12 わがままとえこひいき――――菱人
サチとの再会は、まさに、全く予期していなかった瞬間に訪れた。
ある雑誌の創刊何周年かの記念に行われた立食パーティーで、文芸出版部の編集長の後ろに付き従って挨拶にきたのだ。
顔を見て、あれ、と思った。その瞬間はそれでも半信半疑だった。
編集長が、うちの部の新人です、と紹介してくれた。彼女は緊張しきった様子で、上司に倣うようにぴょこんと頭をさげ、名刺を差し出した。それで名前を知って、ひょっとしてという予想は、確信に変わった。
だが、名刺は受け取ったものの、一番若手の彼女は、賑やかなパーティーの裏に山ほど発生する雑用を色々任されているようで、忙しそうだった。個人的な会話を交わす余裕など、そのときにはなかった。
そのパーティーの席上でたまたま、編集長から当時担当だった編集者が退職することを聞かされた。
『祝ってあげてくださいね。急に奥様の海外勤務が決まって、専業主夫になる覚悟で同行を決めたと聞いています。新しくチャレンジしたいこともあるんですって。また、本人からご挨拶に伺いますけれど』
編集長は楽しそうに笑った。
『そうなんですか。最近は、海外に行くのも帰ってくるのも、敷居が下がりましたね。国際結婚も』
俺が何気なく言うと、編集長は首を傾げた。
『ああ、先ほどのデラフエンテですか。彼女もそうですね、向こうの大学を出てこちらへ。出身は日本だそうですけれど、お母様が国際結婚されたご縁で姓も変えたんだとか。中学生くらいからアメリカだったそうですから、彼女は本当に語学が堪能ですよ。日本語はもちろんネイティヴ水準をキープしていますし、英語も、生きた言葉って言うんですか。そういう面では、敵いませんわねえ』
嬉しそうに言ってころころ笑う。人当たりはいいが仕事にはかなり厳しい編集長に、彼女はずいぶん気に入られているらしかった。
ああ、苗字が変わっているのはそういうわけだったのか。
少し離れたところで作業をしている彼女に視線をやった。その左手の指には、何も装飾がなかった。
そのことに奇妙な安堵を覚えて、それから、そんなことを思っている自分に、俺は少々うろたえた。
いや、ずっと以前に隣に住んでいたというだけで、心配しすぎ、詮索しすぎだろう。結婚したのではなさそうだけれど、もしそうだったとしても、俺には関係のないことだ。彼女には彼女の人生、彼女の選択があったはずなのだから。
俺はふと思いついて、自分の狼狽を打ち消すように編集長に提案した。
『後任の担当、彼女はどうですか』
普段あまりその手のわがままを言わない俺が突然言い出したことに、編集長は驚いたようだった。だが、旧知の仲だと言うのは俺も何となく照れ臭くて、知らぬ振りを押し通した。
まだ直接本人とも話していないのだ。秘密にするつもりはなかったが、周囲にはせめてサチと話した後で伝えることになっても構わないだろう。
だがその後、パーティーの席上で、俺は少々不愉快な会話を小耳に挟むことになる。
『文芸出版部の新人見たか。カーリーヘアの女の子』
背後からふいに、その声は耳に飛び込んできた。即座に、サチのことだ、と気がついた。
少々下衆な笑い声が応じる。
『向月社が顔で採る方針にしたのは意外だったなあ。ハーフだろ』
サチは九州出身だという母親譲りの、健康的な小麦色の肌に彫りの深い顔立ちをしていた。子どもの頃、右輪佐知子と名乗っていた時から知っている俺はその時まで意識していなかったのだが、確かに、名刺に印刷されていた『デラフエンテ佐知子』という名前とその外見がセットになると、まるでラテン系の外国人と日本人の両親の間に生まれた子のようにも見えるのだった。
それにしても、ダイバーシティに人一倍敏感であるべき出版業界で仕事をしながら、未だに『ハーフ』なんて言葉を使う人間がいるなんて、と、むっとしかけたところで、俺はさらに耳を疑う発言を聞く羽目に陥った。
『意外って言うかさ。どこでも一人くらいは必要なんじゃないの、顔面要員。あの子ならスタイルもいいし、多少気むずかしい作家でも鼻の下を伸ばすんじゃね』
『美人は得だよなあ。仕事できるかどうかじゃないもんな』
違いない、と笑う声が重なった。気の置けない親しい間柄で話していて、気が緩んだのだろう。こっそり振り返ると、男ばかり数人のグループだった。そのうちの一人は、以前どこかの雑誌社で顔を会わせたことのあるフリーライターだと気がついた。一緒にいる人間も雰囲気が似た面々ばかりだった。フリーライター仲間といったところか。
次の瞬間、俺は先程の自分がしでかしたことの意味に気がついて肝が冷えた。
つまり俺が、何の実績もないサチを担当に指名すれば、サチはこういう勘繰りを受けるということなのだ。実力もないのに、見た目で仕事にありついた女。俺が、彼女とは旧知の関係なのだと言ったところで、それは何の益にもならない。実力もないのに見た目とコネで仕事にありついた女、になるだけだ。
彼女の美貌は確かに人目を惹いた。子どものころから相当かわいい顔立ちだったけれど、成長して一層、花開くように綺麗になっていた。それが手の届かないものであるとなれば、異性同性を問わずやっかみ混じりの詮索を向けられるのも、納得はいかないが理解はできる、と思ってしまうほどには際立っていた。本人にその自覚は一切なさそうだったが。
いっそ、編集長にもう一度話して提案を撤回しようか。
そう思いもしたのだが、それもまた癪だった。
あの、カラスに立ち向かっていたサチの瞳を思い出す。
彼女があの瞳をまだ持っているなら、きっと、いい仕事をするはずだ。そして、一瞬顔を合わせただけではあったが、その賭けは決して分が悪いものではないように思われた。
だが、万が一にも、色仕掛けだとかコネで引き立てられたとか周りから思われるのはまずい。彼女のキャリアは今やっと始まったところなのだ。変な色眼鏡で見られるスタートから巻き返すのは大変な労力が必要なはずだ。そんな逆境に置かれたところで、サチならいつかきっとやり遂げるにせよ。
彼女が自分から周囲の人間に言うならそれは構わない。だが、俺の方から旧知の関係を明かすことも、彼女をえこひいきしていると思われそうなことも一切するまい。礼節を保って、きちんと距離を置こう、と、そのとき俺は心に誓ったのだった。
そしてそれ以外で、彼女が悪評を被らないために俺に出来るのは、なるべく質の高い作品を、彼女を通じて向月社に渡し続けることだけだった。