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16、勝算のない賭けはしません

 板敷き間に急いだ調子の迷いのない足音が近づいてくる。

「この足音は久光ね」

 スパァンと、引き戸が開け放たれる。案の定、硬い表情の久光がいた。

「怖い顔ね。声くらい掛けなさいな」

「旦那様がお呼びです」

「朝餉もまだなのに?」

 クスクスと、わざと嘲るような口調で笑う。

 家父長の命令は絶対だ。そのことを分かっていてからかっているのが気に食わないのだろう、久光の眉間にいっそう縦皺が寄った。

 傍らに控える小夜は、いつも通りの無表情で黙っている。

「とにかく、小夜と一緒にすぐ来るようとの言いつけです。来ないようなら、力づくでも連れて行きます」

 今すぐにでも襟首掴んで引き摺りそうな勢いだった。だが、こちらが身じろぎした瞬間、やや後ずさりしたのに気づく。

 どうやら虚勢を張っていたようだ。久光だって他の使用人たちと同じように、私たちのことが怖いらしい。

「久光いいかしら」

「なんでしょう?」

「次、声も掛けずに部屋に入ってきたら、怖いものを見るかもしれなくてよ」

 にっこりと笑って言葉を掛ける。久光の顔が引き攣った。


 久光が先導して、奥の間へ向かう。

 大広間の奥の扉は重蔵専用のため、庭に面したガラス戸の渡り廊下を使う。

 どうせなら、けがをしている小夜でなく、嫌がらせを込めて久光に体を抱えさせようと思ったが、小夜が無言で譲らなかったので、また彼女に背負われている。

「ねえ、痛いでしょう。久光に背負わせるから、小夜が気遣うことないのよ」

 着物は足を開けないので、小夜の背中には私の膝が当たっている。

「…いいえ」

 人がいると、小夜は極端に口数が少なくなるようだ。

「そうだ、そのまま音お嬢様を背負うのは、お前の役目だ」

「……」

 久光の声には無言のまま返事もしない。

 必要に迫られなければ、小夜は他人と口を利かないと決めたらしい。


 奥の間は、外観こそ純和風だが、主屋と違って内装は西洋のものを取り入れている。通されたのは後期ゴシック様式を模した小部屋だった。ちょっとした執務室のように書斎机や飾り棚が配置されている。

 久光に促され、書斎机の前にある絹張のソファに座った。小夜は背後に控えている。

 内装の基調となっているのは紅木で、ふかふかの毛足が長い絨毯と色が合わせてあり、柱は象嵌細工が施されていた。重たげな天鵞絨のカーテンは濃紫に金銀の刺繍、壁一面には歌劇をモチーフにした西洋絵画が飾られている。照明やペン立ては純金色に輝いていた。

 初めて奥の間に足を踏み入れたが、まるで

「ノイシュバンシュタイン城のようだわ」

 これは音として蓄えた知識だ。海の向こう、浪費家の王が現実逃避のためにつくった白亜の城。書院に飾られている百科事典などの蔵書は何度も全て繰り返し読んだ。

 室内に突然、重い声が響いた。

「よく知っているな」

 重蔵は私たちが入ってきたのとは違う奥の回転扉から現れた。毛足の長い絨毯は足音を消すので気付くのが遅れたが、居住まいを正してあいさつする。

「ご機嫌よう、お父様。座ったままのご無礼をお許しくださいませ」

「お前たちが無事に戻ったことに、わしは少々驚いた」

 いつも通りの高圧的な声色だが、機嫌は悪くないようだ。

 久光が蓄音機を回し、ピアノとバイオリンの二重奏が流れ出す。

 重蔵はソファの前に置かれた書斎机の向こう、ひじ掛け付きの椅子に座った。

 投げられた鋭い目線を受け止めて、言葉を返す。

「恐れながら。無事とは言い難く」

「その足か」

「左様でございます」

 どうせ言及されるに決まっているので、自分から切り出すことにした。

 重蔵から目配せをされ、久光が部屋から出て行く。

「せっかく認めていただいたというのに、治るまでは思うように踊れないことを悔しく思います。ただ、これを奇貨として他の技芸にも精進しようかと存じます」

「ふむ、例えば」

「その今掛かっている曲など。お姉さま方は琴や三味線などを得意とされております。私は西洋の楽器を、お父様のお気に召すように、何なりとお聞かせできるようになってみせましょう」

「大口を叩くものだ。どこからそんな自信が出るのか」

「もとより、耳の良さには自信がございます。考えてみますと、耳の良さがあればこそ、昨夜も命だけは助かったのかもしれません」

 後半は出まかせだが、前半は本当だ。この屋敷でずっと聞き耳を立てて生きてきた。意地悪な姉や使用人たちを避けるため、物音には敏感だ。

 楽器の扱いは、前世の経験が役に立つはずだ。オルネットだった頃は本職の音楽家たちにも負けない弾き手だった。

「月影楼にはピアノやバイオリンが置いてあります。時折招く楽士が弾くほかは、屋敷で弾く者はおりません。私にそれらを自由に扱う許可をいただけませんか」

「ふん。それを口実にして、そのまま月影楼に住み着くつもりだろう」

「さすがお父様、お見通しでございますね」

 ふふふ、と口元を隠して笑う。

「お前はいちいち白々しい。だが、勝算の無い賭けをするほど愚かではないな」

 重蔵は顎に手を当てて少し考え込んだ。

「教師を呼ぶ。1週間で月影楼を与えるにふさわしい才能があることを証明しろ」

「はい、必ずやお父様の無聊を慰められる弾き手になってみせましょう」

「その言葉、嘘にするなよ」

 考え込んだ体勢のまま、厳しい声で話した。

「それが嘘なら今度は命が無いぞ。薄氷の上にいることを忘れるな」

「ええ、もちろん。覚悟の上でございますわ」



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