2、
サーケラ町から馬車は休みなく走り続け、カミラは無事にウィンスラーの屋敷に戻って来て居た。
ウィンスラー家の者はカミラが予定よりも早く帰着したことについて驚いた様子を見せるも、深く聞くものはなかった。
カミラにとって、それはありがたかった。
その日はゆっくりと休み、翌日遅めに起床し自室で紅茶を飲んで居た。
カミラは自分の左腕を抱きしめる。そして、クロムウェルが自分のことをどこまで知っているのか、一体、彼が何者なのか、考えて怖くなり、考えることをやめた。
ドアのノック音と共に、扉が開く。
「失礼、応接室はこちらと思いましたが、レディーカミラの部屋でしたか」悪びれなくそう言った見覚えのある男性。
「レッド侯爵でいらっしゃいますか?」
「いかにも、覚えていただいているとは大変光栄です」慇懃に礼の姿勢を取る。
「とんでもございません。我が家のどのような御用でしょうか。応接室までご案内いたします。父に御用でしたら、……まだ父は仕事から戻っておりませんが」
カミラの父は商会を営んでいる。
寝ぼけて居た頭を回転させそう告げた。
仕事の用事なら直接商会へ案内した方がいいのかしら。
「いや、私が用事のあるのは貴女です。探す手間が省けました。一緒に来ていただけますか?」
ツカツカと侯爵は歩みより口と鼻に布をあてた。
薬品を含ませた布で甘ったるい匂いを感じた。
「そう言えば、貴女の家のエルヴィットという庭師はどうしました? いつからか神隠しに遭ったように、姿が見えなくなった。それはいつから? もう覚えていないですか」
レッド侯爵は気持ち悪い笑みを浮かべながらカミラにそんな事を尋ねた。
なぜ、庭師のことを知っているのか。
カミラはその言葉を聞きながら、そう尋ねたかったが、自分の意識を保つことが出来なかった。――起きなきゃ、寝ちゃダメ。
遠くなる意識の中でふと思い出す。
『虹の向こう側には素敵な場所がある』小さい頃に聞いた夢物語。
それを教えてくれたのは、家の庭師をしていたエルヴィット。
『お嬢様、どうかお忘れなく。いつかこの言葉が貴女の役に来る時がきっと来ます』彼は希望を与え、そしてカミラをどん底に突き落とした。
と、思ったところで目が開いた。
誰かが、カミラのことを心配そうな瞳で見て居た。
ふわふわとした金髪、スカイブルーの瞳が潤んでいる。一瞬、この世のものではないかと思ったけれど、彼女に見覚えがある。
「マーガレット?」
声を発すると、手の温もりを感じた。
「カミラ良かった、目が覚めないかと思った」と、涙ぐみながら言った。
「ここは、」
「私の、侯爵家の別荘の一つですわ」
「私どうして……」その質問に返答は返ってこない。
マーガレットは大きな澄んだ瞳で見つめ、しばらくして反らした。
カミラは自身の手足に力をこめ軽く動かしてみた。痛みなどはなく、動きにも問題ない。
ただ、まだ体がぼうっとしており、もうひと眠りしないと、上手く立ち上がることが出来ないような気がした。
「お、み、お水をもらえる?」
「もちろん」
マーガレットは立ち上がった。
部屋を見渡す。
白い漆喰の壁に、こげ茶の梁がアクセントになっている。大きな暖炉があり、その上には恐らくドワーフをモチーフにした彫刻画と、装飾された槍、剣が飾られていた。
見たことのない言語で書かれた本に埋め尽くされた細長い本棚もあった。暖炉の隣にチェストがあり、その上に水が入ったガラスのボトルや軽食などが置かれている。
ガラスコップに水をくみ、カミラへ差し出そうとして、一旦再度テーブルに置いた。
「飲めるかしら、体、少し起こせる?」
マーガレットは甲斐甲斐しく、カミラが体を起こすのを手伝い、十分な体制になってから、コップを手渡した。
カミラはゆっくりと喉を潤す。
冷たい水はレモンの香りがした。カミラの体に染みわたり、ぼんやりとしていた意識が覚醒するのを感じる。
「ありがとう」飲み終わったコップを差し出す時、そう言った。
「ううん」マーガレットは悲しそうに笑った。
それは無言で彼女が何かを謝っているようにも見えた。
コップを受け取るとテーブルの上に戻し、またカミラのベッドの方へ戻ってくる。
カミラの最後の記憶は、レッド侯爵に会ったところで途切れている。だから、レッド侯爵の娘であるマーガレットにつながることは不思議ではないのだけど、なぜ、自分がここいるのか。
途切れた記憶の間に何が起こったのかが全く分からない。目の前のマーガレットはあまり話たがらない様だ。一体、何が起こっているのか。
「ねえ、少しお話をしましょう」と、カミラの言葉に、いつもの様にふわりと砂糖菓子とリボンとふわふわの綿あめ、みたいな笑顔でマーガレットは言う。
「ええ、もちろん」
カミラはそんな風に笑うマーガレットが好きだった。
「そう言えば、先日マーガレットから図書館の本を介してお手紙のやり取りをされている方がいらっしゃると、その方とは最近どんな話をされたのですか?」
あえて、現状とは全く別の話題を振った。カミラは少し、冷やかしの気持ちも一ミリほど込めて。
「最近、は、そう、私、この別荘に来ているものですから、図書館まで行けていないのです」と、カミラの思惑は外れ、マーガレットは項垂れてしまった。
「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ」
「ううん。カミラが急にこんな場所に来て、そっちの方が不安だと思うもの」
「ねえ、私はどうしてここに?」
カミラがそう言うと、マーガレットはやっぱり貝のように口をつぐんだ。カミラはマーガレットを見ていた。白い肌も今は顔色が悪いほど蒼白に、ふっくらとした頬は削げ落ち、影を作っているように見えた。
「逃げて」
それは聞き取れるか聞き取れないかというくらいの小さな声だった。
カミラが目を見開いてマーガレットを凝視していると、今度ははっきりカミラの目を見て、「逃げて」と緊迫した声。
「え、」カミラは言葉が続かない。
「今の私に出来るのは、カミラをこの屋敷から逃がすことぐらい。なんとか見計らって。上手くやるようにするわ」
「言っている意味が……もし何か危険なら、それなら、マーガレット貴女も」
カミラがそう言って、マーガレットは首を振った。
「カミラをここに連れて来たのは、私の父。どこでどう道を踏み外してしまったのかわからない。私は何にも出来ないただのお嬢様だけど、友人を助けたい。このままじゃ、……だから、カミラ逃げて」
マーガレットは懇願するように言った。
「マーガレット一緒に行きましょう。私、一人じゃとても心細いわ。それに、一緒に王城に行って、図書室の秘密の手紙を取りに行きましょう」と、つとめて明るく言った。
「ううん。もう、いいのよ。私はお父様を止めることが出来ない。だからもう、このまま父について行くしかないの」
カミラはマーガレットの手を握った。その時、ギイっと音がし、体がこわばる。無意識にドアを見たけれど、ドアが開いた様子はない。開いたのは、細長い本棚だった。