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ベルナルド・ウィレムは王子の書斎にこもり、予定どおり読むはずの本を開いていた。
が、ブルーグレーの瞳はどこか遠くを見ているように虚ろで、字を追っていないのが明らかだった。
「殿下? お読みいたしましょうか?」
傅育係のロレンソ公爵の声もまるで耳に入っていない様子である。
「殿下」とやや強めに呼びかけられてもぼんやりしていた彼だったが、窓の外から聞こえた「妃殿下!」という叫び声で我に返った。
慌てて窓辺に駆け寄り見下ろすと、運河に巨大な水中花が咲いていた。
花だと思ったのは水中にたゆたうドレスの生地と――濡れてほどけた長いシルバーブロンド。
「殿下ッ!」
公爵の制止が頭上から降ってくる。
テレーゼ・エリザベートが運河に落ちた、と脳が理解した瞬間、ベルナルドは二階の窓を開けて階下の庇に飛び移っていた。
「――まったく、あなた方には王族としての自覚がないのですか!」
「はい……」
妃が足を滑らせて運河に落下し、目撃した王子が二階から飛び降りて救出しに現れた衝撃のニュースは、昼食をとっていた国王夫妻のもとにも届けられていた。
知らせを聞いて激怒した王妃が離宮に乗り込んできて、ベルナルドとテレーゼは膝詰めで説教されている。
何番目の王妃だったか、このカレン王妃も父王好みのうら若い女性だ。二十歳のベルナルドよりも年下だったと聞いている。公務の合間にも習い事を欠かさず、つねに教養を高めている多忙の身だ。
「テレーゼ妃、あなたもあなたですよ。王族たるもの、足元の危ない場所に立ち入ってはなりません」
「岸辺で運河の魚に餌やりするように言われて行ったのですが」
王妃に対しても縮こまらずに相対するのがテレーゼの良いところである。と、ベルナルドは妻の堂々とした声を聞きながらうっとりしていた。
読書の時間に思い出していたのは、昨夜の寝室でのできごとだ。
房事については知識として知っていたが、実際はうまくいかなかった。というか、自分がされたらと想像するだけで尻のあたりがぞわぞわするのに、そんなことをテレーゼにするなんてとてもできなかった。
正直にそれを伝えると、テレーゼは枕の下に頭を突っ込んで何事か叫んでしばらく悶え、「あんまり可愛いことをおっしゃらないで」と、愛おしげにベルナルドの髪を撫でてくれた。
何人もの王妃にそんなことをして、生まれた子どもには関わらないくせに数だけ増やす父王が信じられなかった。
それに、いつか自分がレオナルド王子ではないと露見して婚姻が無効になったとき、テレーゼを清いまま宮殿から出さねばならない。彼女の今後にも関わる。
子どもができればベルナルドとて王の息子、王太子昇格と次期国王の座はほぼ確約される。
だが、万が一の事態が起きても王弟公の令息に戻れる自分が、房事に彼女を巻き込んではいけない。
テレーゼには言わずに決意を固めたベルナルドは、寝間着の前をしっかりと閉じたのだった。
「ありえません!」
王妃の声で我に返り、ベルナルドの意識は回想から応接間に引き戻された。
カレン王妃はたっぷりした黒スグリ色の髪を振り乱しそうな勢いでテレーゼに詰め寄った。
髪より明るいブドウ色の両目は怒りでいつもより赤く見える。
「仮にも王子の妃に、召使いの真似事をさせる者がどこにいますか! 先日、あなたが自ら貴族を一掃したでしょう!」
「いやですわ、人聞きの悪い言い方をなさらないでくださいな。お命じになったのは陛下でございます。
それに、殿下のお魚のことはハワード伯爵夫人から教えていただきましたの。メーガルト宮殿の運河には、レオナルド殿下が大事にしていらっしゃるお魚がいるから、ぜひ見てほしいと」
対するテレーゼは、泰然とした虚無の顔だ。一見たおやかだが、めんどくさいか飽きている時の表情である。彼女を見ているうちに、だんだんとベルナルドにもわかってきた。
「そうなのですか?」
眉をつりあげて王妃がベルナルドに確かめてくる。
入れ替わる前の打ち合わせで兄レオナルドからそんな話は聞いていないため、肩をすくめてみせるしかなかった。
王妃は一瞬呆然となったがすぐに持ち直し、なんとかテレーゼを反省させようと試みた。
「そ、そのような見え透いた嘘にたやすく引っかかってはなりません!」
「嘘じゃないよ。運河には俺の魚が泳いでる。昔父上にねだったんだ。知らなかった?」
ふいにベルナルドの背後、応接間の入口から声がした。
そちらに目を向けた王妃が凍りつく。振り返るまでもなく、ベルナルドは婚姻の無効を早々と覚悟した。
現れたのは、王弟公領にいるはずの、本物のレオナルド・ウィレム・メーガルトだった。