第1話 月下美人・黒と金
お月さま。
お月さまはこの宇宙が生まれた大昔から、月界の星たちを守ってきました。
朝と昼は強い光で人や動物たちを照らし、あたたかさで草花や作物をそだてます。
夜は優しく光を放ち、暗闇を好む生き物たちを静かに見守ります。
もしお月さまがなくなってしまったら、きっと大変なことになるでしょう。
しかしある時、人々がおそれる悪いことが起きてしまいました。
真っ黒で遠い宇宙の果てから、お月さまをうばおうとする怪物の群れが現れたのです。
お月さまは自分と月界の生命を守るため、「月の騎士」たちを・・・???
「…あっ 読みすぎた! 怪物が来たところまででいいんだ!」
学校の教材らしき本を開いていた少女が、読むのを止めて少し照れている。
パチパチパチ…
「うまくなったな、音読。」
称賛し、拍手をするのは少女の母親。濡羽色のミディアムストレートがさらりと揺れ、黒ぶち眼鏡の奥のシャープな目は優しく細められている。
「うーん、まあ算数よりは得意だけど。」
少女は読み上げていた本をしまい、代わりに一冊のノートを母親に向かって差し出した。
母親はそれを受け取るとペンを取り出し、受け取った冊子の「家族 印」と書かれた場所に「たてわき」とサインをした。この親子の姓である。
「難しい字も間違えないで読めただろ? お母さんが子どもの頃、多分そんなに上手く読めなかったぞ。」
母親の名は殺陣脇 花。娘の名は殺陣脇 楓 。
「殺陣」の字面があまりよろしくないため、楓の学校などにおいては表記を使い分けている。
「よし、じゃあ昼ご飯にするか。今日はなんと…冷やしうどんだ。その後は昨日もらったアイスでも食べるか。」
「わあー! やった!」
楓は淡緑の玉石のような瞳を輝かせ、両手で拳を握り上下に振り回す。その子供らしいエネルギッシュな動きにより、金糸雀色のおかっぱボブヘアーはバッサバッサと激しく乱れた。
花はソファから立ち上がるとエプロンを着用し、楓の笑顔を横目に見ながら台所へと向かった。ポットから鍋に湯を注いでガス台に乗せ、点火のスイッチを押し込みながら溜め息をつく。
「はーあ…。」
娘の成長はどんな些細なことでも嬉しい。例えば音読の上達とか。
楓が読み上げていたのは一種のおとぎ話で、100年ほど前に起きた気候変動を題材としている。ファンタジーな脚色をふんだんに交えて描かれていて、主に「月の騎士の英雄譚」というタイトルで老若男女に広く浸透している。
私はあの物語が大嫌いだ。胸やけがするほどに。
100年前 私達が月のために戦ったのは、単なる成り行きだった。仲間たちはいざ知らず、私は騎士なんてガラじゃないし、戦い自体も英雄譚なんて大層なものではなかった。
月界に暮らす多くの人々は100年前の真実を知らないし、知らなくてもいい。私から誰かに語る気もない。つまり過去なんてどうでもいい。本当に、どうでもいい。
今の私にとって、どうでもよくないことはひとつだけ。楓との生活、それだけだ。
時刻は正午を少し過ぎた12:15。天高く浮かぶ月が煌々と光を放ち、初夏の熱が徐々に存在感を増し始めていた。
続く