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8、お父様 ご機嫌よう

 夕刻、畳敷きの大広間には使用人たちが勢ぞろいしていた。

 かつての宮廷での謁見でのように、父が座る椅子は緋毛氈が敷かれた一段高いところに設置されている。まるで玉座だ。

 そばには姉妹たちが立って控え、玉座の段下両脇から部屋の手前まで、ずらりと壁に沿って使用人たちが並んでいる。

基本的に父付きの奥の間の使用人たちは参加しないが、例外としてすべての使用人を総括する家宰の久光は〝ご挨拶〟を取り仕切るために出席する。

〝ご挨拶〟では久光に名前を呼ばれた者だけが、父の前で自分の持ち場で起きた問題や1週間の出来事などを報告できる。

 これは姉妹たちも例外ではない。

 ご挨拶の場において、基本的に指名されなければ、正式な発言権はないのだ。


 整然と並んだ使用人たちに満足そうにする久光に近づく。

 久光の齢は50ほどで父と同年代。10年ほど前に前任者が不慮の死を遂げた後、奥の間の使用人たちから選ばれ、使用人のトップである家宰の地位についた。

「久光、ごきげんよう」

「……」

 久光は一瞬目を瞠ったものの、すぐこちらが見えていないかのように横を向いた。

 並んだ使用人たちから意地悪なクスクス笑いが聞こえてくる。

 いつも久光は私の存在自体を無いもののように扱う。あからさまに嘲笑してくる意地悪な主屋の使用人たち以上に、これまで辛く惨めな気持ちにさせられてきた。

だが、今日でそれも終わりにしてやる。

「久光、今日は私もお父様にご挨拶をさせてくださいな。着物をいただいたお礼を申し上げなければなりませんの」

「……」

 久光は頑なに聞こえないふりをする。

 足早に立ち去ろうとするので、後ろ姿に声を掛けた。

「お礼を申し上げないのはお父様に大変失礼なことになります。私は礼を失するくらいなら、お前の段取りには従いませんよ」

 最後まで名前を呼ばれなかったなら、自分から出て行ってやる。

 久光の段取りはめちゃくちゃになるだろう。

 半分脅しめいているが、こちらには「父に着物の礼を言う」という大義名分がある。

こうして事前に筋を通しているのだから、不規則発言を咎められたとして、面目が潰れるのは久光の方だ。



 下座の前列に居座る。どうせ使用人に混じるなら、父が正面を向いたとき、角度的によく見える下座の方がいい。小夜がそっと場所を空けてくれた。

 精緻な彫刻が施された柱時計がボーン、ボーンと時を告げる。

 「旦那様のおなりです」

 久光がもったいぶって宣言する。全員が一様に頭を下げた。

 玉座の背後にあるふすまが開かれ、子取家の絶対権力者である重蔵が現れる。久しぶりに見た父は痩身で、年齢よりもずっと老けて見えた。西郷柄で誂えた大島紬の羽織姿で、眼光は鋭く、高い鉤鼻と相まって険しい顔は鷲のようだ。

「皆の者、面を挙げい」

 老人めいた厳めしい重い声が響く。使用人たちの肩が強張ったのが分かった。

「ではまず、お嬢様方、旦那様にご挨拶を」


 久光が促し、絹子たち姉妹が父の前に出て挨拶をする。めかしこんだ娘たちは、この1週間の稽古事の成果や出来事などを口々に報告し、それに対し重蔵はあまり興味のないような風でうなずいている。着物の件で殴られた麻子だけが恐々と言葉少なだった。


「次に、従僕長の…」

「待て」

 父の制止が入った。

「我が家にはもう1人、娘がいたはずだ。わしは先日、アレに着物をやった」

 地を這うような苛々とした声だ。

「礼がないとはけしからん!久光、どうなっている!」

 久光は震え上がった。

「お、音お嬢様…」

「もちろん、お父様にお礼を申し上げたく、こちらに控えております!」

 あの久光に「お嬢様」と言わせたことへの快哉を心中で叫び、すかさず声を張り上げて答えた。

「なぜそんなところにいる!もっと近くに来い!」

「ただいま参ります」

 滑るように父の面前に進む。

「お前には舞の天才があると藤巻から聞いた。本当かどうか、ここで舞ってみろ」

 重蔵は冷たい、家畜を見定めるような目をしていた。

 面前に呼びつけたのは血のつながった娘への情愛ではなく、単純に舞の才能を、自分にとっての利用価値を測りたいからだとすぐに分かった。

 価値が無いと判断されれば、容赦なく与えた着物も奪い取るだろう。

 だが、そういう人間は前世の宮廷で嫌というほど見てきている。


 …望むところだ。


「仰せの通りに。誰か三味線か唄を」

「久光!」

「は、はい。では、すぐに呼んでまいります」

 重蔵の剣幕に転げ出るようにして奥の間に向かった久光が、連れてきたのは老女のヨシイだ。もとは名うての旅の三味線弾きだったが、老齢で旅を続けるのが難しくなり、屋敷に居ついた。姉妹たちの三味線の師匠でもある。

 連れてこられたヨシイは大広間の畳に座り、落ち着いて調弦を行った。

「何の曲に致しましょうか」

「松の緑を」

 作曲者が娘の才能を寿ぐために作った曲だ。

 今は幼くても、いずれは松の位(太夫)まで上り詰めると、めでたいこと尽くしの前途を祝う内容である。

 舞う前に絵理子に渡された指輪を外したいが、指輪を預けられる自分付きの女中はいない。仕方ないので、なるべく指の根本に押し込み、父の面前で平伏した。


「では」

 

 テンタンチャンチャンと、軽やかな三味線の音が響く。

 天衣無縫の才能を謳う曲ならば、表現するのは天女のような無邪気さが好ましいだろう。

 重力を感じさせないよう、そっと立ち上がり、扇を前に差し出す。

 中腰での移動など負担のかかる動作が多い曲だが、動きの多い方が前世のダンスで慣れている。

 肩の高さを一定に保って、たおやかな足取りでくるりと円を描く。顔の前に扇をかざし、体を傾けた。

「ほう」

 重蔵が感嘆の声を上げた。

 鮮やかな振袖が天女の羽衣のように翻る。

 無垢に優雅に、俗世の憂いなど存在しないような美しさ。

 扇を閉じて再び平伏するまで、大広間にいる全員が舞姿に見入っていた。


「す、素晴らしいぞ」


 興奮した声で重蔵が叫んだ。

「お褒めに預かり、恐悦至極に存じます」

「つい先週、初めて稽古に参加したばかりとは到底思えぬ技量だ。なあヨシイ」

「ええ、ええ、信じられませぬ。ここまでの舞手は新橋の芸者にもなかなかおらぬかと」

 新橋の芸者がどの程度の技量かは知らないが、これでも前世では宮廷の薔薇、国家の名花と謳われるほど技芸に優れていたのだ。

 日舞は不慣れとはいえ、そこらへんにいる舞手と比べられても…と冷笑が出そうだ。


「妾腹ゆえ期待していなかったが、儂の気鬱な日々の良い慰めになりそうだ!」


 どこまでも自己中心的な父に失望する気持ちは湧かなかった。

 前世を思い出したことにより、そういう見られ方は、すでに慣れていたと気付いたからだ。

何もしなくても全ての人から愛されていたエリザに比べ、オルトネットは自分の価値を証明し続けないと誰にも必要とされなかった。

 大貴族のプライドから、成り上がり貴族出身のエリザには決して負けたくないと必死で磨いたダンス、音楽、語学、詩歌、行儀作法、センス、容姿の数々。

「誰かにとっての自分は価値あるものに映るように」、それがオルトネットの処世術だった。前世での血の滲むような努力が今生で役立ったことの方が、いまは感慨深かった。

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