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14 幻の桜――――菱人

 担当にサチを希望したのは、ただ、気になったからだった。彼女が本当に、俺の知っている右輪佐知子なのか確かめたかった。あれから十年ほどたって、彼女がどんな大人になったのか、知りたかった。

 けれど、過去の話など一切できないまま、仕事上の付き合いだけで日が経っていくうちに、彼女はまた、俺の人生にとって欠かせない存在になっていった。そのことに気が付いたのは、数か月前、春先のことだった。



 その日、サチとの打ち合わせの約束に、俺は大幅に遅刻した。


 よんどころない事情としか彼女には言えなかったが、カズトから振られた腐れ縁のような役回りのせいだった。


 サチとの打ち合わせが予定されていた前日、ヘルシンキのカズトから突然、連絡が入ったのだ。

 インターネットを介したボイスチャットの声は、機器のスペックのせいもあり、音質があまりよくない。それでも、はっきりと感じ取れるほど、その時の彼は焦っていた。


『お前も自分の仕事を始めたし、もう頼まないつもりだったんだ。でも、今回ばかりは、助けてほしい』


 珍しく要領を得ない兄の話にじっと耳を傾け、俺が何とか聞き出したのは、次のような依頼だった。


 ここから二時間ほど自動車を走らせた先の、海沿いの民宿に、サクラさんがいる。カズトが最初に事業を立ち上げたときの共同経営者の一人だった女性、カズトの最初の恋人だ。彼女を迎えに行って、実家まで送り届けてやってほしい。


『サクラさん自身は、実家に行く気があるのか』


 兄の慌てように、トラブルの気配を察して、俺は問いただした。


『そう説得している。納得してくれたはずだ』


 案の定、兄の応答は歯切れが悪かった。これは絶対に訳アリだ、と確信した。


『カズトに分かる限りで、事情を説明してくれ。何も知らないで、不用意なことを言ったり、したりしたくない』


 俺の要求に、兄はしばらく唸りながら考え込んだ後、とつとつと説明してくれた。


 彼女は、婚約者と事業を継続していたが、兄が経営を離脱した後でいくつかトラブルが生じたらしい。そのせいで、結婚は会社が落ち着いてから、と、延び延びになったまま、数年経っていたのだが、思いがけない妊娠が発覚して、近々入籍することになった。


『だけど、急に怖くなったんだそうだ』

『何が』

『わからない。とにかく、怖くなって、逃げ出した。気が付いたら崖の上に立って、海を見下ろしていた。そのときに、ふと俺のことを思い出した、と言って、突然、スマホに電話があった』


 何がというより、全てが怖かったのだろうか。俺はぼんやりと想像するしかなかった。


 己の身の内で、他者の存在が大きくなっていくことも。

 後戻りできない一歩を踏み出しつつあることも。

 先延ばしにしてきた選択が突きつけられたことも。

 とにかく選ばなければならない未来に、全面的に責任を負わなければならないことも。


 少しだけ目をそらして、自嘲するように話していた、何人もの兄の元恋人たちの横顔が脳裏に浮かんだ。みんな、同じだ。何かを決めるのが怖くて、後戻りのできない決断をするのを恐れていた。兄から切り出された別れに表面上は怒ったり傷ついたりしたそぶりを見せていても、最後にはどこか、振出しに戻った安堵に、肩の荷を下ろしたような苦笑をみせた。


 あの人は、最初に兄の心を持って行ってしまった彼女は、そんな空虚な悲劇のヒロインたちとは違うのだろうと、どこかで思っていた。彼女にはまぶしいほどのハッピーエンドがあったのだろうと。そうではなかったのだ。結局、同じだった。生きている限り、人生にエンドなんてないのだ。ハッピーであれ、アンハッピーであれ。


『とにかく、彼女もかなり動揺していたから、転落とかの事故があったらまずいと思った。しばらく話をしているうちに、ある程度落ち着いて、少し戻ったところにある民宿に向かう、と。それで、彼女が歩いて民宿にたどり着くまで、会話を続けた。今はそこにいるはずだ。どうやってその海岸までたどり着いたか覚えていないというんだ。気分もあまりよくないようだし』

『……婚約者殿は』


 そう。彼女が抱えているのは、すべて、婚約者――兄の元共同経営者との問題だ。兄は関係ないはずなのだ。


 はらわたがふつふつと沸騰するような気がした。

 なぜ今。なぜ、カズトに電話なんかしたのか。カズトを選ばずに、もう一人を選んだくせに。


『今の彼女と一対一になれば多分、こじらせる。アイツには、彼女の実家に迎えに行かせる方がいいと思う』

『なるほどね』


 皮肉な口調になるのをこらえることはできなかった。

 兄を捨てたくせに、何年もたってから再び、最後の最後で兄を頼る彼女のずるさも。彼女のそんな振る舞いを突き放せない兄の弱さも。こんな緊急事態に、一切当てにされていない婚約者殿の間抜けさも。すべてがただ悲しかった。


『わかった。俺は迎えに行って、送り届けるだけだ。民宿と彼女の実家の住所をスマホのアドレスに送ってくれ』


 もし万が一、彼女に何かあれば、兄は深海の底に沈んだようになってしばらく浮上してこられないだろう。十年かかるか、十五年かかるか。そんな兄を見るのはごめんだった。


『本当にすまない、恩に着る。彼女が車に乗るか、乗らないかでまた何か迷い出したら、お前は何も言わなくていい。俺に電話をつないでくれればそれで』

『ああ。また、何かあったら連絡する』


 俺は兄の返事を待たずにボイスチャットの終話ボタンをクリックした。力任せの指先が強くパネルを叩く乾いた音が室内に響いた。


 ◇


 民宿にたどり着くころには、もう真夜中になっていた。

 たまたま宿泊客のない日だったことも幸いし、ただならぬ彼女の様子を案じた女将さんがずっと傍についていてくれたらしい。

 いつ爆発するかわからない爆弾を無事受け渡したように安堵の笑みを浮かべた女将に、俺は礼を言って頭を下げ、サクラさん――兄の元恋人を促した。


『坂崎から聞いています。ご実家にお送りします』


 彼女に、自分がカズトの弟だと名乗る気はしなかった。兄が、迎えに行く人間についてどう説明したかは知らない。だが、俺は彼女とは全く関係のない他人なのだとはっきりさせたかった。


 彼女は女将とは対照的な、人形のような無表情でうなずいた。


 彼女の実家は、そこから二時間以上車を走らせた先の、小さな地方都市にあった。

 トラックばかりが相当なスピードで行きかう高速道路を走っているとき、それまで、黙っていた彼女がぽつりと言った。


『和人の弟さんよね。……菱人くん』

『兄が言いましたか』


 問い返した俺に彼女はゆるく首を振った。その名前の通り、花びらが一枚ずつ風に揺れて落ちるような儚げな口調で、彼女は応えた。


『彼は、信頼できる人間に迎えに行かせる、とだけ。でも、一緒に会社をやっていたころ、写真を見せてもらったことがあった。名前もその時に』


 窓の外を見つめたまま、独り言のように続けた。


『和人が信頼していたのは、あなたとお祖母様だけよ。私は彼の心に入れてもらえなかった。それどころか、あなたやお祖母様に紹介してもらうことさえできなかった。あの時、もう少しだけ頑張っていたら、彼に受け入れてもらえていたかなって、時々考えることがあった』


 俺は何も答える気がしなかった。今何かを言えば、きつすぎる一言しか出てこない気がした。


 彼女の今のほんの短い言葉にいくつの「してもらう」というフレーズが含まれていただろう。

 彼女は、常に受け取る側の人だったのだ。幸せにしてもらう側、大切にしてもらう側の人。

 俺が黙りこくっているせいか、彼女もそれ以上何かを言おうとはしなかった。


 重苦しい沈黙の時間を経て、彼女の実家が近づいてくる頃には、もう、明け方近かった。空が白み始める直前の一番暗い時間帯だ。


 周囲の家々はほとんど灯を消していたが、その家だけは、リビングらしい一階の掃き出し窓のカーテンから柔らかい光がわずかにこぼれ、玄関灯もこうこうと輝いていた。


 家の前に乗り入れると、エンジンが止まったのが聞こえたのか、慌てたように初老の女性がドアをくぐって出てくる。その顔には、疲労と心配の色が濃くあらわれていた。


『ありがとう。どうお礼をしたら』


 彼女は助手席で呟くように言った。俺は前を向いたまま短く答えた。


『何もいりません。どうか、お子さんを幸せにしてあげてください』


 彼女は平手打ちされたように肩をこわばらせた。字面では祝いのような俺のこの一言が、呪いのように彼女に作用することは分かっていた。それでも、言わずにはいられなかった。


 兄を幸せにできなかったのなら、そして、それでもなお自分の弱さから兄の古傷を掻きむしったのなら、せめてその償いに、誰か一人でも、彼女にしか幸せにできない存在を幸せにしてやってほしかった。歯を食いしばって足を踏みしめて、次は受け取る側ではなく与える側を生きてほしかった。

 それが俺の復讐心のようなエゴだとしても。


 初老の女性、おそらく彼女の母親が、駆け寄ってきて助手席のドアを開けようとする。


 俺がロックを外すと、彼女は振り返らずに車を降りた。母親は何度も頭を下げ、何かを言おうとしたが、俺は制した。


『ただ、送ってきただけです。急ぐのでこれで』


 車をバックさせて、敷地から出ようとしたとき、ちょうどそれまでは見えない角度だった表札が見えた。


 佐倉(さくら)


 その時初めて知った。こちらが平手打ちを返されたような衝撃だった。


 苗字だったのか。


 兄は、恋人だった時からずっと、彼女をそう呼んでいた。二人で会話している電話の時でも。

 彼女は兄を今も名前で呼んでいるのに、兄はずっとそこに線を引いたままだったのだ。


 兄のことを何も知らないという点では、俺だって彼女といい勝負だったというわけだ。








ここまで読んでくださってありがとうございます!



下書き全話分の、保険での予約投稿セットが完了しました。

全21話完結となる予定です。

年をまたぐのもなんなので、終盤の26日(第17話)以降は毎日一話投稿で進行させていただきます。

最終話の21話は12月30日掲載予定です。

推敲がんばりますので、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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色々なジャンルの作品を書いています。
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ヘッダ
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フッタ

― 新着の感想 ―
[良い点] カズトさんと佐倉さんの過去から、ふたりの人間性が垣間見えた様な気がして面白かったです。 菱人の主観では、与えられる立場を甘受してきた佐倉さんが腹立たしかったのかもしれませんが、彼女は彼女な…
[良い点] カズト兄! 深い! 深すぎる! そして、佐倉さん! 確かにズルいけどこれが女というもの! 弱ってるときに、元カレを思い出す笑! ものすごくリアリティありましたー! [気になる点] >俺…
[一言] 兄はまだまだ奥深いですね。
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