12、化け物が出ました
2人がいる村外れの畑道に立つ道祖神の周囲は、明かり1つない夜の漆黒が取り巻いていた。背後の山道の先も静まり返っていて、獣の気配ひとつない。
その中で、村の方からひたひたと悪意と毒気を含んだ闇が迫ってきている。前世では呪いの森や墓場、戦争で荒廃した廃墟にあふれていた生物を脅かす気配、これは瘴気だ。
提灯の明かりだけが頼りだが、風もないのに消えそうに揺らめいていた。
嫌な予感がする。一刻も早く、この場を離れた方が良いような…。
「小夜、体はどの程度動く?走れる?」
日中に袋叩きにされたばかりだ。どのくらい足手まといになりそうなのか知りたかった。
「走れと言われれば、いくらでも走ります」
「そう、良かった。じゃあ、提灯の明かりが消えたら、山道の方へ駆け込んで」
正直、山の方も不気味だが、畑沿いにいるよりは安全そうに感じる。
「今から何を見ても、言う通りに動きなさいよ」
迫ってきた黒い魔力…この世界では怨念というのだったかが、牙を剥く気配がした。
ふっと提灯の明かりが消える。
「今よ!後ろへ走って」
暗闇のなか一目散に道祖神の背後の山へ逃げ込んだ。厚底の草履で走ったせいか、すぐ草に足を取られた。
「音様!!」
思いっきり転んでしまい、前を行く小夜に抱きとめられた。意外に力が強い。
黒い魔力の塊は先ほどまで2人がいた道祖神の周りをうろうろしている。
月が雲から顔を出した。
「音様…、7本足の犬がいます」
「ばかね、7本も足があったら犬じゃないわよ」
犬のような化け物はしきりに道祖神の周りの匂いを嗅いでいた。
存在を探知されると面倒だ。先ほど小夜を縛っていた縄で2人を囲うように輪を作る。
「何をされているのですか」
「存在隠しの簡易結界よ。この輪の中にいる限り、向こうからこちらは分からなくなる」
前世のオルトネットと違い、今生の音自身に魔力は無い。しかし、これだけ濃い魔力が近くにあるのなら流用することは可能だ。前世の魔法知識を活用し、呪文を唱えた。
化け物とは別に、畑道からじわじわとまた瘴気が溢れ出してくる。
あれに呑まれてしまえば、自分はともかく、耐魔力の無い小夜はどうなるかわからない。
山の麓に長居するのは危険だ。
「山を登るしかないわね」
しかし、先ほど転んだ時に足を捻っていた。逡巡していると、小夜が背中を差し出した。
「乗ってください、運びます」
「殴られたばかりの人間に背負われるほどじゃないわ」
「体は頑丈なんです。力仕事も男衆に負けないのが取り柄です。だから私のことは心配なさらないで」
「…別にあなたのことを心配しているわけじゃないのよ」
「はい」
「本当よ」
「はい」
小夜は背中を差し出したまま動かない。
ひとつため息をついた。
「…落としたら承知しませんからね」
「はい。絶対に落としません」
縄を持ったまま、自分と同じくらいの背丈の小夜におぶさる。
「向かう方向を指示するわ。命が掛かっています、その通りに動きなさい」
「はい」
再び、雲に月が隠れ、あたりが真っ暗になった。それでも、魔力の気配を辿ることはできる。
山の中には罠のように魔力が張り巡らされていた。
ワイヤー線のような鋭い魔力を慎重に避けながら山道を進んでいく。
藤巻が話していた、山に入った子供が首を失ったのはこのせいだと思う。刃物のように鋭く、触れたら首くらい簡単に落ちるだろう。
「このまま3歩先、頭ひとつ分かがんで」
「はい。こうですか」
「そう、そのまま1歩踏み出して、ゆっくり頭を上げて」
指示通り、小夜が丁寧にワイヤーをくぐっていく。
「音様、夜目が利くんですね」
「厳密に言うと、目で見ているわけではないのよ」
瘴気が上がってくるよりも早く、後ろから化け物が追ってくる気配がする。あちこちを探し回りながらだが、確実に登ってきている。
振り返ると、月が出るたびにそのおぞましい輪郭が見えた。
化け物の体は犬がベースになっているようだ。
ただ、7本の足のうち、3本は人間の両足と右手がつなぎ合わされている。
「センスが悪いわね…」
目を凝らすと、化け物の顔は人間のものだった。
ぼたぼたとよだれを垂らし、口が耳まで裂けている。
目は刳り抜かれており、白い歯並びが月明かりに光っていた。
下顎の乱杭歯に見覚えがあった。
あれは貞女だ。
「ええ…引くわ…」
「音様?」
「何でもない」
こんなものをはっきりと見てしまえば、モンスターに馴染みがない人間は気が狂うだろう。
「絶対に振り返らないで。後ろは私に任せて、小夜は進むことに注力なさい」