↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桃を抱えて走れ【完結済・全32話】  作者: 藤倉楠之
本編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/32

16 詰んでる自覚――――佐知子

 今の私は完全に袋小路に迷い込んでいる。このままではだめだ。そう思い始めたのは、半年前くらいからだった。


 目標にしていた出版社で働き始めた。会いたかった人にも、棚から牡丹餅のような幸運が重なって、再会できた。

 そこで、私は完全に、どうしていいか、自分がどうしたいのか、わからなくなってしまったのだった。


 リョウトは全然思い出してくれない。だからといって、まともに仕事もできないうちに私から「お隣に住んでいたサチでーす! 覚えてる?」なんて言えない。それで作家としての彼が気まずくなって原稿に差しさわりが出たら最悪だ。会社にも大損害だ。


 何より、彼の作品のファンとして、自分のせいで新作が出ないなんて事態には耐えられない。


 ならば、新米編集者として、仕事に徹する、と一度は決めたのだ。

 彼が思い出してくれないならそれで構わない。彼の作品に少しでも関わって、世に送りだせたら、入社した時の志の何割かは早速果たしたということになるはずだ。


 そんなことができると思っていたなんて、本当に、自分の浅はかさには呆れてしまう。


 結局、こじらせまくった初恋は完全にもつれきった片想いに成長して、ぐちゃぐちゃに私の心を占拠していた。問題をいったん棚に上げていただけだったのだ。仕事に徹するなんて、できるはずがなかった。


 再会した彼がいっそ、周囲が勝手に与えた幻想、作中のキャラクターのように自堕落で遊びなれていてわがままで、作品についてはひどく気難しい職人肌の作家、というイメージそのままの人間になってくれていたら、思い出は思い出と割り切って、仕事に徹することだってできたかもしれない。


 でも、彼の無愛想で冷たい反応や気まぐれな態度の裏には、いつも、作品への真摯な態度と私や他の編集者たちへの気遣いがあった。その本質的な中身は、高校生の頃のぶっきらぼうだけれど面倒見がよかったリョウトそのままなのだ。


 これはずるい。私、詰んでる。


 作品だって大好きだ。高校生の頃のリョウトだって大好きだった。今のリョウトを好きにならないわけがない、じゃないか。


 周囲は私の葛藤など何も気づかず、頑張ってるし結果も出ているよ、なんて言ってくれたけど、冗談ではない。この、こと『リョウト先生』に関わる案件になるとまったく客観的に俯瞰できない状態では、いつか絶対、取り返しのつかないミスをする。

 八方ふさがりのまま、私はどうにか仕事のクオリティだけは落とさないようにと、必死だった。


 転機は、思いがけないところからもたらされた。


 半年ほど前の、底冷えのする真冬のある日、突然スマートフォンに着信があった。いつもは時差計算を忘れない母が、珍しく勤務中に掛けてよこしたのだ。

 何か緊急事態でも起こったのかと、仕事の隙を見て慌ててコールバックし、衝撃を受けた。


 父が死んだ、という。父の代理人をしていた弁護士から連絡がきたというのだ。


 とにもかくにも、母から教えられた弁護士事務所に向かった。そこで聞かされたのは、あまりに呆気ない幕切れだった。


 交通事故だった。

 父は、私と母が出て行って離婚が成立したのち、ほどなく家族で住んでいた家を処分して、引っ越したという。学習塾の同僚だった女性と結婚し、今年、六歳になる娘もいたとのことだった。


 母は、父が私の商品価値に執着して、私が自分から望むまで会わないという協議離婚の取り決めも無視し、娘を取り戻しに来るのではないかとずっと怯えていた。だからこそ海も渡ったし、私が帰国して就職するのも最後まで反対していた。


 義父(ダッド)がいくら、父がサチを自分の手元に取り戻そうとしてもそれはもう不可能だし、彼から弁護士を介さずにサチに直接連絡を取ることはできないのだと母に説明しても、私自身が、もう成人して就職もしようという娘に、あの人が父親として口出しできることなんか何もない、と言い切っても、母の不安は多少小さくなりこそすれ、決して消えはしなかった。


 その不合理な不安は、どこかで私にも感染していたらしい。日本に帰ってきてから、いつ、父に見つかるか、ひょっこりと現れて何かを言ってくるのではないか、と、どこかで気にしていた。


 けれど父は父なりに、案外あっさり、次の人生のステップに進んでいたのだ。


 よく考えれば、当然だったのかもしれない。


 彼は自己中心的で、根本的には気の弱い人間だった。逃げ出した母と私を労力をかけて追うよりは、手近で楽な着地点を求めたのかもしれない。私のことも、金になりそうだと思えばこそ興味を抱いたのかもしれないが、それまではずっと無関心だったのだから、無理に連れ戻して何かをさせるのは手間に見合わない、と考えたのだろう。


 弁護士が私を呼びだしたのは、遺産相続に関して私の意向を直接確かめるためだった。私はきっぱり、何も受け取るつもりはない、と答えた。大きな額ではないようだったが、それでも、遺していった生命保険などがあるらしい。会うつもりもない六歳の異母妹にこそ、それは必要なはずだ。彼女がきちんと活かしてくれればそれでいい。


 私には義父と母がいる。私の両親はあの二人で、実父にはこれまで何も期待していなかったし、今もそれは変わらない、とはっきり答えた。


 これでようやく、名実ともに、あの人を父と思わなくてもよくなる。縁を切れる。そんな、からっとした気持ちで法律事務所を離れた。墓の場所さえ聞かなかった。


 それから、奇妙な高揚感が数日続いたのち、私は調子を崩した。

 ひどい風邪を引いて、高熱で寝込んでしまった。


 会社に連絡して休暇をとり、重い身体を引きずって、一人暮らしの部屋で冷凍うどんを鍋に放り込みながら、朦朧とした頭でずっと考えていたのは、おばあちゃんとリョウトのことだった。


 おばあちゃんだったら、こんな時、きっと、すりおろしのショウガをすこし、刻んだ青ネギをたっぷり入れた卵とじうどんを作ってくれるだろう。夏だったら、ナスと油揚げをたっぷり入れたつけ汁のそうめん。あのつけ汁の隠し味が何なのか、未だにわからないなあ。


 懐かしくそんなことを思った次の瞬間、すっと、背筋が冷たくなったのだった。


 おばあちゃん。どうしているのだろう。


 何も変わらないリョウトの顔を見て、勝手に、おばあちゃんも変わらず元気に、リョウトの世話を焼いているのだろうと想像していた。

 私が一歩踏み込んで、リョウトにきちんと打ち明けたら、おばあちゃんにはいつでも会えると、根拠もなくどこかで確信していた。


 でも、リョウトは、再会してから、世間話のはじっこにでも、おばあちゃんの話をしない。

 それは、彼が私と過去の話やプライベートな会話をしたくないからだと解釈していた。

 

 でも、もしかして、完全に間違っていたのだろうか。


 あんなに恐ろしかったはずの父は、あんなにあっさり、死んでしまった。


 それでは、おばあちゃんは? どうしているんだろう。リョウトは、もしかして、私が誰なのか、もうとっくに気が付いていたのだろうか。恩人であるはずのおばあちゃんの様子を尋ねようともしない私に呆れたり、憤慨していたりするんだろうか。


 もしかして、おばあちゃんは。


 その可能性に気が付いた瞬間、足元にあったはずの地面が、急に崩れ落ちたような気がした。


 それに、リョウトだって私だって、明日が今日の続きとは限らない。

 父に起こったような出来事は、いつ、誰に振りかかってもおかしくないのだ。


 だとしたら私は、今のままで、本当に後悔しないんだろうか。



   ◇


 雨はなかなか弱まってこなかった。

 私は膝にのせていた桃がずり落ちないように、そっと位置を直した。

 そのわずかな動きにも、甘い匂いがふわふわと立ち上る。


 やっぱり、彼と顔を合わせるのが怖い。

 それでも、このままでは、やっぱり後悔する。仕事も、大事にしてきた気持ちも、どちらも中途半端になってしまう。


 今までも、何度も彼に話をしようとしてきた。でも気合を入れた日に限って、彼が珍しく打ち合わせに遅刻してきた上に、気の毒なほど疲れ果てた顔をしていたせいで、切り出しあぐねてしまったり、急に社から呼び出しがかかったりして、今日までずるずると先延ばしにしてきてしまった。


 でも、もう、限界だった。


 だから、決めたんじゃないか。

 自分をふるいたたせて下した決断のことをもう一度思い出そうとした。


 今のままでいいわけがない。自分にできること、自分がすべきことを見極めて、ベストを尽くさないといけないのだ。


 やってみる前から諦めるなんて早すぎる。

 早すぎる、んだけど――――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


色々なジャンルの作品を書いています。
よろしかったら、他の作品もお手に取ってみてください!
ヘッダ
新着順 総合評価順 レビュー順 ブクマ順 異世界 現実 長編 短編
フッタ

― 新着の感想 ―
[良い点] 人間とは自分の価値観の中でしか他者との距離や関係性を図れないものですが、この三人もその例に漏れない様でヤキモキさせられてしまいます。 ただ、それでは駄目だと真っ先に気付いたサチが、菱人の心…
[良い点] おばあちゃん!私も気になっていた! 最初は「もしや」と思ったけど、リョウト先生の話だと、たぶんどこかで暮らしてるって確信! もしかしたら、老人ホームとか?もういないと思われるリョウト先生…
[一言] 父の死が転機になりますでしょうか。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。