2、着物を手に入れよう
ここの屋敷の中は音の敵ばかりだ。血のつながった家族も、屋敷の使用人たちも、皆妾の子である音のことを蔑んで当然だと思っている。
つまり、今の状況を変えるためには、家の外の人間の力を借りるのが一番早い。
旧家として矜持が高い子取家は、娘たちをふさわしい令嬢に育てるべく、舞踊や琴、華道や茶道、香道といった、稽古ごとへの投資は惜しまなかった。
今日のこの時間は姉たちが舞踊の稽古をしているはずだ。月に一度通ってくる舞踊の師匠である藤巻しのは村外から招かれており、妾の子に対する差別意識は少ない。
足を悪くして引退するまで、帝都では名の知れた芸妓だったと聞く。
…そういう人間は、磨けば光る才能に弱い。
家屋内を移動すれば、姉付きの使用人たちに咎められるのは目に見えているので、庭に出て移動する。
まずは何としても、藤巻に認められる必要があった。
どこの座敷で稽古をしているかは知っていた。
以前、「卑しくも子取家の令嬢ならば、それらしい振る舞いを身につけよ」という名目で稽古の場に引き出され、さんざんに嬲られ、笑いものにされたことがある。
本妻の子である姉たちが「稽古用に着替えろ」と強制してきた小紋には、臀部のあたりに穴が空いていたのだ。廊下での使用人たちの忍び笑いで、自分がどんな着物を着ているかに気づいた。
恥ずかしくて部屋の隅から立ち上がることもできず、事情を知らない藤巻の「何のために来たのですか」という叱責と、「妾の子は愚鈍ですから」と嘲笑う姉たちに耐えることしかできなかった。
思い出すだけで腸が煮えくり返る。
縁側から室内を伺う。
五女の絵理子が舞っていた。末妹の彼女は陰険な姉たちとは違い、誰にでも優しく朗らかな性格で、下男下女に至るまで家中の皆から好かれていた。
先の一件のときも、姉たちの所業を知ってか知らずか「音姉さま、お稽古はお止めになったら。ねえ藤巻先生?」と気遣う様子をみせていた。
今着ているものも絵理子のお下がりだ。「大姉さまたちに見つかったら怒られてしまうから、そうそう差し上げられないけれど」と自分の持ち物を何くれとなく恵んでくれている。
唯一の味方といってもいい存在。
だが、なぜか音は昔から絵理子が好きではなかった。
その理由をやっと理解した。前世の死因となった従姉妹、エリザに似ているのだ。
虫も殺せないというような優しい面立ち、楚々とした容姿、誰からも愛される性格、恵まれた境遇、そしてこちらに向ける下の者を憐れむ目。
虫唾が走る。
「誰です?」
絵理子の舞を見て、しばらくぼんやりしていたのかもしれない。
障子に映った影に気づいたのだろう、藤巻の声が飛んだ。
「音でございます」
ああ、四女の…と思い出したらしい。
「何の御用ですか」
「私にも稽古をつけていただきたく」
座敷の中がざわめく。姉たちは手酷い目にあわせた音が稽古の場に戻ってくるとは思っていなかったらしい。
「何をバカなことを言っているの。前回の失態を忘れたの?」
「そうよ、また恥をかきにきたのかしら」
長女の絹子、次女の木綿子が嘲笑う。音は言葉を継いだ。
「お姉さま方が以前仰っていた通り、…卑しくも子取家の令嬢として恥ずかしくない振る舞いを身につけたく存じます」
まさか自分の言葉を忘れたわけではあるまい、という牽制。
上に立つ者は前言を軽々しく翻してはならないという不文律は、古くからの使用人が多くいる子取家だからこそ徹底している。
「でも、音姉さまはずいぶんお稽古を休まれていたから、いきなり私たちと同じようにするのは難しいかと思いますわ。女中のヨネならば舞の心得がありますので、まずはヨネから教わった方が…」
絵理子がおっとりとした物言いで場をとりなす。
「いえ、お気遣いには及びません」
それでは意味が無い。
「まずは一指し舞わせていただきたく思います」
藤巻が片眉を上げた。
「ずいぶん自信がおありのご様子。良いでしょう。舞ってごらんなさい」
「有難く存じます」
「曲は…」
「曲は先ほど絵理子さまが踊っていたものでお願いいたします」
手足が震え出しそうになるのを、プライドで押さえ込む。
正直、先ほど見て覚えたばかりで、自信はそこまで無い。日舞の経験は前世でも全くないのだ。だが、ダンスにおいて普遍的な体の使い方というものはある。
―かつて宮廷の薔薇と謳われたオルトネットならば、どんな曲でも踊りこなして見せるはずだ。
「では」
扇を渡されて立ち上がった瞬間、藤巻が小さく息を呑んだ。
以前、座敷の隅で小さく震えていただけの娘とは同一人物だとは思えないほど、立ち姿が完成されていたのだ。
三味線の音が座敷に響く。地歌に合わせて音が扇を翻す。
「これは」
藤巻は唸った。
恋人に捨てられた女の曲だ。本来、儚げな風情が見どころの舞だが、いま目の前にあるのは、燃えるような憤怒を抱える羅刹の舞だ。
滑らかな足捌きには、捨てた恋人への怒りがにじみ、扇子を持つ手の動きは心中の炎を表現する。
音としては賭けでもあった。日舞は静の側面が強く、オルトネットが得意としていたダンスは動の側面が強い。なるべく自分が得意とする分野に近づけるため、恋人に捨てられた女の心情を、あえて手本通りの静かに消えゆく方ではなく、激しく燃え上がる方に解釈した。
また、あえて扇の扱い方と裾の捌き方に僅かな違和感を残した。完全に舞うより、欲しいものを手に入れられる可能性が高くしたかった。
最後、すすり泣き声のような三味線を響かせて曲が終わる。
座敷は静まり返り、本妻の子たちは呆気にとられていた。
いや、絹子だけは違った。
「あ、あんな踊り方おかしいわよ!妾の子だから学がないのだろうけど、あの曲は儚く舞うものよ!!」
「ほ、本当に」
「そうよ、それをあんな」
木綿子、三女の麻子も慌てて口々に音を貶めようとしたところを藤巻が遮る。
「あんな?確かに手本通りではありませんが、根底にある優雅さは失われてはおりません。むしろ新たな解釈のもとで昇華されている」
ぐぬぬ、と姉たちが黙る。藤巻は言葉を続けた。
「他にも舞える曲はございますか」
「見せていただけるなら」
「と仰いますと」
「独りで稽古をしていると、曲がございません。ですので、どのように曲に合わせて動いたらよいやら…。先ほども絵理子様が舞ってらっしゃったのを覚えただけでございます」
半分はでたらめだ。独りで稽古などしたことがない。そして正直、もう一曲踊るのは避けたかった。踊れば踊るほど、ダンス由来の動きに注目されてしまう。
何より、なぜか先ほどから黙ったままの絵理子の目の前で舞うのはいけないと、頭のどこかが警鐘を鳴らしていた。
「即興であの完成度…」
「お褒め頂き恐縮です」
「どのように今まで稽古を?扇の扱い方や裾捌きが見慣れぬものでしたが」
その問いかけを待っていた。
「はい、私は扇を持ってはおりませぬので、扇代わりに木の枝を使っておりました。ですので、こうして扇を広げる動き、閉じる動きがぎこちないのでございます」
はらはらと涙をこぼす。
もちろん計算づくだが、わが身を振り返ると涙がでるくらいの情けなさというのは本心である。
「また、裾丈の合った着物がこれ以外ございませんので、他のものを着て稽古しているときとは感覚が変わってしまうのでございます」
音は言葉を続けた。
「お願いでございます、藤巻先生。父に、私に扇と新しい着物を与えてくださるよう口添えしてはいただけないでしょうか」
名の知れた芸妓であった藤巻が、旧家とはいえ山間部の屋敷まで足を運ぶのは、父の重蔵がかつての贔屓客で、藤巻が引退した後もつながりを持ちたいと強く請うたからである。重蔵は、洗練された美しさを持つ藤巻の頼みには弱い。
顔を伏して、いかにも哀れっぽく肩を震わす。
そんな音に藤巻が声を掛けた。
「音さん、おやめなさい。顔を上げて。あのように堂々と舞われた方に、そのような振る舞いは似合いません。もちろん、そのお召し物も」
「では」
「私から旦那様にお願いいたします。きっと聞き入れて下さることでしょう」
「ありがとうございます。私、もっと上手くなります」
「そうでしょうとも」
藤巻は満足そうに笑った。
とりあえず、これでまともな身なりを手に入れられそうだ。
笑みを噛み殺し、顔を上げて感謝を述べた。