自分の気持ちに方向性を与えるために。
桃を挟んでこの家で向かい合えば、あの頃の話をもう避けては通れないだろう、という確信があった。ならば、その瞬間に俺自身が本当に賭けるべきものははっきりしていた。
そのための準備もしたし、きちんと話をするために、仕事にも一区切りをつけようと集中した。奇跡的に一日早く原稿を上げることができたのは、ひとえにそのおかげだ。
その過程で、日付に関する一般的な配慮はすっかり抜け落ちてしまったのである。
まさか、祖母が鬼籍に入ったのではないかという心配をかけていたなんて、正直、想像もしていなかった。それは悪いことをした、と思う。
俺は彼女から視線を外すと、ゆっくり立ち上がった。
仏間だった部屋の四分の一近くを占拠している、窓際のライティングデスクが、俺の仕事場だ。その上に置いてあった小さな箱を二つ、手に取って戻った。
こちらが本当の、俺の賭けなのだ。














