5、気に入らない女がいます
主屋を通って月影楼に向かおうとしたとき、麻子の高い声が後ろから響いた。
「この泥棒女!!!」
「あら」
琴の撥が飛んできたのを、首をかしげるだけで躱す。
幼いころから姉たちには石から食器まで様々なものを投げつけられてきたので、気配だけで避けられるようになってしまった。悲しい特技である。
今の麻子は相当頭に血が上っているらしい。縁側から身を乗り出してわめいている。右目のあたりが紫色に腫れていて、まるで講談に聞くお岩さんのようだ。
「そのような恐ろしい顔をされて、どうなさいましたか」
二重の意味を込めた嫌味である。
「うるさい!うるさい!盗んだものを返しなさいよ!その帯は私のものよ!!」
父に殴られても諦めきれず、着物の直接奪取を企んだらしい。
麻子の大きな声に、絵理子や仕事中だった他の使用人たちも集まってきた。大半の屋敷の人間は、姉たちの「妾の子いじめ」を見せ物のように楽しんでいる。
集まった面子のなかに父付きの使用人である喜平がいるのを確認してから口を開いた。「麻子お姉様、口を慎みなさいませ。お父様は藤巻先生に、私に新しい着物を用意する、とお約束されました。この着物は、そのお父様から有り難くいただいたものです、それは麻子お姉様もご存知のはず」
昨日の経緯を説明することで事情を知らない周囲の使用人たちにも、正当な権利で着物を手に入れたことを知らしめる。
「ですのに、麻子お姉様はこの着物をご自身から盗まれたものだと仰いました。お父さまがくださった着物をそのように言うなんて、お父さまを盗人呼ばわりしたのと同じことですわ」
周囲の使用人たちも麻子の発言の重大性に気づいたのだろう。「旦那様を盗人呼ばわりするなんて」と、ざわつきはじめた。
「あまりにもお言葉が過ぎます、お耳に入ったら大変なことになりますわ」
子取家の家長である父の権力は絶対だ。
もし喜平がこのやりとりを報告したならば、麻子は殴られるだけでは済まされないだろう。よりによって父に忠実な喜平ふくむ大勢の使用人たちの目の前で、妾の子を嘲ったつもりが、父の権威に傷をつけたと指摘されたのだ。
麻子がみるみるうちに青ざめていく。
「まあまぁ、麻子姉様は少し言い過ぎてしまったわけですわ。お父さまを悪く言おうだなんて思ってらっしゃらないですわよね、麻子姉様?」
そばで見ていた絵理子がおっとりした様子で取りなしに入った。
「ええ、ええ、勿論。そんなつもりはなかったわ」
「まぁ、それではどうして、あのようなことを仰いましたの?」
「私はただ、その帯や着物はもともと私や絵里子のために仕立てられたものだと言いたかっただけなのよ。絵理子だって悲しんでいたのよ、自分のものだったのにって」
自分が引き合いに出されると思ってなかったのか、麻子に名指しされ、絵理子は戸惑っている。
絵理子にも一言言いたいことがあったのでちょうど良かった。
「絵理子様、いつも私にお召し物を渡してくださるから、今回も快く譲ってくださったのだと思っていたのですけれども、そうではなかったのですか」
「馬鹿じゃないの?!」
絵理子が口を開く前に、麻子が叫んだ。
「絵理子がお前に下げ渡しているのは、古くて着られなくなったものばかりじゃない!不用品をゴミ箱に捨てるようなものよ、新しい着物なんてやる訳ないじゃない!!」
「そんな…」
ショックを受けたように振舞ってはみたものの、そんなことは分かっていた。
絵理子はさも親切そうにしていたが、いつも渡してくるのは酷く古びたものばかり。要らないものを押し付けているだけなのに「お優しい絵理子様」と家中の評判が高まるのは気持ち良かっただろう。
「私のことを思ってくれていたのではなかったのですか。意地悪をされていただけなのですか」
悲しそうな声で絵里子に問いかける。
絵理子は今まで作り上げてきた「お優しい絵理子様」のイメージが崩れる危険性を察したのだろう、慌てて否定した。
「そんなことはありません、私は本心から音姉様の助けになると思って今まで…」
「ではなぜ古い着物は簡単に下さって、新しい着物は渋りなさるの?」
「昨夜、麻子姉様につい愚痴めいたことを言ってしまったのは、その着物を着るのを楽しみにしていたからなのです。でも、今は音姉様のものになって良かったと思っておりますのよ、よくお似合いですもの」
「ありがとうございます」
にっこり笑って見せる。
もう誰にも「妾の子に良い着物は似合わない、ボロ切れで十分」だなんて言わせない。
「今朝がた、藤巻先生にもお褒めいただきました。『美しい女子には相応しいものを』と、紅と椿油もくださいました」
紅と椿油は隠しておこうかとも思ったが、身を飾るものだ。死蔵しない限り、どうせ手に入れたことがバレる。ならば盗んだなどと言いがかりをつけられる前に所有権をはっきり主張しておくことにした。
「今まで着た何よりも」と、強調する。
「こちらを譲っていただいたことを嬉しく思いますわ」
絵理子の笑顔が引きつった。
これからも「お優しい絵理子様」を演じようとするなら、今回のように仕立てられたばかりの着物を譲るしかないと分かっただろう。
もう、ゴミ箱代わりにされるのはごめんだ。