3、化粧品を手に入れよう
藤巻が帰る翌日の朝までには、新しい扇と何枚かの着物が用意されていた。
天気は快晴。何とも清々しい朝である。
「差し当たっては、こちらをお使いください、とのことです」
年若い女中の小夜が頭を下げる。
用意された着物は本来、同じくらいの背格好である麻子と絵理子のために作られていたものだ。
昨夜、麻子の抗議の声と激しい物音が聞こえた。炊事場の使用人たちが、食事の間に出てきた麻子の顔が腫れていたと話していたから、重蔵に殴られでもしたのだろう。
正絹の着物はうっとりするほど肌触りが良い。さっそく身に着ける。
花緑青の生地に手毬が散らされた振袖に、濃紅色に金糸で牡丹が刺繍された名古屋帯…やっと旧家の令嬢らしい装いになった。足袋や漆塗りの下駄も揃っている。藤巻が気を利かせてくれたらしい。
「小夜、藤巻先生はどちらに」
「先ほど、お泊りの清香楼から旦那様へ出立の挨拶にお見えになりました」
豪勢な客間が有り余っているというのに藤巻は屋敷に夜間滞在しようとはしない。泊まるのはいつも別宅扱いとなっている村はずれの洋館である。
「わかったわ。では先生がもし私を探すようであれば、正門の外にいると伝えて」
基本的に藤巻は出立の日、父以外の親族に挨拶することはない。見送りも断る。
小夜は静かにうなずいた。
音が門の外でしばらく立っていると、藤巻が荷物持ちの下男とともに歩いてくるのが見えた。
「藤巻先生、本当に有難うございます」
「あらあら、見違えたこと」
藤巻は顔を綻ばす。
本当に別人のようだったのだ。
音が背筋を伸ばして正絹の振袖を着こなす姿は、咲きかけた大輪の花のようだった。だからなおさら、顔色が良くないことや、ひび割れた爪や先細った髪が、藤巻は気になった。
「音さん、あなたがあの家でどのような扱いを受けているかは見当がつきます」
「情けないことです。せっかくお着物をいただいたのに、そう見えてしまうのは」
うつむく音に、藤巻は感心した。
生来の美しさを自由に伸ばすこともままならないだろう境遇を哀れと思っての慈しみの言葉だったが、音は「完全に装えていないこと」を悔しがっている。
その誇り高さは一歩間違えれば高慢につながるが、何があろうと客の前では美しく笑顔でいなければならない芸妓の世界で生きてきた藤巻には好ましかった。
「あなたがこの村の人間でなければ、ぜひとも内弟子にしたものを」
ため息をつく。そして音の手に、自分の紅と椿油を握らせた。
「差し上げます。少しはよく見えるでしょう」
「!ありがとうございます」
頭を下げた。思わぬ収穫だ。考えていた以上に、藤巻に気に入られたらしい。
「音さん、歩きながらでもよろしい?」
「はい」
村外れまで歩き、道切を過ぎたあたりで藤巻は口をひらいた。
「あなたの才能は素晴らしい。ここで潰されるのはもったいない。だから、何があっても絶対にあの蔵に近づいてはいけませんよ」
小取家の敷地内には5つの蔵があるか、屋敷と同じくらい、いや、それ以上に厳重に警備されている蔵がある。
村祭りの神事が終わった後、年に1回扉が開かれるだけだ。
「あの家はおかしなところがあります。以前、お屋敷に滞在させていただいたとき、深夜誰もいない部屋から声がいたしました。また屋根裏から降りてきた何者かに顔をのぞきこまれました。旦那様を問い詰めると、蔵に近づかなければ大丈夫だ、としか仰らない」
だから私は恐ろしくて清香楼に泊っているのです、と続けた。
「お屋敷だけでなく、この村にはおかしなところがございます。呪われているといってもいい。以前、人懐っこい村の子供が私について村の外に出たことがございます。でも、山向こうの道祖神を通り過ぎようとした瞬間、気が狂って山に分け入って行ってしまった」
その時のことを思い出したのか、藤巻は身を震わせた。
「急いで村に戻って人を呼ぼうとしたとき、その子の首のない死体が山から下りてくるのを見たのです。気が遠くなってお屋敷で目が覚めたときには、出立前の時刻に戻っておりました。悪い夢でも見たかしらと思いましたが、その日の夜は清香楼に泊っていたはずだったのです」
藤巻は取り乱した自分に気づいたのか、一呼吸ついた。
「音さん」
「はい」
「私は旦那様に恩義がございます。ですから、大体のことは知らぬ存ぜぬで通そうと決めております」
まるで音以外の誰かに言い含めるような話し方だった。
「ただ、お気をつけなさい」
最後は音に向かっての言葉だった。
藤巻と別れた後、音は独り言をもらした。
「あらあら、あらあら。驚いたわ」
話の内容に驚いたわけではない。
曰くつきの蔵(呪いの宝物庫)、屋敷に跋扈する魔物、領域外に出たものに対しての報い(結界魔法)、歩く死体…
「これって、こちらの世界では普通じゃなかったのね!」
生まれてこの方、村の外に出たことはなく、前世もファンタジー世界の住人だ。
藤巻の驚きよう、怯えようにカルチャーショックを感じたのだった。