10 夜の砂漠――――佐知子
雨はますますひどくなっていった。
傘を持ってこなかったのは完全に判断ミスだ。
少しくらい濡れてもすぐ乾く、と思っていたけれど、さすがにこのバケツをひっくり返したような降り方の中を突っ切ってリョウト先生を訪問するのは気が引けた。桃を渡してはい終わり、ではない。聞かなければいけないこと、言わなければいけないことがあるのに。
私は半ば途方に暮れて児童公園のベンチに座り込みつつ、降りしきる雨を見つめた。
砂は音もなく雨を吸い込んで、誰かが残していった砂団子が次第に輪郭をうしない、箱庭のような小さな世界にかえっていく。
この街を訪問すること自体、小学六年生で逃げるようにここから引っ越して以来、初めてだ。
◇
この街を出てからは環境が次々に激変して、私は流れについていくのだけで必死だった。母は父と言い争った翌日、私を連れて家を出た。
母の判断の紆余曲折や、家を出た後でどうにかして協議離婚を成立させた、その詳しい経緯は私にはわからなかった。けれど、その後ほどなくして、母は確実に父の影響から距離を置くために、アメリカへの移住を選択した。
私が生まれる少し前まで母が勤めていた外資系企業の元上司が帰国して、当地で自らの事業を始めていた。その人が仕事を紹介してくれるという言葉を頼って、私を連れて海を渡ったのだ。
その恩人はやがて義父になり、私は二人と色々話し合った結果、彼の姓を名乗ることになった。
色々な手続きや言葉の苦労は山ほどあったはずだけれど、母は渡米してから、以前よりずっと明るくなって、よく笑うようになった。だからその選択は絶対に間違っていなかったと思う。
日本に住んだ期間がそれなりに長かった義父は、私の戸惑いを理解してくれたし、母にも私にも丁寧に気を配ってくれた。何より、彼が母を見るときの穏やかであたたかいまなざしを傍らから見ているのは、長い目で見れば、私のひびが入りかけた人生への期待感を少しずつ修復していってくれた、大事な経験だったと思う。
それでも、十代の前半で何の準備もないまま、言葉も文化も習慣も何もかもが違う国に引っ越すことになったのは大きかった。突然放り出された砂漠で、右も左もわからないのに、とにかく歩き続けないと足元を砂に飲み込まれてしまうような恐ろしさは、私を孤独にさせた。
だからと言って、母を頼りにはできなかった。母は、ようやく自分自身の幸せを手に入れかけたところなのだ。母に、あの街を離れて海を渡ったことへの後悔なんて絶対にしてほしくなかった。私の孤独は、私が抱えるべき問題なのだ、と私は決めていた。
そうなってみて初めて、私は、あの頃のおばあちゃんとリョウトがどれほど、自分の揺れる自我の輪郭の端っこをきゅっと押さえていてくれたのかに気がついたのだった。
もしも、アメリカから彼らに連絡を取る手段があれば、何かの助けになったかもしれない。だが、急な引っ越しだったせいで、私はリョウトたちの住所しか知らなかったし、坂崎家に手紙を書くことは母に禁止されていた。
私が隣家の人々にべったり懐いていたことは父も知っていたはずなので、父が郵便物を盗んで、私たちの住所を突き止めようとするかもしれない、と母は考えていたのだ。父には新しい住所は直接教えず、父から母に連絡を取りたいときは弁護士を通すというのが、母が主張した協議離婚の条件のひとつだったらしい。いくらなんでも、まさか泥棒まではしないだろう、と私は思ったのだが、母の不安は根深かった。
夜の砂漠をさまよう壮大な迷子のような気分を抱えて、私は、義父が尽力して編入させてくれた現地の学校も休みがちになっていった。
心配してくれる母にも義父にも、学校の先生たちやスクールカウンセラーにも申し訳ないと思いつつも、あらゆることに気力がわかなくなった。周囲に何の痕跡も記憶も残さず、ふっと消えてしまえたら、という思いに瞬時とらわれるほどにふさぎ込んでいた。
もちろん、そんな都合のいい魔法なんてこの世にない。それに、完全に矛盾するようだけれど、リョウトとおばあちゃんに忘れられてしまうのは絶対に嫌だった。そう思った瞬間に、その気持ちには鍵を掛けた。
その上で、最低限の出席日数とレポートはこなして、何とかドロップアウトせずに高校にまでは進ませてもらっていたのだが。
そんなある日、ふと、あるWEB記事が目に留まった。
タイトル、作者名、出版社といった基本的な情報を添えて、一冊の恋愛小説を紹介する記事だった。それが、『匂坂遼都』のデビュー作だった。
その記事に私は強く惹かれるものを感じた。なぜだかわからないまま、どうしてもその本がほしくて、母に頼んでオンライン書店で取り寄せてもらった。
その作品は、幻想的な舞台設定の中で、すれ違い続ける主人公とヒロインが果てしない追いかけっこの末にめぐり合う、というあらすじだった。映像が目に浮かぶようなきれいな恋愛小説で、ある動画クリエイターの目に留まり、ネット上で公開される自主製作映画の原作になった。
そこから次第に話題を呼んで、二作目がテレビの単発ドラマの原作に起用されたことで、その作家はブレイクした。展開がど真ん中過ぎて陳腐だとか、どこかで見た展開だとか、少々悪意のある書評をもらっているのも時折見かけたが、基本的には王道の作品としてかなり好意的に受け止められていたようだ。
三作目にして、単行本の出版と前後するように大手映画配給会社が映像化の権利を取得し、映画の製作に入ったことが報道されるころには、その作家の立場はゆるぎないものになったようだった。
そんな日本の世間の流れとは関係なく、私は遠い海の向こうの地で一人、その作家にのめり込んでいった。
一作目を読み終わった時に、不思議と懐かしい感じがした。なぜか、直感で、あ、これはリョウトだ、と思った。二作目を読み終わる前にはもう、その感覚は確信へと変わっていった。
『匂坂』先生は顔写真や、大学生作家であるということ以外のプロフィールをほとんど明かしていなかった。だからその時点でははっきりした根拠は何もなかった。でも、リョウトが中高生の頃から文章を書くのが好きだったことは知っていたし、何より、そう思ってみれば、そのペンネームは彼の本名、『坂崎菱人』とよく似ていた。
それから私は、どんな小さなネット上の記事やSNSの投稿も見逃さないように、その作家の情報を追っていった。インタビューで何気なく語られた学生時代の思い出、風景のこと。作品中のふとした折に出る独特の言い回し。まるで答え合わせをするように、自分の思い出せるリョウトの言葉と、彼と私が育った街の景色に重ねていった。
でも、何よりも馴染み深い感じがしたのは、その、どこか暗くて突き放したような人物描写だった。主人公もヒロインも、影や傷があって、完全無欠ではない。物語で、その影や傷は完全には救われないけれど、その不完全さを丸ごと抱え込んで終わるような安心感があった。
彼と一緒に時間を過ごしたころにはまだ小学生だった私は、そんな深い話をリョウトとしたことはなかったはずなのに、それでもその漠然とした物語の手ごたえこそに、これがリョウトのものなんだ、と確信を深めるようになっていった。
その頃は、その確信が真実かどうか、ということに興味はなかった。私がそう感じているということのほうが大切だったのだ。ファンレターすら送らない、完全にサイレントなファンだった。
物語を読んで、思いを巡らす。その細い糸を手繰るような夜ごとの作業が、昼間の私の生活にも、不思議と足元の確かさや行く先の見通しをもたらしてくれたような気がした。
一度は自分の殻に引きこもっていた私は、リョウト――匂坂遼都の物語を追っていくうちに、やがて、他の本にもまた少しずつ、自分から進んで手を出すようになった。そうなれば、もともとは本好きの人間の血が騒ぐ。あっという間に、手近な日本語の本をあらかた読みつくしてしまい、義父の本棚から彼の子ども時代の愛読書を漁って読みふけった。身近な人々とも日常会話を交わす量が増えて、だんだん、英語がもう一つの自分の言葉として身に馴染んでいった。
そんな中でも、道しるべもない夜の砂漠を歩くような日々によりそって、最初に私の足元を照らしてくれた物語は、いつしか、隣家での思い出と同じくらい大切なものになっていた。