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(5)【最終話】

「マーマ。みりかちゃんもうくつはいたよー。まだー?」

 ちょっと待ってぇ、と大きな声でみほろ改め鞠子はピアスを装着する。残念ながら、一年半前に開けたピアスは、特に左側が酷く、縦に一ミリ程度穴が広がり、重いピアスでも装着しようものなら二ミリに広がる。皮膚科を受診したところ、シリコンピアスを装着するよう勧められた。重たいものはアウト。酷くなるとますます穴が下に広がっていき、最後には裂けてしまう。ある日突然耳が裂けてピアスが落っこちて慌てて受診する患者もいるそうだ。以来、鞠子は極力軽いピアスを使用している。

「お待たせ。みりか」

「ううんママ。いこっか」

 手を繋ぎ、ドアを開き、鍵をかける。マンションの廊下は冬の寒さに冷やされていた。コートを着ていても寒さを感じる。――あれから一年半後の、冬。鞠子は相変わらずの日常を送っていた。否、娘のみりかが小学校にあがってからは更に多忙となり、入学式前後、夏休みの弁当作りなんか地獄だった。大きくなった娘と連れ立って英語の塾に連れていく。……ツィッターそして小説を辞めて以来、娘との時間が増えた。毎日なにが起きたのかをちゃんと目を見て話を聞き出し、休日はこうしてふたりで出かける。夫はぼっち観戦をそれなりに悪いことだと思っているのか、サッカーの試合のないときはみりかの塾の送迎をする様子も見られるのだが、みりかのほうは「ママがいい」といって聞かない。娘というものはやはりママに懐くようだ。鞠子としては負担を感じることがないといったら嘘になるが、それでも、振り返ればこの日々も輝かしく感じられることだろう。

 みりかの塾の時間は一時間程度。ショッピングをするにはやや短く――試着をすることを、そして帰りにスーパーに寄ることを考えると、無難に衣類や雑貨屋を冷やかす程度、それか行きつけの化粧品店でコスメを買いいい気分に浸る――くらいがちょうどいい。その日鞠子は化粧品店で、寒くなってきたので保湿重視でクリームを購入し、娘を迎えに行き、スーパーで買い物をして家路につく。

 夫はソファでコントローラーを握りしめたまま、寝ていた。夫に対していろいろ思うことはあるが、休日のたびに寝落ちする姿を見ていると、そうっとしておいたほうがいいのかと、憤懣を腹のうちにしまわざるを得ない。毎日、毎日仕事で疲れ切って、ボロ雑巾のようにこき使われる夫に同情の余地はある。もうすこし家庭を顧みろと言いたいことはあるのだが、かといって病気になって休職や退職をされても、困る。ローンがあと二十三年残っているのだ。倒れられるわけにはいかない。倒れるわけにはいかない。――どんな手段を用いても健康を死守しなければならない鞠子は毎日、自炊する。皆がするように、肉を食べ野菜を食べ――この時期は鍋料理なんかも最高だ。多めに作って二日連続で食べる。スープはみりかも食べられるようにと、しょうゆだしや鶏の水炊きなど無難なものが多い。キムチ鍋なども恋しいのだが、それは例えばみりかが成人してこのマンションを出て行ったときなどに、みりかのことを恋しく想いながら食べるもいい。子どもとはそういうものだ。親に我慢を強いるものではあるが、その苦しみも交えて美しき思い出へと昇華される。

 眠る夫に毛布をかけてやり、あたためられた部屋のぬくもりを感じながら料理の準備をする。ゲームをずっとしたがっていたみりかはゲームに夢中だ。小学校に入ってからよ、と繰り返し言い続け、禁を解かれるとたちまちみりかは夢中となった。Nintendo Switch Liteの新色を愛用している。プレイするのはすみっコぐらし。好きでたまらないキャラクターだ。

 ここがカウンターキッチンでよかったと思う。夫と娘の様子を見守ることが出来るから。自分の孤独に浸ることが出来るから。――いつも通り、ひとりで食事の支度をし、二人を呼び、食事を済ませ、それから台所で洗い物をしているとふと娘がやってきた。

「ねえママ。あとではなしたいことがあるんだけど、いい?」

「いまでもいいよ?」手を泡まみれにした鞠子がそう言えば、「ううんあとでいい」とみりかは言う。それなら――と、洗濯物や風呂の処理を済ませてから娘と話すことにした。


「ママ……ママは、パソコンが大好きだったでしょう? みりかのせいでそれやめてだいぶたつからもう……ママ、むりしないで? みりかのために……」

 鞠子はテーブルに置かれたままのパソコンを見る。あれに触れるのは生協でネット注文をするとき、それのみだ。……正直、何度アクセスしたいかと思ったか分からない。みりかが眠ったあとたまらず小説を書いた夜もあった。書いた小説は十本を超える。小説を書くのは、そうしなければ自己を保てぬという、可哀想な人種なのだ……鞠子はそのことを思い知る。

「でも……みりか。これはママなりのけじめなの。ママのせいでみりかは痛い思いをした……ママは罰を受けるべきだわ」

「……もう、いいんじゃないのか?」ゲーム画面に目を向けたまま夫が珍しく口出しをする。「みりかも、自分の子とは自分で出来るようになった。おまえはよくやっている」

「そうだよママ。みりか、自分でお着替えも出来る、毎朝顔も洗う。宿題もするし学校のお支度もする。……ねえママ。みりか、好きなことを楽しんでるママが好きなの。小説書いてるときのママ……すごく楽しそうだった。だから、みりかのせいでママの大好きな趣味をやめた、そのことが悲しい」

 ――夫に入れ知恵でもされたのだろうおそらく。いままでみりかがそれを黙っていたのはたぶんパパに言われていたから。死刑囚のように模範的に妻を母を演じる鞠子の姿を見てなにかしら思うところがあったのだろう。あの冷血動物の夫でさえも。

「でも、……いいのかしら。ママ、復活しちゃって……」

「いいよ!」とみりかが言う。「みりかね。知ってるでしょ? 小学校入ってたっくさんおともだち出来たから、もうね、ママひとりじめしないで平気!」

「……みりか」

 鞠子はそっと娘を抱き締めた。生まれ来る感情に素直になりたい、と思った。我慢アピールをしていたつもりではなかったのだが、そんな思いをさせていたとは……。


 その日久しぶりに鞠子はログインした。自分のHPに。見れば、メッセージが十件程度。一年半の休止でそんなものかと、苦笑いをしてしまったが。送信者は鞠子の作品の読者、以外に……。

「……あ」

 姫子様、ルルハさん、りるけさんまで……。『戻ってきたら教えてね』『待ってるよ』あたたかいメッセージの数々に目頭が熱くなる。こんな、愚図で未熟な自分を待ってくれているひとがいるとは……。

 久々にツィッターの画面を開く。アカウントは削除してしまったので新たに作り直す。問題なし。それから、……

 すこし考えてから鞠子はツイートをした。

『出戻りの東野みほろです。よろしくお願いします』

 どきどきしながらその夜は眠った。興奮して寝つきがよくなかった。いったいどうなるだろう。あの魔窟で再び、……やっていけるのだろうか?

 小説の投稿は、USBでバックアップを取ってあるから、いつでも可能。しかしながら十年も続けていると数が膨大で、しばらくはその処理に追われるだろう。……読者を二度と悲しませたくはないから、細く長く続けていく道を選んでいこう。娘のことを大事にしながら。するのはせいぜい、娘が眠ってからの時間限定となってしまう。となるとツィッターで誰かと絡むのは難しい、が……。

 翌朝、通知が届いていた。

『おかえりなさい。みひろさん。待ってましたよ!』

 ――姫子様からメッセージが。涙を堪えきれなかった。また、同じ過ちを犯すかもしれない。娘放置でツィッター及び小説に現を抜かすかもしれない。けれど……娘とじっくりゆっくり過ごした一年半は鞠子にとっての宝だ。誇りでもある。――でも、辞められない病なのだ。どうしてもどうしても文章が書きたい。読んで貰いたい。つぶやきたい……。抗えない魔力が鞠子の眼前に広がっている。その魅惑の力に引き寄せられる自分を感じつつ、

『ありがとうございます姫子様。これからはほどほどに……頑張ります』

 鞠子は東野みほろとして、眼前に広がる新しい世界に飛び込んだ。


 ―完―

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