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 帰宅すると夫の様子を見に行った。元気そうだ。スマホでグラブりながら実況を見ている。画面が縦半分に分かれ、ゲーム画面と実況中継をする男が大写しになっている。あれのなにが面白いのか分からない。尤も、ツィッターを始める前はみほろは『馬鹿馬鹿しい』と思っていたのだ。あれにハマる人間はデュボンの『群集心理』を読んだことがないのだ、と。大勢の意見に釣られ、震災のときにはエンタメを自粛せよ自粛せよ……不謹慎狩りもあそこまで行くと病気だと思う。確かに、傷ついた人間への配慮は必要ではあるが、それにしても日本は災害大国。そのたびにエンタメを停止していては――きりがないではないか。

「ただいまー。パパー」

「おーおかえりー」

 二日ぶりに会うパパを見て嬉しそうな娘を見てみほろは安堵する。……パパを慕っていてよかった、と。一時期はどうなるものかと思った。台所でお気に入りのハンドソープで手を洗ってからみほろは荷物の開封に着手する。みりかといえば、よっぽど見たかったのであろう、速攻でタブレットをパパから奪い、動画鑑賞をスタートしている。親子だなあ、とみほろは思う。みほろが出産した直後、夫は元々ハマっていたゲームに更に没頭し、単身サッカー観戦に出かけ、正直『ひとでなし』だと思った。緑の線の入った紙が何度脳裏にちらついたことか。それでもみほろが離婚しなかったのは、夫への愛情が残っていたというよりも単に、この生活を捨てたくなかったからである。五階建ての五階に位置するこの部屋は、まったく虫が出ない。虫が大嫌いなみほろにとっては死活問題なのである。それに、広い。快適。ファシリティがいい。仮に夫と離婚して一人暮らしをするとしたら、生活レベルが格段に落ちるのは目に見えている。ややお高い化粧品やスキンケアグッズを愛用し、服に靴に金を費やすみほろにとって、この生活を捨てるという選択は自分を殺すことに等しかった。

 その一方で、この生活に閉塞感を抱かぬかと問われればそっちのほうが嘘となる。――ひとり、淡々と荷物の後片付けをし、洗濯物の処理をし、ゲームに動画に見入る夫そして娘を一瞥してから晩御飯の調理に取り掛かる。玉ねぎをスライスしていると夫が通りかかった。珍しいな、とは思ったがみほろは仕方なく顔を向けた。夫はなにやら言いたいことがあるらしく、携帯を忙しなくいじりながらもみほろに、

「……イケイケの連中、なんかよく分かんねえ歌うたっててさぁ……」

「――ああ」みほろはすぐに答えた。「あれでしょ。米津玄師の『馬と鹿』。『ノーサイドゲームの』……」

「よねつ?」

「……知らないの?」手を止めてみほろは説明してやる。「替え歌でしょう? FC東京戦、トレンドに出ていたからみんな知ってるよ……」夫の様子にやれやれ、とみほろは思う。手を洗い、携帯を操作し、ツィッターを立ち上げると『FC東京 馬と鹿』で検索。すぐに動画が出た。サポーターたちが熱狂的にチャントを歌う場面だ。覗き込む夫は嬉しそうに、

「ああこれだよ……これだ」妻と子を放置して出かけた夫は顔をほころばせる。「てかイケイケのやつら歌詞配れよなあ……たく」

 やがてテレビ画面の前へと戻っていく夫をみほろは冷たい目で見送った。……そんなのは、FC東京の応援団が悪いのではない。悪いのはツィッターはおろかLINEすらしない夫だ。お陰で二三ヶ月に一回は行われる親戚の集まりに急に夫が欠席する事態についても、みほろのほうから親戚のグループLINEで連絡をする羽目となる。夫は当日急に微熱を出したのだけれど、そんなの、前日に、ひとりで鹿島に行っておいて終電ぎりぎりに帰宅したほうが悪い。自業自得ではないかとみほろは思う。夫はまだ調子が戻らぬらしく、

「あー遠かったぜ鹿島。勝てばいいけど負けたら疲れがどっと出るよなー」

「だろうね」牛肉の細切れを切りながらみほろは適当に調子を合わせた。「……六時にはご飯にするから」

「ああ。分かった」

 自分は、子どもと結婚したのかもしれない。みほろがそんなふうに感じるのはこんな場面でだ。例えば、夫に、「今日の晩御飯なに?」と聞かれるのがみほろはいやでたまらない。共働きである。家事は分担するのが当たり前ではないか――けれど夫にさせたとてクオリティの低いものが出来上がり結局こちらが尻拭いをする羽目となるのでどのみち同じだ。Aさんと同じだ、とみほろは思う。するべきことをしている――Aさんは育児で夫は仕事――その大義名分を根拠に、周囲の人間を斬りつける。会社では一応は課長職に当たるらしいが家庭ではとんだ無能な男。コミュニケーションをろくろく取れぬあの男が周囲から慕われているだなんてみほろには信じがたい。恋愛結婚だったはずがふたりの関係は完全に冷え切っている。健やかに育つみりかの存在だけがみほろにとっての救いだ。実をいうとみほろの脳裏には熟年離婚――せめて家庭内別居という言葉がちらついている。それを出来ればどんなにいいだろう、と。

 仮に料理を任せたとしても夫が作れるのはクックドゥのレシピのみ。麻婆豆腐かかに玉のいずれか。コスパも悪いし毎日それでは飽きてしまう。それに、油物を作られると後片付けが大変なのだ。油でべっとべとになるから、みほろはそこまで中華が好きではない。学生時代にファミレスでバイトしたことのある夫は、調理前にフライパンをかんかんに焼く。けむりがもうもうとあがり、火災報知器が反応しないかと、みほろは毎回心配になる。心臓に悪いので結局みほろはあまり、夫に任せない。任せるのを――やめた。期待するだけ無駄なのだ。それに比べると……いや、そうでもないのか、とみほろは肩を落とす。調理をしながらも結局こころの空白は埋まらず、その隙間にするりとツィッターが入り込んでくる。義理両親は電車で一時間足らずの距離に住んでおり、長男の嫁であるみほろは向こうへ行けば勿論携帯をいじることなど許されず、丸二日ツィッターが出来ない。みりかの年下の従妹にあたる女の子がふたりおり、三人で遊んでくれるようになり、随分と楽になった。彼女たちが遊びに夢中になるのを見守りながら、女同士話に花を咲かせる場面も多い。

 されど、環境の変化というものは子どもにショックを与えるものらしい。大概、義理両親の家から帰るとみりかは不機嫌になる。それが面倒くさい。こちらも大体分かっているのでみほろは帰りの電車で極力みりかに話しかけず、みりかに『時差ボケ』を解消する時間を与える。それでも、スーツケースを押しながら夕飯は何がいい、あと何駅でつくよ……話しかけざるを得ない場面はあるというもので、ぶすっとした顔でみりかは答える。――なんでもいい、と。

 面倒くさい、とみほろは思う。生きていくなにもかもが面倒くさい。どうしようもないときがあるのだ。なにか、大きな流れがあって自分の力だけではどうにもならない場面がある。その都度、自分の無力さを痛感し、ああやっぱりなにも出来なかった……悩み、苦しみ、嘆く。その痛みを内部に抱えたまま。

 だから自分は小説を書くのだろう、とみほろは思う。それぞれに自分の時間を過ごす家族を見ながら。孤独が、痛みが、自分を突き動かす原動力となりうる。もし、なにもかもに恵まれていて幸せな生活を送っていたら自分は小説を書けなかった。みほろはこの生活に感謝すら覚える。――そもそも、生活に満足しておりなんの不満も抱いていない人間であればそもそも小説なんか読まない。読むはずがない。恋に溺れただ相手の肌を味わえばいいだけの話である。

『ただいま』牛肉を煮込むあいだに一言呟く。するとすぐにリプが来た。『おかえりなさい』……その一言にどれほど救われるか。みほろは、涙が出そうになった。この家で……この家でみほろが要求されるのはあくまでママとして、妻としての姿だ。そこにはなんの主体性も要求されない。みほろがみほろであることを求められるのではなく、あくまでつつがなく、家事を育児を行うシッター兼家政婦、……なのだと思う。

 認めたくなかった。その事実を。みほろは認められなかった。この事実を。

 それでも、みほろは「ご飯だよー」笑顔を向ける。それが、みほろの武器だった。ここで弱さを見せては負けなのだと。自分の運命を狂わす悪魔を喜ばせるだけなのだとみほろは知っている、だから抗う。『なんでわたしが』と思うのではなく、『わたしだから』と解釈するのがみほろの矜持。譲れないプライドであった。

 食事を済ませると後片付けをする、娘を風呂に入れる、洗濯物の処理をする、――最低限の処理を終えるとみほろはパソコンに飛びつく。そこが救いの場であった。逃げ場所はそこにしかなかった。平日はフルタイムで仕事をしており、娘と過ごす時間の短いはずのみほろであるが、休日家でべったりするのは正直に息が詰まる。ただでさえ休日はひとりで娘をショッピングセンターに連れていったり、塾の送り迎え、病院への通院などに追われ、気ぜわしい日々を過ごしているのだ。家事も八割方みほろが行っている。そのくらい――そのくらい許されたっていいのに、とみほろは思う。外で夫がいくら飲んでもなにも言われないのに仮にママが飲むと「娘さんどうしたの?」と思われる。理不尽な男女差だと思う。

 ツィッターの世界はいい。みほろに、みほろであることを要求しないから。別にどこの誰でもいい。門戸を開いてくれる彼らの姿勢がみほろには嬉しかった。受け入れてくれる場所だった。――今夜も、みほろは姫子様とやり取りをし、――男性器をどう表現するのか議論しながら。『おれ』と『ぼく』にどう組み合わせるのか、その相性の問題まで議論を重ね、楽しい夜を過ごした。

 気がつけば時計は九時を回っており、みほろはみりかに声をかける。「みりか。寝る時間だよー」

 you tubeに飽きた娘は気がつけばひとりでお人形ごっこをしていた。すまない、とこのときは思う。自分の意志で子どもを作っておいて放置するとは何事だと。罪悪に駆られつつも、いま自分がするべきことはそれではない。寝室に娘を連れていき、小さな歯をしっかりと磨き、おやすみロジャーを読む。疲れていたのだろう、本一冊読んでも眠らない夜もあるけれど、今宵の寝つきは早かった。

 リビングに戻れば夫は我関せずと相変わらず好きなことをしていた。彼に背を向け、パソコンの電源を入れる。

「あれ、またやんの?」

 背中合わせで会話をする。ソファに座る夫と。

「まーね」

「どんだけ行ってんの? 百万PVとか記録してんの?」

「ぜぇんぜん」みほろはPINを打ち込み、「50万アクセス行くのでやっと。全然駄目なのよ」

「早く売れておれを楽にさせてくれよ」と夫は言う。宝くじを当てたら仕事を辞めるとは彼の口癖だ。「転スラなんか何千万部売れてるか知ってるか? だからおまえは駄目なんだ。売れない小説書くやつは世の中にいらねえんだ」

「はいはい」実況がうるさくてみほろはイヤホンを装着する。女神さまの声が台無しになってしまうではないか。「まーせいぜい頑張りますわー。ちゃおー」

 そしてみほろは自分の世界に閉じこもる。みほろの目の前に広がる世界だけが、彼女を受け止める器だった。


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