6、食べ物を手に入れよう
自分の部屋で身なりを整え、月影楼に向かう。
これからやることにはいくつかのハッタリが必要だ。惜しみなく椿油と紅を使ったおかげで、髪に艶が出て、血色も良く見える。
明るいところでまじまじと見られなければ、相手は豊かな巻き髪に、薔薇色の頬の少女だと思うだろう。
月影楼の厨房を預かっている料理人の遠藤正一は、〝東京で名の通ったレストランで働いていた西洋料理人〟という触れ込みにしては、おかしなところが多かった。
作れるのは、オムレットとコロッケとピカタのみ。最初のうちはそれでも良かったが、そのうち重蔵が食べたいものを注文するようになると、途端に回らなくなった。
「ビーフシチュー」を命じると「肉じゃが」になったのはまだ良い方だ。
先日、重蔵の雷が落ちたのは「ミートパイ」が「肉入りおやき」になったためで、食卓に出されたおやきを見て、「こんなに平べったいパイがあるか!」と叱られていたと噂になっていた。
主屋の厨房を預かる料理人や女中たちは、重蔵の食事を作る役目を誇りに思っているため、それを脅かす遠藤の存在が目障りなのだろう。
誰もが遠藤の失敗を望んでおり、屋敷の中で浮いた存在だった。
月影楼の勝手口を空ける。
「遠藤はいますか」
勝手口から入ったのは、逆光による演出効果を狙ったものだ。暗い厨房から見上げる振り袖姿の少女は神々しく見えたのだろう、遠藤は呆気にとられた。
「遠藤?」
「あ、ああ、ええ、私がそうでございます。失礼ですが、どなたさまでございますか」
「四女の音と申します」
「へ、へえ、お嬢様が何の用でこちらにいらっしゃいましたか」
重蔵はいつも傍仕えの使用人たちと奥の間で過ごしており、娘たちと同じ食卓につくことはなく、常に1人で皆と違う内容の食事をとっている。そのため遠藤は子取家の娘たちの顔を知らず、屋敷の事情にも疎かったので、音への対応も丁重だった。
「パイは作れるようになりましたか?」
「いえ、まだでございます。ただお約束の明日までには作れるように致します」
厨房の中には、小麦粉や綿棒などが散らばり、今の今まで悪戦苦闘していたことがうかがえた。
「そう。これがパイ生地かしら、お行儀が悪いけれど許してくださいね」
厨房に入り、ボウルに入った生地を一口いただく。
「こ、これは…」
小麦粉と水を練っただけのおやきの生地である。台に置いてあるレシピを確認すると、材料が足りない。
「遠藤、ここにバターは無いのですか」
「ご、ございますが…」
「ならばまんべんなく粉にまぶすように入れなさい。レシピに書いてある通りに」
遠藤の私物だろう、書き込みでボロボロになったレシピのページを指さす。一生懸命練習しているのは分かるが、レシピ通りでなければ意味がない。
「お嬢様はこの本が読めるので?」
「?ええ、読めますわ」
「お、お願いがございます。何が書いてあるか、読んでください。外国の文字で書かれていて、私には何が書いてあるかさっぱり分からんのです」
ああそういえば、これ外国の文字なのか。オルトネットのいた世界で使っていた言葉とよく似ているので、普通に読めてしまった。
「これはバターと書いてあります。その後、最低1時間は生地を寝かします」
「は、はい」
「その間、フィリング…パイの中身を作りましょうか。ひき肉を用意して」
遠藤が必死に豚肉をミンチにしている間に、試作品らしき〝おやき〟を口に入れる。
「ううん、味付けが和風すぎるのよね…。これはこれで美味しいけれど、お父様も〝肉入りおやき〟と仰るわけだわ」
遠藤に指示を飛ばし、ひき肉ににんじんや玉ねぎを混ぜ、レシピにあった香辛料やケチャップを加えて、水気を飛ばすように炒めさせる。前世でよく食べていたような美味しそうなフィリングが出来上がった。
「さて味は…うん、良い感じ」
冷所に置いていたパイ生地の半分にフィリングを詰め、卵黄を塗る。パイ生地を寝かしていた時間が最低限だったため、失敗した場合に備えて作ったパイ生地の半分を残しておいた。
「オーブン…は無いから、石窯を使いましょう」
「はい!」
石窯にそのまま勢いよくパイを突っ込もうとしたのを慌てて止めた。
「あらかじめ石窯を暖めてからよ!そのままだと、生地が緩んでまうわ」
バターを使っていない、余熱をしていない。…パイが膨らまなかった理由が分かった気がする。
石窯を熱した後に、遠藤はパイを入れ、焼き始めた。
心配していたのとは違って、仕事ぶりは丁寧で、生焼けだったり、焦がしたりということもなく綺麗にパイを焼き上げた。
厨房に立つ遠藤は生き生きしている。
出来上がる頃合いを見計らい、ダイニングテーブルにクロスを掛け、食器を並べて、椅子を引いてくれた。
「どうぞ、お嬢様」
「ありがとう」
澄ましてテーブルに着く。白いテーブルクロスにボーンチャイナの皿、銀のナイフにフォーク。これらを使うのは今生では初めてで、懐かしくて涙が出そうだ。残飯を漁っていた日々よ、さようなら。
ミートパイがサーブされる。ナイフを入れると、サクッと軽やかな音がして肉汁があふれ出した。
一口食べると、濃厚な肉の旨味と優しいバターの香りが広がった。万年栄養失調気味の体には染み渡る。ガツガツと食べ進めてしまいそうな手を意志の力で止め、後ろでそわそわと心配そうに控えている遠藤に声を掛ける。
「遠藤、こちらにおいでなさい」
「は、はい」
「背筋を伸ばしなさい!しゃんとなさい!私のシェフでしょう!」
猫背気味の遠藤に一喝する。意味を理解したのか、兵隊のように直立した後で、じわじわと嬉しそうな顔になった。
「で、では、料理人と認めてもらえたので」
「素晴らしいわ。初めてレシピ通りに作ったとは思えないくらい良い出来よ」
「あ、ありがとうございます!!」
遠藤が感激の涙を流しているうちに、パイをてきぱきとお腹に収めた。
ナフキンで口の周りを拭く。
必要なのは適度なプレッシャーと威厳、優しさだ。
「これからも他の料理を作れるように精進なさい。お父さまに滅多なものを食べさせるわけには参りませんよ」
その言葉に、はっとしたように遠藤がひれ伏した。
「お、お嬢様、お願いがございます。どうか、これからもお嬢様にご指導いただけませんでしょうか。まだまだ未熟の身、レシピの料理も満足に作れないのです」
ここで西洋料理の知識を持つ自分を味方につけられるかが、屋敷で生きていけるかどうかの分かれ目だと気付いたのだろう。狙い通り、追い縋ってくる。
心の中で笑みを噛み殺し、女王のように威厳をもって問いかける。
「貴方は名の知れたレストランの料理人だったと聞いていますが、それにしては作れる料理が少なすぎる。でも、パイを焼き上げた腕は確かでした。何か事情がありそうですね。誰にも言いませんから、正直に申しなさい。」
「お嬢様の目はなんでもお見通しなのですね。私は確かに東京の高級レストランで働いておりました。ただ、メインシェフではなく、下働きだったのです」
来る日も来る日も食材を切ったり、焼いたりなどの部分作業しかやらせてもらえなかったという。何年働いても、料理の工程を通しで任せてくれないことに抗議したところ、突然解雇されたと話す。
「メニューを覚えた料理人が独立してライバルになることを恐れていたのでしょう。結局、私も賄いで出していたもの以外の料理の作り方を覚えられませんでした」
退職金代わりに持ち出したレシピ本を見て勉強をしようと思ったが、洋書だったために言葉が分からず、それでも本屋で辞書を引き、書き込み、どうにか物にしようとあがいていたという
「そんな頃でございます、山奥のお金持ちが西洋料理人を探していると、仕事の斡旋人から声を掛けられたのでございます。経歴を偽るのは悪いことと知りながら、『なに、下働きといっても料理人は料理人さ。山奥のお金持ちだ、西洋料理には詳しくない』とそそのかされ、食いつなぐのに精いっぱいだった私はその囁きに乗ったのでございます」
「想像以上に、お父様が西洋料理に詳しくて、進退窮まったのね」
ぐ、っと遠藤が低い頭をさらに低くする。
「本当に申し訳ございませんでした」
「謝らないでよろしい。貴方の料理への情熱と腕は確かです」
下駄の先で顔を上げさせる。
「よくぞ本当のことを話してくれました。正直な人間はこの屋敷において得難いものです。貴方が我が屋敷で料理人としての地位を保てるよう、お父さまに出す前の食事は全て私が確認し、面倒を見ましょう。このことは私とあなただけの秘密です」
「有難うございます、このご恩は何と言ったらいいか…」
「面倒を見ると約束したからには、できる限り毎日、こちらに顔を出します。しっかり励むのですよ」
「はい、ありがとうございます、ありがとうございます」
遠藤は泣き崩れている。
よし、これで上質な食事を確保できた。
もう、ひもじくて皆が寝静まった炊事場で残飯を漁るような真似はしなくて済む。
上手く事が運びすぎて万歳したい気分だ。